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2011.05.31 九州民話伝承
長崎県・南高来郡の伝承
「昔々、姉妹がおりました。姉は金持ちに嫁入りし、妹は貧しい山番の妻になりました。山番は毎日、薪を町に売りさばき生計を立てています。しかし、ある日どうしたことか、薪が一束も売れません。そこで山番は薪を海へ投げ捨てて戻って来ます。その日から、同じ事が何日も続きます。ある日、何時ものように海へ薪を投げ込おうとすると、海の中から一人の女が出てきて、竜宮に来るように告げます。ついて行くと、竜宮に足を踏み入れた所で、その女から「帰りにお土産を遣ると言われたら、黒猫を貰いなさい」と教えられます。何日か竜宮のような日々が続き、山番が帰途を告げると「何が欲しいか」と問われ、教えられたとうり、黒猫を貰いました。「毎日、小豆を五合ずつ食べさせなさい」と言われたので、家に帰って実行すると、その日から毎日、五合ずつ黄金の糞をしたので、山番は忽ち金持ちになりました。その評判を聞きつけて、欲の深い姉は沢山の黄金を得ようと、一升の小豆を与えます。すると、黒猫は死んでしまいます。妹は悲しみの中、黒猫を引き取り、死骸を埋蔵します。その猫の髪からは橙が生まれ、正月の目出度いお飾りになった」
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私は古事記・日本書紀(記・紀)を読んでいて思うのは、「記・紀」は<真>の模倣書だと思います。まず目に付くのは、蝦夷・佐伯・八束脛(やつはばき)・国巣(くず)・槌蜘蛛・熊襲・隼人などの先住民族の虐殺・謀略の表現であり、強国に対しては謀略を凝らして懐柔する奸智に長けていることです。
先住民に対しては大変過酷な表現をします。穴に棲み、木の上に巣を作り、親や恩人の恩も無視して情は働かすことのなく、他人の物の平気で盗むと言った中国の中華思想そのまま焼き直した表現を使います。まるで野蛮人は抹殺されて当然だと言った態度が歴然としています。しかし、その意識の下では恐れや罪の意識を潜ませているのです。彼等の模倣意識は多分、言い訳として作用しているのではないかと思われます。それでなくては弱者に対する過酷なまでの虐待は行われなかったと思われるのです。それは、祟りや禊、贖罪の意識、神社への回向として現れます。
一方、被支配者はこの支配者の巧妙な、生産手段としての優遇の意味を認識した上で従います。古代からのこの行為の繰り返しは、DNAに刻印され、日本民族を優等生的な恭順意識をその潜在意識に埋め込ませてきたのです。私は今、この呪縛から解き放されなければならない時だと思います。
砂漠の中の過酷な生存競争に生きる一神教の民族とは異なり、「古事記」で塩土老爺が説くように<東に美き(よき)地(くに)有り、青山四周>の慧眼のとうり、本来は循環(円思想)を熟知し、老若男女の役割を正しく行う多神教の優れた信者としての真の姿を顕現すべきなのです。
よく似非識者は日本は資源が乏しい国だと説きます。しかし、本当にこの国は資源が乏しい国なのでしょうか。それは比較論的な論理に過ぎません。また、この地(くに)は絶対的に資源が乏しい地(くに)なのでしょうか。わたしはこの地(くに)の縄文文化が一万年も続いた事実を思う時、彼等は、資源が乏しいと説く欲張りな人種の発想だとしか思わずにいられません。産土人(うぶすなびと)・日本庶民は自然と調和し、人と人が共存すれば、穏やかな日々が送れることを原点に刻み込ませている優れた人々だと私は信じています。
洞庭湖で魚を取っていた漁師が一人の乙女を助ける。この乙女は龍女が姿を変えていたものである。竜女はお礼に珠をくれた。そして、女は竜宮に来るように誘った。漁師はその珠を持って湖底の竜宮へ行き、二人は結婚して楽しく暮らす。しかし、ある時、漁師は母が恋しくなって、帰郷することになった。その時、竜女は宝の手箱を渡して「何時でも、寂しくなったら、この箱に向かって私の名を呼びなさい。でも、決して箱を開けてはいけません」と言った。漁師が帰郷して見ると、母は昔に死んでいて、村の様子もすっかり変わっていた。竜宮の一日は人間界では十年になる。漁師は驚き、悲しんで、その理由を竜女に聞こうと思い、慌てて、宝の手箱を開けてしまう。すると、若者は忽ち年老いた白髪の老爺に変わってしまい、やがて洞庭湖の畔(ほとり)で死んだ。

これは浦島伝説や山幸・海幸神話等と共通する話である。


坂~境について一言
この世と異境の間には「坂」があると、古代人は考えた。
この世と死者の世界との境にはあ「黄泉ひら坂」が。この世と海神の世界の境には「海坂(うなさか)」がある。坂は境であり、個別の空間を繋ぐものである。国と国の境には、坂や道、橋が横たわる。こちらからあちらへ行く道程を越えると、そこには異なった掟が存在する。掟は決め事である。双方の了解なしでは何らの意味をなさない。
精神の世界に例えれば、異なる空間に異なる存在が侵入してもそれはなにも見えないと同じである。そこにある歪みが生じすとその段差に亀裂が出来て歪んだ空間ではあるが、交流が生まれる。それは次元の異なった交流である。同じ場所にいて異なった場所へ移動できると言う不可思議な現象を体験出来るのは楽しいことである。
「南方神話と古代日本」(千田稔)を読みました。参考になるので、抜粋しました。
<鹿児島県の西側の薩摩半島の阿多が、日本文化を考える一つの原点になる土地でないかと思います。
海幸・山幸の「記・紀」の神話を読んでいると、この話は阿多のあたりで展開されているのではないかと考えられるのです。
薩摩半島の南の方、もう少し具体的な現代の地名でいいますと、坊津というあたりも阿多に含まれていたと思います。
鑑真和上が中国から遣ってきて漂着した所が秋目(坊津)です。海幸・山幸の神話はおそらくそのあたりを舞台にして展開されたのではないかと思われます。
山幸はトヨタマヒメと結婚しますが、その父親・豊玉彦にあたり、それは安曇氏です。海人族・安曇氏に連なる人物であろうと思います。
すると、海幸・山幸神話は、単に隼人だけの伝承(海幸は記・紀では隼人の祖としている)だけが記されたものではなく、そこには安曇氏の神話・伝承も挿入されていたと考えられていたと思われます。

確か、鑑真和上は秋目に着く前に、沖縄へ漂着しています。直接、秋目に着いたわけではありません。

滝川政次郎は江南から黒潮に乗って南北九州についたとされています。北に着いたのが安曇氏で南は隼人と記しています。しかし、隼人は先住民族である曽於族の分派か連合種族だと私は思っています。南九州に着いたのも、同じ安曇族でしょう。安曇族と曽於族(隼人、ここでは阿多隼人でしょう)の融合した連合集団が日向三代を造り、神武帝を東征させたと思います。神武東征は海人の協力なしには遂行出来ないでしょう。隼人や曽於族には大集団を遠くに航行させる能力は考えられないから、どうしても神武東征は安曇氏の航行技術が必要であったはずです。その考証ができないのが甚だもどかしくはありますが、どうしてもそれを見つけなければならないのです。

千田稔は「南方神話と古代の日本」
<もともとは安曇氏も隼人と同じ根拠地を阿多地方に持っていた可能性があるのではないかと考えられます。
阿多地方の分布
薩摩国・阿多郡阿多郷~ホウキの国(鳥取県)の日野郡(旧・阿多郷)~奈良県、吉野川沿い五條市・阿多集落。沖縄県にも安田(あた)がある。
「呉」(ご・くれ)の用語について。
呉橋~半円形で階段が備え付けてある。呉床~折りたたみの椅子。呉服(織)<くれはとり>。呉音<ごおん>~世俗のごちゃごちゃした音。呉桃<くるみ>。呉楽~伎楽舞<くれがくまい>。呉斤(権)<ごきん・れはかり>。
O伎楽舞には呉王、呉女の外、胡人を表す。
酔胡王、酔胡従がある。

「記・紀」には阿多の鵜飼の祖がいたと記す。

安曇氏はアドとも読み、阿刀氏に通じ、物部氏の一族でもある。「旧事紀」ニギハヤヒ命の東征には物部氏が随伴していますが、その中に阿刀氏もまた随伴している。また、阿刀氏は大和川の船運を司っている。明らかに阿刀氏は海人族でそういう点では安曇氏と共通している。

亀山勝は「日本列島には、縄文人が水路を使用して築いた交易網があった。そこに操船と交易に長けた安曇氏が参入して来た。
安曇氏は情報網がはりめずらされ、各地の仲間と接触を図っていた。また、安曇氏は奥地の棚田と養蚕の拡張も行っている。

これは神武東征の条で塩土老爺が神武帝に助言したように正確な情報を掴んでいたのは多分安曇氏との関わりが濃かったからだろう。(私見だが塩土老爺は安曇氏の首長である)
<大浜宿禰>(安曇連の祖)は各地の海人族を鎮めたとあるように、安曇氏は各地の海人族を統率して、天皇に仕えた氏族であった。~これは神話にある塩土老爺の史実なのかもしれない。(私見)

曾君は八世紀になっても、その勢力を保ち持続させていた。曾君は隼人の最大の勢力であり、その根拠地は一部を鹿児島湾岸におきながらも、南九州の内陸部を領有しており、容易には大和政権に屈しなっかた。

隼人の墓制
地下に構築した墓制は畿内系高塚が導入される以前からあった土着文化の所産で、例えば、副葬品などに畿内的文化の影響があっても、墓制だけは変わらず、副葬品には身分的格差はあまり見られず、装飾品が少なく、攻撃的な武器に限られていた。ここでま勇猛で且つ頑固なわりに、新文化の摂取を拒んだ隼人の姿が窺われる。(乙益重隆)

仁徳天皇の皇后(磐之媛)の父<葛城襲津彦>の出身地は日向の襲(大隈国)である。葛城氏は黒潮海人族で紀氏や和邇氏等の海人族と関係が深く、難波、紀伊を結ぶ海難要路を確立し、西日本や海外との積極的な交渉が出来て、権力基盤を確立することが出来た。

また、ニニギ命の皇后(神阿多鹿葦津姫)の父<大山祇命>の出身地は曽於(襲・大隈国)である。葛城氏と大山祇命との関連はひょっとすると安曇氏にも関わるかもしれない。すると、黒潮海人族関連の勢力範囲は広くなり、神武東征が可なりの規模で推進されていることになり、現実性がますことにもなる。

安田喜憲<龍の文化・太陽の文化>より
東アジアの政治的秩序の中に組み込まれてもなお、日本の大王は、長江流域をたえず意識し、長江流域の人々こそが自分達の兄弟だと考えている節がある。政治的な見せ掛けは北方的でも、心情的には南方的であると思っている。
偶とは頭の大きな虫又は、母猿(赤目テナガザル)のことである。倭は蚕や手長猿を言うのかもしれない。

鈴木正崇は「銅鼓についての断章」(自然と文化)で「動物性の介在の第一として指摘できるのはサルと言う動物との一体化である。第二は葬礼の時の水牛供犠の伝承で、この由来として嘗ては死者がでると、その肉を子供達が共食する習慣があったが、後にこの習慣が改められて、水牛を殺してその肉に祖先の肉を取り入れ一体化し、それを伝えていくと言う再生観の表われと見ることが出来る。」と述べている。




2011.05.24 昨日の夢
夢を見ました。嘗て、経験も体験もしたこともないものでした。
ある村の出来事です。某村はその村の政策で凧を飛ばし、PRのため凧を返還した者には村の農作物を進呈すると言うものであった。ただ、なぜ凧が取り扱われたのか解りません。その施策は効果があまり期待できない。それなのに凧を飛ばしています。
多分、村は年を経るごとに、過疎化して行き、数年前から、過疎化を止めるための対策を講じていたのは事実である。この村の村長は独裁性の強い人で、いつも選挙では他の候補の届出を許しません。候補者が出てくると、陰に陽に妨害をして、候補者を引きずり降ろします。ですから、役人も村会議員も村長に逆らおうとするものは皆無なのです。数年前、その村長が過疎化対策を提案して、闇雲に施策を実行したのです。今度の凧上げ事案もその一つなのですが、沢山の事案の一つのため、忘れ去られていたに違いありません。

私は村にある公営遊園地に勤めていました。役職は確か、係長だったと思います。そこの従業員の子供が二人遊びに来ていて、その遊園地の上を凧が飛んでいるのを子供の一人が見つけます。その子等のうち、年上の昭彦が村の入口にある掲示板の表示を覚えていて、凧を追いました。遊園地の先には丘が連なり、凧はその麓の叢の中に落ちます。明彦が探す間、前に飛ばしたと思われる凧が四つ合計五つ見つかりました。
昭雄がその凧を事務所に持ち帰り、私に示して、村の役場に持参しようと申し出ます。告示は大して重要な事とは思われません。思いつきにすぎないと思われます。その付帯事項として、凧に付いている半券を持参すれば季節の果物を進呈すると小さくかいてあったのが昭雄の目に止まったのでしょう。
私はその告知も知らなかったので、昭雄の要求を拒みますと、昭雄は猛然とそれに抗議します。
「おかしいよ。だって、村の掲示板にちゃんと書いてあったでしょう」
私は当然、その掲示が村の主な施策でないことは解っています。なぜなら、主な施策なら通達の時、その表示は私達にも知らせられるはずだからです。大体、一から三の段階に分かれていて、多分「凧」の件は最下位が濃度なのです。それもある程度時間が経過して、あまり効果がなく、うやむやに時間が過ぎていたに違いありません。
これまでの経験でそんな件をいまさら、村の役場に持ち込んでもうやむやにされるのが堕ち(おち)で、記憶しておく必要はないと考えた方が得策なのです。
「昭雄、もう村の人は忘れているよ」
と、私は大人に言うように昭雄へ言います。大体がこの村のやることは一人よがりなとこがあって、自らに甘く、他には厳しいのです。しかし、子供にはそんな理屈は通じません。
「おかしいよ。だって、書いてあるのは約束でしょう。おかしいよ」
と言って譲りません。
それから二、三説得しましたが子供の正論には現実的な方便は通用しません。私は仕方なく、前からの事案であった事務所の改築申請と抱き合わせて提示することにしたのです。改築事案は根回しが済んでいるので、許可されるでしょう。
私は凧の端(はし)に付いている交換標識(小さな標識印)を五枚持参して村の役所へ持って行くことにしました。事務所を出ようとすると、昭雄も付いて行くと言います、村の役場の執務を考えると、時間と手間が掛かるのは解っています。昭雄を連れて行くには煩わしいことなのは容易に想像できます。そこで昭雄は事務所に残るよう説得しますが、先程の掲示板の曖昧な説明が昭雄に猜疑心を沸き起こらせたのか、一緒に行くと言って聞きません。わたしは仕方なく、昭雄を伴って村役場へむかいました。
案の定、役場の窓口は混んでいて、雑然としています。そこには、整列と言う訳でもなく雑然とも言えない奇妙な秩序があるのです。
かつて、順番待ちをしていて、その秩序的な無秩序な並に某村会議員に割り込まれたことがあります。この並びはそうした出来事を包括した雰囲気が漂っているのです。大体は例外なく事は過ぎて行くのですが、時折その例外が顔を見せます。その時は、知らぬ振りをしなければなりません。もし、抗議などすれば、後々嫌なしっぺ返しを受けることになるからです。
今回は幸いにも何も起こらずに進行しましたが、待たされるのは相かわらずです。数十分待たされて、窓口に呼び出されました。書類を事務員に渡すと、女事務員はそれを受け取り、少し苦笑いをしてから、書類の端を指先で弾きました。そして「少し、お待ちを」と言って、奥の事務室へ向かったのです。そこは明らかに事務長室で予め、事務長の指示があって、それを告げに行ったようでした。と言うのはこの一件は既に、根回しが出来ているので、事務長に説明を求められのは想定内ではありました。勿論、私は入室を許されて、事務長に様々な説明をしなければならない。しかし、入室は当事者だけでその外の人間は認められません。中には規則の緩やか村役場もありますが、ここは意外と厳格で他の入室は禁止されていて、昭雄は事務所の外で待つことになります。
子供は順応性が早く、じっとしていないのは周知の事実です。私の心配はそこにあります。昭雄のことです自分で決めたことはすぐに実行します。人の注意を聞くような性格ではないのです。
私が事務長と面談している間に何をしでかすか判ったものではありません。私は気がかりな面持ちのまま女事務員に導かれて、事務長室へむかいます。
事務長室は意外と質素でした。ただ一つ部屋の壁には安藤広重の浮世絵が架かっているのがこの部屋の雰囲気を落ち着かせます。机も木製だが、それほど高価なものとはいえません。その前にある接客用のソファアは革製ではなく、布製のものでした。
事務長は痩せた啄木鳥を思わせます。目は鋭く、険しい。鼻はまるで鷲の鼻である。全体として暗い印象で、意地の強そうなのは厳格で皮肉屋の役人の特質なのでありましょう。
「改修の件は許可を出してあるが、この凧は何かね」
事務長は訝しげである。
「それは村の掲示板によると、半年前に告示されています」
「そうか。今、確認をさせているが記憶にない。まあ、告知の件数が大すぎるので、細かい事案についてはいちいち覚えきれない」
と、ふと視線を上げて、一人ごとのように呟いた。すると、電話の発信音が鳴り、事務長はそれに聞き入った。相槌を打ち、頷く。そして電話機を置くと「あれはもう締め切っている」と言う。
しかし、それは誤りであることが判っている。昭雄は既に、期限の表示は裏の端に記してあるのを確かめている。
「事務長、うらの右端に明記してあります」
事務長は半券の裏を眺めた。確かに、日付は刻時されてた。彼は私を一瞥してから、怒ったように言った。
「これから審査が必要なのだ」
言い訳にすぎない。私は返答に躊躇する。正論をかざし、彼の言い訳と言う弱気を付いていけば、強行突破は出来るだろうが、差し詰め事務所の改修の件に影響を及ぼすことは確実である。ここで妥協すれば、今度は昭雄への説得が容易ではなくなる。
うちの課長なら何のためらいもなく事務長の意見に従うだろう。若いのに役所の外郭団体ではあるが、私より十数年出世が早いのは、彼が仕事に関しては私情を決して持ち込まないからであろう。私にはそれが出来ない。昭雄の考えていることも斟酌してしまうと、彼の思惑のほうが正しいのだからその言い分をきいてしまうのは予想できてしまう。
「子供は純粋ですから約束ごとに関しては真剣に考えてしまいます。どうか、子供の立場を斟酌して、事務長のご英断をお願いします」
事務長は険しい目付きで私を見つめ、一呼吸をてから、やおら電話をつかみ、係員を呼んだ。
係りの男は直ぐに遣ってきて、事務長の耳元で囁き、去っていった。
「そうは簡単に行く事案ではないのだ」
「どう言うことなのですか」
「商品は季節の農作物だから、農協との話し合いが必要なのだ。在庫の確認もあるし、直ぐに結論はでない」
ここまで聞けば、役所の常套手段で時間を稼いで、問題をうやむやにする目論見が煤けて見えてしまう。
「ここで事務長のご即談という訳にはいかないのでしょうか」
事務長の即断がなければ、この件は何だかんだとうやむやにされてしまうだろう。
「結論、わしが出せるわけないだろう。君、ここは民主主義の国だよ。協議、協議、それを重ねなければならないのだ」
都合のいい言い訳である。そのために派閥を造り、部下にはそれなりの甘い(うまい)餌を食わせているのではないか。事務長が強行すれば大体の事案は通る。村人はそれくらいのことは解っているが、面倒くさいので見過ごしているにすぎない。
「そこを何とか」と食い下がると、事務長はじっと私を見つめた。
その眼底からは、蜘蛛の巣のような糸が無数に飛び出しているように見える。
私は一瞬たじろいで、彼から目を背けた。
少し、部屋の明かりが暗くなったように思われた。暗い腹の底に響くような音がして、私は立ち上がって走り出していた。何故そうしたのか、私にも解らない。その場の雰囲気がそうさしたのだと思う。
事務長室の脇の扉、こんな所にこんな出口があることは私は知らなかった。どうやら、事務長の緊急避難のための抜け穴らしい。私はその狭い廊下を走り出していた。湿度と黴の臭いの立ち込める廊下はかなり古いもので、暫らくは使用されていなっかたのだろう朽ち果てている。足場はぬかるみ、走りにくい、廊下は百米ほど行くと、急に曲がり、東北に向きを変える。
多分、村役場の背後に聳え立つ崖を抜けて、村の墓地群に行き着くはずだ。案の定、廊下は岩が剥き出しの洞窟につながり、墓場の外れにある洞窟に出た。そこは村の管理する共同墓地である。戸籍で確認が出来ない亡者を埋葬している。
洞窟を百米ほど行くと、地下室への坑道があり、その先には土葬の土室があった。土室は石垣で覆われ、やはり東北の方角に遺体を安置するように造られてある。そこは深い穴が掘られ、安置と言うより無残に遺体を投げ込むと言ったほうが正しいかもしれない。その穴の上に二つの窪みがあり、東側には背後に竜が刻まれ、朱に塗られた土偶が安置され、北側は大亀で同じ土偶が立っている。土偶の胸には渦巻き模様が施され、全体は卍模様が刻まれている。
土偶の眼光は異様で阿修羅のごとく恐ろしい。今にも、歯をむき出し、飛び掛りそうな雰囲気がかもし出されているのは優れた彫刻の巧みによるものだろう。周囲の黴と腐臭の息詰まる臭気が脳の機能を完全に狂わせている。
私はその臭気に思考力を麻痺させ、朦朧とした面持ちで立ちつくしていると、表の方からなにやら声がしていた。
聞き耳を立ってると、その声は昭雄の声である。
「うう、ううつ」
少しずつその声が大きくなってくる。重々しい部屋の扉が開くと、二匹の赤と蒼(あお)の羅卒に引かれた昭雄が現れた。羅卒の容貌はまるで干からびて、痩せ細った猿のようである。眼球は爛々と黄金色に輝き、口には鋭い二本の牙が剥き出しになっている。皮膚は魚の鱗の鎧を思わし、爪は鷹のそれである。
青い羅卒は猿の頭を持つ河童を思わせる。赤い羅卒は炎の中を身をくねらすオロチそのものである。
連れてこられたのは、昭雄であった。昭雄は口に轡を嵌められものが言えない。苦しそうに呻き、目には涙が溢れている。恐怖心が身体を包み、振るへを超えて硬直ている。
「どうししたんだ」
私の声も震えて、そう言うのがやっとであった。しかし、羅卒は無言である。鋭い生気さえも吸い取ってしまいそうな恐ろしげな目付きで私を睨みつける。
再び、私が「昭雄が何をしたんだ」と、質すと青鬼がくぐもった吠えるような声で怒鳴った。
「掟違反だ」
「だから、何をしたのかと聞いているのです」
「反抗は罪なのだ」
私はここの村役場が独善的で自由が疎外されていることぐらい、了解している。小さな村である。逆らえば村にいずらくなることを予測して、大抵のことは我慢している。しかし、それは現実的な方便である。覚悟を決めて戦うと決めれば、また事情は違う。
「我々にも自由はある」
鬼は無言だ。
「だからと言って、いたいけな子供に無謀でしょう」
「我々に子供も大人もない。上から言われたように、命令を履行するだけだ。穴倉行きだ」
呻き悶える昭雄を大きな鷲のような爪を持つ手で掴み、羅卒は昭雄を引きずっていった。
なんと言う事だ元はといえば、村自体に落ち度があり、昭雄は要求は正当性があるはずだ。手を引くのは村であるのに、その横暴な行為を誰も咎めることをしない。そう言う私さえもあの羅卒に無抵抗であるのだ。村人はそっと耳打ちをする「生贄は必要なのだ」と。
私は村人の言う意味は解っている。昭雄は村にとっては、よそ者なのである。昭雄は母親を早くから亡くし、今では男手一つで彼の父が育てている。昭雄の父は村の中学校の代用教員で、先生としては評判がよくない。都会から遣ってきて、中身のない自由だとか個人保護などと村人にとっては邪魔こそすれ、役に立たない空論を弄ぶ教師として村人には疎まれていた。
その不評な教師の息子もまた、屁理屈の多い異端の子供として、仲間はずれにされている。
今回も、村の会議で決まった規則はそれを実行することが正しい行為なのだが、あの決議は有効に機能しなかったので失効しており、村会議員や村長の思惑では、すでに終結していた。最もこの村では村長の権限が強力でそれだけに村長の意向は無視できない。いや絶対といってよかった。
「あの人に逆らってはいけない。神様みたいな人なのだから、あの人の言うことを聞いていれば間違いない。現に、間違いがなかったではないか」と信じて疑わない。
村長の系図はなにやら、太古の神様の系図で天皇さまをお生みなさった御祖であるさうだ、と村民は噂した。
村には村の掟があり、都会から汚れきった考えを持ち込んで、余計な屁理屈をさしはさむことは村を破壊に導くと、村の老人たちは言う。
現にかつて、村に恐慌が起こった時、国のお偉い様が遣ってきて、村の復興に取り組んだのだが、然してよくはならなかった。それを救ったのが村長で、規則を超えて、資材と村人の無償の行動を強制して、それを乗り切った。村人も村長の威厳と親からの言い伝えを信じて、むらの危機を乗り切った。その神話はそれからの村の行動を規制したのだ。













宮本は西日本と東日本の社会構造の特徴の一つとして「長子・末子の相続制の違い」を挙げている。末子相続は九州の南及び西の島々に強く現れ、四国・瀬戸内海地方に多く飛んで諏訪湖近辺に分布して、隠居分家は末子相続地帯とほぼ重なりつつ、伊豆の島々及び、単なる隠居分家制ならば、太平洋岸を福島県辺りまで見られるが、東北及び日本海側にはない。隠居分家や末子相続は東北・北陸に濃く見られる。特に、漁民に多い。漁民が暗に伝えたかもしれない。
それに対して、長子相続は東北・北陸に濃く、関東で発生した武家社会もこれであり、西日本でも源平戦後、鎌倉武士が守護地頭として下降し、定住し、かつ繁栄したところには長子相続制や本家を中心にした同族統合の強い村が見られる。
東日本では血縁的な結合は男系の集まりであり、その下に非血縁の下人の家がつく。譜代・被官・家末・カマド・名子・バッチなどと呼ぶ。本家を中心にして、本体その周辺の子方が集まって住んで、小さな集落をなしている者が多い。山間、山麓にはこうした風景をしばしば見かけると共に、それが同族的な結合の集落であることを知る。東日本にみられた中世武士の党的な結合はこうした集落がそのまま武力化したもの。
これに対して、西日本における血縁的な結合には、婚戚関係も男系と同様に含まれるばかりでなく、末子相続を隠居分家に伴って財産もほぼ同じように分けられることが多いため、本家が一番高い地位に付くことも少ない。似た勢力の者が集まって住む場合にお互いの結合を強めるためには合議が尊重されることになる。こういう結合様式を一揆と呼び、肥前地方に中世初頭以来、根を張って、大きな勢力を持った松浦一揆はその典型的なものであろう。その寄り合いの席や署名の順序は全てくじによって引いている。
上野原遺跡やかこいの原遺跡は1100年前の縄文時代の遺跡である。
丸のみ型石斧や石むし料理器が発見されている。丸のみ型石斧は手斧として、カヌ_のように木に彫り抜く道具また石むし料理はオセアニア民族がおこなっている。釈迦堂遺跡(長野県)から出た土偶は意図的に破壊されており「死体化生型神話」の範疇に入り、東南アジア、アメリカ大陸にも見られる神話形態である。

特に、上野原遺跡(鹿児島県・旧曽於郡周辺)からは弥生時代を思わせるような大型の見事な壺型土器が出土した。土偶や耳飾り、装身具、石斧、石皿など十万点をこえる。また、石を並べた「炉」が220基も現れて、九州の南部には縄文早期には高度の文化をもって定住した集落が存在した。
復習です。
鹿児島・宮崎には日向三代の神社があります。
祭神・ニニギ命は新田神社(鹿児島・川内市)祭神・ヒコホホデミ命は鹿児島神社(鹿児島・姶良郡)ウガヤフキアエズ命は鵜戸神社(宮崎・日南市)神武天皇は宮崎神社(宮崎・神宮市)です。
それに関連した神社にはオシオミミ命で英彦山神社(福岡)二ギハヤヒ命は高良大社(福岡)で共に北九州で祀られています。
私は日向三代を南九州系王朝と呼び、英彦山神社・高良大社に祭られた命を北九州系王朝と呼んでおます。
南九州系王朝は江南の神話・伝承・習俗の影響を受けています。曽於族(隼人各種族)と安曇族の混血が隼人の名の元に南九州系王朝を形成していたに違いありません。その首長がニニギ命・ヒコホホデミ命・ウガヤフキアエズ命・神武天皇でしょう。北九州系王朝は非常に複雑で朝鮮、江南、先住民族と融合しながら、どちらかと言うと朝鮮(百済・新羅)の影響が色こく出ているような気がします。
八世紀には明らかに北九州系王朝が大和で覇権を得ているのは周知の事実です。しかし、神話・伝承によれば、初期王朝は南九州系王朝が「記・紀」の記述のとうり江南の思想的影響下にある王朝が優位にあります。どこでその地位が逆転したのでしょう。
私のこれからの課題と言えます。

神武天皇は塩土の老爺の進言で東征するわけですが、まず大分県の宇佐へ行きます。「古事記」では宇佐津彦と宇佐津姫から足一謄宮(あしひとつあがりのみや)で饗応を受けています。足一謄宮とは川(海の浅瀬)に饗応室を建てて、丁度、能の舞台のような高床式舞台を造りそこで天皇を歓迎の饗宴を張ったのでしょう。<江南の海人族の住居形態を思わせます>これは宇佐の国主の服従儀礼で一説には宇佐津姫は天皇の随伴者である天種子命(中臣氏の祖)を娶わしたとされます。
後に宇佐は八幡神社を建立しています。そこには新羅色の強い信仰ができ(秦氏が伝えたとされます)、隼人征伐と深い関わりを持ちます。つまり、北九州系王朝の信仰の浸透が見られます。そして、宇佐神社は英彦山神社(ひこざんじんじゃ)や香春神社(かわらじんじゃ)との関係を持っており、南・北王朝との始めの接点となっているのです。

この秦氏は五世紀~六世紀前半ころ、伽耶、新羅から豊国へ渡来した人々は豊国の住民と共に、外来の技術(稲作、鍛冶<有力な武器の製造>、採鉱、養蚕、灌漑など)と道教信仰を持って七世紀末~八世紀初頭に日向に移住した。
このことは八世紀初頭に大隈地方に隼人征伐のために豊前国より渡来人が移住してきた史実と合致する。713年に大和朝廷が隼人征伐を行っている。旧桑原群(現・国分市)の曽於族(大隈隼人)を謀略の末、討伐している。その後、740年の藤原広嗣の乱まで騒乱は続くが曽於の君の寝が入りで終わりを告げる。
その後、秦氏は渡来人の齎した信仰と仏教との習合により六世紀末には「豊国法師」と呼ばれる法師集団を作ったと考えられる。

隼人征伐についての諸説があるが、一つはクグツに細男舞を舞わして、それを見に来た隼人を虐殺したとあります。(宇佐八幡宮の放生会に関する伝承)、渡来人の鼓吹幡旗の歌舞による祭事が九州土着民には珍しかったので、この歌舞を隼人の地で行ったところ、隠れていた隼人が出てきたので討伐したとの伝承もある。

ここに二つの文章があります。
一つは~「仁徳天皇の皇后は、磐媛でその父は葛城襲津彦(出身地は日向の襲の地・大隈地方)です」
他は~「ニニギ命の皇后は、神阿多鹿葦津媛でその父は大山祇命(出身地は日向の曽於・大隈地方)です」
磐媛も鹿葦津媛も、南九州の大隈の首長の娘である。この一致は単なる偶然だろうか。私は初期天皇の普系に於いて、天皇と南九州系原住種族の混血の結果を現していると思う。


2011.05.15 休題閑話
体質なのか、時折立ちくらみがする。胸が締付けられるようになり、頭がガラスになってしまったようになる。非常に脆く、空虚な気持ちで、感覚が無くなる。両脚が機能を果たさず、消失してしまったようだ。
すると、周りの雰囲気も脆く感じられた。ボオウと押し詰まって、僅かに光明が広がって薄明かりに包まれる。何かが崩れ落ちる様子が不気味だ。私が何気なく手を振ると、上から下へ一筋の線が出来て、まるで鋭利な刃物で切ったような傷が現われる。見る見るうちにそこはめくれ上がり、斬り開かれて大きくなって、向こうにはまだ見たことのない世界が現れた。
それは昨日、空想した願望の世界に違いなかった。
私はこちらからあちらへの門を潜り、あちらの世界へと侵入することになる。

私は午年なのです。燦々と降り注ぐ陽の光りを体に浴びて、青々とした草原を走り回る。すると、陽の光りに乗って、天女が降りてきます。午年の私は草原の泉のそばにある桑の樹に身を隠して、天女を眺めていた。天女は桑の樹に衣を架け、泉に入って沐浴を始めた。その美しさは絵もいわれず、私はうっとりとして眺めていた。
突如、私の中にその天女を独占したいといった欲望が沸き起こり、抑えようもなく、目の前にある衣を手に取り、泉の側にある小さな洞穴に隠して、蓋をしてしまった。天女は沐浴を終えて、桑の樹まで戻ったが、そこに衣がないことに気がつき、素肌のまま立ち尽くす。私はふと、通りかかったふりをして、その女のもとに進みでた。素肌の女はその体を隠しようもなく再び、泉へと戻るが、そんなことは何の解決にならない。私の魂胆は成就したわけで、私は着ていた長い上着を泉の縁へ置いて、女が上がってくるのを待った。
その内、天女も覚悟を決めたのだろう、その上着を纏って、私の後について来た。
考えられないことだが、私自身は普通の人だと、思っているのだが、実は他人から見ると、私は馬なのである。
それは私が女を率い連れて行く後を隣の男が認めて、不思議に思い、女をかどわかすしているのだと思い、男は私を斧で殺した。そして皮を剥ぎ、桑の樹に吊るしたのだ。男は絹を行商していて、旅に出て、女がその桑の樹の前に来た時、私は私の皮で女を包み、天上に舞い上がり、二人は一つの蚕になって、何時までも絹を作り続けた。

天上は青々と晴れ上がり、青山が巡り、美しい鳥の囀りと渓流の楚々とした囁き、岸の側に建てられた宮殿は黄金に彩られた広々とした部屋が立ち並んでいる。そこに一台の機織機が置かれ、私の妻が蚕から紡がれた絹糸を織り成していた。輝くように美しい天照大神は慈しみの眼差しで私の妻を眺めている。
絹が織り成す天衣は柔軟で内に込めた輝きを放ち、それを身に着ければ、若返ってしまうと言う。絹の天衣は時間を吸い取る霊力がある。羅祖やマソ神、おしら様さえ私の妻の末裔なのだ。
突如、荒あらしい男が斑馬の皮を私の妻が機(はた)を織っている処に投げ入れたのである。驚いた妻はヒでホトを突き黄泉の国へ旅立ってしまった。
妻を殺した犯人の名はスサノオである。彼はその外、稲作への妨害、灌漑施設の破壊、そして近親相姦などの罪を犯していた。スサノオは高天原の掟により裁判にかけられ、身分を剥奪されて、穢れ多い葦原中国へ追放された。
私はその裁きに納得できなかった。しかし、この地では雑民の誓ったへは許されていなかった。治外法権である。私はその裁きに納得が出来なかった。けれど、掟は犯すことは不可能なことなのである。雑民である私にはどうすることも出来ない。ゴマメニ歯軋り、行き場のない不満の滞り。心は行き場がのかった。
窮鼠は意識を昇華させる。馳せる意識は妻を追う。出雲は黄泉の入り口があると言う。私はその洞窟を潜る。中は燐緑色を帯び、押し殺した光りは点ると言うより、光り自体が内に巻き込まれると言った不気味な雰囲気が漂っていた。生ぬるい温もりと肌に纏わり着く湿り気は不快な極みであった。ふと、おろちの腸内が目に浮かぶ。
追われるような感覚で私は行く速度を速める。行き着く先は行き止まりと思われた。それは錯覚で行く手は急激に折れ行き、そこを曲がると、視界は俄かに啓(ひら)ける。
遠くに一筋の煙が揺らいで、青々とした山々が連なっていた。水田の規則正しい配列は見事な情景が描かれている。安らぎの村がそこには顕現していた。しかし、不思議なことにそこには、生気が感じられない。美しい情景が目には焼きつくと言うのに、あの煙が生活の気配が理解できると言うのに、生き物の気配がない。私は違和感を感じながら、その村に足を踏み入れた。
川の流れは目の前で直角に曲がり、橋が架かっている。私は橋を渡って、遠くに群れなす集落まで歩き始めた。水田は見事に手入れが行き届いていると言うのに、道には人の気配はなく、集落に近ずいても人に会うこともなかった。村に足を踏み入れたが、沈黙した家並みは静な音を発しているような感じがして、いくらか眩しげな明度の高い印象が情景を白色化している。死の村そのものの感覚が私を不安にさせる。村の一番はずれの家の戸を叩いたが人が出てくる気配がない。次の家も同様であった。ふと、一人の女がやって来る。私の妻に似たその女は直立した姿勢まま私に向かった。目には生気が表れていない。声の調子も少しばかり低めなのだ。動き始めもワンテンポずれる。よく解らないが、なにかが違った。妻に似ているが、他人の空似なのだろう。
「もし、一寸お聞きしたいのですが、大国ナミと言う人を訪ねているのですが、ご存知でしょうか」
私は女にそう聞いた。
暫らく、女は私の顔を眺めていたが、突如、走り出した。
驚いた私もそれにつられて、走りだしていた。普段なら、このような常識はずれな行動は行わないのである。しかし、ここにいるとそれが自然に現れ出るのである。
女はまるで、飛ぶように走る。私はその速度についていけななかったが、どうしてもその後を見失ってはならないのだった。
女は道筋を直角に曲がったと思うと、すぐに左側の家へ飛び込んだ。
その家は確かにS町の私の家であった。扉を開けると、いつものように妻が出迎えた。
「お帰りなさい」
普段の出迎えのように思えた。
「ああ」
と返す。
「どうします」
いつもの受け答えだ。
「飯は出来ているか」
そんな深い意味なぞない。言葉のやり取りと言ったものだ。
しかし、女はそこで口を噤む。妻なら、もし食事の準備が遅れていても、「出来てるわ」と答えるだろう。そうい言わなければ私が不機嫌になることを知っているからである。
「どうした」私は不満げに言う。
「、、、、、」
女はそれでも答えようとしない。
「どうしたのだ」
「ここでは食事の支度はできないのです」
「何故だ。ここは私の家だろう」
「ですが、、、、」
「なんだ」
「この家はあなたのものでも」
「ここの権利はあなたのものではありません」
「ええっ」
「この土地で作った作物はこの国の大王の許可がいります」
「金を出せば問題ないだろう」
「ではそのお金をお出し下さい」
「いいだろう」
と、私はズボンのポケットから財布を出して中をあけて見る。すると、財布の中にお札があるにはあるが、その札は黒くなっていて、札と判別が出来なかった。
「この国にはこの国の掟があります。大事なことはこの国で取れた食べ物で、それと交換するには掟によるのです」
「その掟とは」
「大王のお許しとか北斗七星と南十字星の診断が必要です」
「どう言うことだ」
「あなたの体を全部取り替えることです」
それは妻と同じ
身分、とまり死ぬことなのだろう。
「死ぬことか」
「そうなります」
「それは出来ない」
「では大王の許可がいります」
「許可を取ればいいだろう」
「それほど簡単なことではないのです」
「やって見てくれ、お前は私の妻だろう」
暫し、無言で私を見つめていたその女はふと、視線を上げた。
「難しいことですがやってみます。けれど、この部屋の向こうに私は行きますが、決してこの部屋の扉を開けて、向こうの部屋を見ないで下さい。約束出来ますか」
「ああ、それが決まりならそうするよ」
女は扉を次の間の扉を空ける時、私に「後ろを向いて下さい」と言い次の部屋に消えて行った。ふと流れてくる風は絵も言われない芳しい香りであった。
どの位の時間が経ったのだろうか。気がついてみれば、数時間は口に食べ物を入れていない。それをおもうと、一挙に空腹感が増してきた。
さらに、子一時間は経っただろうか、依然として、女は戻る気配を見せない。私の気持ちに焦燥感が芽生え、落ち着きのないいたたまれなさがやって来る。多少の発汗が見られ、手足が気だるいのが不快だ。
すると、なにやら女が最早、ここへ来ることがないのではないかと言った脅迫観念に捉われ、不安になるのだった。女との約束は思いださなかった訳ではなかったが、あれは都合のいい、姿を眩ます言い訳なのではないかと疑ってしまう。
そうなると、軽い自暴自棄の気持ちが訪れて、約束の意味は薄れ、無責任な気持ちにさせる。
「なんとかなるだろう」
私は次の間の扉のノブに手を掛けて押した。先程の良い香りとは異なった腐ったような臭いが鼻に付く。
暗い部屋はまるで洞窟である。手前は狭く、先に行くほど広くなっている。
ああ、そこに視た光景は醜悪なものであった。
洞窟の奥は仄かに火が点って見える。それはまるで縄文時代の土偶を思わせる人形(ひとがた)があった。。中腰で蹲踞し、頭には火炎を思わせる蛟(みずち)が天を目指している、からだ全体には渦巻き紋がしるされていた。下腹部からは淫水が流れ出ていて、まるで出産の最中を思わせる。その淫水が流れる下に女の腐食した死体が置かれ、雷(いかずち)が唸るような光を発していた。
私は恐怖感で足が竦み、後ろの部屋へと逃げ出した。すると、死んでいたはずの女はむっくりと起き出して、眼を輝かしながら「視たな」と恐ろしい声で叫びながら、私を追いかける。扉の向かうは田園が広がる村であるはずである。しかし、私の思惑とは異なり、そこもまた、光り苔の密生した沼地のような洞窟であった。点るような、消えるような頼りない燐光は私を竦ませる。後ろに鬼のような女が迫っていなければ私は座り込んでいただろうが、逃げなければ噛み殺されるといった恐怖感だけが、わたしを突き動かしていた。
「視たな」再び女は叫ぶ。私は逃げる。必死で逃なければ私はかみ殺されるのだ。咄嗟にポケットの小銭を投げる。さらに、整髪のための櫛をも投げつけた。櫛は一回転して、橘の木になり、鬼女の行く手を遮った。洞窟の出口まで辿り着き、洞窟の脇に生えている桃の木から桃の実を三つもぎ取り、鬼女に投げつけると、鬼女は一瞬たじろいた。その隙に私は洞窟の入り口を磐(いわ)で塞ぎ、表へ出た。
そこは私の部屋であった。台所の扉は閉じられている。居間と言おうか寝室と言おうか、そこの扉は開け放してあった。
私は布団の中で目を瞑る。薄明かりの部屋がゆっくり回っている。軽い眩暈が私に違和感をもたらし、昨日までの体験が色あせていて、明日が霞んで見透おしがつきにくい。まるで、卵の中のゲル状の曖昧な現実の中にいるようだ。
もうどうなっているのか解らなくなっている。このままでは、意識に支障をきたしそうである。寝なければ、ここは悪夢を忘れなければ、眠ることで禊をしなければ、明日がないようなきがしている。「寝なければ」「寝なければ」と自分に言い聞かせて、眠りについた。









(続く)







私はいつも物事の初め(始源)について拘りがある。初めにこそ物の本質が現れるからである。
西王母は「山海経」(せんがいきょう)の記述には、豹の尾と虎の歯を持ち、蓬髪(ほうはつ)に勝(かみかざり)を挿すと言っています。初期の西王母はイザナミ命のようにデモ二シュな荒魂(あらたま)を感じます。しかし、その中にあって「勝」には違和感を感じます。
どうして、「勝」(かみかざり)なのか。私は日本神話の中の「櫛」を思わざるをえません。「櫛」は「奇し」に通じ、霊奇なものの意である。しかし、私の解釈は少し違います。元々、日本古来から大樹は神木として神の衣り代としていた。もっと視覚的に表現すれば、天の神鳴り(雷)が大樹に落ちて、地表へと伝う様子を描いているのではないでしょううか。その神木を伐り、「櫛」にして髪に挿したのが「櫛」の本来の用途であったのでしょう。
そう言った思いが私の中にあって、西王母の「勝」(かみかざり)もまた、その類(たぐい)であろうと考えていたのです。しかし、「勝」の意味に「櫛」にある「奇し」に相当する意味を見ることができませんでした。

西王母と言えば、西を司る女神です。西は陽が沈む処で、その下には黄泉の国を従えています。陽は一反、黄泉に行き、再び東より蘇えります。西王母が不老不死の「仙桃」を管理するのはさう言う意味があるのです。西王母が再生神なのはその意味なのですが、まだ「勝」の意味とは関わりが見つかりません。
「勝」との糸口は意外なところから見つかりました。
六朝代に「漢武別国洞冥記」と言う本があります。そこからの引用です。
<東方朔は元封年間に、涛鴻(混沌の意)の沢に遊んだ。ふと、西王母が白海の岸辺で、桑を摘んでいた。そこへ黄老(天帝か)が現れ、阿母(西王母)を指して、東方朔に告げた。王母は私の妻であったと、すると、王母は身体を仮に託して太白(金星)の精となった>
西王母の「桑を摘む」と言う故事は、初期王朝の一月初めの神事、皇女の「桑摘み」の行事と連なります。
桑は蚕の食餌です。また、、蚕は再生の象徴でもあるのです。その蚕の糸で紡ぐ絹の衣こそは、「天の羽衣」なのでしょう。そして、聖衣を紡ぐ聖機こそ機織(はたおり)の機であります。その機の一部分が「勝」と言われるものです。「勝」は聖機の象徴として、また、再生の象徴として西王母の髪にさされることになったと言います。多分、不老不死の「仙桃」はその故事に関われを持っていたのは間違いないでしょう。

西王母については日本の神話と類似する処が多い。
例えば、黄帝と「しいう」との<琢鹿(たくろく)の争い>では劣勢の黄帝の天への要請で、西王母は女神・魃(ばつ)を降臨させ、戦いに勝利します。これは神武天皇が長髄彦(ながすねひこ)に負けそうになった時、天照大神は「ふつ」の御霊(刀の神)を降臨させ、長髄彦に勝ちます。又、天照大神は機織の巫女に機(はた)を織らしています。西王母もまた、機に関係しています。
初期の西王母はイザナミ命に似るし、天照大神の要素も数多くあります。
中国の神話と日本の神話は共通項が多いのが目に付きます。

三羽の青い鳥は体は青く、頭が赤く、瞳は黒い、飛翔は強く三危山二住む。青い鳥が餌を西王母に運んで後、散らかった残片を神鳥がやって来て、処理をする。

西王母は西方の戎族が出自だと言われている。
西王母は月と関わりがあると言われている(月は西、太陽は東である)
「楚辞」(天問篇)
<月はいかなる徳があって、死んでもまた、生きかえるであろう>

朝鮮半島から対馬間は約60キロ米っである。丸木舟で時速3キロ米ほどで航行すれば、20時間程で朝鮮から対馬へ着く。当然、風向きの順風を選ぶはずで、比較的楽に航行できたはずである。
丸木舟を櫂(かい)で漕げば、潮の流れが要(かなめ)となる。海の流れは海流と潮流があり、海流は黒潮のようにほぼ一定の方向に流れるが、潮流は潮の干満に左右されるため、約6時間ごとに流れの方向が変わる。潮の流れを利用すれば、無難に航行することができることを意味する。
但し、海峡を横断する航海では、横に流されて、潮流を利用することができない。広い海峡を横断するのであれば、少々流されても、そのうち、流れが逆に流れるからあまり重大な影響を受けることはない。とは言え、対馬付近では漕ぐ速度を越える5・6キロ米ぐらいの潮流の知識があっても、そう容易(たやす)く航海は出来なかったであろう。
これに対して、海流は一定の方向に流れに乗っているうちは楽だが、陸に近ずくと、流れの速度が違うため、潮流とぶつかり、それなりの工夫が必要であった。(因みに、日本海周辺の海流は、太平洋側に比べれば、遥かに遅い)
古代の丸木舟による航行は、それなりに体験にやる技術的な経験が裏打ちされていて、天候や星への配慮もあって、知識も深く、様々な創意工夫がなされていたのは現代人より正確で精度の高いものであったろう。
日本南岸を流れる黒潮の流速は3・7~5・6キロ米で最高9キロ米を示したこともあった。これは丸木舟で西から東へ航行するのは大変なことであったろう。
しかし、日本海側は海流も潮流も弱く、夏には風の弱化するので、丸木舟での航行は黒潮のそれよりは比較的、楽であったはずである。
このことは縄文時代においては、日本海の交易の方が盛んであった証左であろう。
一方、黒潮の影響がある太平洋側の航行は船の改良が進み、大型化や帆船の利用が行われるようになってからかもしれない。
ただ、伊豆諸島の八丈島・倉輪・湯浜遺跡に、縄文時代に入って、島に航行しているのが解明されると、縄文人の航海技術もかなり秀れたものと言えるかもしれない。
八丈島は隣の御蔵島(みくらしま)へは80キロ米程、南にあり、そこへ行くには黒潮本流を遡らなければならない。その航海力は並み大抵なことではない。私達の想像力を超える工夫や仕掛けがなければ出来ることではない。大型船の能力に勝るとも劣らない技術力である。
勿論、潮の流れに逆行できる大型船の建造は中国・春秋時代(BC770~403年)頃になります。当時、各国は勢力を誇示するため、軍船の建造に力を注いでいます。
例えば、「呉」は<小翼、中翼、大翼>を持ち、<大翼>は長さ27・6米、幅3・6米の大型船であった。<大翼>には兵士26人、棹手50人、船舵3にん、上官4人、官吏2人、船長1人等を乗せている。
更に大型ののは「越」の<ほこ船>で、2~300人を乗せ、山東半島には8000人を300艘の船で派遣している。
因みに、「秦」では始皇帝が徐福に命じて、男女・3000人を乗せて神仙の国へ航行して行った、と言う。これは単なる伝承で、多少誇張した表現ではあるが、強ち(あながち)嘘とも言えないであろう。
私はニニギ命の笠沙渡来伝承の根拠を春秋時代の航行技術に依拠していると考えている。
隣接の朝鮮半島と北九州の交易もさることながら、中国・江南との交流もその真実を語っているような気がする。「呉・越・秦」の大型船の渡来は全く空想の産物ではないであろう。

「史記」(淮南衡山列伝)から
<昔、秦先王の道を絶ち、(中略)、徐福をして、海に入りて、神異の物を求めしむ「(中略)「秦皇帝、大いに説(よろこ)び、振男女3000人を遣わし、之に五穀種、百工を資して行かしむ」
「虜山記」より
<徐福の二番隊には、総勢554人(医師、農業人、鋳物師、酒造職人、大工、石工、紙工、製塩・製油の専門家など)が85隻の船に分乗した>と述べている。


「琢鹿の争い」BC2000年代末期頃、繁栄していた良渚遺跡は突然に崩壊した。そこには三苗族の領域で、多民族連合国家で多彩の農業技術と高度の灌漑技術は相当の経済力を有していた。その裏付けとなる青銅器文化は豊富な農機具や多彩な食器が証明している。
当然、その国情を守る軍事力も充実し、都市構想も緻密で城壁技術は高い能力が窺われ、連合国の繁栄を確実なものにしていた。
伝承によれば、そこを支配していたのは三苗族の「しゆう」と言う首長であったと言う。「しゆう」の権力は偉大で、神話によれば81人の兄弟と雨師と風師それに魑魅魍魎(飛びぬけた能力を持つ軍人や呪者のことか?)を率いていたと言う。
しかし、BC2000年に彼等が住んでいた長江中・下流に大洪水が見舞います。勿論、北の黄河流域にも津波は押し寄せたに違いないのですが、比較的に被害は少なく、下流域に留まっています。そこで三苗族連合軍は黄帝の支配領域である黄河中流域へ移動します。
「琢鹿の争い」はこうして勃発します。
これも神話によりますと、初め三苗軍は優れた軍事力で(81人の兄弟は金属精錬技術に富み高度の武器を扱っていたと言います)と優秀な軍事参謀は黄帝軍を圧倒します。そこで黄帝は天の西王母に助けを求めます。西王母は部下の女神・魃(ばつ)を降臨させ、三苗族に対します。魃女神の助力で黄帝軍は勢いを得て、遂には三苗軍を破ります。「しゆう」は殺され、苗族は一部は山岳地帯に逃げ、他は長江中流域の洞庭湖周辺に定住します。これは、私の仮説ですが、江南の倭族の中核となっているのは苗族の移動に依拠しているのではないかと推測したいます。「百越」の源流は苗族と江南原住民との混血の可能性は大きいと思っています。

苗族は太祖・盤古の末と称し、貴族の死者を葬う葬礼を歌う者として、古くは「南」や「南人」と言った。「南」とはもとは楽器(青銅の鼓)のことである。
2011.05.10 扶桑について
「扶桑」とは日本の別称です。この言葉には「蜀」が関わっていて、太陽信仰(太陽柱)が根底にあり、稲の豊穣を願う理想郷のことであろう。
ここでも、江南の故事が日本との関わりを持っていた。

「蜀」は日照時間が少なく「蜀犬吠日」と言う諺があるように(太陽を見て、犬が吠える。これは日照時間が少ないため、日の光りに驚いて、犬が吠えたと、言う諺)蚕叢の国・蜀は「太陽柱」(日の出入りの際、湧き起こる自然現象のこと)を崇高なものと崇めた。それが「蜀」の蚕叢信仰と重なって、「扶桑」の概念を生み出した。太陽信仰の極みである。そのことが日本との関係で「扶桑」が成り立ったのは江南と日本列島と濃厚な精神的関係があるからではないだろうか。
手前味噌ではあるがここでも、私の江南と南九州の繋がりがあったことの証のような気がする。
2011.05.10 初心に帰って
私は大きな流れとして「倭」を設定し、苗族をその支柱に据え百越を生み、派生して呉越に行き、江南の倭、朝鮮半島南部の倭、南北九州の倭、さらに東南アジアを含めて倭の種族の領域と考えた。
江南の倭族は黒潮の流れに乗って、北九州に着いて現住民族と融合したのが安曇族、南九州に渡来し隼人(曽於族とした方が正しいのかもしれない)と混血したのが隼人(安曇系隼人族)と理解し、その仮説に則り古代の歴史を進行してきました。
大筋でこの仮説に間違いはないと思っています。しかし、以前にも申しましたように、南九州に渡来した王族の伝承から安曇氏の軌跡が消えます。
「記・紀」の神話、天孫降臨は日向の襲(曽・そ)からニニギ命は野間半島の笠沙で神阿田鹿葦津姫と遇い、血縁を結びます。この神話から、私は江南(呉の貴人と仮説します)の安曇族の長と阿多族(記・紀では大山祇神は神田鹿葦津姫の父親としている)の姫・彦政治集団であると言って差し支えないと思っています。日向三代を経て、神武東征となるのはご存知の通りです。私はこれを南九州王朝となずけました。この日向三代と安曇氏(隼人系)の論拠の文献が見つかりません。ここで足踏みしております。残念ですが地道に進行させるより仕方がないでしょう。


勿論、北九州に朝鮮から渡来した倭族が地元の先住民と融合して北九州王朝を築き、大和へ進出して一つの大きな勢力を持ったのも事実でしょう。現に七・八世紀には天智天皇から聖武天皇までは規制の事実なのです。
ただ、七世紀までに南九州王朝とどのようにして交代したかの合理的な説明は未だなされていないのも事実ですこの解明もまた必要だと思われます。
チベットについて、調べていると三星堆遺跡に出くわした。そこで思いついた事を述べてみたい。
古代蜀に「蜀犬、日に吠える」と言う諺があります。
蜀は太陽が滅多に照らないので、陽が顔を出すと、犬が驚いて陽に向かって吠えると言う諺なのです。これは蜀の人の太陽に対する強い崇拝の念を表したものです。
日の出入りに伴って現れる「太陽柱」が「扶桑」と言う想像上の「太陽樹」の誕生の契機となり、「扶桑」と言う信仰形態を生みでしたといえます。
私は日本の象徴的な言葉である「扶桑の国」が理解できませんでした。なぜ桑が日本と関係があるのか解らなかったのです。しかし、三星堆の諺を知って、太陽信仰が根底にあり、稲の豊穣の理想郷が扶桑と知れると、はたと膝を打つことになったのです。
また、扶桑を媒介として、古代蜀が精神的に繋がっていた可能性も考えられるのはもう一つの驚きでもありました。
蜀は長江上流域の国で、金沙江(長江流域)と言いチベットと繋がっているのです。そういえば古代蜀「叢
」(さんそう)の風貌は隼人にも似ています。それは明らかに南方の先住民の風貌で目が大きく飛び出ているように見え、鼻は鉤鼻でまた大きい。(三星堆の彫像は明らかに芸術的な誇張が施されていますが。)ふと、私は縄文の土偶や土器に見る容貌を思い出しました。それは呪術的で宗教さえも感じます。
北方の中国民族に見られる聖人君子的な厳とした威厳は感じられませんが、自由闊達な発想は感じられます。
三星堆文化の特徴は養蚕と稲作、金属技術の優秀さと自由で独特な宗教感覚にあります。それらの発想には呪術的なダイナミズムを感じさせます。
長江と言う血液は上流から中流、下流と多少の変貌を添えながらも、大きな心のうねりとなりながら、東シナ海へ流れて黒潮と合流して、日本列島へと運びます。
私は東北の「おしら様」の<蚕伝説>が全く古代蜀の<それ>と似ているのに違和感がありましたが、「扶桑神話」に遇ってから納得がいくように思います。伝承の根はこんなところにあったとは意外といえば意外です。
チベットと長江上流は金沙江を接点として、様々な共通点が見られる。「天孫降臨神話」や青銅器の使用、呪術の存在や朱に塗られた土器の発見等は日本列島の縄文時代から古墳時代にかけての状況と良く似ている。
チベットもまた、倭族の領域なのであろう。
話は少し外れるが平成9年、私は東京国立博物館で土偶展を見た時、土偶について二・三の新しい事実を発見しました。土偶の座り出産、顔の入墨、そして顔に朱を塗っていたことであった。
今、チベットの古代の出土品に二・三の類似点を見る時、特に「朱」が使用されていたことに絵もいえぬ印象を禁じえない。
「朱」は火であり、太陽の象徴でもある。それは邪気を祓う霊気を包含して古代人の潜在能力を刺激したに違いない。私も土偶展で「朱」が心の中に留まったのはそんな意識があったのではないかと思われる。
「朱」についての知識もまた必要なのだろうか。好奇心は次から次へとやてきって留まるところを知らない。何処かで楔を打って、決断するのも、また大事な要素なのだろう。
降臨伝説
最初の伝説的な王・二ャティ・ツェンボを初め、初代の王たちはいずれも「天孫降臨」する。天から地上に降り、死後には綱一本で昇天した,と言う。

「蜀王之山」とも言われるチベット東端は標高755米の貢喚山を頂点に、東北方向援断山脈が走り、、長江(金沙江)とガロ江が渓谷を駆け抜けて、南に流れる。

4000年前キチュ川渓谷では(チベット文明の心臓部と言われる)、青銅器が鏃(ぞく)が出土している。この胴と錫の配合は適切で高度の技術がみられる。我々が考えている以上の文明の高さがあったと考えられている。

墓には朱で赤く塗られた土器や石器などが副葬品として多く入れられ、又、鳥の頭や猿のお面と言う呪術的な土器も良くみられる。(4000年前にチベット的思想の源流がチュコンの農業社会に芽生えているとも言える)

鳥は定住農業社会にとって、季節の変化を知らせる神的な存在であり、猿はチベットの創世神話の中に「猿が人間に変わる」と説き、4000年前にチベット的思想の源流がチュコンの農業社会にあったとも言える。

ティデ・ソンツェン(777~815年)の墓碑がある。もう一つ、ムジェ渓谷のチベット王稜区内に一対の石の獅子像と二つの墓碑がある。
それらは一説に唐王朝からの影響との説と、チベット伝説にある天地を繋ぐ「神話」から来たとする説もある。石獅子はペルシャ芸術の影響も見られ、石墓碑に彫刻されている一部の動物などのような内容は古代インドの色彩も濃いように思われます。(チベット土着宗教<ボン教>の色合いも見られる、、、自然界における陰陽の転換と生命を育む力に対する尊敬の念を表す)
太湖流域の馬家浜(ばかひん)遺跡(BC4000~3000年)からは稲や野生葛・麻の中国最古と言われる織物が出土します。そして、その後に現れたのが上海などに広がった新石器文化の良渚遺跡(BC3200~2200年)です。水稲耕作を行っていて、用具としては、鋤(すき)石包丁、石鎌、石はん、等多種多様な農具が含まれている。そして、彩文(さいもん)化したもの、美しい線刻文(せんこくもん)や透かし文様が施された土器は灰黒色で鼎(てい)壺(こ)、甕、杯、瓶、盤<大皿>、蒸し器、大臼を含め食生活の多様化が窺われる。
長い時間をかけて、使用目的に合わせて、精巧で効率の良い道具を仕上げているのは、それだけ豊かな稲作農業が行われていることになり、それに派生した手工業もまた分業化も進んでいることも理解できる。
当然、灌漑は工夫を凝らされており、水の処理にたけた良渚人(私は苗族だとおもっている)
は優れた灌漑技術を持っていた。それは又、築城技術に及んでいるのは言うまでもない。
良渚文明は巨大な基壇を造り、その周囲防御の環濠や柵、護壁を巡らした。「品」の字形に並ぶ基壇の上には、木造骨組みと煉瓦の壁の宮殿・神殿が聳え立ち、その屋根や柱は朱色や黒に色どられて入る。
これらは良渚文明が豊かな稲作による経済力と成熟度の高い宗教信仰が高度の首都計画を支えているが解る。
私は徐朝龍氏が指摘しているように、良渚文明が創り出した三つの神器、玉璧、玉宗(へんに王をつくる)、玉エツ、にみる複雑な思想表現は絵文字とも文字の源とも思われる。
それだけ、良渚文明と言うものは優れた文化を内臓した国家だと思われる。
諏訪春雄さんの「倭族と古代日本」からの叙述を基に披瀝をしたいと思います。
河姆渡遺跡は紀元前5000~3500年にせっ江省ヨチョウ県河姆村に臨む高台にあろいます。地層は四次にわたり、第一・二層は馬家浜(ばかひん)文化で、第三・四層は河姆渡文化です。

以前、稲の栽培はインド・アッサムと雲南高原から出た野生稲の発見と3・4000年前に見つかった栽培種が最古のものだとされていました。しかし、河姆渡はそれより古く、7000年前のものとされ、ジャポニカとインデイオ米の両種類が出土されました。それは日本との関係から見ますと、日本の稲の栽培種121品種の持つ遺伝子が河姆渡遺跡からでた野生稲との一到していることが明らかにされています。
米と共に、牛や鹿の骨の肩と加工された鋤(すき)も出土し、家畜としての犬や豚を飼っていたこともわかっています。
家は高床式で、土器の模様は幾何学、稲穂、豚などが描かれています。また、太陽を二羽の鳥が運ぶ絵を描いた象牙板や漆等も見られます。
これらは日本列島との関連が窺われ、非常に興味ある事実でもあります。
2011.05.06 苗について
長江流域の遺跡と苗族

苗族については、良渚遺跡が関わっています。この遺跡は河姆渡(かぼと)遺跡、馬家浜(ばかひん)遺跡
良渚(りょうしょ)遺跡、馬橋(ばきょう)遺跡が一連の関係を持っています。次回から、順に各遺跡を調べてゆきたいと思います。
2011.05.05 苗族
4000年前には、現在の湖北、湖南、江西などの地は巴の苗族が占領していた。その苗族は三苗族とも言われ、長江中・下流域を支配する多民族国家であった。三苗国の首長は「しゆう」と言い金属器を操る81人の兄弟と雨師や風師、更に魑魅魍魎(ちみもうりょう)を従えて江南の地に君臨していた。彼らは灌漑や兵器製造、築城の技術に長けていたと言われている。
BC2000年に大洪水により滅した良渚文明(BC3200~2200年)は三苗族の領域だった。洪水によりその地をたたみ、黄河中流域に移動する。しかし、そこには黄帝が率いる王国があり、両者は激突してしまう。
はじめの内は経済力や軍事力に優れた三苗族が優勢で黄帝軍は徐じょに敗退してゆく。そこで黄帝は天の西王母に助けを求める。西王母は部下の魃と言う女神を降臨させ、雨師を使った三苗族を魃が破り、それが契機になり、黄帝軍が優位に立ち、遂に「しゆう」を殺す。(これは神武東征での天照大神の説話と似ている)
三苗族は敗退し、その一部は山岳地帯に、一部は洞庭湖周辺に後退し、その勢力を弱めてゆく。
これは「しゆう」と黄帝の「琢鹿の争い」と言う神話にすぎないが、太古において長江流域を苗族が占有していたことを表していることが解る。


西王母についての「山海経(海内北経)」
「蛇巫(じゃふ)の山は、上に人有り、杯(ほう)を操(と)りて東向して立つ。一に曰、亀山と西王母は几(き・ひじかけ)梯(よ)りて、勝(かみかざり)・杖を戴(いただ)く。其の南に三青南有(あ)り、西王母のために食(し)を取る。崑崙の虚の北に在り、人有り、大行伯と曰う。カ(ほこ)を把(と)る。」


「漢武故事」「漢武絶世」(220~589)では西王母は少し変貌をとげる。仙女化する。
<年は30歳><容貌は秀麗>と記し「不老の薬」は「仙桃」に変わり、「三羽の青鳥」は「薫双成、王子登等の天真爛漫な侍女に変化してくる。(唐代)これは道教の影響であろう。
私は西王母は縄文の地母神やイザナミ女神に共通項が多く、根元では同じだと思っている。その点から言うと唐代の西王母より「山海経(せんがいきょう)」の方にその実像があるような気がする。

西王母は「西」つまり陽の沈む所、黄泉の女神の印象が強く。「ばん桃」は不老長寿の果実であり、創生の神でもあります。そして、醜悪な風貌は(豹の尾、虎の歯そして蓬髪にして勝<かみかざり>を差し、青鳥を従えている)縄文土偶の風貌のようにデモッティシュな性格と一到する。
イザナミや西王母も地母神で括れるような気がします。



私は少し、安曇氏から離れて、その原郷の呉と越の成り立ちと時代的背景を考えてみたいと思います。諏訪春雄さんと言う人の著作を中心にそれを述べてみたいと思います。「呂氏春秋」「漢書」(顔師古注)等によりますと、「百越」として、越人が現れます。
「漢書」には「交址(べトナム)から会稽(かいけい)に到る八千里の間に、百越が入り交って棲み、それぞれに違った姓を持っていた」と述べています。
会稽には中国東南部・長江南側の地に広がって越人は居住していた。
「周礼」「逸周書」「路史」等の古文書には、百越は於越(おえつ)、南越、句呉、駱越(ろうえつ)蛮楊(ばんよう)欧人(おうじん)目深(もくじん)夜郎(やろう)と呼ばれる種族がいた。(そして、朝鮮半島の南部や日本列島の倭族もこの越人である可能性が高い)
百越の民は新石器時代晩期(BC5000年)からそれぞれの地に土着していたと言われている。(壮族通史・広西主出版)しかし、中国に商や周王朝が出来ると、その勢力圏に取り込まれて行き、春秋時代を経て、秦や漢の統一国家が台頭すると、百越の民もその支配下に入って行く。
そして、その一部は台湾や朝鮮、日本列島へ渡った可能性はある。しかし、BC八世紀に犬儒(けんじゅ)の侵入を受けた西周が滅んで、春秋時代には呉・越が台頭してくる。
呉越は共に古代越人が建てた国だと言ている。
越は今の紹興の地を勢力圏に持つ於越(おえつ)がBC七世紀に建国しています。
呉は句呉(くご)が建国したとされ、その祖は周から亡命した太伯だと言われています。
太伯は周の古公たん父(ぼ)王の長男だが、王が三男の李歴を皇太子にする意を汲み、暗殺を恐れて、次男の仲擁(ちゅうよう)を連れて、句呉に逃れ、文身・断髪して句呉に永住したと言う。
呉はBC743年に越に滅ぼされ、人々は朝鮮半島や日本列島へと亡命したと思われます。「晋書」や「梁書」(りょうしょ)によれば、中国に朝貢した日本の倭人が自らを太伯の孫と言い、室町時代の禅僧・中厳円月が「日本紀」の中で神武天皇は呉の泰伯(たいはく)の子孫と語っているのも、呉の渡来があったとの証明であろう。
BC334年には越も楚に滅ぼされ、朝鮮た日本へと亡命したのも考えられることである。
私はここで滝川政郎の説の真憑性が確認」されたような気がする。


ここで、私は愚論を述べてみたい。
私は古代史に執着してから二年ほどしか学んでいません。ですから、読み落としていることは十分考えられますが、今まで学んだ中では江南の中の「越」について疑問を投げかけられた人はおられなかったようにおもいます。
私は漢字における言霊を信じております。
その伝(でん・つてえ)でゆきますと、「越」は<馬に乗って、斧を振るう様>と言います。又、越人は自らを僕莱(僕はサんズイが入ります)と名乗り、それは神の僕(しもべ)の畑作農民の意味にとれます。いずれにせよ、それらは江南流域の水稲・漁労民族にはそぐわない文字だと思います。どちらかと言うと、黄河流域の畑作・狩猟民族の臭いがします。
「越人」は黄河流域から長江流域へ移動して先住民族と混血したのではないでしょうか。むしろ、私には「呉」のほうが江南の臭いがします。
仮説ではありますが、「百越」の祖は苗族ではないかと推察します。越人は北方より長江流域に移動して、先住民である苗族と混血し、支配的だったのが、越人だったので「越」の名称が残ったとするのが自然だと思います。
何やら安曇族と隼人の関係に似ていると言えば似ているような気がします。




中々、風邪が良くなりません。しかし、咳で困っているなかでも、隼人と安曇のことが気になって仕方がないので、メモをとっているうちかきたくなって、器械に向かってしまいました。

私は安曇海人族説にこだわっています。安曇氏の祖は綿津見神でその祭神は安曇磯良です。

以前、私は滝川政次郎の江南海人説を支持し、隼人の南九州説を訂正しました。安曇磯良は北九州の対馬・志香島に祀られた安曇氏本貫の神です。それは安曇氏が北九州所属の海人族のような印象を受けます。
そして、南九州に渡来した安曇族が(私の仮説ですが)、隼人に吸収されたことにより、事実上、消えてしまったこともあり、北九州に在住した安曇氏だけが残ってしまうことになってしまったのです。

私は隼人と安曇氏の同族性はその基本的な性質から、安曇氏は隼人との結合によって隠れてしまったと推察しています。(何度も言いますが、その証明が暗中模索です)

磯良が八幡愚童訓にあるように、海中の呪術者(または精霊)であり俳優(わざおぎ、ここでは細男舞の舞手)であること。また、隼人が狗の遠吠えの呪術者で日本書紀に見るホスセリ命の末裔で彦火火出見命(山幸彦)に従属し、弟の山幸に俳優(わざおぎ)として仕える逸話は、基本的には呪者と俳優の一致を見ます。
更に、安曇氏が初期の天皇に膳手(かしわで)として、食事とその後の宴会を取り仕切っていることも隼人と安曇の関わりを思わせる要因になると思います。

膳手(かしわで)とは、縄文時代には柏の葉を皿の代わりにしていたことから名ずけられたと言う。ここにも歴史の継続性が現れている。

昨日、「曽於」について、調べていた時、「みずち」と言う文字に行き当たる。曽於の地、上野原遺跡に出土した縄文土器に蛇の文様があったので、「蛇」について調べてみた。蛇のことを「みずち」と言い、水辺に棲む聖なる動物に与えらた名称である。「ち」とは古語では生命の源のことを言う。「ちち」とは母乳のことを言い、つまり「血」のことである。
元々、「みずち」は生命の再生としての象徴として、縄文期には、土器の文様とか土偶の髪、地母神の髪を蛇に見立てて造り上げたりしてある。
地母神の「地」は「ち」であり、生命の根源である「血」に繋がる命を生み出す大地(母)なのであろう。
そう言えば、イザナミ(女神)が黄泉の国へ降り、その国の食べ物を口に入れたので、葦原中の国へ帰れないと述べる一節があります。土地は人間が生きてゆくために食べ物を育む所で、それもまた、「ち」と関わるところであろう。
「ち」は「血」であり「地」でもあると言うことなのです。古代史に表れる「ち」と言う文字に関わる深い意味はよく目を凝らしていなければ見過ごしてしまいます。

心して読みとらなくてはなりません。

因みに、古代語で「つむ」は船を意味します。安曇の「あずむ」は「つむ」です。安曇氏の祖先は綿津見神(わたつみのかみ)の子・宇津志金析日命(うつしかなさくひのみこと)と言い、「綿津見」の「わた」は海、「つみ」は「つむ」・船のことで海神又、「金析」の「かなさく」は金属神、つまり「山神」のことです。安曇氏は金属技術を持った海人族と言うことです。
余談ですが、「記・紀」はこの「海と山」の合成神が多いいのです。ニニギ命の皇后・神阿田鹿葦津姫(かむあたかしつしひめ)の父は大山祇命(おおやまつみのみこと)で「山」と「つみ・船」の合成神です。又、「海幸・山幸」も海と山の物語です。基本的に「紀・紀」神話は山と海の対の神話なのです。


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