上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
神武東征の初稿を書き始めるため、ブログは暫らく中止する。原稿の作成に集中するつもりだ。
スポンサーサイト
私が土偶・地母神信仰を調べていた時、土偶がバラバラにされて埋められていることに着目して、マナ行為に行き着く。食人が太古に行われていたのは事実であろう。
日本でも、三重・志摩地方・越賀・浜島・沼きり・国崎には一月三日・四日の正月行事として「マナ箸」の神事が伝えられている。この神事は、2匹のボラを料理し、共食するものだが、共食の前に弓射の行為があることから、浜島では「弓祭」と言っている。なぜ、魚を捕って食べる行為に弓射の行事があるのか。昔は鹿や猪を射て生贄にし、それを食べるのが「マナ箸」の行為だったのであろう。なお、「マナ箸」を使って生贄(魚)を食べる前に、浜島では「屠人放」(ほとほり)の行事がある。男が女装して、童子の形の藁人形を入れた桶を頭に載せて浜に行き、<今年の屠人(ほと)は目出度き屠人よ>と言って、藁人形の入った桶を海に流す。この行事は人身御供の形(かたち)を伝えているが、そのことは「屠人」と言うことからも解る。「屠」は身体をバラバラにして殺すことから、本来は「人」であったものを人形にしたのであろう。この「屠人放」の後に、「マナ箸」の行事がある。このことから見て、「箸」は生贄に関わる聖具であろう。食人の名残りといえるかもしれない。

もう七月二十五日だ。通常なら油蝉が鳴いているはずだ。ミンミン蝉は確実に姿を見せていなければならない。
それが一言も蝉の声が聞こえてこない。異常としかいえない。不安である。地球の地殻に変動があるに違いない。蝉は数年間地下にいて温度を頼りに地上に出て脱皮する。多分、地下の温度に異常があるに違いないのだ。関東にいや、東京に大きな地震が来なければと祈る。本当にこころの底から祈る。大地震よ我々の元に災いを齎さないようお願いします。
2011.07.25 神武構想3
私にはこの五年くらい妙な性癖が出来て午前四時ぐらいに思考が冴え渡るのである。今日も地震で目を覚まし「記・紀」の椎根津彦について考えていた。
羽原又吉は海人族にていて三つに分けている。宗像族、安曇族、それに隼人族である。椎根津彦はたぶん、隼人系の海人族であろう。何故かと言うと、彼は「我は国津神である」と宣言している。それは彼が渡来系の海人族ではないことを名乗っていることになる。それは又、遠洋漁業に従事しているのではなく、沿岸漁業の海人族を意味する。それなのに彼が神武天皇がやって来ることを知っていたのは、豊予海峡の豪族として君臨し、その沿岸を支配していたかあらであろう。海の関所の首長と言うところだらう。其処に神武に関する情報を齎したのは明らかに安曇系海人族であろう。豊予系海人族と安曇族の融和を私は知ることになる。ここでも、神武天皇東征の影の援護団が安曇族であることがうかがえるのである。
2011.07.24 言いたい放題
今まで、戦後史や古代史を中心に、ブログを文章を書いてきた。しかし、これからはその他にあたる事柄を書き連ねていこうと思います。
私は予(かね)てから、緩やかな干渉主義を提唱してきました。お互いに個人干渉ギリギリのところまで立ち入る粗雑さこそ、今は人と人の意思疎通の大事な要素のような気がしています。アメリカのような訴訟主義はいらないのです。一つの持ち場持ち場での枠の中で自主的に解決して経緯が日本人にはあったのです。学校は学校の中で最大限、物事の解決を図ってきたはずです。邪まな権利意識を振りかざして、学校ないの揉め事を親御さんがしゃしゃり出てきてはいけないのです。学校で興ったことは最悪な事態になるまで学校内で解決させるべきなのです。観念的な権利意識は勇気を持って関係ある他者が介入して解決すればいいのでる。それは他の集団にも同じことが言えます。欧米の頑なな個人主義はこの辺で見直すべきです。我々は我々の個人主義を確立すべきです。
2011.07.24 新たな発見
友人のと論争になり小澤一郎について分からないところが多かったので彼の著作を読んでみた。すると、小澤の考えていた事が意外な基点であることが分かった。彼の政治の基点はどうやら、仁徳天皇の国見にあったのだ。
国見とは「仁徳天皇が岡に登り国をみると煙が昇っていなかった。そこで天皇は三年間、税金の取立てを留保し自らも倹約につとめた。三年たち、国から煙が立ち昇るのを見て、税を取り立てたと、言う」小澤の政治理念の根本はそこにあると述べている。彼が戸別訪問、つまりどぶ板選挙の根拠はここにあるという。彼は小さな個から情報を吸収し客観的に物事を判断するのが政治家の仕事だと言う。また、国民以上の政治家は生まれないとも言う。私は小澤を誤解していたのかもしれない。ただ、彼の独断的な態度と振る舞いに騙されていたかもしれないが、しかしそれは彼にも一端の責任がらろう。もう少し小澤一郎を知るように努力しようと思った。
2011.07.21 神武東征2
私は南九州系王朝が江南の倭族の何らかの移住によって原住民との融合のすえ形成されたと考えている。
原住民族は当然のことだが、異住民を容易には受け入れてはくれない。むしろ、自らの生活を守るために攻撃的、保守的にならざるをえない。
その状況は二三の伝承がそれを現している。谷川健一の「古代海人の世界」には興味ある話が載っている。

上対馬町西泊と泉の間に三宇田(みうた)という浜がある。その浜に花宮御前を祀る祠がある。花宮御前は空船(うつろぶね)に乗ってこられたお方で沢山の財宝を持っていましたが、村の有力者に殺され、財宝を全て奪われた。その後、御前の祟りを恐れてこの地にそれを祀ったが家も村も滅びたと伝えられている。
同じような話は豊玉町の多田の浜にも見られる。
また、福井県小浜市矢代「若狭国小浜領風俗問状答」にも語られている。
<八代とい村、海辺にあり。祭礼は三月三日朝、古き錦(にしき)の袋を戴き、若き女を老女かしずきて宮の前にいつ。時に羊歯を頭にいただき、素ホウをきし者、顔に墨にてぬり、杵をふり廻して、その杵を投ぐ、其故はむかし異国の船貴人とおぼしき女をかしずき漂着せしを、村の者どもいひ合わせ、杵にてうち殺し、船中の財宝を奪い取りせしが、その後、村中大いに疫れい流行し、村民大半死亡せし故、その女の霊を観音と崇め、懺悔のため、其様を成せしかば、疫れい止みしとぞ。その後、祖先の悪行を真似びて祭りとする恥をやめしかば、疫れいまた大いに行われる故、再び祭りなす事元のごとし、この祭りを民俗、手杵祭といふ。>
南九州・鹿児島は今から約二万五千年、現在の鹿児島湾で巨大な噴火が起こった。この時噴出した火山灰によって出来た地層は北海道でも確認され、南九州にはその火砕流により、所によって厚さ二百米にも及ぶシラス台地が形成された。しかし、鹿児島国土は高温多湿の気候に恵まれ、豊かな樹林と其処に生息する獣達の採取・狩猟そして鹿児島湾の漁猟によって、生活環境は維持されていた。
つまり、曽於の地は、曽於族が先住しており、この地を専住していた。その文化の高さは、曽於の地・国分市(旧桑原郡)から発掘された上野原遺跡によって示されている。
遺跡からは土偶・耳飾・石斧や大きな壺、蒸し器などが数多く出土している。そして、竪穴式住居後からは220基もの炉が備えられている。縄文・早期の遺跡である。高度の文明が感じられる。
私はそこには、襲族(曽於族)が定住していたのは十分に考えられることであると思う。鹿児島には襲族と同族か分族が分布していたのは大いに予測できる。
それが「記・紀」の説話に反映している。天孫降臨の襲と笠沙が遺跡的には上野原とかこいノ原が比肩される。これは単なる偶然ではあるまい。ニニギ命の天孫降臨が襲の地で、直ぐに笠沙に行き、大山祇命の娘・神阿多鹿葦津姫と出会う。この説話は神話と史実が見事に結実している。
考えてみると、私は素直にものを考えない習慣が出来てしまった。
我が家庭は米国占領軍の兵士の犯罪によって、生活を奪われてしまいました。どん底に落ちた堀本の家庭を日本国施政者も米国も、また、地元の人たちでさえも、協力も助力もありませんでした。ただ、数少ない友人と仲間が私の心を支えてくれました。ですから、私は他人に対して批判的で、気がついたうちには憎しみさえも内向した感覚で見ていたような気がします。
しかし、今度、私が学んだ養成科の数人の人たちには心に沁みる親切や暖かさを感じ、非常に嬉しかったのを感じました。それを大事にこれからの私の目標の原動力にして進んでいこうと思います。
滝川政二郎の論文を見つけました。江南渡来伝承なので、古代史関係の書籍を探して見たのですが、みつかりませんでした。しかし、意外なところから見つかりました。なんと、食肉関係の日本食肉史「猪甘部(いのかいべ)」の項に掲載されていました。図書館でも貸し出しが出来ないので、閲覧だけです。毎日、中野中央図書館まで通っています。しかし、嬉しいです。
滝川政次郎の文章を見出したのは、谷川健一さんの「古代海人の世界」です。全く異質の書籍で、私ならとても見つけることは出来なかったと思います。ふと、先人の知恵と言う言葉はこのことだと気ずき、一つの感慨をかみ締めています。知識の広がりとはこのことで、先人・谷川健一に深く感謝したいと思います。この歳で、遅すぎると思いながら、爽やかな気分になり、30度を超える暑さの中、「安曇族」の真相を究めたいと言う意欲が再び湧いてきました。師・谷川健一先生に感謝します。

「滝川正次郎・遊女の歴史」より
久具の地は、宮川の南端にあって昔は久具なる蔓草のおいしげ茂った土地であったと言う。(久具郡比売は土地の神である)九州のククチ(菊池)も、魏志倭人伝に狗古智卑狗(くくちひこ)とあるから、久具の草によった地名であろう。
私は幼い頃、広島の被爆写真展の惨状を見て、衝撃を受けたのを思い出した。
水を求めて苦悶する女性、背中が焼け爛れて、地面を掴みながら死にたえた男、両親を探して泣き叫ぶ黒々とした子供。これらは、私達日本の市井の人達が味わった苦しみの象徴であったのです。今でも、私はその写真を忘れることができません。
私の原発反対の原点には、その写真展があることは言うまでもないのです。
日本人には、元来、軟弱な側面を持っていて、自分達が受けた残酷な仕打ちも棚に上げてしまう性癖がある。心の底から忘れてしまった訳でもないのだろうが、忍耐強いと言おうか、被虐的性向と言おうか、追体験が強力でないと、耐え忍んでしまうところがある。
今度の東日本大震災とその延長にある原発事故が、私達を唯一の被爆国を思い出させ、原発の災いを考えさせる原因を作った。
鉄は真赤に燃えているうちに打たなければならない。人々の心に一番大事な体験を凝視しているうちに、答えを引き出さなければならない。軟弱で忘れぽい人々のために徹底的に議論しなければならないと思う。一年もたてば、何事のなかったように、心を棚に上げてしまう人たちのためにそれは必要なことなのである。
我慢強い、菅首相が提案したストレス検査は格好なきっかけであろう。事の善し悪しを考えずに、今は、我々一人一人は原発の問題を心の底から考えるべき時期だと思います。

原爆を意識できない世代の若者は、原発を金勘定だけで推進する「恐ろしい心」の持ち主にもっと関心を示してほしいのです。そして、本当の意味あるエネルギイ政策を個々に考えて欲しいと思います。このところの施政者の愚かな混迷を見て、私は一言、言いたくなってしまいました。悲しい現実です。
「履中紀」に目のふちに入墨をしたものが安曇目と呼ばれたとあるから、安曇の祖先に入墨をした者があったことが分かる。おなじ例で、「神武紀」には、大久米命が「さける利目」をしていた、とある。大久米部は薩摩半島いる久米部と関係があり、おそらくは隼人系の海人であったろう。
このことは、鹿児島県加世田市から「久米」と墨書した土器が出土していることからも確認できる。
(谷川健一・古代海人の世界)
「古事記」の解説。(次田真幸)
久米歌に盛んな戦闘意識がうたわれているのは、久米部が官延の軍事にたずさわっていたからであるが、一方久米氏は膳手(かしわで)としても奉仕したので、久米歌には膳手の職掌に関する事がらも歌われている。「久米の子らが粟生(あわふ)には」「久米の子らが垣下に植えし椒(はじかみ)」などは農耕に従事した体験にもとずく句であり、「伊勢の海の生石(おひし)に這ひもとふる細螺(しただみ)の」は、海人としての生活体験によった句と見ることができる。(これは天皇に安曇氏の膳手、芸能、軍事、農耕などが従事していたことと通じる)
隼人が八世紀以降、犬の遠吠え、隼人舞、天皇への守護などに従事していたのも、安曇氏の職掌と類似している。

この二つの文章は、私の神武東征の考察の低迷を払拭してくれた。
南九州系王朝説の私は、薩摩上陸の江南族である安曇氏が消え、隼人さえも東征の従軍にその名を現さない。当然、大陸から一つの勢力が渡来すれば、集団で渡来したと考えるのが自然で、たとえ神話として華昇されているとしても、従卒した臣下の存在も見られるはずである。それが南九州の伝承や神話にはニニギ命などの首長の神話は伝えられていても、臣下やそれを支える民衆の存在が見えない。史実的な説明を要する私には論壇を張ることができない。
神武東征の大きな要素には航海技術が必要であるのは言うまでもありません。それには江南から渡来した安曇氏の存在はなくてはならないものです。滝川政次郎教授の隼人説しか説明でいないのかと、悩んでいたところなので上の引用は私にとっては大いなる光明であった。
安曇氏は久米氏と名を変え、隼人が従軍した考えられ、南九州系王朝説が具体的に説明できることで前進できることは元気百倍である。
「古事記」に<楯並(たたな)めて、伊那佐の山の、木の間よも、い行きまもらひ、戦えば、吾はや飢えぬ、島つ鳥、鵜養(うかい)が伴(とも)、今助(す)けに来ぬ>とあり、この歌には隼人の鵜飼いが見えかいまみれしている。
神武天皇は久米部と隼人らの安曇一族を引きつれ、宇佐へ向かう。谷川健一が説くように、隼人系の海人族(私は安曇族となずける)の久米部は航海技術に優れていた。「古事記」の次田真幸の解説にあるように、久米部は海人族であり、膳手(かしわで)としての職掌は海に生きる海人であることは間違いないであろう。神武紀の久米歌からは、久米部が軍事ばかりではなく、農耕、芸能、漁労に従事し、鵜飼の民である隼人との関係も読みとれる。
これらから、考えられるのは安曇族を規程する要素そのものである。まるで久米部は安曇氏と言っているようなものである。

塩土老爺について
神武天皇は五瀬命と共に東征を決めるのだが、その助言者は塩土老爺であろう。南九州王朝の命運をきめるのは、正確で実行可能な情報を提供しなければならない。
「東に美(よ)き地(くに)あり、青山四周(せいざんよもめず)れり、その中に天磐船に乗りて飛び降(くだ)る者有り」と塩土老爺は言う。日本書紀からの抜粋であるが、この情報に基ずいて神武天皇は東征するわけである。いかにこの情報が信頼をおけるものであるか想像がつくであろう。
古代において、精度の高い情報を齎す部門といえば、海人であろう。海人族は船舶による交易で日本列島各地へと出かけてゆき、様々な情報を収集してくる。その情報を収集する頂点が海人族の首長である塩土老爺である。
海人には二種類いる。宗像海人と安曇海人である。宗像海人族は朝鮮半島を中心とする集団(誓約型)と江南に端を発する集団(禊型)・安曇海人族である。
私見では、「史記」に述べられている<徐市>伝承や春秋時代の各記述から、江南の呉越・秦の造船技術はかなり高度なものであるといえる。朝鮮半島のそれと比較すれば、技術の差は歴然としている。そのことを思えば、海人族の
頂点は安曇族の首長は塩土老爺であることに異存あるまい。

また、私が常ずね思うことは、塩土老爺の塩は海に関する文字で、土は山ないし陸に関する文字である。例えば、大山祇命もまた、大山は山に関係し、祇(つみ)は海に関係する言葉である。海幸と山幸もまた、海と山の関連説話である。山と海の対比こそ「記・紀」の物語の進行に大きな意味を与えているような気がしてならない。



上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。