上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
民主党代表戦について、一つの誤算は喜ぶべきだろう。少々の不安はあるものの挙党一致の体制は推進すべきである。党内議論を活発にして、混乱は最小限に抑えるべきである。今の日本は人の意識が拡散しているのは事実でしょう。その緩んだ意識を集約することこそ第一課題なのです。内需を高め、人身を集約するには愚直に融和を喚起することこそ、日本が立ち上る契機になると信じます。
私は以前から、緩やかな干渉主義を提唱しています。民主党も嘗てのしがらみを捨て、と言ってもそう簡単に捨てられるものではないでしょうが、議論を尽くして、融和に近ずくように努力すべきなのです。確かに小澤・仙石の確執は根が深いのは理解できるが、現状を乗り越えるには、私心を捨てて、政(まつりごと)にまい進するより仕方があるまい。
まあ、そんな理想まで行き着くことはないだろうが、少なくとも党内融和を図って、国難に立ち向かうより方法は挙党一血ないだろう。
その一歩を野田内閣に望みます。
マスゴミが評価しない記事(ごく過小な記事)に平野復興相留任がある。私はこの地味な野田采配を高く評価している。平野さんの災害業務はどのマスゴミでも取り上げてくれないが、この担当相は地道に仕事を遂行しているものと私は推察している。総花的な配置は多少不安ではあるが、私心なき野田采配を強く期待する。困難な日本の行く末は愚直で多少強引な方が良いと思う。敢えて、非難を恐れずに政務を断行して欲しい。
表の部分を話したので、裏の部分もお話したい。
野田首相は財務省の受け売り政策は私には依然、不安としてある。安直な施策より超え太った官僚に対する人員削減や地方自治の促進は手を打てるのだろうか。そして民主党の命でもあるマニュフェストの解消は禁忌であろう。党内議論を密にして、内容を熟慮して欲しい。総花的な人事が目に付くだけに、内容がついてゆくか心配は心配だ。私の思惑を裏切って欲しいのだが、それには並々ならぬ努力と忍耐が必要である。



スポンサーサイト
直感的に言えば、三点、小澤一郎がなぜ海江田を選んだろうと言うことと、この総花的な自民党的な人事、そして輿石起用である。唯一の明るい点は輿石幹事長起用だが、少しは民主内部の融和が機能するかもしれない。と言うことだ。ただ、適材適所と言うわけとは行かないこの人事は、あるまたぞろ曖昧模糊とした消化不良を起こしかねないと言った印象がある。そして、最後に残念なのだが、小澤氏の海江田推薦の愚考である。この辺の事情を詳細に説明して欲しい。私は政治家としてより人間的に失望した海江田を押すと言う行為が解らない。馬渕推薦が妥当ではなかったのではないか。このメンバァなら、勿論、私は不満な候補なのだが、しかし理想論だけで語れば前進しないので、現実的な論議をすれば問題解決能力に欠け、右往左往して大事な何件が決まらない印象がある。野田総理の英断がポイントになるのだが、私心を捨て紐つきの関係を断ち切ることは出来ないだろうと、私は推論する。どうか、野田総理が私の思惑を裏切って、賢い政策をされること願います。
今は、全貌が示されていないので、この程度の話題で打ち切りたいと思います。少し、性急すぎたかな。しかし、これが私の性癖なので、大目に見て欲しいです。
政治については、少し控えようと思っているのですが、無関心でいられない状況が次から次えと起こってくる。
大体、今度の代表戦には八割程拒否したい、後の二割は現実的な選択でやむなく発言しなくてはと言った程度である。
私としては、挙党体制とマニュフェストの堅持は原則であると思っている。勿論、現実に不可能な事項については党内討議をしてから変更すべきなのだ。そうでなければ、解散して国民に信をとうべきであろう。
しかし、どうやら野田氏が代表に選ばれたようである。正直いえば、海江田氏でなくてよかったとは思っている。状況が変われば、変質してしまう信念など人として最低である。そんな人間に国政を任せられないではないか。かといって、財務省の傀儡で原則をも簡単に変えてしまう野田氏も同じ穴の狢であろう。こんな人間達に日本国を良くできるはずがないのだ。愚直に、私心を捨ててこそ、人は動くのである。もう、我々は赤心に帰って、物の本質から物を見ようではないですか。素直に物の中心から物を見ましょう。欲望や目先の感情だけで物事を判断するのを止めようではないですか。
野田氏は挙党一致を唱えていますが、またぞろお題目を裏切るのでしょうね。真実、政治家は言葉が命なのですが、また、軽い言葉で我々を暗い気持ちにさせて、知らん振りするのでしょうね。残念ですが、二流国の日本国民としては我慢するより仕方がないのですかな。
鹿児島県野間半島の笠沙(加世田市)から久米をきざんだ土器が出ている。加世田市は「かこいノ原遺跡」が発掘され、紀元前8000年に既に丸木船を作製している。つまり、海人族として交易をしていた可能性がある。(多分、初めは漂流といった偶然が発端であったろうと思う)八世紀に大和朝廷がなずけた阿多隼人の地域でもあります。
私はニニギ命が襲(そ・曽於)の地から笠沙に移動していたと「古事記」に記しているのが、江南から百越の一族が笠沙に漂着したと推察しているのである。その地に久米の徴(しるし)が出たことは、しかも久米の名は唐突に出土していることは、久米氏が江南から渡来してきた可能性を残した。しかも、「古事記」にニニギの天孫降臨の際、命(みこと)を守るため天津久米命が共に降臨している。私は神話は史実の華昇であると考えているから、この事実は久米氏が滝川政次郎の説く南九州に着いた隼人族に当てはまるのではないだろうかと推測する。つまり、安曇族かその同族と考えていいのではないかと考えます。久米氏がニニギ命の一族なり直属の配下であることは間違いあるまい。
そのことから、神武東征の際、一連の久米歌は神武と久米(安曇)が同族の可能性が濃厚であることの証であるといえる。この発見は非常に大きい。私が考える神武東征が数歩、進んだと考えて間違えあるまい。
ニニギ命が襲(そ)の地<曽於・そお>に居住していたのは上野原遺跡(紀元前8000年)から推測される。上野原遺跡からは土偶・耳飾・石斧・石皿・大壺・蒸し器などが出土している。また、竪穴式住居から220基の炉も発掘された。シラス台地ではあるが山と海、温暖多湿の気候は動植物の棲息が盛んで、狩猟は容易く、漁労・採取が日常的で定住するには最適な環境であったといえる。土偶や耳飾は地母神信仰、呪術とつながりがあり、各地の縄文遺跡と合わせて考えると、この遺跡も可なりの文化を有していたといえる。石斧・石皿は居住環境に創意が考えられ、大壺(堅果植物を煮沸して苦汁をいれ粉末にして保存している)・蒸し器は食物の保存に工夫が凝らされていることが解る。「古事記」で述べられている「曽於」(襲・そ)は熊襲征伐の八世紀頃まで(一説に隼人の存在がみえるのは六世紀とも言われる)綿々と続いた文化であり、経験と創意工夫による生活文化は我々が考えている以上に高いものがあったと思われる。大林組の検証した三内丸山遺跡の驚くべき都市感覚から類推しても、永年続いた縄文文化はその高さは想像を絶する。私は山内丸山遺跡は建物だけでなく、海を通じて行われた交易にも、他国との文化の交流が感じられる。翡翠やアスファルト、黒曜石等の遺跡の出土を考えると交易も広範囲に交易が行われていたと思われる。このことから、曽於の地での縄文人の生活は閉鎖的より開放的、比較的に自由なそして規律あるしきたりの中で統治されていたのではないかと思われる。又、鹿児島内における連合もニニギが曽於から直ぐに笠沙へ移動しているように、地域ないの疎通も成されていたと考えられる。笠沙、現在の加世田市であるが、この地にも遺跡が存在している。「かこいノ原遺跡」である。この遺跡も縄文前期(紀元前8000年)のもので、特長的には丸ノミ式石斧があり、古くからこの地では丸木船の建造が成されていたと説かれている。ここもまた、高度の文化と海を通じての交易が行われていたのである。「古事記」によると、曽於と笠沙は交流が出来ていて、「吾田鹿葦津姫が言うニニギ命との会話によると、姫の父親は大山祇命(おおやまつみのみこと)と言う」ことになり、大山祇命が日向・薩摩連合の首長である可能性さえ感じられる。「日本書紀」には次のような記述がある。
ニニギ命は日向の高千穂の襲(曽於・そ)から笠沙の地へ行き、事勝国勝長狭と出会い、その者の提案で宮殿に住むことになる。その事勝国勝長狭は塩土老爺だと言うのである。笠沙に居住する首領とは海人族の長であろう。海人族はその交易力によって、異国や異国の文化を掌握しているはずである。つまり、曽於の地と吾田の地の交流が一体であることはこの「日本書紀」の一文で煤けて見えるのである。
奇妙と言えば奇妙なのだが、塩土と大山祇の文字構成の一到なのである。<塩>は潮であり海の象徴と考えても誤りはあるまい。では<祇>(つみ)はどうであろうか。「祇」は積ないしはツム(古語では船を意味する)として先ず同意語としていいであろう。<土>は国と読ませる。<大山>もまた、国と拡大解釈してもそう大きな誤りとはならないであろう。つまり、<国>と<海>の合成語が塩土老爺であり、大山祇命でもあるのだ。
私は<大山祇>も<塩土老爺>も同族の可能性を見ている。吾田鹿葦津姫の言葉から考えれば、大山祇命が本家で塩土老爺が分家だと思われる。そのことは連合体制の香りがします。以前に述べましたように、シラス台地の厳しい生活環境が襲族は彼等の性癖を勇猛で粘り強く、団結力を培っていったと言っていいのではないのでしょうか。その団結力が曽於と吾田それに薩摩、大隈、諸県、肝属族などは苦難を乗り越えた仲間として、連帯していたと思われる(遺跡は常に新たな発掘を伴うので、一概に結論を下せないのですが、今のところ薩摩と日向の間にめっだた争いが見られないのは彼等が同族意識が濃厚で分裂がすくなっかたと思われます)。
それが私が考えている南九州系王朝なのです。ご存知のように大和朝廷が八世紀に確立します。律令制は戸籍を整備し、班田収受を推進します。そして、順化しない部族にたいして、執拗に軍備や懐柔を持って体制のなかに組み込もうと攻撃を加えます。その結果が大化の改新でしょう。
大化の改新は史実としては明らかにされていませんが、私は北九州系王朝の南九州系王朝の制圧を意味していると考えています。末子相続から長子相続へ、漁労・採取文化から狩猟・水稲文化へ、また道教から儒教文化へと変革したのです。近親相姦は北九州系王朝では禁忌であるはずです。しかし、文化変革の宣言書である「古事記」や「日本書紀」でも王朝の発源はイザナミ・イザナギの神話であり、天照大神とスサノオウの神話を変更できないのは何故なのでしょう。全くの神話ならいくらでも表現できたはずです。北九州系王朝では近親婚は禁忌であるはずなのです。それなのにその神話を書き換えられなかったのは、やはり南九州系王朝が史実であったからでしょう。それを何気なく否定するのは神話の形を採ることが一番無難だと判断したとは言えないでしょうか。私は賢明な「記・紀」の編者達が考え抜いた結果の表現なような気がしてなりません。
ここで、大伴氏について一言。
天孫降臨の際、久米氏と大伴氏が武人として随伴している。それについては、「古事記」と「日本書紀」では待遇が異なっている。「古事記」では両氏は平等だが、「日本書紀」では久米氏は大伴氏の配下になっている。
「日本書紀」の見解について一言。「日本書紀」については多少の混乱がある。それは多分、政治的見解を強いため、矛盾したと思われる。私見だが、私は北九州系王朝と南九州系王朝に区分している。702年の薩摩の隼人(私は襲族・縄文先住民とするが)征伐では大伴氏は肥後の国から肥君、五百木部氏と共に隼人征討に移住している。つまりこの年代は北九州系王朝が覇権を握っていた。その大和朝廷の指示で先住民である隼人族を征討している。ニニギ命は当然、南九州系王朝である。基本的には種族が異なっている。その北九州系王朝の軍人が南九州系王朝の上位の位を与えられるのは考えにくい。「日本書紀」の編者が意図的に改竄したと考える方が自然であろう。編者は朝鮮系の知識人が編んでいたと思われるからである。そう考えると納得がいく。




私は小さな政治家達の権力争いにほとほと嫌気がさす。今度の代表戦も嘗ての社会党の混乱を思い出し、またぞろ同じ誤りを犯しているのが明らかなのに、気がつかないアホな政治家に愛想がつく。多少は小澤一郎に期待をしていたのだが、それも適わなかった。今度の破壊の元凶は仙石なのだが、いつも社会党左派らしき人間が世の中を破壊する。嘗ての社会党が消えていったように、今の民主党も分裂が眼に見えるのだから、いっそのこと分裂をして、政界を再編したらいい。世界の信用が失はれるだろうが、小澤が言っているように国民の上を行く政治家が出ないなら、アホな国民なのだから、世界から低く見られるのは仕方がなく、我慢すべきだ。要するに日本国民は覚悟を持って行動しなければ国は滅びの方向に行く事を銘じるべきである。
ニニギ命が襲(噌於)の地と関わりを持ち、その接点が南九州を代表する海人族・阿多隼人であると推察する。(私はむしろ、阿多隼人の首長こそ塩土老爺ではないかと疑っている)海人族の交易は異文化と異人種に触れ、其処からの情報から、開放的で革新的な発想を身につけていることは疑いないだろう。「古事記」でニニギ命は襲から、直ぐに笠沙へ行き、大山祇命の娘・吾田鹿葦津姫(コノハナヤサクヤ姫)と出会い、彼女を娶り子をもうけている。そのことは、海人族がその情報により、ニニギ命が何者であるのかを知り、山の隼人である大山祇命へ報告していることは考えられる。海の隼人の吾田隼人はニニギを受け入れることによって、南九州に多くの利益を齎すことを十分承知で、原住民と江南の渡来民の血縁を結んだのは、海人族の革新的な姿勢がそうさせたのであろう。
「日本書紀」では久米氏は大伴氏の配下となっているが、「古事記」では同格となっている。「日本書紀」の記述は明らかに、政治的な意図がある。八世紀に大和朝廷は肥後国から薩摩の出水郡と高城郡に肥君と大伴氏、五木部氏を熊襲征伐に200戸に分けて、派遣して薩摩国と阿多国に分割している(702年)。
ここから、明らかなのは大伴氏が大和朝廷の権力内の氏族であると言うである。「日本書紀」の記述はその反映なのは論理的に辻褄があう。「古事記」は同格とするのは、事実を反映していると考えていいだろう。
私は古事記の見解が正しいと思う。
ここで、もう一つ天忍穂耳命の子供が二人いて、一人は天火明命である。もう一人はニニギ命である。天火明命は一説にはニギハヤヒ命であると言うことである。ここに私が仮説する初期王朝の北九州説と南九州説が現れていると言える。ニギハヤヒ命はその出自は高良山にあり、ニニギ命は鹿児島・新田神社に祭られています。と言うことはその根拠地は南九州にあると言える。
八世紀には天皇制の勢力は北九州系王朝が優位を占めたと言える。当然、「古事記」と「日本書紀」は北九州勢に有利に描かれるのは仕方がない結果であろう。
2011.08.24 扶桑について
扶桑は日本のもう一つの名称で、あれは蜀の伝承で、日照時間の少ない蜀の日の出と日の入りの時、幻のように現れる太陽柱を扶桑と言う。因みに、蜀犬、日に吠える。と言う諺のように、日が照ると犬が吠えるのだそうです。それほど太陽が貴重な例えなのです。
だから、扶桑は貴重なことの象徴なのです。敷衍して、日本のことを尊い国の象徴としてそう呼ぼうというわけです。
スキャンダルといえば某週刊誌である。しかし、浄化運動の裏では何時も一つの思惑が見え隠れする。それは政・官・報道の利権複合体制である。利権と金儲けを腹の底に隠して、頭だけ浄化を叫ぶ。これは綺麗好きな国民は喜んで受け入れる美談である。今までの政・官・報道の常道手段ではないだろうか。その目論見は非常に頭のいい国民の大部分は十分に理解の上で是認している。ただ、頭のいい人はその欠点である行動力を伴わないことなのだ。頭だけで考え、知識の遊びに終始するものなので、諦めも早いまあいいか、多少の苦労を我慢すれば豊かな日本だから何とかなるさと嘯く。まあ、何とかならないさ。この悪循環が徐々に状況を悪くするのをご存知ない。はっきりとそれを認識しているのは政・官・報道利権複合体制である。だから、いつも国民は泣きを見る、仕方がないな。
さて、浄化運動の意図を私は同病のモラルの違いを見る。一方は利権体制に反省をした。だが、他方は利権と金儲けを強化しようと意を決する。その違いである。
色々具体的に表現すると、重箱の底をいじり廻す輩が議論の中で、問題をすり替えて我田引水に終始する。テクニックに長けた者達には適わない。私は日頃、その訓練が出来ていない、彼等は日頃、鍛えているので適わない。適わなければ、それをさける方法で表現で表すしかない。
今は、私は神武東征に力点を置いているものだから、細かいところは個々に考えてもらって、今は議論を避けて、楽を決め込むこととする。
一言いえば、小澤一郎は過去の利権構想から脱却しようとしている。そして、日常の政治勉強会を続けている。そのことは政・官・報道利権複合体は今もなお、利権と金儲けに固執しようと意を決している違いを私は見ている。とでも言おうか。この辺で止めておく。
2011.08.22 原発に思う
つらつら思うに、原発に関わる政治的、経済的な部分に関わる者達は利己的な感情に捉われている。
自分に関係ないことには、他人が死のうが生きようがどうでもいいのだ。金儲けと自分の栄達のためなら生きる価値のない俗人は、生きる価値のない物ののように考えているのだろうどうなっても構わないとでも考えているようなきがする。それは最低のモラルである。しかし、残念ながらそうした最低の人たちが国を動かしている現実を我々は強く自覚し、苦労して探るべきである。
私は、今、古代史を学んでいますが、古代より他人に任せる風習が我々にはある。このことはもう少し自覚すべきである。今、私はつらつらそう思う。
神武東征の初稿に取り組んでるので話題が狭くなるのは仕方がないのだが、昨日、週刊ポストに小澤一郎についての記事が掲載されていたので、そのことを書いてみたいと思う。
最近、小澤イズムを読んでいたので、彼の政治理念が少し理解できるようになった。勿論、根本的なところでは彼とは異なるのだが、政治は現実的でなければならないし、妥協が必要であろう。そう言う意味では彼のどぶ板選挙と言う方法は民主主義の原則が人と人の意思疎通が大事で情報の交換と議論が世の中を作って行くという主張は理解できた。そして、議員を国の基本的な担当部分と現実的な生活部分は分けて考えるという発想も官僚制を変革する意味では必要な発想である。国防も小澤は現実の方法では、多少理想的すぎるが、憲法を変えなければ彼の主張はそのとうりであろう。また、仁徳天皇の国見の思想も正しいのではないだろうか。教育論も基本的な政治哲学に入れているのも納得がゆく。
しかし、官僚とマスゴミの金権主義は利権に固執するあまり、小澤に権力を握らせないために愚衆を味方に引き入れ引きずり落とそうとしている。そのことをカレルという人が取り上げていたので、ブログしました。
2011.08.16 政治について
あまり政治についてこのブログで話たくはなかったのですが、どこかの政治家に習ってこれからはこのブログでも政治を語ることにする。
昨今、近視眼的に民主党のマニフェストを変更することが正当な行為なのだ。と、吹聴するマスゴミが多い。馬鹿も休み休み言えと思う。確かに、当初の見込み違いはあったと思う。それを正当化はしたくないが、一歩譲って眼瞑るとして、具体的な方法は変更を許しても、理論的な政策については変更すべきではない。財政的な裏付けが取れないとか状況が阻んでるとか変更を余儀なくされる状況ができたなら一歩後退する理由を説明して国民に了解を求めて訂正するべきなので本質的な変更は、もしそれをするなら国民の民意を求めて選挙によって真意を問うべきである。マスゴミはそのことを伝えるべきなのに、一部の者の代弁をする機関に成り下がるとは、非常に危険な行易なのが解らないはずがないのだから、我々は自らの本意を表現するべきである。
敗戦の教訓は小利口に流されないことである。もって教訓とすべきである。
私は昨日はあ私的な宣言を述べました。今日は敗戦についての宣言です。日本人はお人よしで本当に怒らなければならないことも言葉に出して表現しない。本音を口に出すことははしたないとする国民性がある。人生は総体的で各論も大事であるが、本音はもっと大事なのだ。
昭和20年受けた悲惨で屈辱的なアメリカの野蛮な行為は絶対に許してはならない。広島も長崎の原爆は無意味で非人道的な行為を許してはならない。戦勝国であったとしても許されることと許されないことのけじめは人として許してはならない。原爆は非人道的な行為であったのだ。アメリカの施政者と日本の政治家に猛省を促したい。
私の敗戦宣言である。
2011.08.15 敗戦宣言
父と母と共に苦労して死んだ忠興と宣興に捧ぐ。また、戦災で亡くなった方々に安らかに眠るようにと祈ります。
今年も八月十五日がやって来た。大嫌いだった半身不随の父親のあの黄色く怒りに狂った眼光を思い出す。三十を過ぎて左半身を失った父は内心では正常な時の行動を知覚しているのに、行動は左が言うことを利かないもどかしさを子供を虐める事で憂さを晴らしていたのだが、十歳をすぎると子供も逃げ足が速くなる。すると、父のフラストレイションも内向してその表情が眼に出てくるのだ。黄色い恐ろしい眼光はその結果なのだった。その父も今はない。しかし、その代わり私の戦後がやってきたのである。父の怨霊が私に乗りかかってきたのである。黄色い眼光を私が引き受けるのである。私は剥き出しの眼光で誰彼かまわず抗議して歩こうと思う。
2011.08.13 二つの安曇氏
八世紀に大和朝廷が確立したと言える。「古事記」や「日本書紀」が編纂されたのも八世紀初頭である。その時の施政者は北九州系王朝なのだから、当然、北九州系の勢力が優位であることが当然である。安曇氏も北と南が存在する。安曇氏の本貫は福岡・志賀嶋・志賀海神社(祭神・綿津見神)であろう。様々な伝承・説話は志賀海神社の祭神が主役である。南九州系の安曇氏は影が薄い。
私は神武東征は南系の安曇氏に指向があり、論拠をすすめてゆきます。まず、困難な仕事が続きます。
当然、江南から黒潮の流れに乗れば、南と北の九州に漂着するのは大いに考えられることである。北九州の安曇氏についてはご存知のように数限りとなくその逸話に事欠かない。しかし、南九州については安曇の「安」の字さえ現れない。不自然を通り越して、奇妙な感じさえ受けてしまう。何故なのだ。一つは八世紀の大化の改新にある。「古事記」にしろ「日本書紀」にしろ、その編纂は北九州系王朝によって編まれている。その結果、北九州よりの記述が優先されて、南九州系王朝の影が薄くなるのはやむ終えない結果なのかもしい。しかし、如何にも南の記述は軽い。巧妙に観念化されているような感じさえ受けてしまう。どうしても南の安曇氏の存在を消してしまいたいと言った意図さえ煤けて見える。何故なのだ。北九州王朝お得意のそ知らぬ振りなのだろうか。彼等は卑弥呼にしろ、当然その存在ははっきりと解っているはずなのに知らん振りを決め込む。触ってほしくないのだ。多分、安曇氏もそれなのだろうか。手がかりが見つからない。滝川政次郎のように「隼人」を当てるのか、久米氏を同族として嵌めこむのか、その辺が解決策なのだろうが、もう少し検討が必要ということだろう。
2011.08.12 政治談議
私の友人に小澤嫌いの者がいて、いつも議論が白熱するのだが、ふと私は田中康夫さんの電柱の地中化と山林の再整備を思い出した。(田中さんが小澤さんに好意的な共通点が原因だろう)それに太陽熱利用を加えて(各個人が屋根に器械を取り付ける)、電力を付加させると一つの政策として有効なのではのいかと思いついた。あくまで思いつきなのだがまんざら、悪い思いつきではないような気がする。
そして、国政には国防とか財政とか国政に相応しい政策を又、生活に根ざした政策は地方自治に任せるといった小澤さんの提案を実行した方が得策だと考えます。
思いつきだが、一考を。
私は精神的にも物質的にも大変苦しい。しかし、どうにか立ち上がろうとしている。
3月11日以来我々は復興に対して心から行動してきた。古来から我々はイザとなると底力を発揮する。だが、平生は他人まかせの悪癖で、実が熟れるまで待ってしまう。だから私は緩やかな干渉主義を提唱するのだが、牛若丸を見習って米を一粒ずつ潰そうではありませんか。
米国を見てもお解かりのように、邪まな少数の守銭奴がのたまわる都合のいい金儲けよりも、直ぐに効果が表れない米つくりや基幹産業に基本を置くべきでしょう。その上で三次産業が活性化するのなら、経済は健全化するでしょう。その基本を蔑ろにして、米国軍事産業や金融産業が幅を利かせる、歪な国情は見習うべきではないのです。
私達は地道にその精神から出発すべきです。
勤勉な日本人よ、緩やかな干渉主義で地道に行動しようではないですか。
この頃、勤(つと)にそう思います。
憂鬱な日が遣ってくる。私にとって一番来て欲しくない日である。70歳も近くなって、私の触れたくない欠点や短所が蘇えってくる日でもあるのだ。シジオスのように無為の日々を私は過ごしてきたに違いないのだ。今更、過去を取り戻すことができないのだから、言うことが詮無いのだが、悔やんでいます。
父親が大嫌いまま、30年ばかりの日々を過ごし、気がついた時は、敗戦時に米国占領軍の兵隊による犯罪で父親は戯射され半身不随の身で生きなければならなかった。30半ばでの障害は肉体的な焦りが子供をいたぶることによってその憂さをはらしていた部分があった。それを父親の非道と私は思った。それに間違いではないが、非道とは違っているのだ。そのことが理解できたのは私がやはり30歳を超えてからであった。
父の国会への保障運動を手伝うようになったのはその頃になってしまったのだ。遅い協力であった。それが悲しい。思い出したくない思いなのだ。今は、人にそのことを伝えなければならないのだ。それが本当に悲しい。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。