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2011.10.31 涙脆くなる
久し振りにTVを見た。正直、久し振りにTVを見たが、新鮮に映った。番組は「あいくるしい」と言う番組である。
複雑な家庭環境で母親が亡くなり、長男はぐうたらなのかBOXINGの選手を目指している。長女は失恋なのか離婚なのか出戻りで家に帰って家事をしている。次女はかなり歳が離れていて、父親はあるレストランの女主人の所へ次女を預けているのだが、その女主人は亡くなった妻に生き写しなのである。次女もその女主人になついていて、口癖に「いらしゃいませ」と口ずさんでいるぐらいである。ある時、長女に父親が女主人に恋心を抱いているのを悟られて、喧嘩になる。頑なな長女は父親とその女が会うことを拒絶する。父親も仕方なく長女の意向を受け入れるが、今度は幼い次女が長女の言うことに反対する。次女はその女主人が母親に似た優しさに惹かれているのだ。だから、長女の言う「あってはいけない」と言う理由が理解できない。むしろ、幼い次女はその人を「お母さん」とも思っているのである。
長女が次女に「絶対にその女に会ってはいけない」と叱ると、次女は泣きながら家をでてしまう。その時次女は「お母さんがいい」と泣き叫ぶのである。
私も、私に子供の頃(ニ才)から懐いていた「アズ」と言う女の子がいた。母親に叱られた時、私の所に走ってきて「カンちゃんがいい」と抱きついて離れなかったことを思い出して、言いようもない懐かしい感情が湧いてきて、そのTVの場面と二重写しになって不覚にも涙を溢していた。
「アズ」は大変に癇の強い子で中々ゆうことを聞かない子で、私も音を挙げたことは何度もあった。しかし、困ったことがあると必ず私のところに来て無言で抱きいてくるのだ。少しひねくれ者だが、私にとっては本当に可愛いと思える子であったのだ。
会わなくなって三年たったが、この間電話した時には、成長が顕著で声が変わりもしていて解らないくらいであった。相変わらず生意気な口調で返答されたが、変わらないと言う印象を持った。
その「アズ」ももう四年生だそうだ。光陰、矢の如し・月日の立つのは早いものだと恐ろしくなる。今年は「アズ」に会いに行こうかと思っている。
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昨日、かねてからの依頼であった地震補強会社の名人から仕事の依頼があった。まだ予定の三分の一の仕事量で軌道には中々乗らないと言うことですが、少し事務量が増えてきたので手伝えとのこと。多分アルバイトの域を超えないのだろうが、彼の仕事が増えると言うことは日本の経済が向上し始めたことでもあるので歓迎すべき事態と言える。私自身の経済的な保全と言うより明るい見通しがやってきつつあるのが、良かったような気がする。
欲を言えば、いや本当のことを言えば2年程、彼の依頼を待つ間、古代史を研究し続けているうちに、古代史の面白さに魅かれ、それを続けたい気持ちもある。今は非常に複雑な気持ちだが、もし彼の仕事が軌道に乗ったら両立させるように頑張るつもりです。
このテ~マはこれで終わりにする。書いていて、苦々しい記憶が蘇えってきて暫らくは不快な気分になる。実在の人物でその実生活を検分しているだけに辛くもなる。
さて、Sさんですが、この人は女性です。色の黒い太った中年で直接の被害者ではありません。夫とが占領軍の兵士に態度が悪いとののしられ、下腹部をけり倒されて、潰れて病院で手術が出来なくて(費用の工面がつかなかったそうです)、腐り寝たきりの状態が続いていたのです。米兵の氏名はわかっているのですが、S氏に落ち度があると言うことで不起訴です。友達と一緒でしたので、その人の証言ですと、会話(勿論英語です)が解らないので、無言だったのが相手の苛立ちを誘い、相手が感情的な反応をしたと言うことでしいた。
この人は警察がSさんに否があると証明したので、その後の補償も給付も受けることが出来ません。つまり、泣き寝入りです。連盟では色々と政府に(米国は無視です)交渉しましたが、生活保護を受けるよう言うだけで被害者としての認定(公的にはないのですが、連盟内の会員資格の記載を公的に出来ず、単なる連盟の会員としか扱われません。これは重要なことで、政府が公的に給付なぞを支給する時には除外されるのです)されませんでした。
こんな不条理なことがあるでしょうか、しかし、日本に於ける戦後の実情なのです。不幸なことです。他人は不幸で済まされるでしょうが、当事者は生活があるのです。重荷を背負って生きつずけなければならないのです。
その後の生活を私は知っています。決して美談べS夫人が夫を支えたを言う生易しいものではありません。夫人の稼ぎなぞ知れています。家庭は愚痴の言い合いで暗くただ一緒に生きていると言った方があったています。
生きると言うことはどういうことでしょう。初めからハンデがあったまま出発では不平等この上ないのではないでしょうか。
占領軍の被害者については私はこれで話すのを打ち切りにします。
常日頃、ブログを書いていて、どうも文章が稚拙な感が否めないと思いつつ、どうすればいいのか考えていた。
数をこなすと言うのも一つの方法だと思うが、他にないかと思い巡らしていたら、ふと、気楽に書ける推理小説なぞとっつきやすく、文章修練一つの方法としてとして、いいのではないかと浮ついた(つまり軽薄に考えたと言うものだ)。
ただ、素人の悲しさで漠然として取り止めがない。しかし、何がしかの推理小説は読んでいるので、エイヤと言う感覚で始めようというのも一考かもしれない。
今は、愚かを承知で行動しようと思う。何せ無駄に歳を重ねた報いなのだから仕方がない、躊躇は無意味をいうものかもしれない。見る前に飛んでしまおう。

つれずれ思うに、私がコンサルタント養成科に入校しなかったら今はなかったでしょう。考えてみれば縁とは不思議なものだた思う。水道橋に行かなかったら、図書館通いで悶々として単にノ~トに文章をつずっていたと想像します。狭い部屋の中で狭い発想で自己満足していたと思うと、養成科に関わっていた人たちに感謝、感謝です。
迷いが私を書くことを躊躇させていた。
古代史に興味を持ったのは、戦後史を再考しようと思ったからだが、しかし、どこか心の隅で納得していない所があった。観念的には天皇制を知ろうと言ったのが動機だが、<そんな安易なことではなかろう>と、もう一人の自分が何時も囁いていた。
大体、私は書きながら考えて行く性質(たち)である。テ~マを決めると、書き出すのだが、細かい部分は書きながら、推敲してゆく。その方が楽しいのである。だが、今回は群雲がかかり、そこに霧が閉ざすと言った状況なのだ。天皇制の確認と言えば形はそのとうりなのだが、何か違うような気がする。
そうなのだ、テ~マの咀嚼がよく出来ていないのだ。知識はそれなりに蓄えてある。だが、心が書くことを嫌がっているのである。戦後の再考か、それとも縄文時代からの「和」(倭かな?)の問題か、それとも中国や朝鮮との混血が根底にあることが日本人の性格を形成しているのが言いたかったのか、まだ良く解っていなかったのだ。そんな時、私は谷川健一さんの「白鳥伝説」を読んでいて(この本は長文で、確認をしながら読みことなしに理解が不可能な著書である)、九州、大和、関東、東北にまで及ぶ思想史テ~マが「意識の連続性」であると知らされて、どうやら私の曇りも解けかっかってきた。
私は日本の思想の根底には多神教の意識があり、それが「和」の思想を沸き起こらせている。と、考えていた。
それは最早キリスト教の説く一神教では乗り越えられない、いや、大袈裟に言えば地球を破壊さえしてしまうと考えていた。神との対話による約束、つまり「新約聖書」、新しい神との約束(これは教え・教条なのである)と言う合理的精神の行き詰まりが原因で、その結果がもたらした弊害だ理解していた。それを超えるものは、「融和」の精神しかないと、思っている。
本当のテ~マはこの「融和」の思想にあったのである。谷川健一は「縄文から現代に至る日本の思想の根底に、<意識の連続性>を置いた。確かに私は古代史に関する様々な著述を読んできた。何かが足らなかった。それは「総体」として物事を捉える視点が欠けていたからである。谷川健一説は多分、まだ完成に域に達していないかもしれない。詳細部分は敷衍が必要だと思う、しかし、その本質を見る視点は確かだ。日本人が骨の髄まれ染み込ませた思考の原点はこの国土とその関わりとの葛藤から生まれてきたものだ。つまり、縄文から現代に至る「意識の連続性」こそ大事な視点だと谷川健一は説いているのである。
勿論、この遠大なテ~マは短時間で解決出来ないとは思う。でも、発想としてはゆるぎないと確信する。
私もまた、ここから出発しなければならない。そのことが解っただけで、書こうという意欲が出てきたいうものである。

谷川健一教授の主張は基本的には踏襲できます。教授は物部氏をその思想史の基点に置きます。北九州から黒潮に乗って大和へと進行し、神武に敗れて、二派に分かれて、反神武派は常陸、東北へとその勢力を伸ばして行きます。
私もその説は鋭い説だと思います。しかし、その物部氏の出自はどこにあるのか鮮明にしなければなりません。渡来系なのかそれとも先住民なのか。いまいち、はきっリしません。私の仮説は先住民説なのですが、従来の学説はその点が確定してないようです。
物部とは物の怪と言うように、精霊を鎮魂する種族なのではないかと思っていますが、そうすると縄文の呪術者とするのが自然だと思いますが、その根拠は解明されていません。物部氏の際神はニギハヤヒ命だと言われますが、どうやらニギハヤヒは新羅系の神だとも説かれています。そのところの関わりははっきりしません。しかし、谷川派としてはそれを解決しなければならないと思います。
もう一つは、南九州の王朝と大和との関係です。神武天皇が大和に侵攻し、物部氏を解体して、内物部と外物部(反神武派)と分裂させますが、私は日本の思想史としては神武東征は超えなければならない、解明だと思っています。谷川教授は神武東征は北九州はですが、初期王朝には伝承として、「呉」の太白をよけては通れないと思います。これは思想的に、仮説ですが「道鏡か儒教の問題」が重要なのだと考えるので、はっきりしなければならないにではないかと思います。
谷川教授にお伺いしたかったのですが、先生は既にお亡くなりになってしまいましたので、適いませんが残念です。


補注、神武東征のポイントはニギハヤヒ命、物部氏(長脛彦)、安曇氏、久米氏の考察が大事です。これらの氏族は比較的日本書紀が素通りしている氏族で、以前にも話したと思いますが、日本書紀の編纂者は都合の悪い項目は無視する傾向にあります。一体にこの編者は素直ではなく、心がまっがっているように見える。正攻法で攻撃するより謀略を好むし、強い相手には粘り強く話し合うが、弱い敵は完膚なきまでも叩き潰す。潔さより狡猾な印象を私は受ける。
少し穿った見方かもしれないが、書紀の編纂者が嫌う話題に真実があるような気がします。だからこそ、上記の四氏の考察が重要になってくると言えます。
神武東征はニニギ命から始まります。私の従来からの論法ですが、ニニギは天孫降臨の祭護衛の軍人・天津久米命を従えます。天津久米命は久米直の祖です。この久米直が曲者で中々文献に現れません。現在、久米氏について中野中央図書館で久米氏関係の文献を特注しています。その延長上に物部氏と蝦夷が現れます。それは神武天皇が大和へ進軍した祭、長脛彦(大和の先住民・連合軍の首長だと思う)と交戦します。
長脛彦は、やはり北九州からやって来たニギハヤヒ命と自分の妹・御炊屋姫(みかしやひめ)を娶らせ融和するのですが、その子が物部氏の祖先の宇摩志麻遅命です。
この長脛彦はその名から推測して、古モンゴロイドでしょう。古モンゴロイドは目がくぼみ鼻が高く髯が濃い、足が長い人種です。腋臭(わきが)なのは鹿や猪・鮭が主食なために生じる結果です。これはまた、蝦夷の風貌でもあります。しかしニギハヤヒは新モンゴロイドです。(その理由は長くなるので後日に譲ります)これは朝鮮渡来系の風貌なのです。多分、物部氏は縄文人と大陸人の混血なのかもしれません。(これもこれからの研究の課題です)
神話では長脛彦は結果、ニギハヤヒ命(又は宇麻志麻遅)の裏切りで滅ぼされます。その時、物部氏は反神武派と神武派に分かれます。反神武派は追われて、北へ逃亡するのです。そして蝦夷と融合して、安倍氏の祖となるのです。(安倍氏は安日彦と融合し安東氏を生みます)
このように、神武東征は結果として、蝦夷と深く関わりながら、日本の歴史の源流を形つくって行きます。(これが谷川健一の史論なのです)

九州の隼人を阿多で象徴して言うのが、阿多はワタであり、海を意味している。野間半島の「かこいヶ原遺跡」はBC8000年より船による文化が存在していたことを証明している。隼人は阿多の地に相応しい種族である。
天孫降臨に現れる「襲」から「笠沙」のニニギの移動は隼人の阿多との関わりを意味している。その子が「火」の命(みこと)であるのは綿積との関係とともに、南九州の地が火山により形成され、焼畑の「火」(畑は火と田の合字である)を生み海人と一件関係ないような海人と焼畑民族の融合した種族を生んだ。
私はこの谷川史論に大変、興味があります。図書館に特注したのは谷川史論を確認するためのもので、高橋富雄さんと直木孝治郎(京都派・近畿大和)さん他数冊を特注したと言うわけです。
神武東征がここまで伸びるとは思わなかったのですが、また勉強です。ワクワクします。
今私には、騒がしい悪しき神々の声が聞こえてきます。と、書き出せば、古事記に言う邪神たちが、草や木々と言う物の神さえが、なにやら騒がしくモノを言う一説を思い浮かべます。
いや、本当に私は今、騒がしい悪しき神の声が聞こえてくるような予感がしているのです。このブログを書いている前に、産土と愛国心について、縄文からの日本の愛国心について書き始めたのですが、キイを叩いていて、少し長文になりそうなので、下書きで保留してあります。少し考えてから、<公表>するつもりです。
ただ、土地と言おうか、自然と言おうか、私達はあまりにも広範囲に物事を広げすぎた感がするので、足元の産土・生まれた所から再考してみたらどうかと単純に思ったことが発端です。
大橋巨泉と言う無責任な男が愚かな方言をしていて、なにやら外国に生活の拠点を置いて、一見、国際人のように振る舞い愚かな方言をマスコミに振りまいているのを聞いて、こういう風潮がよしとして取り上げられるのを私は苦言を呈ざるを得ないのでキイを叩くことにしたのです。
もとより、大橋のような考えを全否定はしません。彼は彼の考えがあって行動しているのでしょうから、それは自分の<分(ぶん)>の範囲内でおやりになるならおやりになるといい。しかし、彼は、一応文化人を標榜し、マスゴミにもシャシャリ出てきて、それなりの意見を言う。つまり、有名人なのです。ひょとするとかれの意見を鵜呑みにさえる奇特なひともいるかもしれません。彼には言葉や行動に責任があります。
彼については過去色々方言がありますが、聞き流せないことがニ、三あるのです。一つは彼が民主党から立候補して議員になり、国政に関与した時、その任期をまっとうせず、責任を勝手に放棄したことです。彼は民主党が約束を果たさなかったと言い訳をしていましたが、それは彼の勝手な言い訳で、もう子供ではないのです。選挙は国民の選択でもあるのです。そんな基本的なことさえ理解できない人間が公共の場で権利を行使してはならないのです。私はそれを許している人々に怒りを覚えますが、また、彼は某ラジオ番組で卑しくも国民の代表である<鳩山首相>に愚かにも<君>(くん)ずけで話していたことです。私も当時の鳩山首相には一言ありましたが、彼が首相を<君>と呼んだ時、私が侮辱されたような気がした。こんな基本的なことさえ理解できていない<有名人>を戒めない人たちが少しずつ周囲の思考を濁らせて行くのです。大御所が大馬鹿か知りませんが、「隗より始めよ」です。
余談ですが、彼は以前、馬主でした。彼は競走馬は不特定多数の人が馬券を買っているので、馬主は競走馬を走れる状態で出走させるべきで、太め(標準体重より重く作ること)で「出走させる馬主の見識を疑う、私なら調教師に注意する」と放言し、見事に彼の競走馬は太めで出走し惨敗しました。彼の病気はその頃から始まり、直っていないのです。つまり、彼には反省も自覚もありません。つい言ってみたという軽い言葉しかないのです。

こんな人間を議員に誘う無責任な推薦者も推薦者(菅直人だったそうです)ですが、そういう風潮はきつく戒めなければなりません。以前私は、こういうことを言うのは憚(はばかる)っていましたが、これからははっきり口に出して行こうを方針を変えました。
多分、「古事記」に言う邪(あ)しき物言う神々とはこういう人々のことも言うのでしょう。世の中がマグマを内向させて、一触即発の状態なのが感じられるので、私は敢えて、身近な話題を取り上げて、話して見たい心境になったのです。

今日は、K氏のことを報告しようと思います。
K氏のことを思い出すと、私は哀しみが沸き起こって涙を誘います。昭和21年4月です。彼は塩留の国鉄に印刷物を納入に行き、車庫で線路に腰をかけ休息していた時、彼の先方にいた米兵がニ両連結の貨物車を切り離します。当然、一方にブレ~キが掛けられて止まっていたのですから開放された車両は動き出します。Sさんはそれに気ずかずに逃げ遅れ両足切断の重症でした。逃走した米兵は(二人だったそうです)警察の追及も虚しく逮捕されていません。側にいた証人の話によると、彼等は笑いながら車両を切れはなしていたそうです。戯れにしか見えないと証言しています。
Kさんは職を失い、その後、生活保護で暮らしますが、なぜか理由は解らないのですが彼には結婚願望が強く、結婚の望みを諦めませんでした。私には彼の状況を考えると非常に困難なことのように思ったのですが、彼は諦めませんでした。そして彼は漸く伴侶を見つけます。精薄の女性でしたがSさんはその女性を愛して子供までもうけます。子供が出来た時点でSさんは自立をしようと印刷業を思い立ち、嘗ての仲間の協力を得て仕事を始めます。当然、両足が不自由なので特殊の義足を造り、特注の車を買います。勿論全部借金です。段取りをつけた段階で、福祉事務所から呼び出され、保護費の中止を言い渡されたのです。一連の財産があると規則で保護費の支給は出来やいと言われます。Sさんは一年間の猶予を頼みますが、法律を楯に福祉事務所は例外も認めようとしません。
その時、Sさんは「連盟」に加入してその実情を訴えたのです。結論から言うと福祉の例外は認められず、社会党の議員が介入して、別の組織から借り入れをして開業をしました。
しかし、自分の思惑とは違い事業は苦戦します。頼みの得意先も彼が勤めていた会社に気兼ねして注文をくれません。新規開拓しか血路はなかったのです。結果は倒産して再び生活保護の暮らしを余儀なくされてしまったのです。
彼は言います、日本と言う国は本当に弱いものには住みにくい国です。一生懸命働こうとする者にはもう少し助けてくれてもいいもではないかと思う、これでは真剣に働かなくてもいいと言っているようなものだ。と、Sさんは暗い顔をしました。

今日、ブログを読み直していて、補足しなければならない箇所があった。
私のブログの書き方は、ぶっつけ本番で思いついたまま、書きつずっていました。下書きも原稿もないので、時には意味が不明な時があります。大体、それは説明が足りないことが多く、後に補足しなければならない。ニ三日して読み直して訂正、補足をするのが常です。
そろそろパソコンにも慣れてきたようです。習作期間も終えたように思えるので、本格的にブログを書かなければならない時期に来たようです。文章を書き始めたのも数十年ぶりで、初めは書き方の練習を兼ねて打ち始めたのが、この処、文章を書くコツが解り始めて、何となく書いてゆけそうに感じます。
これなら古代史のテ~マである「神武東征」をパソコンで書けるかもしれません。これも私にパソコンを使えるように指導してくれた方々のお陰です。有難うございました。お礼を申し上げます。精魂込めていい物を書いて行こうと思います。有難うございました。
私はラジオを聴くことが多い。先日、文化放送を聴いていて興味を持たされた番組があった。
その時は、佐藤勝という元外務省ロシア担当の官僚のコメントであった。彼は日本を牛耳っているのは官僚であると公言している。現在その中軸は財務省、経済産業省、外務省であると言う。特にその中心は財務省で、彼等は多くの独立法人を抱え,そこで天下り官僚に財界、政界、マスゴミ界、出版、学者あらゆる集団を洗脳のための接触を試みている、と言う。私はそのことを聞いて恐ろしくなり、身を振るわせた。財務省が質の悪い政治家を丸め込むのは容易いことだし、頭のよさは官僚と政治家では天と地ほどの開きがあり、篭絡するのは赤子の手を捻るようなものだろう。しかし、彼等はそれに飽き足らず、全ての影響ある勢力まで洗脳し、多分、金をもばら撒いて飴をしゃぶらしているのである。そこまで魔手を伸ばされたら、愚かな国民はひとたまりもなく奴隷化されてしまう。官僚の画策を知らされない我々は知らず知らずに手足を縛られ、気がついた時には何も出来ない無能の人化されてしまうのである。それは外務省にも言える。彼等は完全にアメリカの指揮下に釘付けにされ、身動きされも取れない、と言うより知らず知らずのうちに洗脳されているに違いない。
私は古代史を考察していて、藤原不比等が権力の中枢にいる女性を陥落して、政治集団を一つ一つ自分の指揮下に取り込んで行く、忍者のようにひっそりと事を運ぶ巧みさに知らないうちに不比等独裁を確立してしまった。あの方法を官僚に見ている。恐ろしいことだ。国民はそのことに気がつかなければならないのに安楽を貪るばかりで放逸して、無気力である。本当はその危険な行為を正義の目で監視しなければならないマスゴミは、たらふくゲンナマを食らわせられて、正義のセの字も忘れ、提灯記事に奔走する。学者・識者も警鐘を鳴らさなければならないのに、御用学者と成り下がり、少しはマシな発言をする勇者は発言の場を奪い取られる。まさにぬるま湯の地獄絵図である。
特に若い世代に言いたい。私は昔から口角泡を飛ばして言い続けてきたつもりである。私は精々もって10年の寿命であろう。しかし、若い人たちはこれから生き続けなければならないのだ。性根を入れて、自分のことや周囲のことを真剣に考える時が来ているのです。何時でもとは言わないが一時間でもニ時間でも集中して考えることを老婆心からお勧めする。

ふと、思ったのだが、今度のタイの洪水は天災ではなく人災でしょう。森林の無計画な伐採があの被害を齎したのです。あれはタイのことだけではありません。私の国においても同じようなことがいえます。その底には、消費経済を支える多量生産と自然の循環を無視した愚かな技術主義(物を中心にした物心崇拝)があるのです。私は、今、立ち止まってよく考える時だと思うのです。無駄ですか。
私が占領軍遺族被害者連盟で犯罪の聞き取り調査を行っていた時の事犯を少しずつ報告してみようと思います。
Aさんは杉並区の下高井戸の駅前裏道りで小さな麻雀屋を開いていました。Aさんは良人に戦死され娘さんと猫との家族構成です。昭和21年12月に娘さん(当時21歳)が仕事からの帰り道ジ~プが走りよってきてその中に連れ込まれました。米兵は3人でジ~プはかなりのスピ~ドで走り出し、二人の男が彼女に暴行を始めたのです。彼女は懸命に抵抗して、そのために車から落ちて対向車に引かれて即死でした。
Aさんの悲しみは一通りでありません。不思議なことに娘さんが可愛がっていた猫も姿を消します。Aさんが娘さんの葬式で火のないコタツを団扇で懸命に扇いでいたそうです。暫らくは食事が喉を通らずにかなり痩せたと、Aさんの友人が話していました。食うために彼女は麻雀屋をするのですが、基より素人の悲しさで収入がままになりません。家財を<質>に入れて生活費の補助をしていたと言います。しかし、それも限界があり家財を売りつくすと食事を切り詰めるより方法がなくなります。そんな時、私達が起こした連盟を知り、私の家に週に一度は必ず通ってくるようになったのです。
偏屈で奇行のある人でした。猫を愛していて、三味線協会に抗議の運動をしたり、野良猫を集めて自分がひもじいはずなのに餌を与えていました。あの米兵を殺してやるが口癖でしたが、治外法権で占領軍は加害者の氏名を公表していず、犯人の氏名はAさんが死ぬまで解りませんでした。精神的には現実と空想の境界が解らなくなっていたと私は推察しています。私の母は暇が出来るとAさんの所を訪問して話し相手になってやり、簡単な食事を作っていました。
今、私が思うとAさんの存念は口では言い表せないくらい黒く燃えていたに違いありません。悔しさなどと言う生易しい表現では言い尽くせない、行き場を失った怒りが毎日湧き起こっていたのだと思います。もし、家族の一人でも残っていたらまた、違った結果になったでしょうが、一人で生活しなければならない哀しさは、一入だったろうと思います。残酷なことです。悲劇では済ませない一人の生涯はなんと言えば言いのでしょう。私の周辺にはこういった境遇の人たちが多くいました。しかし、こういう人たちはその精神的な安らぎが得られない状態(まま)で亡くなって行きました。私も志を果たせないまま挫折したわけですが、今でも振り上げた拳(こぶし)の所在は虚しく天を突くばかりです。
やはり谷川史論と私は相通じるものがある。
「白鳥伝説」はかなり長い論文でもう一ヶ月近く取り組んでいる。(谷川論文は確認が多岐にわたり通読が困難です)今日、何とはなしに巻末の編集者との対談を目を通すと、次のような対談が目に入ってきた。「戦後の歴史学は、神武東征は架空のものである、と否定しています。」「神武の東征はなにかの事件を漠然と表現しているにちがいない。」と神武東征の史実性を述べて、「物部氏の祖神のニギハヤヒが神武東征以前に大和の中央にいた、というのはどんな事実の反映だろうか」と疑問の意を呈してる。長脛彦と物部氏との関係に触れ、安倍氏と蝦夷の融和にも史実を展開して行く。
蝦夷と安倍氏の問題は常陸や東北の勢力図の論及になるので、追求するには、少し時間が必要ですが、神武と物部(ニギハヤヒ命との系図の問題)の問題は当面の課題であります。このことが史実が裏ずけにあると宣言されていることは,私にとってかなり勇気ずけられることです。大体、学者の八割は「神武東征は創作」と言ってはばからない、気の弱い私などは、ともすればそれらの論説に引きずられそうになってしまう。この頃のように「久米氏や物部氏の出自資料」は皆無で、行動すれば私の意見に賛同してくれる人間も一人もいない状況で、ややもすれば萎縮してしまいそうなのが、こうした勇気ずけられるコメントは地獄に光明を見出だした気がします。明日からの糧になるといっても言いすぎではありません。先生がご存命なら手紙の一筆もしたためたいのですが残念なことに先生は亡くなっておられます。それほど私は感動しました。強い味方が現れたのです。


私の日本語の基本は「音」による意味の集積と考え、思想は原則的には多神教的発想の根源が深層意識の中に存在すると思っている。
そして、その総体が日本人である。
2011.10.24 昨日の続き
私は神武天皇を探っていて、縄文時代に興味を抱いたわけですが、とりわけ土偶と三内丸山遺跡に惹かれました。昨日の話題で蝦夷は縄文からの継続した文化と関わっていたのは自明なことです。三内丸山遺跡はBC5000年から1000年続いた文化で(これは上野原遺跡と熊襲<曽於族>の関係を思わせます)、大林組の調査班によると近代の建設精神と同様な思考形態であると言います。かなり計画された道路設備や建設様式は驚異的だと語ります。それに他地域との交易も顕著で、黒曜石、新潟の翡翠、アスファルト(防腐剤や接着剤に使用されていたようです)などが出土して文化的は驚くべき高さであると言います。食料は冬に海から帰ってくる鮭や小動物の捕獲、栗の栽培による堅果食物の貯蔵などで他にも様々な食生活を混合させて生活していた形跡がみられます。
当然、先住民である蝦夷はこの文化遺産を継承続行して発展させていたのは十分に想像させられることで、私達が蝦夷と言うと野蛮な印象を抱きがちですが、これこそ、「日本書紀」や「古事記」などが喧伝した弊害でしょう、私達が考える以上にその文化の水準は高かったのだと思います。
現在は神武東征に精力を注いでいますので、東北と蝦夷については深く探することを控えていますが、いずれの機会にはこのテ~マは本格的に取り組みたいと思っています。
今日もまた、新宿区の文化施設を訪問しようと思っています。いざ出陣です。
日曜は友人・名人のためにあけてあるのであまり考えてブログを発信できないのだが、ふと一年前のことを考えて、よくここまで打てるようになったと養成所の皆さんに感謝の気持ちが再び沸き起こってきました。本当に、有難うございました。
昨日、唐突に、蝦夷のことを話しましたが、それは東北の政治状況を描いた「白鳥伝説」を読んだからですが、私は<古代海人の世界>でもいろいろ参考になった谷川健一さんは素晴らしい教師です。
大和を追われた長脛彦派の物部氏が常陸国から東北まで落ち延び、蝦夷と関わる軌跡を書いています。蝦夷は荒脛巾(あらはばき)族とも言われ、足の長い大きな男の形状を言います。これは古モンゴライド・アイヌ人の体系で、また、南方のポリネシア人にも似ています(この説は少し薄いと思いますが)。つまり、シベリアからの移住説も対馬海流に乗った南方人である可能性も考えさせられます。その東北のル~ツを称して、荒脛巾(あらはばき)と言います。神話に例えれば、<安日彦>で安東氏の祖とも言われています。安日彦は大和でニギハヤヒと融合した、長脛彦の兄と言われています。(これも神話でしょう)
大和、関東、東北は大和朝廷の北上が様々な種族の混血を結果として実現してしまいました。ここでも日本人の混血性が現れています。
私は谷川説に色々教えられましたが、九州にしろ大和にしろ、東北まで原住民と移住民の混血が深まっている現実は私の古代史探求に大きな示唆を与えます。
私は以前、大宮の氷川神社を詣でたことがある。そこは氷川とあるように、出雲との関わりが強い。ここでは長くなるので後日に述べることになりますが、出雲には築杵大社と石見には物部神社があり、両者は仲が悪いと言う。当然、大宮の氷川神社の祭神はスサノウ命であるが、門客人社がもうけられてあり、その祭神は手名椎(てなずち)足名椎(あしなずち)である。それは豊石窓(とよいわまど)と櫛石窓(くしいわまど)のことで古くは荒脛巾神(あらはばきしん)のことであった。
常陸国から東北にかけて荒脛巾神はサエ(塞)の神とされ、侵入する邪霊・悪霊を追い払う役目を果たしていた。これは別名、御石神(みしゃくじ)とも言われ、縄文時代からある道祖神が源といわれ、私の推測では土偶との関係が見られる。つまり、土着の守り神(産土神)であった。
それが大和朝廷の侵略で滅ぼされて、天孫の神に取って代わられ末社で祀られるようになり、門客人社に疎外されたのである。
ここで複雑なサエの関係が出来上がるのですが、サエとは悪霊を防ぐ霊力があるはずなのだが、見ようによってはその悪霊にサエの神は滅ぼされてしまったのである。そこに祟りの意識が征服者の方に現れるのは古代ではよく見られる現象である。だから、神社内に祟りを封じ込む門客人なる奇妙な神を祀ることになる。なおのこと、複雑にしているのは氷川神社の仕官が物部氏であることです。出雲では築杵大社と物部神社が仲が悪いと述べましたが、氷川神社では異種・異族が三位一体となって渾然しているのです。朝廷と出雲と蝦夷が一つの神社の中で祭られているのはこの氷川神社だけな様な気がします。これは大変興味のある事象で私は、神武東征の考察が終えたら、この蝦夷・荒脛巾族と物部氏の関係を調べてみたいと思っています。
荒脛巾(あらはばき)は御石神・ミシャクジとの関係、さらに土偶との関係、また道祖神との関係が見られるので、追求のかいがあると言うものです。多分、それは諏訪大社との関わりにも波及するはずで考えただけでもワクワクします。そこに、物の怪の物部氏です。魑魅魍魎の世界ではないですか。古代史の本質を見るようで(?)、先が楽しみです。

昨日は感傷的になっていて、少し落ち込んでいたと言える。そうなると、世の中は闇に向かっているように思えてくるのだが、一晩寝ると、多少落ち着きを取り戻して、自己嫌悪は少し後退したような気がする。今日はしこりは残っているようだが、自暴自棄になって暴れてやると言った感情は冷やされて、反省点が過去に私を向かわしたと言える。
あまり私は自分の過去の恥部を語るのが苦手であったのだが、今日はなぜか普段あまり話さなかった父親の亡くなった時のことを話すような気になったのはどういう吹き回しだろう。
父は晩年、脳の障害が進んで奇行が目立つようになって、近所に迷惑をかけ始めた。そのときは、調布に住んでいたのですが、住民が福祉事務所に連絡したのだろう、係員がやって来て週に一度は訪問を受けるようになった。数ヶ月経ると係員も父の交情が解るようになって、私達に父親を養護施設に入れることを勧めてきた。しかし、父親の異常なほどのわがままは他人には手に負えないのはわかっていたので、私達兄弟はそれを断ってきた。しかし、熱心な福祉事務所の方々の説得に甘えて、立川市の奥の拝島という所の養護施設に厄介になるようにお願いした。
私は週に一度は施設に顔を出し父を見舞っていたが、そこで父は息を引きとったのです。午後2時ごろだったと思います。その日は雲が低く垂れ込め、今にも雨が落ちてくるような天候であった。私は立川の駅に解くとバスに乗り換えて20分程行くと拝島に着くわけだった。普段は何も考えることもなくバスを待つことになるのだが、不思議なことにその時はバスに乗ることが恐ろしくて、足が進まない。バス停までは行けるのだが、バスが来てもどうしても乗ることが出来ない。仕方がなく私は町を一周してから元のバス停に戻ってくると言ったことを数回繰り返していた。すると、バス停の先で消防車のサイレンの音がした。私は妙にほっとしたことを思い出していた。「これでひょっとすると行かないで済む」と馬鹿な感情に捉われ落ち着いたのが妙に鮮明に記憶されている。今、考えると愚かなことなのだが、当時は本気でうろうろしていたのだ。
施設に着くと、園長自ら出向いてくれて、元気ずけてくれたのだが、その時はきちんと挨拶したような記憶がある。本当は親父に会うのが嫌だったのである。苦労に苦労を重ねた楽しい思いはほとんどなかった日々で、いつも父を恨みに思っていたのに、父親の死に顔は見たくなっかたのである。今後、永久に会えなくなるのが恐ろしかったと言える。本当は心の髄まで父親の存在を認めていたのかもしれない。私達にとってよくも悪しくも時代を背負った父親を愛していたのかもしれないと、思うと涙がこぼれて仕方がなかった。
葬式はごく少ない人数の園内葬儀であったが、最後に園長が「こんないい葬式は初めて」とスピイチしてくれたのが本当に嬉しかった。園長の思いやりの篭った言葉は今も忘れられない。
いつも思うことですが私は心が狭くリ~ダ~としての素質が欠如していると感じた。冷静な時はそれなりに感情を押さえ、理性的に論理進めることが出来るのですが、いざ相手と議論をしていると、つい自分の感情が抑えきれずに、相手の誤った意見は徹底的に叩いてしまう。冷静な時にはそれが得策でないのは十分に理解できるのに、対面すると盲になってしまう。
今日もA氏と議論になって、彼が「古代史なぞ現実には何の役にも立たない」と発言したのに怒り、その短絡な姿勢を論駁してしまった。先ず私の意見は正論なのでねじ伏せるのは容易である。しかし、冷静に考えると、彼の意見もまるで間違ってはいないのだから、どこかで接点を見出すのが正しい方向なのだが、走ってしまうと自説の正当性を強調しすぎてしまう。論客としてはそれでいいのかも知れないが、団体のリ~ダ~としては失格である。正悪を併せ呑んでこそ意見を纏めることが出来ると言うものである。いつも私は自己嫌悪に陥るのだが、これまでも失敗を何度も繰り返してきた。家に帰って、反省をしたのだが、後悔先に立たず。本当に自分が嫌になる。暫らくはこのことを引きずって、暗たんたる気持ちで行動しなければならないのです。
この性格はもう直りようがないので、先々はそれほど明るいとも思われない。グル~プ作りと並行して良き協力者つくりも行わなければならないことを思うと、気持ちが萎えてしまうが、私にとって唯一の生きがいにたいなもので、初めて本気で思い詰めたことなのでもある。やるしかないのだが、少々自信が揺らぐ。明日は思い切って、遊びほうけて、憂さ晴らしをしようと思う。
前日に、藤原不比等について少し触れましたが、関裕二と言う作家の「おとぎ話に隠された古代史」が興味ある説話載せているので紹介しようと思います。
関裕二と言う人は他にも古代史関係の著書があります。博学で面白いには面白いのですが、一つの物語はかなり詳しく調査されてあり私もかなり参考になりましたが、AからBに説明が移行する時、作者の創作で固めてしまうため多少の違和感が生じます。それを除けばかなり面白い読み物だと思います。
その関裕二が「おとぎ話に隠された古代史」の<竹取物語>の項目で、藤原不比等について記載している。かぐや姫の求婚候補のうちの「くらもちの皇子」を不比等になぞらえています。
彼の母は一説だと倉持氏から出ていてそのために「くらもち」の名称使用したと述べています。「くらもちの皇子」の性格は、心たばかりある人、と表現しています。つまり謀略の好きな男と言うわけです。
彼はかぐや姫から「蓬莱の玉の枝」を所望されています。「くらもち」は一計を案じて、優秀な工人にその枝を作らせて姫に献じます。その精巧な作りは本物と見まごうもので姫も結婚を覚悟します。しかし、どうしても「くらもちの皇子」を好きになれなかったのですが、性悪な「くらもち」は工人に制作費を払わずに力で押さえつけたことから、工人が姫にその事を告げたため、嘘が露見したのです。と、物語っています。
<竹取物語>の作者は不明とされていますが、一説には紀貫之と言う説があり、紀氏は蘇我系で藤原不比等とは犬猿の仲であり、その視点で書かれたと言われてはいます。
関裕二はその説を引いて、物語の「くらもちの皇子」を不比等に比定します。
ここでは、「くらもち」は女好きで謀略家と書かれていますが、一方けちな男としても書かれています。けれど、不比等はそんなドジな人間ではありません。紀貫之の私情が入った戯画的存在と書いたとしても、関裕二はそのことに一言触れて書けば問題ないのですが、関さんの癖でそこをすどうりします。
藤原不比等は頭脳明晰で慎重な性格であったと思われます。歴史の上でも不比等の悪評はみられません。数多くの女性と関係しながら、そのことが後の藤原氏繁栄の元となった事のには不比等の深謀遠慮があったはずです。その深く広大な思考行為は天才的で隙なぞを見せない慎重さを窺わせます。本当は大悪人なのでしょうが、凡人には容易に解らない大物なのです。そこの考察が関裕二にはかけているので、私には興味はあるが単なる面白いお話で終わってしまうのです。残念ですが彼の限界なような気がします。しかし、関さんのほかの著作も面白いことは面白いのでお勧めします。
またぞろ、久米氏のル~ツを探して三千里です。私には久米氏が「襲」地から笠沙(野間半島・加世田市)へニニギ命と移住したと言う「古事記」の伝承は史実の裏付けを得られると、確信に近いものがあります。しかし、薩摩・日向の伝承には、その後の久米氏の存在が見事に消滅しています。そのことを私はいささかも心配してはいません。「記・紀」の性癖で都合の悪い事項はことさらに無視をします。私は彼等が無視をすれば無視をするほど、そこに真実が埋められていることに意を強くします。
多分、久米氏はその存立の早い時期にその勢力を弱めていったと考えられます。それでなければ神武東征の時にタタラヒメを神武天皇に推挙する言った重要な地位が意味を成しません。その時、大嘗祭の儀礼で、久米歌を基にした久米舞が久米氏が舞うのではなく、大伴氏が琴を弾き、佐伯氏が剣舞を舞うのは不自然です。私はこの久米舞の共伴者が佐伯氏だというのに疑念を持ちます。佐伯氏の出自は関東の土雲です。「日本書紀」では大伴氏の臣下は久米氏のはずです。大伴氏の伴奏で久米氏が舞うなら少しは納得が行きますが、何故佐伯氏なのでしょう。私の理解を超えます。佐伯氏は余計なのです。その謎を解くには時間がないので、後に譲るとして、今はニニギにとっては重要な臣下である久米氏の滅亡の謎を解かなくてはなりません。
その前に、久米氏が笠沙からどういう軌跡を残したのか探らなければなりません。
私は鹿児島県の歴史センタ~に久米氏の居住を知らせる証拠をたずねたのですが、不明の返事が返ってきたので、中野の図書館で加世田市(久米を刻んだ土器片が出土した)の文献を調べてもらったが、残念なことに中野では文献がないが国会図書館に加世田市の歴史の文献があると言うことが分かりました。そして、図書館員はその土器の出たところが上加世田遺跡であることも調べてくれたのです。心強い援助である。少し前進したといえます。係員に感謝です。
後日、国会図書館で出向いて加世田市の歴史を調べに行かなければ」ならないでしょう。

以前にも述べたように、「記・紀」編纂には藤原不比等が深く関わっていると思っている。彼は持統天皇から元明、元正天皇(全部女性)にも深く関わりがある。文武天皇の教育係の橘三千代さえ自分のものにしている。
また、彼は百済からの渡来学者である田辺史(ふひと)の元で、「論語」「史記」「三国志・魏志倭人伝」などは読み通して、精通しているはずである。彼は老獪な政治家でもあり、自らの陣営に害することは避けて通る読みの深さは並大抵のことではない。天才なのである。
彼は卑弥呼がどういう立場にいたか熟知していただろう。だから、そこには語れない何かがあるはずなのである。
その謎は今、解明を控えるとして、蘇我氏や安曇氏、物部氏などの詳細はきちんと整理されていたと私は考えている。曲者なのである。
道鏡のように野心を剥き出しにして表舞台に躍り出れば、反感持つ人間がそれを潰そうとするだろう。しかし、不比等は知的で読実の深い策謀家である。出る杭は打たれることぐらいは折込済みである。当時の権力を持った男達に対する配慮も怠らなかったであろう。賄賂も使かったであろう。狙った権力者の周囲にいる人間関係も取り込んでいたに違いない。何しろ彼は稀代の策謀の天才なのである。現在、不比等に関する個人的な文献は僅かで彼の全体像が掴みにくいのは彼の術中に嵌まっている感がする。謎なのである。各自が想像するより方法がないのである。
印象から言えば、またぞろ無味乾燥な雰囲気である。聴講生は60歳以上、女性7割、男3割。趣味の聴講といったところです。講師もそれに反映して常識の範囲を超えない。質問も皆無で、終了後は大人しく帰ってゆく。私は講師に「呉」と「蜀」についての質問して見ましたが、三世紀の政治的状況を的確に答えられていません。例えば、呉の国力の元である生産力について聞きますと、それも説明が出来ない。私が呉は日照時間が短いので稲の生産は困難だと言うと、講師は稗(ひえ)とも岩塩とも言う。それだけで、国民や軍人を強くすることは出来ないでしょうと反論氏ても答えられない。
この講師では本当の意味での三国志は教えることは無理だと推察しました。案の定、抗議が終えて、私のサ~クルのことを相談しても、胡散臭そうに私を見るだけで、「おやりになるといい」と繰り返すだけで先へは進まない。勿論、私はようすを観るのが目的なのですが、道なお遠しの感が強かった。後、4回あるので地道に行動するより方法はないと思った。
2011.10.19 頭の準備運動
文化啓蒙運動(そんな大袈裟なものではないが)に出かける前に日刊ゲンダイに目を通す。斉藤貴男(たかお)の消費税論を読んでいて経営の企業努力とは総合的に考えると市場を萎縮させる。と言う説である。私も賛成だが、しかし本質的な解決にならない。世界が今、有機的であるなら、日本の国力ではいかんともしがたい。消費中心の経済に固執するなら虚しい競争に明け暮れるより仕方がないだろう。ユダヤ資本が自己本位の金貸し根性が蔓延るだろう。彼等は神から選ばれた選民と信じていて、異種民族が死のうが生きようが勝手なのだ。それが一神教の本質なのである。私は極端な民族主義者ではないので、いかなる種族も排斥はしない。日本が育んだ多神教主義とは「和」・融和の思想である。少し飛躍するが、日本列島で定着した縄文文化はその平等思想ににあると教えているのである。相手の思想を認めながら、ともに共存する。だから、日本人は曖昧だと外国人は言う。そうではないのである。共存するにはニタニタしながら、行動するのはそれがいかんともしがたい現象なのである。だから私は日本人が好きなのである。
そこで体質転換が必要で我慢と自然循環を取り入れて進むしかないと思う。今は、抽象的にしかいえないが、一つは田中康夫さんが長野で行おうとして挫折した方法が参考になると考えます。
この事は長く考えて行こうともいます。
ふと、気になって、先日、永六輔さんのことを書いてから戦後史や古代史だけでなく、他に私の心に残っている蟠(わだかま)りがあるのではないかと気になっていた。そのことが、具体的に何なのか掴めずに思え患っていました。すると、今日深夜就寝してから、夜中に起きだした時、急に思いいたったのです。
私は子供の頃から歌を歌うのが好きで、童謡や歌謡曲を聴きもし、自分で口ずさんでもいました。好きな曲は童謡で「赤とんぼ」や「花嫁ごりょう」「かごめ」民謡では「五木の子守唄」も口ずさんでいたように思います。歌謡曲では石原裕次郎などを歌っていましたが、心に沁みた曲は「黄昏のビギン」です。水原弘も捨てがたいが、直一層この曲にあった歌唱はちあきなおみの歌声です。作曲は中村八大で作詞は永六輔でした。
私は時折、物事をひらめく事があるのですが、そのことを私としては日頃から大切なことだと信じていました。それが昨夜、やって来たのでしょう。土曜日にはTBSラジオの「永六輔、その新世界」を前から聞いていたのですが、それほど私と直接に繋がるものがなっかたのです。ただ、放送の中で宮本常一さんや中山千夏さんのことが話題で出たりして、私の中の琴線を深部で刺激していた結果が深層意識し触れ、顕現したのではなかったからではないかと、勝手に解釈しています。
しかし、繋がりはどこで結び付くのか、不思議と言えば不思議でなりません。宗教的な感覚を感じるのは考えすぎでしょうか。
今日は永さんへ番組に「古代史・古事記」の放送をお願いする。
この頃、私は少々焦ってきています。こんなに、文化に対し無関心だとは知らなかった。ここまで来ると、短時間で古事記なり日本の古い文化遺産を広めるのは無理である。教育か啓蒙は時間がかかる。勿論、それも続けなければならないだろうが、並行して既成の有名人の協力を得られればその方達にも援助してもらうのも一考である。これからは有名人や大學、公共機関への協力をの視野に入れて行動します。頑張って手紙を書きます。


今日、朝一番で大伴氏が気になって、「日本書紀」を読み直した。そこで二つのことが解った。一つは天忍日命と道臣命が同じ大伴氏の祖であると言うことである。もう一つは道臣は神武の従順な参謀であり、巫げき(男の巫女)、ワザオギであることだ。(因みに、大伴の伴は鞆<とも>で弓の一部)

「書紀」にはこう表現されている。_天皇は道臣に、お前を斎主(いつきぬし)として、女らしく厳媛(いつきひめ)となずけよう。そこに置いた土瓦を厳瓦(いつへ)とし、また火の名を厳香来雷(いつのかぐつち)とし、水の名を厳(いつの)ミツハメ、食物の名を厳稲魂女(いつのうかめ)、薪の名を厳山雷(いつのやまつみ)、草の名を厳野椎(いつののつち)とする。

、軍人は呪術師をかねていたと言えども、専用祭師として扱う方法は私はどうも釈然としない。それも天皇に指示されて素直に行動する道臣は完全に従者の印象である。もし、私が創作者であったなら、呪術的要素が大伴にあったとしても、武功を優先して表現するだろう。
そのほか、「書紀」には久米氏を敢えて、単なる従者としか表現しない。「古事記」との落差はありすぎる。(古事記は天忍日命と天櫛津大来目とは同等として表現としている)それに、時代が下がって、大嘗祭では久米舞は久米氏ではなく大伴氏が琴を弾き、佐伯氏が刀で踊るものである。これも久米氏が音頭をとるか関わるほうが自然であろう。ここも私は釈然としないことの一つでもある。多分、久米氏は初期に滅亡してしまったことが考えられる。それにしても、「記・紀」からは久米氏は忽然と姿を消す。大体、「記・紀」は都合が悪いと口を噤む(とぐむ)。私は「記・紀」で口を噤んだり、弱いものを虐待したりすると、なんとなくそこに深い意味があるような気がしている。

(藤原不比等は卑弥呼については確かにその知識を持っていたはずだ。何故なら、彼は幼少の頃より歴史学者・田辺史(たなべふひと)の元で、「論語」、「史記」や「漢書」を学んでいたはずである。だから、「三国志」の魏志倭人伝の条(くだり)は知っていたと考えて大きな誤りはないだろう。不比等は優れた策士である。ニ重にも三重にも事項を重ねている。性根(しょうね)を入れてかかることだ。あまり、文献には不比等が「記・紀」に関わっていたという記述はないが、私は藤原不比等は影で編纂に影響を与えていたと考える。_彼は,何故か、女に信頼をされる。持統天皇や元明天皇、橘三千代と「記・紀」編纂時に直言できる立場にいた。重要な事項には意見を言っていたのは想像に難くない)

もう一つ、話は別なのだが、702年に薩摩隼人を討伐する時(その時は薩摩隼人を熊襲と言っていた私は考えている)、肥後国から、薩摩に隼人恭順させるために肥君、五百木部そして大伴氏が移住している。712年が「古事記」の制作年なのを考えると、政治的な意向が「日本書紀」にあると推測している。
そんなことを考えているうちに、先日の鹿児島の回答がどうも納得が行かない。するとなにやら闘争心が沸き起こってきて止まらない。
加世田市の「久米を刻んだ土器」が気になって仕方がなく、鹿児島が調べないのなら俺が調べてやると、闘争心を沸き立たしている。

<ここで漢字の連想。>
ツチについて、椎(つち)、雷(つち)、津霊(つち)
チについて、蛇(ち)、血(ち)、乳(ち)
この「ち」は生命の根源の霊のことである。つは付強する助詞である。ツチは生命の根源から沸き起こる霊妙なエネルギ~のことです。

厳(いつ)稜威(いつ)は勢いが盛んな様子である。エネルギ~が満々として迸っている様子。
「記・紀」の成立年代は700年初期である。藤原不比等はこの時期に頭角を現す。
藤原不比等はその生い立ちは決して恵まれてはいない。幼少期は親元から離れ、いや一説には成せぬ子供だと言う。彼は百済からの渡来人・田辺史(ふひと)大隈の元で養われる。田辺史はその名のように歴史学者である。不比等はそこで歴史や法律、中国や朝鮮半島の文献を学んでいたはずである。当然、論語、史記や三国志・魏志倭人伝は読んでいたと思っても不思議はない。
私は彼が「記・紀」編纂に何らかの形で加わっていたと考えている。いや、中心人物だった可能性も捨てきれない。同時に、不比等はその名のように、古代中国の歴史は熟知していたと考えている。史記や論語、前・後漢書、三国志、もしかすると「論衡」さえ読んでいた可能性はある。勿論、田辺史は百済の歴史は専門家である。その書庫(あればの話だが)には朝鮮の歴史は満載であったろう。
この学者タイプの知恵者は女にももてる。持統天皇にはかわいがられ、橘三千代、元明女帝さえも虜にしている。多分、気弱そうに見え、寛容な聞き上手な男であったろう。歴史の上でも決して不比等は表に出ることが少ない寝業師である。
余談だが、何故、藤原不比等は「不比等」としたのか、「史」でも良かったはずです。名前を「音」にしたのは、何か意味があるのだろうか。
中国には「言霊」と言う言い習わしがあり、言葉は生きていて「霊気(れいき)」を持つと言う。「不比等」は非情に日本的な発想である。そこにはアニミズムの融和、悪く言えばいい加減さがある。「史」の方が「ふひと」に相応しいと思うが、どうだろう。

「尊卑文脈」より
(藤原不比等)は内大臣鎌足の第二子なり。一名を史。斎明天皇五年に生まれる。公避くる所の事あり、便(すなわち)ち、山科(やましろ)の田辺史大隈等の家に養われる。其れを以て史と名ずくるなり。母は車持の国子君の女、与志古娘なり。

田辺史大隈は藤原鎌足の住んだ山階(やましろ)村陶原(すえはら)の家に近隣して移りすんでいた旧河内国本貫(ほんがん)の帰化人の資人(つかいびと)であったであろう。若年、不比等はこの家に養育されて、法学の素養を養い、教養、機要を学んだ。<今井啓一説>
私の年金額が減らされている。よく視ると350円少ない。介護保険料も個人の了解なしに勝手に年金から差し引かれていた。この時も本当にはらがたった。たが、財源がないのへ理屈で押し切られた。よく考えると、戦後出産率の最大の団塊の世代が治めた保険料はどこにいったのか。無能な厚生省が無駄に使ったり、着服する省員が多かったりした責任はどうとったのか。無駄に使った保険料は厚生省の責任で戻して欲しい。また、省員には気の毒だが、人員を大幅に削減して補填して欲しい。とも思う。
それがまたぞろ、年金の支給年齢の引き上げだと。なにを考えているのだ。なにが来年、消費税の議論をするだと。財務省の言いなりの操り人形は辞めさせて欲しい。金食い虫に給料を払うほど財政は豊かではない。
これも諸悪の根源は官僚のやりたい放題の身分制度にある。国会議員などはそれに操られているだけだから、私達が本当に考えなければならないのは、国民より自分のことしか考えない官僚達を抹殺することなのだ。先ず全官僚の上層部から解雇して私心で染まった省員を選別して解雇するぐらいの思いきった施策をとってもらいたい。
本当に腹立たしくて怒鳴り倒したい心境がこの文章を書かせた。今日も一日不快だ。

追伸と言ったところだろう。誤解されると困ると思っていたので、ブログを控えていたのだが、私が何故小澤一郎を支持するのかを書いてみたい。
数ヶ月前、小澤の対談集「小澤イズム」を読んだ。彼の政治信条は三つある。
一つは国民主体の政治。彼は喩えで古事記の「国見の思想」を挙げる。
国見の思想とは、仁徳天皇は国民の生活状態を見るために、丘に登り、国を見る。国には煙がなく冷ややかであった。そこで仁徳天皇は官僚に三年間は税金を免除するように伝える。そして、宮殿は修理を三年施さない。経費も必要なだけしか使用を認めなかった。そして三年たって、「国見」をして、国に煙が立ち昇っているのを観て、課税を始めた。と言う故事である。
二つ目は教育改革である。これは方法論で内容が変わってくるので、もう少し詳しく検討を要するが、彼はこの項目の中で、政治家は国民以上の優れた人間は出ないと言う。つまり優れた教育が優れた政治家を生むということであろう。基本的には私もそのとうりだと思う。
三つ目は地方自治の拡充と質的向上である。ここに官僚制度の改革を述べる。官僚の権限を削り、地方に財源を移譲すると言う。
これを読むと民主党のマニュへストを読んでいるようだが、私はこの主張は支持できる。何故この信念を持っている政治家を排除するのだろうか。金権体質をマスゴミも愚衆も言うが、確かに田中角栄直伝の金集めとばら撒きは嘗てはあったと思う。しかし、それは当時の政治状況との相関関係で興ったことである。現在の自民党に同じような政治家入るし、民主党の中にも、解るだけで数人存在する。これは片手落ちではないだろうか。
多分、原因は他にある。今はそれを語る余地がないので、他の機会に譲るが、個々でいえることは、情報は自分で確かめ自らで判断する主体性を持つべきだと言うことである。
誤った方向に向いてそれが定着してからでは遅いと思う。
鹿児島県資料歴史センタ~から私が問い合わせていた返事が届いた。予め予想していた結果である。近畿や北九州の遺跡以上の事実が南九州に出土していないので、学会の現状を踏襲する。また、神話・伝承も現状認識に留まるとの回答である。ここでも、識者の実証主義的な狭量さが現れている。私は実証主義がいけないとは思っていないが、考古学にとってそれは弊害が多いと思っている。
過去の現象は古くなれば古くなるほどその事実は掴みがたくなる。現状ではモザイクの数辺が見えるだけでその全体は掴みがたい。そこで大切なのは仮説や想像力である。勿論、その方法が今の学問の方法では認められていない。モザイク的事実が評価される。
例えば、現代なら信州のりんごはその農協名を辿れば、生産者が誰でその気候による品質の善し悪しから飼料の状況や生産者の技量まで調べることが出来る。そしてそのりんごは王林でありその改良の過程まで辿ることが出来るのである。しかし、古代の事実の認識はその断片しか把握が出来ない。調べようにも、時が事実を飲み込んで隠してしまっている。だから、考古学実証だけでその事実を判定すると真実の見究めを誤ってしまう。もっと心配なのは、物事の進展をとどめてしまうことである。可能性を秘めた古代史の解明は学問的な解決と共に、仮説や想像力的な視点を認めて研究しなければならない。狭量であっては解明を遅くする。自由に研究の方法を拡大して議論を喚起して行くことこそ大事である。勇気を持って仮説や想像力を喚起しようではないか。
私は何時も、古代史を読むとき、シュウ~リマンのトロイ発掘を思う。神話はその根底に史実が横たわっている。その信念があのトロイを発掘させたのである。私も古事記のニニギ命から神武東征までの神話には史実があるはずであると信じている。薩摩には新田神社や鹿児島神社そして日向の鵜戸神社、宮崎神社と各命が祭られている。また、笠沙に「久米」を記した土器片が出土している。呉の太白伝承、江南の習俗である入墨や鵜飼、末子相続、近親相姦の逸話。これだけ判断材料が揃えば、「記・紀」の神話が強ち、作り話だと決め付けるわけにも行かないだろう。ただ、古代は既に数千年を経過している。科学的実証だけで解決が付かないのだ。科学の方法論が帰納法であるが、その外延がモザイクと仮定して、現代ならモザイクは全て集めることができるが、過ぎ去った時の中にあるモザイクは容易に全部集めることは困難である。勢い、最大公約数で論証しなければならなくなる。推論もまた必要なことなのである。学者は嫌うだろうが、完璧は得られない。古代史の科学もまた、そんなものなのである。科学的精神さえ失うことがなければ伝承や推論で固めるより方法がないのだと思う。
2011.10.10 少し倦怠感
この頃、少しやる気が失せている。三ヶ月ぐらいの周期で倦怠感が訪れる。性格にもよるのだろうが、その最盛期では何もかも放り出したくなる。若い頃は、直ぐに酒を飲んで解消したが、歳と共に酒の量も少なくなり、今では医者に禁酒さえ宣言される。私の弟二人も大酒のみでそれだけが原因ではないだろが(ストレスもかなりあった)、癌で亡くしているので、あの日常生活の苦痛を目の当たりに見ているだけに、自重せざるを得ない。酒に逃げ込む手段ももぎ取られ、仕方なく読書へと逃げ込むのだが、難しい内容とか長い文章は無理で短い文章を無理読みせざるうを得ない。
昨日から、あまり好きでもない田原総一郎の対談集に目を通していて、後藤田正晴との対談で面白い文章に当たった。それは後藤田が開戦間際(中尉だったそうだ)に、各上官が日米開戦をかなり多くの将校が悲観的に捉えていたのに、東条以下の好戦主義者を止められなかったと話していた。
ルボンと言う心理学者が群集は愚鈍になると唱えていたが、多分開戦当時も権力主義者や金権主義者のほかに少し想像力を持った人たちも多くいたことはいたのであるが、所詮頭のいい人と言うのは結局、穏やかな利己主義者が多く、自己保存を図って諦めてしまう。いつの世も、こうした自己愛の強い人たちによって成り立っているし、また、思想操作で啓発された群集が一部の権力者に操られて状況を加速的に進行させてしまう。本当は、それを抑止するのがマスコミなのだが、日本においては構造的にマスコミも悪しき権力者よりに傾いている。
つまり、一つの集団と言うものは理性を超える。だからこそ、日常の備えが大事なのだが、何もない平時にはそれを疎かにする。まあ、それが人間なら仕方にとも思う。
観念的に言えば、開戦時に多くの勇者(考えた人は多くいたのだから)が行動していればとも思うが、それも絵に描いたもちだろうう。仕方がないといえば言える。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏といったところかな。
「古事記」の黄泉の国の条(くだり)の意味することは深い。
先ず、その内容を概観する。
<イザナギ・イザナミの二神は様々な神々を生む。そして、最後にイザナミ(女神)ははカグツチにホトを焼かれて黄泉の国へ行く。そこでイザナミは黄泉戸喫(よもつへぐい)を行う。黄泉戸喫とはその地(くに)の食物を食べることである。そのために、イザナミは黄泉の国から出ることが出来ない。イザナギ(男神)はイザナミを連れ出そうとするが掟は黄泉戸喫した者は地(くに)を出ることが出来ないのである。それを許可できるのはその国の大王のみである。イザナミは許可を取るために部屋を出る。その際、イザナギに隣の部屋を決して見てはならないと約束する。イザナギは了解するが、イザナミがあまりにも来るのが遅いので、自分の髪に刺した<櫛>に火を燈し覗くと、イザナミの身体からは蛆が湧き、各所には雷がいかずいている。イザナミは約束を破ったイザナギを詰り怒って襲い掛かる。恐怖感にかられイザナギは<事戸(ことど)を渡す>,事戸とは縁切状である。そしてイザナギは逃げる。そして、黄泉の汚れを流すために、橘の小門(おど)で禊祓を行う。そこで綿積の神(九州)と住吉大神(大和)を生み、最後に三貴人、スサノオウ・アマテラス・ツクヨミを生むのである。

その黄泉戸喫(よもつへぐい)の意味することは深い。「古事記」は、明らかにイザナミの土葬を表現している。太古において、土葬こそ神聖で我々が行う火葬は邪道なのである。土葬は、葬られた肉体は土に返り、、稲を育(はぐく)み、草花をそだてる。そこにやってくる猪や鹿などはその草花を食しに集まる。人間はその肉を食べると言う有機的な連鎖こそ地(くに)を創るのである。
イザナギがイザナミを訪れるのはその地の観念を抜きにして考えられない。それは生きる糧だからである。しかし、イザナギは「事戸の渡り(わたり)を宣言する。これはその連鎖への決別である。
具体的に言えば、移住であろう。ここに、「古事記」が表わす海人族の顕現が見られる。イザナギは、自らの地から他の地へと移住したのである。
その神聖な儀式が禊祓いである。そして、イザナギは東の海神(住吉大神)と西の海神(綿積神)を生み、三貴人を生む。
高天原こそ「たかあまはら」・海であろう。自らの生命(地・くに)を離れ、新しい国へと移住することこそ「古事記」が表現したい主張なのであろう。つまり、天孫移住説こそ、天孫降臨の本当の姿と思う。イザナギはそのさきがけである。
多分、この日本列島はイザナミに変わって、イザナギが居住することの意義を<虚(むな)しくも語られる地(くに)であるといえる。本当は二人の神の地でそれは不可分の関係であったはずである。神産霊神と高産霊神が不可分のようにイザナギとイザナミはニ神で一組なのだ。だから、イザナギは旧来の観念を祓うために禊を行ったといえる。イザナギは最初から国造りをやり直したのである。その物語こそ、「古事記」の真意であり、不条理な人間の行動こそイザナギが負う国譲りの功罪であろう。
私が行わなければならないことは、自らのことである。それには戦後史を検討することが大事である。私の人生を反省するのに戦後史は不可欠である。私の家庭は占領軍の犯罪を抜きにして語ることは出来ない。占領下の日本において、また天皇制が大きな比重を占めていることも事実なのだ。そこで私は、天皇制の真の姿を極めるために、古代史を紐解いたのである。
そして、母屋をさておき、床下に潜りこんでその基礎工事の点検を始めてしまった。困ったことだが本当のことである。しかし、この基礎工事は思ったより私の興味を誘ったのである。古代の多岐にわたる様々な現象は私の知的欲求を止め処もなく駆り立ててしまう。今や、なにが一番興味あるかと聞かれれば、古代史だと答えざるを得ない。だから、本当は古代史、特に神武東征に特化したいのです。現実の煩わしいことなどは回避したいと思う。そのほうが大変なことなのだが、楽しみが味わえると言うものである。しかし、それのみの行為は自慰行為であり、あまり意味を成さない。やはり大事なのは現実である。
私が敢えて、政治を語るのはそれが何時かは自分に帰ってくるからなのだ。
そこで、私が小澤問題に関わるのは、別に私が、小澤シンパだからではない。本質的には私は小澤の考えていることとは反対の岸にいると思う。(一頃より思想の輪郭は鮮明ではなくなってきているが)
この問題は政治問題ではなく、明らかに個人攻撃だと理解しているかである。
小澤の政治信条を叩くには、直接的だと支援が得られないと思っている邪まや集団がいると言うことである。それなら、小澤の負の部分を俎上に載せて世論を喚起しておいて、その本質部門を隠したまま、小澤を悪として誘導し、世の中から抹殺しようと言うわけです。もし、小澤が政治家としての悪をなしているなら、正否は別として、選挙でそれを選択すれば言い訳で、そのほかの方法が正しいのなら、その根拠を明らかにして、黒白を決めればいいのである。
しかし今の判定の仕方は邪道で、例えば裁判でも証拠や自白なしに判決を決定したり、外堀を埋めるような曖昧な雰囲気を作って闇に葬ろうとするやり方は、本質を捻じ曲げる危険な方向に世論を導いてしまう。
この方法は既得権益を維持しようとする時に遣う陰険な方法である。
考えられることは最高の頭脳を持つと自称している官僚諸氏と、もっと得体の知れない大きな集団・世界的に自分達だけを富ませようとする欲望集団が目立たぬように他人を使って潰しにかかっている仕掛けている。と言うと、
奇想天外の劇画の世界のように思われるが、案外そんなとこが真実なのかもしれないと、私は考えるので、小澤問題はその格好なサンプルなのである。
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