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私の母方の姓は菊池と言い、その発祥について、少し考えてみようと思います。
日本人は古来からの習性で、語呂遊びが身についています。漢字には音と訓があり、文字を持たなかった原日本人は音を頼りに生活をしてきたはずです。万葉仮名はその終着点でしょう。
そういう発想から、菊池の本来持つ意味を考えてみるようと思ます。
多分、菊池はククチであろうと思われます。古事記・日本書紀「記・紀」の中から「ククチ」に纏(まつ)わる言葉を見てみると、意外に少なく、菊里姫(ククりヒメ)と木の神・久久能智(ククノチ)が見られます。
古代語では、一説にククは葦を意味し、葦には呪術的な言霊を持ちます。その意味は尽きせぬ生命力や脅威的な創生力を表わします。
また、「チ」には「霊」を充て、これも神秘的な霊力を表わすのです。
菊里姫は白山神社の祭神でインドの生死を司るカリイや縄文の土偶に表れる悪魔的な生命力、つまり地母神にその原型を見るような気がします。
菊里姫はイザナギ(夫)が黄泉国(よみのくに)へ行ったイザナミ(妻)と泉平坂(よもつひらさか)で争った時、泉守道者(よもつもりみちもの・黄泉国に通ずる道の番人)とその争いを止めさせる役目を担っています。明らかに、菊里姫(ククりヒメ)には呪術的な本性を見ることができます。
一方、久久能智(ククノチ)には、古代に於ける天と地の伝道者である神木としての依り代を思わせ、神木の持つ、くみ尽きぬ生命力の神秘を感じさせます。
ここまで考えますと、「菊池」の意味は、生死を司る呪術者の印象を私に与えるのです。「ククチヒコ」は肥後が発祥と言われていますが、元より九州土着の呪術者か大陸からやって来た呪者的な種族が原型ではなかったかと考えられます。仮説ではありますが、私は九州先住の呪術者、縄文から根ずいた呪術者がその始原であったと想定する方を選びたいと思います。
すると、菊里姫などはとりわけ、卑弥呼やイザナミ、後の神功皇后や巫女、保食神(うけもちのかみ)、山姥に繋がる原型が菊池(ククチ)に見られると言うことが判明するのです。
これは私が考えた仮説ではありますが、そう大きな誤りはないと思います。
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呉越について、調べているうち、ハンレイと言う人物に興味を持ちました。越の王・勾践が呉に敗れ、その配下であるハンレイはそれを再生させ成功させますが、平時の時の勾践に疎まれ、全財産を部下に分けて、斉に去り、斉でも事件に巻き込まれ、また全財産を投げ打ち、逃亡してその地でも、再度、商人として成功する。私はハンレイの三度に渡る成功に脅威の感を禁じえなかった。
彼は名参謀でもあり、諜報機関の優れた行使者でもあった。囚人の中からその内容を吟味して、諜報員としての適正を見抜く能力が並大抵ではなく、それらのスパイを各地に派遣して、正確な情報を収集していた。(その中に呉の王・夫差の妾・西施がいます。彼女もハンレイが越から呉に送ったスパイです)それによって、正確な判断の元に確実な方法を積み重ね、多くの人が欲している状況を見事に着き当てた天才であろう。
今、塚本青史の「呉越舷舷」を読み、その詳細を知ることによって、ハンレイが単に天才であったのに加え、並大抵の努力があったことを知って、一入の関心を抱いたのである。
多分、ハンレイが行った方法は全ての事柄に通じると思います。私もまた、遅ればせながらハンレイに続こうと思います。
2011.06.21 神武東征再考
南九州に於ける安曇族と隼人の関わりにゆきずまり、その検証を棚に上げ、先へ行こうと思う。
神武一行は日向をでると、先ず宇佐へ寄る。
「記・紀」では非常に簡単に宇佐津彦と宇佐津姫による歓待を足一騰(あしひとつあがり)宮で受けている。そして、服従の証として、天種子命と宇佐津姫を血縁させている。「記・紀」の記述はそれがけである。
しかし、後に宇佐は宇佐八幡宮を中心に隼人征討、神功皇后の三韓征伐、道鏡事件、豊国かんなぎ、聖武天皇への金や銅の奉献など大和朝廷との関わりは重要な事件が多い。
「紀・紀」の編者は当然、それを勘案に入れて、神武東征の初めとしたのであろう。私は「記・紀」が創作の書とされているのを認めるわけではないが、この「記・紀」の編者達の見識の深さ、広さに感嘆の念を感じざるを得ない。神武が創作の産物であると仮定しても、その裏けは史実の反映と見て間違いはないと思う。
次に神武一行は潮の流れに逆らっても、岡湊へと一年滞在する。岡湊は遠賀川河口に位置し、古代北九州の要ともなる地域である。朝鮮半島との関わりが多い所であり、宗像郷や安曇郷があり、海人族の本願地でもある。そして、特に記すべきことは、高良大社と英彦山神社、香春神社との接点があることです。
高良大社は物部氏の氏神である高良玉垂神を祀る神社で、高良玉垂神はニギハヤヒ命を比定する。また、英彦山神社の祭神は天忍耳命である。これは北九州系の神々の要所なのです。
私は北九州の命達は朝鮮と北九州の先住民族の混血と考えているので、南九州系の王朝との接触は非常の大切な事項であると考えます。神武天皇が一年の月日を費やして、岡湊に滞在した根拠はそれらの人々との情報収集や協議に費やされたと思われます。

文化の視点から考えても、中国と朝鮮を比べてみてもその影響力は,古代において、中国の文化がその影響力が上であろう。日本の学界では朝鮮文化をうえに見る。確かに距離的に言えば、朝鮮半島の方が近いといえる。その頻度は江南に比べれば比較にならないだろう。神話は山幸彦が海幸彦を征服する。古代において、山と海では海の方が文化的な影響力が強かった。山と言えば、山人、ソマビト、金工、鬼等どちらかと言えば異種の印象がある。それなのに、「記・紀」では山幸彦が海幸彦を服従させるのである。私はいつもこの話は本末転倒ではないかと思っていた。つまり、「記・紀」の編者はそんなことは百も承知で編集しているのである。朝鮮と江南の造船力でもその国の形態から考えても、江南の方が能力は上位に立っているのは素人が考えても解ることである。それなのに朝鮮の勢力を江南の勢力を征服させるという物語を創ったのは、初期の天皇の勢力を八世紀には北九州系の天皇が駆逐したと言う事実を語りたかったのだが、その証拠が提示できないがため神話と言う形を採ったとしか、私には考えられないのである

再三、私は滝川政次郎さんの唱える江南黒潮渡来説に賛意を表してきた。北に安曇氏、南に隼人説は南にも安曇氏であろうと考えています。
「記・紀」の記載する、ニニギ命の降臨は日向の高千穂の襲の二上山から、笠沙へと行き、そこで大山祇命の娘・神阿多鹿葦津姫と血縁を結び、三代目の神武天皇までを取り上げます。
ニニギから神武まで薩摩と日向には主要な神社が存在しているのですから、「記・紀」の神話は初期天皇の伝承を南九州に比定しているのはそれなりの根拠があると私は思います。江南から(私は・呉・が本願ですが)渡来した安曇族の首長がニニギであろうと考える者ですが、当然、首長一人で為せることは無理でしょう。多くの配下がいたはずです。しかし、上層部は根拠が見出されるのに、配下の存在が見当たらないのが不思議です。江南の呉にしろ越にしろその造船技術は高度のものがあるのですが、そこには船を動かす漕ぎ手がいなければなりません。その頃の書物には少なくても百人ほどの船員がいたと記されています。その外、官吏や軍人、技術者を含めれば相当数の乗船員がいたはずです。とすれば、笠沙に上陸した配下には江南人たちがいたと考えても間違えではないでしょう。しかし、不思議なことにそれら乗船員の軌跡が皆無なのです。そんなことはありえないのです。それに対する視点が欠けていたとしか考えられないのです。
私はその軌跡を見つけたいと思います。

先ず、大きな括りとして、倭がある。次に江南の倭、朝鮮の倭、そして日本の倭であろう。江南の倭は苗族が初めで、百越、呉、楚、蜀などに分かれる。そしてそれが朝鮮南部、九州の倭、大和の倭と拡散して行く。
私はそういう認識で倭を捕らえ、論理を展開いて行こうと思っています。

「古代海人の世界」(谷川健一)より。
安曇氏の末裔にも、鱗のある者が代々生まれると伝承されている。「履中紀」に、目にふちに入墨うぃしたものが安曇目とよばれたとあることから、安曇氏の先祖に入墨をしたものがあったことが分かる。同じ例で、「神武記」
には、大久米命が「さける利目(とめ)」をしていた、とある。大久米命は薩摩半島にいた久米部と関係があり、おそらく隼人系の海人であったろう。このことは、鹿児島県加世田市から「久米」と墨書した土器が出土していることからも確認できる。

わたしはこの文章から安曇氏と隼人そして大久米部との関わりを見て、ニニギ命から神武天皇にいたる系譜が安曇氏との関わりを濃くしているのを見る。これは神武東征には大変重要なことだと思う。

江南の貴種・ニニギ命が隼人の首領大山祇命の娘・神阿多鹿葦津姫を娶り彦火火出見命を生む。
一方、ニニギ命に随伴してきた海人・安曇族もまた隼人の女と融合して、軍団・久米族を形成する。安曇族は明らかに大山祇系の陸戦部隊と阿多隼人と結びついた海人族系・久米族を形成した。塩土老爺を長とした安曇系海人は太平洋黒潮の流れを利用して、四国、中国、近畿へと交易を行う。そこで仕入れた情報を塩土老爺へ集約して、神武東征として結実して行く。




2~3世紀に於ける造船技術は遙かに朝鮮半島より江南地方の方が優れていたに違いない。私は一つの仮説を述べてみたいと思う。
「記・紀」において、最初南九州の方が覇権を制していたのは、その造船技術と航海技術が北九州より優っていたと思われる。だから、神武天皇がまず、東征したのは自然な成り行きであって、「記・紀」の記述は的確に現象を捉えていたといえる。春秋時代にも、呉・越ならびに秦は2~300人を乗せられる軍船を所有している。秦の始皇帝は徐福に「不老不死」の薬を得るために1000人を越す乗船者を乗せられる船を建造している。
その移民が野間半島や対馬にやって来たのは単なる仮説ではなく、非常に現実的な出来事であるとしても誤りではないであろう。BC3~4世紀に朝鮮半島ではそんな能力はなかったはずである。そう考えて行くと、強ち(あながち)南九州の方が先に、九州に上陸していて、現地の部族と融合をはかり一歩先んじて、一つの勢力集団を作っていたのは考えられることである。
今野敏の「レッド」を読みました。核兵器を主題にしたたわいのない推理小説ですが、今の原発に通じる問題を含んで、少々考えさせるものがあります。
山形県の戸峰町にある沼湖周辺の環境調査をするように二人の調査士が依頼されて、現地へ派遣されるところから小説は始まります。二人は政府の外郭団体の所属で閑職に余儀なくされている厄介者で一人は警察官でもう一人は自衛官です。そこは地元の人間からは蛇姫沼といわれる祟りの噂がある沼で地元民が寄り付かない所です。そこを二人が調査するのですが調査が進むに従って、その沼には核兵器が埋められていることが判明します。その核兵器が長年の水の侵食をうけて、放射能が洩れていることが解ります。
その経緯がまあ、現実離れがしていて、ソ連崩壊の時、特殊な核兵器「レッド」が米国の大統領の承認なく軍事・諜報機関だけの作戦で日本の小さな沼の畔に埋められることになるのです。その時、米国の防衛族が選挙区が戸峰町であるN党の幹事長である人間に,依頼するのです。勿論、米国は日本の総理を通じて依頼するのですが、困惑した総理は幹事長に相談した結果、幹事長は独断で蛇姫沼の祠に埋めるという設定になっています。
話としてはありえるでしょうが、現実的には無理のある話です。
現在、原発の放射能の漏洩が問題になっていて、それに対処する利権屋や出世・地位の亡者たちの邪まな行動を見るとき、この小説はそのことを考えさせる一端にはなると思います。
と、この小説を読み終わって、ラジオを捻ると、武田鉄矢さんが日本で一番長く続いている家族・天皇の植林について話しているのを聞き、東北の地震・津波災害の復興を植林と言う切り口で考えもあるっと、思いました。
私は「記・紀」にある塩土老爺の唱える<東に美き(よき)地(くに)あり、青山四周(せいざんよもをめぐ)れり>を思い出せます。日本は清らかな山や川そして海に恵まれた<美き地>(よきくに)なのです。
不幸中の幸いとして、荒廃した荒野を<美しい国>にする計画を立てて欲しいものです。未来を見据えた植林と電柱の地下化など住民の住みよい政策こそが大事なのです。関係者には英断をお願いして良き政策を実行してもらいたいものです。
「記・紀」の素晴らしさは特に、「日本書紀」の編集者達の優秀さについては嘗て話したことがありますが、ここで二つの伝承について話してみようと思います。
その一つは中国の神話と言われる「琢鹿(たくろく)の争い」です。BC2000年代に黄河流域や長江流域に大洪水が襲います。当時、黄河には黄帝が支配していました。。一方、長江には三苗国があって、その支配者は「しゆう」という名の首長が君臨していました。洪水は長江流域に酷く、上・中流域は全壊状態でした。黄河は上流だけに留まったと言われています。
これは考古学的に言えば、黄河はBC5000年より続くリャンシャアン遺跡に相当し、長江は良渚遺跡に当たります。中国は北の黄河流域の優位性が知られているため、南の江南は南蛮と蔑まれ、文化的には劣っていると思われていましたが、遺跡の発掘が進みますと、江南の文化も黄河の文化と劣らないのもがあると解ってきました。
良渚遺跡は稲作、灌漑、金属精練技術、築城技術など優れた文化を持っていたと言われています。
その総体を説明する神話が三苗神話で、BC2000年代の三苗国の大移動です。洪水で長江流域を追われた「しゆう」たちは洪水の被害を免れた黄河中流域を目指します。しかし、黄河には黄帝が君臨していて、当然そこで激突するのは自明のことです。「琢鹿の争い」はこうして興ります。
「史記」や「路史や述異記」によりますと、「しゆう」には81人に銅頭鉄額の兄弟や風師・雨師、三苗族、魑魅魍魎を従え、黄帝に戦いを挑みます。最初は経済力、軍事力に優れた「しゆう」軍が優勢で黄帝軍は敗色濃厚で困った黄帝は天にお伺いをてます。天の女神・西王母は配下の女神・「魃(ばつ)」を降臨させ、「しゆう」に対抗させます。「しゆう」は濃霧で戦場をかく乱する戦術で優位にたっていましたが、「魃」の威力で霧を解消させ、黄帝を勝利に結びつけ、「しゆう」を殺します。
一方、「孔舎衛(くさえ)の争い」で神武天皇は河内の豪族・長髄彦(ながすねひこ)と対しますが、土蜘蛛や国巣、女土酋長などを率いた長髄彦の軍事力に押され、長兄・五瀬命や二人の兄を失います。そこで、高天原の天照大神は助成にフツノミタマを君臨させ、長髄彦を殺します。
この二つの神話は構成的には非常に似ています。
勿論、「記・紀」の時代に考古学は存在しません。もし、解っているとしたら、中国の古文献でしょう。私は「日本書紀」を編んだ諸氏はその文献は知っていたと思います。彼等は昔あった史実に適う逸話を中国の文献に求めていたに違いないのです。その位の能力は彼等にあったはずです。黄河の中華思想の本質を彼等は理解していたと過程すると、「史記」は史実に近い記述を述べているのは認識していたでしょうし、それに纏わる文献は知悉していたとしても不思議ではありません。私は神武東征の「孔舎衛の争い」を読んでいて、その総合判断が神武東征に読み取れ、つくずく「日本書紀」の編者の優秀性を思わずにはいなれませんでした。
私は中大兄府皇子と中臣鎌足が起こした大化改新の政治的問題にはさして興味がわかなっかた。だから、一歩踏み込んだ追求をしていない。
しかし、先日、「大兄(おおえ)」についての文章を読んでいて、迂闊にも私は非常に重要なことを見落としていたことに気がついた。
「大兄」とは長子のことで、中大兄皇子はその「長子」であったのである。つまり、長子相続の初めとも言える。中大兄皇子は天智天皇である。天智以前は女帝(母権)が続き、天智天皇で父権を回復する。
それだけ気がついたのなら、さして感情は動かなかったでしょう。しかし、中大兄皇子が「長子」であることに気がついたことは私にとって大きな発見であった。
つまり、それはイデオロギイの改革ではなかったかと言うことの発見であったからである。それまで初期天皇は南九州系の末子相続が原則であった。そこに母権支配が続き天智天皇が覇権を握り、父権支配を回復する。
私はイザナミ神がヒルコを生み、葦船で流す神話を縄文母権がらの父権回復の説話とも解釈していた。そして、縄文の主な信仰である地母神の母胎回帰がある。それは再生信仰に繋がる。母胎を回帰すろことにより、禊が行われ新たな清い身体で再生すると言う信仰である。
穿って言えば、天智以前の母権支配は禊の前段階であったともとれる。天智帝は母胎回帰することによって、南九州系王朝の末子相続思想から北九州系朝鮮渡来民族と先住倭民族の混血思想に転換した事件であると解釈すると、「記・紀」の様々な神話や伝承が理解可能になってくる。
私はそのことに気がつき、神武東征に広がりが出来て少し意欲が出てきた。さらに研鑽を積まなければならない。知ると言うことは止め処なく、奥が深いものだとつくずく思う。

朝鮮(韓国)と中国(江南)との違い。
<朝鮮>
1、血縁関係の意識が強い。
2、長子相続で、、、祭祀権・財産権を持つ。
3、近親婚は禁止(儒教的である)
4、文身、鵜飼の習俗は少ない。
5、鳥祖伝説が主である。
<中国・江南>
1、職能的意識が強い。
2、末子相続である。
3、近親婚は是認されている。
4、文身、鵜飼の習俗がある。
5、犬祖伝説を持つ。
2011.06.05 古墳に思う
前方後円墳の形態を眺めていて、私はあれは母胎回帰の願いの象徴ではないかと思った。日本列島には縄文の時代より地母神信仰が定着しており、その象徴が土偶の製作と言う形で現れている。土偶は明らかに、女性を表わしており、アニミズム信仰の基本に位置していると思われる。その継承が古墳時代の前方後円墳として結実したと言える。
2011.06.04 再び神武東征
安曇氏と神武東征の経緯に行きつまり、鹿児島の遺跡の検証もままなりません。
そこで、まずは復習です。
神武東征の初めは宇佐です。私は宇佐こそ南九州系王朝と北九州系王朝の接点だと理解しています。
神武帝はこの地で宇佐津彦と宇佐津姫の饗応を受けます。これは宇佐集団の日向王朝への服従を意味すると考えます。後に、宇佐は宇佐八幡宮が主要な信仰形態として存在します。
そこで重要なのは宇佐が香春神社と英彦山神社との関わりを持つことです。両者に共通の祭神は天忍穂耳命です。特に、英彦山神社はその濫觴である源水が英彦川として集まり、遠賀川へと合流します。遠賀川の河口は芦屋と言えるでしょう。
芦屋は北九州の要地で宗像神社と志香海神社そして高良大社を結ぶ要(かなめ)なのです。高良大社は祭神を高良玉垂命として物部氏が氏子の神社です。一説には高良玉垂命はニギハヤヒ命とされています。このことは非常に重要なことで、物部氏とニギハヤヒ命の大和東征の根拠となるものです。
宗像海人族とニギハヤヒ命は新羅との関わりも強く、私の北九州系王朝(朝鮮渡来系族と北九州先住民族との混血種族)の根拠の一つでもあります。
つまり、宇佐から岡湊(芦屋)への神武帝の軌跡は重要な行動として位置ずけられるのです。これは綿密に計算された行動なのです。



<物部氏の職掌>

太古、森羅万象の中に霊魂(アニマ)を見出していた時代、植物も岩石もよく言葉を話した。夜は炎のようにざわめき立ち、昼はまるでサバエなす騒ぎが混沌とする世界であった。
この「物」を鎮める(しずめる)技術を持っていたのが物部氏である。物部氏は金属の利器を用いて、他者を害する邪霊を祓い、麻糸を輪に結んで、遊離魂を体内の中府に鎮める。呪い(まじいない)の儀式を行った。
「古事記」の崇神天皇の条(くだり)によると、疫病の流行による災害を逃れるため大物主神社を祀ったと、言う。

アニミズムの時代は縄文紀である。それは物部氏が先住民族の可能性を示してる。一説には物部氏は渡来民族との説がありますが、私は「物部」の物に注目して、先住民族の仮説をとります。
「物」は荒魂に属し、森羅万象の象徴と解釈していいと思います。

<船>

空船(うつぼぶね)は大隈正八幡宮縁起に現れるが、二ギハヤヒ命は天磐船で河内へ降臨する。ヒルコは鳥磐楠船で流される。真床追衾もまた、絹の布船と言えなくもない。
「記・紀」の神話には船が付きものである。これは「記・紀」の伝承者が海人族である証左であろう。

私はこのブログでは政治的な発言は控えてきました。私自身大いに政治的な人間なのです。敗戦後、わたしの家族は治外法権の時代に全てを失ってしまいました.
昭和二十年、米国の強盗兵士に父が半身不随の重症を負わされ、治外法権のため保証もなく全財産を失ったのです。当時の手術と薬代は大変でそれを湯水のごとく使わなければならないのですから幾ら財産があってもたりません。それに病人のいる家庭はくらくなります。私が政治的でないわけがありません。
しかし、私としてはこのブログを客間的考えたいと心に決めてきました。でも今度の政治腐敗に黙っていることはできません。
ないもの強請り(ねだり)ですが、真の政治家は純真にして世俗的な心を持って、それを十分に利用できる人が理想なのです。そこに私心があってはならないのですが、いまはそのような政治家は見わたせません。
今度の茶番劇を見ていると、もう狂っているとしか思えません。我々はそれぞれ単純にして、行動的でなければならないのです。大人の譲歩はもう問題を解決しません。政治に対して声を上げ、行動するのが大事な時だと思います。このブログも封印を解き、発言を載せようと決めましたし、何らかの行動も摂ろうと思います。

人災は天災を呼びます。人の心が緩むところには必ず、天災がやって来ます。歴史はそれを示しています。
今、私達は気持ちを引き締め、行動しなければならないではならないのでしょう。

震旦(しんたん)国の陳大王の娘の大比留女が七歳にして身ごもった。大王が問いただすと、朝の陽の光が胸を覆っている夢を見たら妊娠していた。大王は驚き、娘とその子を空舟(うつぼぶね)に乗せて海に流した。母と子は日本国の大隈(鹿児島県東部)<南九州の伝承>の海岸に流れ着いた。王子は大隈国に留まって正八幡として祀られ、母の大比留女は筑前香椎の聖母(しょうも)大菩薩<北九州の伝承>として顕れた、と言うものである。<柳田国男・妹(いも)の力より>

これは江南からの海人族が齎した説話であろう。大隈正八幡宮は鹿児島神宮とも言い鹿児島県・姶良郡に建てられている。祭神は彦火火出見命(ひこほほでみのみこと)である。
同様の八幡縁起は宇佐神宮にも存在する。祭神は宗像三女神と神功皇后・応神天皇の親子縁起がある。この縁起は新羅からの伝承であろうが、母子(おやこ)説話は同類説話である。
ただ、一方は江南からであり、他方は新羅からの伝承である。南と北の違いはあるが、非常に興味ある話である。
私は北九州系王朝がニギハヤヒ命と南九州系王朝・神武天皇の東征神話との関連を思わせ、一考を要する事項であろうと思う。
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