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隼人の産土(うぶすな)である曽於を文字の面から考えてみようと思う。
大体、この曽於と言う呼び名は呼んだ者の側(征服者)から見た呼び名である。
横手理太郎は「曽於」につてこう言っている。「そお」は「そ」の二字化による転である。「せ」(背)の転で、狭くなった所と述べている。
又、吉田茂樹は「そ」(曽、襲、曽於)の意味は南九州の国でその部族に曽於人がいたとする。「そ」は「背」の意味で_背後の辺境の国、荒々しい日陰の背の国_と言う。(「そ」は乙類の音)
「背」は「北」(ほく)で<ハイ>の音がある。
<説文>には、「背なり」とあり、背は体(からだ)の背後にあたり、背肉の象(かたち)に従う、とある。
「背」は「北」に通じ、「南」に対してその背後の意味である。
それらの説に従うと、曽於はやはり不毛の空国(むなくに)の意味であろう。しかし、考古学の発見から「曽於」は縄文期より栄えた集落で上野原遺跡からは相当の文明を持った集落の印象があり、「北」の寒々とした感じは見られない。私は現在の鹿児島県・国分市から推察すると、曽於人をもっと明るくしぶとい人達を想像する。曽於の先住民の声を聞きたいものだ。
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卑弥呼と対峙した、その南端の国は狗奴国で歴史的状況から曽於族が率いる熊襲国を想定するのはそう大きな誤りとは居えないだろう。熊襲国は大隈半島周辺に

先住した曽於族から分派したか統合された薩摩、吾田、大隈隼人族や諸県族などの種族から形成されていたのも事実であろう。
また、黒潮の流れに乗って、南北九州へ渡来した江南人と朝鮮半島から弥生期に北九州へ渡来した朝鮮渡来系・種族が一つの勢力を形成のも誤りとは言えないであろう。
そして、北九州系種族が国見山系や霧島山系を越えて、薩摩や大隈の地域へ遣って来るのも至難の業である。だとすれば、南九州に一つの大きな勢力があっても、強ち見当外れとは思われない。
と言うことは、南九州先住民族と江南渡来の安曇族が融合して一つの勢力を形成したと言う仮説は見当外れとも思われない。それなのに、その痕跡が見あたらないのはどうしたことなのだろう。
再度、気を引き締めてその根拠探しに神経を集中しなければならない。
しんどい事である。
長い間、細男舞(さいおまい)の語源については解らなかった。それがひょんなところからその答えが浮き上がってきた。
白川瀞さんの「呉」について白川教授の解釈を読んでいるうち、呉の口にあたる部分がサイであり、残りの部分が_サイを持って神の前で踊る_と読んだ時、以前も目を通していたはずなのに明らかに、「呉」は安曇磯良が海から踊りながら浮上してきた様そのものだった。
つまり、細男舞は「呉」そのものだった。サイは祝寿器であったのだ。細男は才男でもなかったわけだったのだ。これは気がつかなかった。それに気がついたときは感動ものだった。嬉しい、嬉しい。なぜか意欲が湧き上がってきました。
舜または、尭の父とも言われる高辛氏の王妃が耳の激しく痛む病気になる。三年もその痛みに悩まされ続けてきた。すると、その王妃の耳から三寸もある虫が出てくる。黄金虫にも蚕のようでもあった。しかし、虫が耳から出ると、王妃の耳の痛さはけろりと、直ってしまった。王妃がその虫を二つに割った瓢に入れて、磐子(さし)で蓋(ふた)をしておくと、それが龍犬になった。
王妃は犬を盤瓢(ばんこ)と名ずける。高辛王がその犬を見ると錦のような色どりでまだら模様の美しい犬だった。王は気に入って愛犬として飼った。時が過ぎて、他国の房王が叛乱を起こした。その勢いは盛んで、戦(いくさ)でも中々勝てそうになかった。
高辛王は臣下を集めて、房王の首を取った者には自らの姫を与えるとお布れをだしたが誰としてそれに応える者はいなかった。
すると、磐瓢が数日、姿を消してある日、房王の首を咥えて帰って来た。王は公約したことなので、姫を嫁にやらなければならないのだが、王は犬に姫を嫁にやるのが惜しくなり、躊躇していると、姫は約束どうり磐瓢に嫁つぐと王に話した。
磐瓢は王に、犬が人間と結婚するには七日間、金の鐘の下に置かなければならない実行して欲しいと頼んだ。王は磐瓢に言われたとうり、その体を金の鐘の下においた。しかし、事情を知らない姫は心配してその鐘を上げてしまった。犬はまだ人間になりきっていなかったので、姫は犬の頭を持ち、人間の体をした者と結婚することになった。(中国の伝承より)

姫と磐瓢は南山に入り、糊塗を凌ぎ、やがて姫は六男六女を産んだ。(一説には三男一女)その子孫は増えて、後の「蛮夷」と呼ばれた。今の長沙武陵の異民族がそれである。(後漢書・捜神記より)

ある人が野外に出て、畦(あぜ)を駆け回っている二匹の犬を目撃した。変に胴の長い犬であった。男が馬のたずなを留めて見守っていると、犬は二匹とも沼へ飛び込み、やがて爆然と水煙が上がって、二頭の白竜となって天上めがけて昇天して行った。それが龍犬である。(宣室志より)

龍犬についての私見
犬はここでは狼のことであろう。狼の勇猛で孤高、途轍もない霊力を秘めた狼と龍という、雨を司り稲妻と言うように稲の生育を司る母神(ははがみ)の合体した姿であろう。


隼人には狗の遠吠えという呪術がある。狗にまつわる伝承には「魏志倭人伝」に書かれた狗奴国があります。狗奴国の狗はいぬです。古代に於いて、文字は音を表記し、その意味が失われていることがありますので、狗奴国の狗がいぬの意味と全面的に信じることは危険なのですが、その国を狗にまつわる国と考えて見ると、南九州が狗奴国と言ってもいいと思います。そして、薩摩、大隈地方がその領域に入っていると考えられます。素直に狗奴国は犬祖伝説を持った国としていいでしょう。
犬祖伝承は江南の苗族がその祖であると考えられます。呉はその苗族の末裔なのです。
呉と苗族の共通点は呪術性にあります。両国はその統治の基本は呪性にあり呪術者が国の方向を決めていたと思われます。
苗族は昔、その呼び名を「南」と呼ばれ、葬礼に銅鼓を打って死者の魂を鎮めたと言います。銅鼓は日本の器具で例えれば、風鈴や銅鐸、鐘楼のようなものでしょう。太古、その銅鼓のことを「南」と言うので苗族のことを「南」と呼んで居たようです。
苗族と呉の共通性はその呪術性にあると思はれますが、一方「呉」の兄弟国、いや兄の国と言われる「越」はどうでしょう。「越」はその文字の意味からして、呪術者というより、矛を持って馬上で走る様と言うように、武人の要素が濃い。何らかの理由で北方の遊牧思想を受け継いだ種族が南の揚子江流域に移動して定着したのではないかと想像されます。北の黄河流域は明らかに畑作と狩猟の民族です。「越」はその血を受
け継いでいると考えるのが自然だとおもいます。
「越」は苗族を支配したかもしれませんが、同族ではないとおもいます。犬祖伝説、呪術性は「呉」が苗族の思想を受けつでいるようです。
そして、「隼人」も又、呉や苗の思想性を受け継いでいます。私は「呉」が安曇族の別称だと考えますから、江南から南北九州に渡来した安曇族はその呪術性から「呉」と隼人は容易に融合できたと考えます。
隼人は曽於族の末裔なので、縄文からの先住民族である曽於族は縄文の土偶や土器に見られる妖気溢れる呪性の継承がなされていて、呪術に対する受け入れは魂の底流で感じていたのかもしれません。
ともかくも、安曇族と隼人の融合はその思想性から容易であったでしょう。


2011.04.24 隼人・番外編
隼人について、少々話しておかなければならないと思い始めました。
隼人と言う名称は大和朝廷が名ずけたもので、それ以前には熊襲と呼んでおりました。703年に大和朝廷は肥後より2000人の鎮圧兵を高城郡(現・川内市)と出水郡(いずみぐん)に送り込んでいます。それ以後、住民をその地域を薩摩隼人と南部を吾田隼人と呼ぶことになります。又、713年に同様に豊前国より2000人の移動民を桑原郡(現・国分市)へ送り込み、大隈地方を抑えこもうとします。しかし、この上野原遺跡のある先住民・曽於族の地は容易には落ちません。一応は大隈隼人の名称で呼びますが、曽於族の抵抗は激しく720年の大隈国守・陽候史麻呂(やこのふみまろ)を殺害します。大和朝廷は一計を策し、クグツを使い、祭りを開催し隼人をおびき出して、虐殺します。そこでようやく、大隈隼人は鎮圧されるのです。時代は天武朝です。
つまり、720年以前は熊襲(曽於族)と呼ばれ、隼人の名称は存在していません。
かつて、私は滝川政二郎の江南より渡来した民族を隼人と唱えたのは誤りで北九州と同族の安曇氏と訂正し、隼人系安曇族と主張しましたが、南九州には安曇氏を名ずけた地名が見つかりません。
希望的観測に近い仮説ですが、元々薩摩・大隈は曽於族の勢力が強く、彼らのプライドから隼人の名を優先させ、安曇氏が姓名を名乗るのを許さなかったのかもしれません。しかし、一度、南九州を出ると、海は海人族・安曇氏の天下です。周知のように安曇の地名は全国に広がっています。即ち、狭い地域の知名人・隼人より安曇の知名度のほうが、都合がよかったのかもしれません。いずれにせよ、その根拠は実証しなければならないでしょう。考古学・神話・伝承探しが大変です・
それにつけても気になるのは、ニニギ命が高千穂の襲から野間半島・笠沙にやって来て、神吾田鹿葦津姫と血縁した事です。吾田は明らかに隼人です。父は大山祇(おおやまつみ)命です(大山祇は曽於の地の山神)から、大隈隼人の首長と言えるでしょう。神話に於ける江南の海人族と隼人の融合は明らかなのに、以後に海人族の軌跡が現れないのはどうも腑に落ちません。何とか糸あいあ口を見つけるアイテムを探さなくてはならないのです。
不思議なもので、安曇については各地にその居住の跡が窺われる。しかし、南九州には安曇の痕跡が少ない北九州・対馬の志香の島には明らかに安曇磯良を祭神とする神話が存在するのに、南九州にはその欠けらさえも見当たらない。政治的に抹消されたのだろうか、その理由が解らない。「記・紀」は意識的に無視する事があるだけに、安曇の薩摩・大隈の存在を隠していることは考えられる。不自然なだけに追求は必要だろう。心を引き締めて探索に係ろうと思う。

何かいい資料がないかな。頑張るぞ!

安曇氏に関する同類の地名
近江には安曇(あど)川がある。大阪には安堂(あんどう)奈良には安堵(あど)その外、先代旧事本紀に跡(あと)部のアト、阿刀造(あとのみやつこ)のアトは安曇に因む名称である。

余計な話題~「チ」は古語では命の根源のことです。「チチ」は母乳の事ですが、命の元の意味なのです。
2011.04.23 安曇野その二
ここに興味ある事件があります。
霊亀二年(716)十二月の「神今食(じんこんじき)之日」に奉膳・従五位下安曇宿禰弥刀が典膳・従七位下高橋朝臣呼具須比(おくすひ)と天皇に供する配膳の順序を争っている。「刀者官長年老」である安曇氏が先に奉膳すべきだと主張している。
当時は天武天皇の時代であり、北九州系の王朝が優位の時代で、南王朝系の安曇氏はその勢力を失いつつあった。朝廷は安曇氏の主張を退けて、高橋氏の配膳を先にしている。
このことは、裏を返せば、初期の安曇氏は天皇の配膳を先に行っていた証であろう。
食膳は政事の世界では、主従に確かな信頼関係がなければその役に着くことが出来ない。内と外には敵対者がいたはずで、古今、毒殺の事実は枚挙にいとまがない。初期の安曇氏の存在を考えると彼は天皇の信頼を得ていたのは明らかである。
以前に、私は滝川政二郎の説を紹介し、江南から南北九州にやって来たのは安曇氏であり、南九州の隼人とする滝川説に異論を唱えました。
南九州(薩摩、大隈ら)において、先住民族(縄文人)が上野原遺跡周辺の桑原郡(現在の国分市)に蕃居していた曽於族と安曇氏との混血である隼人が連合して、南九州王朝を形作っていたと私は推測しています。その名残りが安曇氏と高橋氏の先陣争いとして顕われたのでしょう。
「あずみ」と言えば、信州の「安曇野」が人口に膾炙しています。緑の絨毯をしきつめ、清冽な川の流れには、ウグイが遊泳しています。
私はそこに日本の原郷を見ます。
しかし、その「安曇野」の原郷は本当は「海」にあったのです。安曇の地名の謂(いは)れは安曇氏にあります。その安曇氏は日本、最古の書籍である「古事記」によれば、イザナギ命の禊によって生まれたとされています。天照大神やスサノウ命と同属の禊によって生まれた綿津見神がその祖先だと言われています。
神話によりますと、大和朝廷の礎えを担ったのは神武天皇(神日本磐余彦以後、神武で表記します)となっています。その神武天皇が日向(南九州)より大和へ東征した時、航海の先導をしたのが安曇氏だと私は考えています。その根拠となる説話はいくつかありますが、後に述べようとおもいます。発端は安曇氏の総元締め・塩土老翁です。
塩土老翁は神武天皇に助言します。「東に素晴らしい国があります、そこを治めましょう」と進言します。塩土老翁の進言には根拠があります。翁は海人族長として、航海人海人族の情報を正確に把握していたからです。
古代において、情報を得る手段は航海による交易・交流がすべてなのです、海人族はそれができた種族なのです。その元締めが正確な判断ができたのは言うまでもありません。翁が神武に助言ができたのはこうした理由があったのです。
塩土老翁のモデルを究(きわ)めてみると、「日本書紀・応神天皇三年十一月の条」で、騒ぎを起こした海人達を大浜宿禰がそれを治め鎮圧して、海人族の長(おさ)となった記述が神話の根拠になったと思われます。

次回ではさらにお話を広げて行こうと思います。
私は海人族の系譜を考えるとき、イザナミ命に行き着きます。つまり禊祓型と誓約型です。極端に言えば、天神と地祇の違いです。イザナミ
はカグツチにホトを焼かれ、黄泉国へゆきます。イザナミの死の原因は激しい性による死とか、産後の肥立ちが悪くて死にいたったと言われますが、つまりは死の女神であったと言う事です。
産穢や死穢を体現するイザナミは人間の祖でしょう。それに比べ、死の臭いの少ないイザナギは天とか聖の象徴なのであって、多少の矛盾を含みますが、天照大神__高天原の支配者を生んだ親でまあります。神とか天皇系譜こそイザナギ命であります。
そのイザナギは天照大神の他、綿津見神、住吉大神の祖でもあります。綿津見神は安曇海人族なのは言うまでもありません。(現世的には安曇氏の祖は大浜宿禰です)
そこで思い出すのは、神武東征の折、その先導役を勤める塩土老爺です。神武に大和への東征を奨めるのは塩土老爺ですが、その判断材料の裏には現地の具体的な情報、しかも正確なそれを必要とします。その役割が出来るのは、移動性のある海人族より外にいないでしょう。その海人族の首長が塩土老爺なのです。神武東征は塩土老爺の助言によって推進されました。
天皇制初期においては、海人族が非常に重要な意味を持っていたことになります。
一方、出雲国では大国主命が国造りの参謀として、海からやって来た海人・少彦名命の協力で出雲を統治して行きます。出雲はその産土である国土と、八束水臣津野命が引いた新羅や越、ひては筑紫までの広い知識があったからこそ出雲の国造りを成功したと言えるでしょう。その原動力は少彦名命において外にありません。
では、少彦名の出自はどこでしょう。一説には神皇産霊神の手から洩れたとも言います。神皇産霊神の素性は明確ではありませんが、「古事記・日本書紀」また、古い伝承を総合すると、イザナミと意を通じるところがあり、国津神担当の神と言ってよいと思われます。イザナミはスサノウとは密接な関係あることから考えますと、この眷属は根は一つだと思われます。
日本の古代・上野武さん<倭人の起源と呉の太伯伝承>より

*円月は禅宗・大慧派で朱子学者である。

*ポルトガルの宣教師・ジョアン・ロドリゲス(1561~1634)の「日本教会史」より

江南から最初の移住者が来たのであって、日本の国王たちはその係属を引く。
この泰伯の二番目の弟の子孫の幾人かが、東方の海に船出して、日本に移り住んだと言われている。そして、その昔の一族とその子孫は姫氏と呼ばれ、シナ人は日本姫氏国と呼んだのであり、また、この李歴が兄の死にあって、頭髪と元結を切ったのにならって、日本人は元結を始めた。又、天草の領主・天草鎮種は、漢王朝の子孫で、中国の親類と文交している、と言う。

*不干斎ハビアン(1565~1631)禅宗からキリスト教イエズス会へ改宗した。「妙貞問答」より。

かの泰伯の子孫が日本へ渡り来たことは間違いないことですから、その周の氏である姫の字を以て、この国を姫氏国と言ったのです。日本人が髪を結ねる理由も泰伯から始まった、と言われている。と、述べている。

*林羅山の子・鵞峰「擬対策文」より。

呉の地は広大で、いまの寧波も又、その地にある。唐の時代には、明州と言い、古の遣唐使は皆、その岸に至り、かの地に入った。明州は筑紫を去ること遠くない。順風で波が穏やかなら四・五日で至る。と、言う。

*国学者・鶴峰戌申(1788~1859)「襲国偽偕考」より。

太伯の後裔による熊襲王朝の存在を主張した。呉王・夫差の末裔が九州に流れてき、熊襲国を建てた。その国は専ら呉の事物を伝承し、文字を始め諸々の器財までも呉のさまであった。と、述べている。
2011.04.14 呉と南九州
私はこれまで、江南、朝鮮南部、東南アジアそして九州を倭の領域と考え、模索してきました。
特に、呉越(江南)と南九州の関わりを明らかにしようと、その伝承・神話を主に考えてきました。(考古学や現地検証に触手を伸ばしたいのですが、遅れてきた老人にはそこまで手がまわりません)
越は自らを僕來(ぼくらい)と言うように、その先祖は北部中国の畑作・遊牧民族の血を残しているように思えます(僕來とは神に仕える遊牧民という意味です)呉もまた、建国の祖、太伯は周の古公壇父の直系で、句呉の地に定住した伝承にあるように、同じような傾向ですが、現住民と漢人の混血(これは江南人と隼人との混血である彦火火出見に似ています)が作り上げた国と言う点では少し異なっている気がします。勿論、わたしが南九州と江南と通じているとしたのは、後に述べますように呉越の地は九州から近いと言う点にあると言う事です。
黒潮の流れは、対馬海流と黒潮海流となって江南人を南北九州へと運びます。その点では、呉越が縄文時代より(その時は倭人と言っていいかも知れません)少しずつ漂着や政治的亡命で渡海して来た可能性は大きいでしょう。初期には、先住民との確執があり、殺戮も行われたに違いありません。空舟や手杵祭り伝承にそれが窺えます。しかし、阿多隼人らの海人族がその柔軟な気質から徐じょに彼らを受け入れ、混血してニニギ神話に行き着いたものと思われます。
<後漢書・西南夷列伝>_伝承

「哀牢夷の女が水中で沈木にふれて妊娠し、十人の子をうんだ。すると沈木が龍となって姿を現し、龍に背中をなめられた末子がその集団の王となった。残りの九人もそれぞれ子孫をもうけた。そんなわけで、哀牢夷たちはみな、龍の入墨をし、衣服に尾をつけている。」
2011.04.11 円月の話
南北朝の禅僧・円月(1300~75)は日本紀<または日本書>(以後日本紀)に「神武天皇は呉の太伯の末」だと述べられたといわれる。

円月は商船で九州から江南へ行き、そこで7年間修行したといわれる。円月はその地で呉や越の習俗などを学んだ。
林羅山は円月について「神武天皇論」で書き記している。

「東山の僧・円月かつて、日本紀を修す。朝議、協(かなわ)ずして果さず、遂にその書を焼く。余、ひそかに円月が意をおもうに、按(あん)ずるに諸書、日本をもって呉の太伯の後と為す。それ、太伯荊蛮に逃れ、断髪・文身し交竜と共に居る。その子孫、筑紫にくる。おもうに必ず時の人、以て神とせん。これ天孫、日向高千穂の峰に降りるの謂(いい)か。当時の国人、疑いてこれを拒(ふせぐ)者のあるはこれ有るか。これ大己貴神、順(まつろ)い服さざるか」「おもうに大己貴、長髄彦はわが国の古の酋長であり、神武はそれにとって代わった人間」と述べている。

私は、円月や林羅山が記したように、呉越と南九州の関係はかなり強いとおもう。特に、
先に述べたようにそれは倭族の圏内にある。
末子相続、鵜飼いの習俗、文身の風俗など南九州には様々な風習が伝わっている。

円月の日本紀は偽書とされているけども、私は円月の本が焚書されたのは、むしろ政治的な問題からで、その真偽からではないと思う。当時の神国思想は神武天皇は神であり、異郷の呉の太伯など不敬なことなのだ。(もっとも、呉の太伯もまた伝承であって、史実はその裏に隠されている)
円月は江南にまで行き、それら諸々の疑惑を彼なりに解きほぐしたのが日本紀なのである。机の上で創り上げた文章や伝承の膠着した思想などより数段価値があると思う。
私は円月の説く「神武天皇は太伯の末」を支持します。


2011.04.08 安曇氏その6
今回は安曇氏について、もう少し詳しく述べてみようと思います。「古事記」に安曇氏の祖は綿津見神でその子宇都志日金析命の裔とする。と、述べています。綿津見は海神ですから異存はないのですが、日金折命は金属神です。安曇氏が金属との関わりの伝承はありません。私もそのことにについては疑問をもっていました。しかし、安曇氏の出自を江南と考えると、それ程不思議ではありません。呉越はまた、銅や鉄の産地でもあるのです。金属神はそれを指しているのです。「日本書紀」は意外と安曇氏の本質をついていたのではないのでしょうか?「日本書紀」
に述べられているように阿曇稲敷が古事につうじていることから、「記・紀」の編者に選ばれたのは、古くは呉越や古い南九州の史実に通じていたからだと思います。(筑紫にいた唐の郭務ソウとの交流も安曇氏が漢文化に精通していたからではないでしょうか)これは余談ですが、「肥前国風土記」によれば安曇氏は隼人に似ていると記しています。仮説ではありますが、両族は出自は同じなのではないかと思います。
どうやら、安曇氏は中国・江南との関係が蜜なのが伺われます。
それにつけても、「記・紀」における安曇氏や隼人の存在は薄い。両氏ほどではないが、蘇我氏・物部氏ももう少しその記述を明確にしてもよさそうなものだが、やはり「紀・紀」はまるで記述を避けているかのやうに内容を明らかにしない。

さらに、不思議なのはあれほど、魏志倭人伝で明らかなのに、邪馬台(壱)国や卑弥呼の存在さえも明らかにしない。勿論、邪馬台(壱)国とは敵対関係にある狗奴国の存在は重要とあもわれさすが、「記・紀」は一行も書こうとしないのです。なぜだろう。私はいずれ、そのことを明らかにしなければならないと考えているが、今はその余裕がないので、疑問は疑問のまま進まざるをえない。

今はこのまま、初期の古代史を私なりの解釈で進めていこうとおもう。
ニニギ命から神武天皇までの軌跡を観ると、そこには海人的性格と呪術的状況が明らかです。それが一番強く現れているのが神武東征でしょう。大和に上陸してから様々呪術的な出来事が現れます。それは神武軍自体に呪術的な性格があるからでしょう。又、あの軍団を移動させるのには海人の優れた航行の技術を必要とするのは言うまでもありません。

私は、その影の推進者は安曇磯良を神と仰ぐ安曇氏と、安曇氏と混血した隼人ととの混成軍が大きな力になっていたからだと思います。

<古代天皇制と内膳職>
史実に、天皇の食事を司る膳手(かしわで)に安曇氏と高橋氏があたっている。安曇氏は直接的な氏族だが、高橋氏は安倍系で、安倍系は物部氏を祖としている。ここで面白いことは天皇を考えると、南九州系の神武帝と北九州系のニギハヤヒ命に分けられる。その主なる配下が神武帝は安曇氏でニギハヤヒ命は物部氏である。「日本書紀}によれば、神武がニギハヤヒを懐柔している。そして、古代天皇のもとで、膳手を安曇氏と物部氏系の氏族(高橋氏)が受け継いでいる。
食事は大切な職務で古代でも毒殺は行はれていたから、毒見は余程、信頼がおける氏族でなければ勤まらないであろう。内膳職の奉膳(ぶうぜん)は重要な職種なのである。当然、食事の後の饗宴も受け持ち、俳優(わざおぎ)の資格も備えていなければならない。
私は安曇氏が隼人と融合して一族を為していると考える。安曇氏が隼人の俳優的要素を持っていたのは自明のことと思われるので安曇氏の膳手(かしわで)は理屈に合っているとかんがえるのです。
2011.04.07 安曇と呉だと
これは私見ですが、呉と安曇にはいくつかの共通点があります。私が特に強調したいのは、両族とも、呪術的共同体の形が濃いからです。白川静は呉を訳して、祝寿器を持って神を崇める形象と説きます。一方、安曇磯良は安曇族の祭神として祀られていますが、八幡愚童訓などによれば、海の精霊として、細男舞を舞いながら、海上へ浮かび上がったと伝承されています。両族とも、海人です。そして、呪術者と言えます。
2011.04.07 安曇その4
元来、私は天孫降臨を思想上の表現の問題と考えています。大和朝廷は自らの祖を天におき、聖なる系譜として語りがたいために高天原を設定したのです。ニニギ命の降臨は聖なる継承者としての証でしょう。実際は野間半島に上陸した江南の漢人だと言うのが史実だと考えます。

江南から東シナ海を出た船は黒潮に乗り、対馬海流と東経由の黒潮に分流するのは以前述べましたが、野間半島はその漂流先なのは、太古から知られており、半島に住む阿多隼人も又、海人としての交易や漁猟生活の糧にしていた種族が幸いして、江南人の受け入れは容易であったと思われます。
初期のニニギ命から神日本磐余尊までは末子相続であり、犬祖神話・鵜飼や文身の習俗を考えると、明らかに呉越の文化の影響が顕著です。
2011.04.05 安曇氏その2
志賀村の白水郎荒雄とは安曇族の荒雄であろう。
白水郎とは海人のことで、私は二種類に分けることができると思います。一つは、イザナギが黄泉の国より戻って禊(みそぎ)をした海人族(安曇氏)と天照大神とスサノウ命との誓約で生まれた宗像族です。私見では、禊系は江南・南九州系で、誓約系は朝鮮・北九州系となります。
八世紀初頭、古事記や日本書紀が編まれた頃の大和朝廷の勢力図は明らかに北九州系が主流です。初期の大和朝廷は南九州系が有力だったはずです。しかし、八世紀には北九州系大和を支配しています。その契機はどこであったのか今後の課題ですが、今はさておき、万葉の序文に則して話そうと思います。

府の官(つかさ)宗像部と民間の一業者安曇氏ではその地位の差は歴然としています。それなのに、この目線はどこからくるのでしょうか。
ここで少し安曇族について考えてみたいと思います。

安曇氏の祖は綿津見神で、禊で生まれた天照大神やスサノウ命と同系列です。つまり、宗像氏より先行していた海人族だと言えます。
谷川健一(敬称は略)は滝川政次郎の説を引いて「漢の武帝が南越を征したあと、飽くことなき漢人の追求を逃れた百越の民は黒潮に乗って九州西海岸の南北へわたってきた。黒潮は屋久島の沖で二つに分かれ、その一つが北上して対馬海流に向かっているが、南北九州に着くのは同じ頃である。北九州へ着いたのが安曇氏で、南九州に着いたのが隼人族だ」と述べている。
私はこの説に大方賛成ですが、南九州に着いたのも安曇氏だと思います。次回はそのことを話します。

安曇氏の末裔にも鱗のある者が代々生まれると言う。「履中紀」に目の縁に入墨をした者が「安曇目」と呼ばれた。と言うことは、安曇氏の祖先に入墨をした者がいたことが解る。
同例で「神武紀」には、大久米命が「鯨ける利目」をしていた、とある。大久米は薩摩半島にいた久米部と関係があり、恐らく隼人系海人であろう。このことは鹿児島・加世田市から「久米」と墨書した土器が出土している。ことからも確認できる。
「魏志倭人伝」に倭の諸国の風俗を叙して「諸国の文身、各々異なり、或いは左にし、或いは右にし、或いは大に、小に」と言う箇所は胸に背の下や目尻に入墨しいていたことを表している。安曇氏が目付き(利目)をするために入墨をしたのは、潜水の際、襲い掛かる大魚や鮫に自分の目を誇示し、撃退させるためでなっかたか、と谷川健一は推測する。
<万葉集巻16の3865>(筑紫国志賀白水郎歌十首序文より)
「荒雄らは妻子(めこ)の産業をば思いは朽年の八歳を待てども来ずの歌」
<右、神亀年中に大宰府、筑紫国宗像部の百姓、宗形部津麻呂を差して、対馬送りょうの船の舵師にあてつ、ここに
津麻呂、滓屋郡志賀村の白水郎荒雄が許に詣りて曰く「僕(われ)小事あり、けだし許じか」といふ。荒雄答えて曰く「われ都(くに)を異にすれど船を同じくすること日久し、志は兄弟より篤し、殉死することもあにまた辞めや」といふ。津麻呂曰く「府の官(つかさ)、僕を差して対馬の送りょうの船の舵師(かじとり)にあてたれど、容姿衰老し、海路に堪へず。故に来り
しこうす。願わくば、荒雄許祐し、遂にその事に従ふ。肥前国の松浦県実禰良久(みねらく)の崎より船を発し、ただ対馬を差して海を渡る。登時(すなわち)、忽ちに天は暗冥(くらく)く、暴風は雨にまじえてついに順風なく海中に沈みぬ。これより妻子とも讀慕(とくぼ)に勝てずして、歌を作る(歌は省く)。或はいわく、筑紫国守、山上憶良臣、妻子がかなしみに悲感し、志を述べてこの歌を作る。(歌は省く)

これは海人同士の出来事です。ここには補足することがあります。次回で詳しく述べようと思います。




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