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禊祓と誓約について
禊祓はイザナギ命が黄泉の国から帰って、その穢れを筑紫の日向の橘小門の阿波岐原で祓う。そのとき、様々な神を生むが、最後に綿積見神や筒男神そして、天照大神、スサノオウ、月読神を生む。

綿積見神は安曇氏の祖で筒男神は住吉大神である。安曇氏は滝川政治郎は江南からの海人族だと説いている。つまり、中国からの渡来人である。

海人族にはもう一族、宗像海人族がいる。宗像の女神は天照大神とスサノオウとの誓約で生じた海人神である。宗像三女神は朝鮮系の海人神といわれ、新羅との関われが濃厚である。

ここで安曇海人族は中国・江南の海人族で、宗像海人族は朝鮮半島からやって来た海人族である。中国と朝鮮との関係は、その文化的影響が中国が先行していて、朝鮮文化はそれを習う形で進行してきた。文化的には、明らかに中国文化が先で、その後に朝鮮文化に伝播したと考えるのが通例であろう。

「古事記」「日本書紀」はその時間的経過を踏襲して、先ず、安曇氏を先行させ、宗像氏をその跡に扱う。(綿積見神と天照大神・スサノオウの関係)
それは南九州系王朝(神武天皇ら)と北九州系王朝(大和王朝・・・朝鮮系王朝)の関係に類似していると私は思う。


イザナギ命は「日本書紀」で、<その事勝国勝神はイザナギ尊の子で、またの名を塩土老爺と言う>と述べている。この記述は、綿積見神と塩土老爺は同族か同類と考えていいと思う。つまり、塩土老爺は安曇氏の同族でその首長であると考えられる。
神武東征で神武天皇は塩土老爺に重要な問いを投げかけ、老爺はその問いに「大和」を示唆する。当然、この関係は君主と重臣の関係で、塩土老爺は正確で多くの情報を持った賢者であったはずである。
塩土老爺は海を舞台に他国との交流や交易によって各国の情報を把握していたからこそ、的確な答えが出来たと言える。塩土老爺こそ海人族を統括していた海の長官であったのである。
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私達は今まで、豊かになりすぎて、他人には無関心になりすぎている。
人が明らかに間違っていても、他人がやる事だと見過ごしている。自らが、嫌な思いをしてもでも「諌める」義務はないと、高を括って無関心を装う。

今日、朝のラジオ番組で、玉木まさゆき氏が政府の委員会で議事録に署名を要求したら、次回から参加を拒否されたと言うのを聞いた。
そこでは、大手新聞やTVの人間が参加していたが、そのことに反応をしなかったと言う。

私はそれを聞いていて、身の凍る思いがした。
なぜか、音もなく巨像が倒れて行く様子を思い描いていた。大きな組織と言うものは、伝達が緩慢で直ぐに全身に行き届かない。各所、各所で確実に伝達を機能させ、確認して行かなくては、全身が機能してゆかないものである。それを怠ると、知らず知らずに各所に緩みが生じ、気がついた時には収拾がつかなくなってしまう。
そういう緊張感は重要な事項を決めるときには絶対に必要なことで、それを怠ると、その会議は確実に形骸化し、崩壊してよく。

それを見守って行くのが新聞や識者の大事な役目であり、国民の目なのである。
今日、玉木発言を聞いていて、その原則と言う「箍(たが)」が完全に緩んでいることが解り、そのことは一市民として、必ず言っておかなければならないと思った。

この精神の緩みは、報道機関だけの責任といえない。これは我々の責任でもある。考えてみれば、崩壊は自らの中にあるのかもしれないといえる。なぜか、数年前、大きなビルが音もなく崩れ落ちて行く映像を思い描いていた。
2012.01.30 うっくりと
私は今、鹿児島・国分市・上野原遺跡を読み終わったところです。
縄文草創期(BC9000年頃)の独自な文化遺跡で、三回の大噴火、薩摩、鬼界カルデラ、桜島の大噴火と致命的な打撃に遇いながら、まるで不死鳥のように蘇えり(黄泉返り)、植物採集と漁労、狩猟文化を花咲かせます。
つまり、襲(會)の地に根ずいた高度で、力強い先住民の生活態度がヒシヒシと伝わってきます。

私は、数年前、東北・三内丸山遺跡(BC5500年)に」感じた近代に通じる縄文人の精神世界を、再び感じました。今まで、縄文期は東の地域が進んでいて、南はそれより遅れているというのが定説でした。

しかし、それは大いなる誤解で、襲(會)の地でも縄文文化は着実に根ずいていたのです。

會の地の「村」の結束力と自然の猛威にたじろがずに立ち向かう強靭さ、丸木舟で他国へ交易。交流する先進性を知るにつけ、今までは識者が野蛮となずけた南九州が、実は、かなりの高度な文化を基盤として、生きているののです。私を益々、薩摩・日向に釘ずけになって行きます。

勿論、北九州が南に劣っているわけでもないのですが、明らかにその文化の質に差異が見られます。
それは、多分、北と南に立ち憚る国見山系、霧島山系、そして九州山系の存在だと考察します。険しい山並みが人種の交流を拒んでいるかのように思われます。

結局、上野原遺跡に生きた會族(熊襲族)や笠沙(野間半島・加世田市)の吾田族<ここはかこいノ原遺跡があります)、つまり、神話的に言えば、ニニギ命や吾田鹿葦津姫(コノハナヤサクヤ姫)に象徴される物語の底では、上野原やかこいノ原文化が息ずいているように思われ、私が、ひょんな事から始めた古代史の追求が史実化しそうな気配です。

こうなれば、この古代への旅を続けなければならないような気がします。大変に興味ある、しかし、困難な旅ですが手甲・脚半で旅立とうと思います。
隼人を追って、南方諸島を調べていて、種子島の大園遺跡から東北地方の縄文・晩期の大洞(おおぼら)式土器が発見されたと言う。上村俊雄は大洞式土器が「二千数年前に海を越えて、薩南諸島に齎されても不思議はない」と述べている。

常識的に言えば、種子島から東北のどこかの遺跡に南島諸島の土器が出土してもありえるとは思う。それは対馬
海流が齎す仕業だからである。しかし、その逆は難しい。北から流れる海流は東北から九州の南端までは流れてはいない。考えられることは、対馬海流の逆流や沿岸流を利用するより方法がないのです。そのことは、文字で書くほど簡単ではないでしょう。

もし、この事実が本当なら、縄文時代の交流や交易がかなり頻繁に行われていたことになる。すると今まで私が考えていた縄文の航海や文化の交流が、比較的容易に行われていたことにもなる。

南方諸島と南九州の交流等は頻繁であったばかりではなく、南九州と大和の航海や交流が相互に行われていた可能性も大きくなる。塩土老爺の情報者としての存在はかなり現実的になって、神武東征の可能性も史実として捕えやすくなった。

今日、中野中央図書館からその記載の正確さを確かめるため、7冊ほどの資料を借り受け確かめることにした。暫らくは、そのために家篭りになるだろう。

天孫降臨から安曇氏と久米氏、會族と隼人の関係を明確にしてみようと思う。
私は野田政権が発足した時一類の望みを持っていた。それは野田氏が党内融和を掲げていたからである。考え方で一番大事なのは、外ではなく内である。現在の国政は強い持論がなければ乗り越える事が困難だからです。しかし、最近の野田氏の言動を見ていると、彼が言及していた主張は単なるお題目なのが判明した。哀しいことです。

野田氏は愚直だが誠実な政治家で、愚直ゆえに自分で発言したことはどんな困難があっても推し進めるといった印象が私にはあった。それは彼が地元の駅前で演説をしていた主張は一途な政治家であるといった姿勢が見られたからである。
しかし、彼はそれを見事に裏切ってしまった。今はまるで真反対のことを実行しようとしている。
正面きって議論をするより、それを避けて、影から陰湿に物を言ったり(国内で議論するより、海外で国内の重要案件を公表している)、党内集会で野党を恫喝したり(党内反対派をけん制したのかな)、彼は正面きって議論をすることを避けているように思えるる。

野田氏の現在の主張の根幹は、消費税を増税することであろう。それは彼が地元駅前で演説していたことと、あい反することである。もし、誠実で信念がある人であったら、こうも手の平を返したように、ま逆な主張を語らないであろう。しかも、正面きって語らずに陰険に影から遠吠える態度は自主性のない卑屈な人間と映る。

私も消費税については、社会福祉のために使用するのは仕方がないだろうとは思っている(仕方がないの言葉の含みを察して欲しい)しかし、その前には財政赤字をつくった原因を徹底的に解明して、強い信念を持って改革を行う並々ならぬ決意を示さなければならない。

並々ならぬといったのは、その相手が頑迷な官僚と米国保守勢力だからである。官僚が垂れ流す既得権の無駄な費用は膨大で強固である。米国は自国のためなら日本の国民がどうなろうと構わないと高を括っているのは用意にっ理解が出来る。嘗て、米国が我々に要求してきた内需拡大は、目論見どうり公共事業という体裁で、悪徳業者を太らせ、膨大な財政赤字を生んできた。大店法は地方の小店舗を壊滅させ、大企業や米国資本の進出を許した。今度もまた、TPPで米国資本を日本国内に進出させ混乱させようと図っている。(米国の失業対策や金融資本の侵略のためでもある)今までも、米国は米国軍事政策のため日本政府を脅かして費用を日本に負担させ、恫喝しながら軍事施設を沖縄や各地に常駐させてきた。(勿論、彼等は日本の国民性を熟知していて穏健で諦めのいい国民が見過ごすことを計算にいれている)

そんな狡猾で、自己的な頭のよい人種に野田は弓手(ゆんで)搦め手の攻略に簡単に載せられたに違いない。否、恫喝かな。そこには、嘗て印象として描いていた誠実で信念のある政治家の姿は少しの見出すことが出来ない。

私は野田氏が傀儡政権になることを心配した。国内では親自民党派や財務・司法官僚のほか、保守的な米国勢力の代弁者に成り代わることを恐れていた。しかし、心配したとうり、彼は小手先の改革者を演じさせられて、自主性を放棄した道化師でしかない。

届くかどうか心もとないが、敢えて言う。野田さん、初心に帰って欲しい、自ら正しいと思ったことを他人の言葉に左右されず実行して欲しい。もし、自分が嘗て述べたことが間違いだと解ったら、それは自分の能力がなかったと諦めて、直ちに自分の職を辞して欲しいのである。今の職責は一企業の仕事ではない、国を牽引する重要な任務なのである。はき違えないで欲しい。
南方諸島から黒潮に乗れば、速い潮の流れで日向・土佐・紀伊・伊豆の南端に着く。黒潮の源はファヒネ島近辺である。ファヒネ島から紀元前以前に祭祀遺跡があり、漁具と船が出土した。
舟はカヌ~状のもので横・七米、マスト・十二米、長さ・二十米もあった。

<ポリネシア文化>
アウトリガ~・ポリネシア人は少なくともBC1000年頃より以前に舟(アウトリガ~)によって南太平洋一帯を航行していた。海図は木の板式海図である。カラカラ、ニコニコ、ピカピカ等の重ね語はポリネシアが起源である。熊野はポリネシア語では「多くの人が到着したところ」と言う意味がある。

熊野杉は舟の材料である

地中海の古代舟は釘着法によって、木材を接合するようになっているのに対し、北方地域の古代舟は一本の巨木をえぐった舟になっている。
朝鮮半島において、釘着法を用いた舟が発見されたことから、地中海の造船技術も伝播したと思われる。
それはその後、黒潮支流にのって、山陰・北陸にも伝えられたと考えられ、日本海側の沼湖からも発見されている。

日本列島においては、縄文前期頃から丸木舟が存在して、九州・沖縄・朝鮮半島と通航しており、「魏志倭人伝」に述べられた朱儒(倭人)によって運行されていたと思われる。

千葉県からは、縄文のものと見られる丸木舟が全国に多く出土している。(70の遺跡、井戸田、飯塚、中野など)

その他、加茂遺跡、中里遺跡、ユリ遺跡、松原内遺跡、真壁遺跡など
例・加茂遺跡からはBC3150から3400年の丸木舟が発見された(長さ4・8米、巾0・7米)・・・犬萱(いぬかや)の櫂が3本出土している。

<丸木舟の製造法。
5米程の木を石斧で伐り、丸太の上側を火で熾してから、くすぶらしながら上部から炭化させて、木を刳り抜いて、舟型を造る。
2012.01.23 神社について
昔、神社には殿(とのい)はありませんでした。社(やしろ・もり)と言い、神が降りてきてそこにと留まる空間でした。神石や神木がそれでした。
深い森に入ると、シンとした張り詰めた霊気を感じるものです。私も森林に入り、木立に囲まれて、身の竦む霊気を感じたものです。そんな時、私も神の存在を意識したものです。
多分、太古の人々も薄暗い森の中で、木漏れ日に神を感じ、身に沁みる霊気に神を視たに違いありません。

私も大宮氷川神社にそれを感じました。あの神々しい感覚は今も忘れることはありません。素晴らしい経験でした。
NHKの「日本人と食について」を聞いて大変興味をそそられた。
太古から日本人の食は「医食同源」の思想が四川省辺りからの影響で、生活に取り入れられていたと説いていますが、私はもう少し古く、縄文時代から日本人の「食」は山林の堅果植物と根菜が主食で、それに小動物や魚貝類を補って生活していたと考えています。

そう言う意味では日本列島は資源豊かな国土で、縄文社会主義の思想の元では豊かな社会生活を営んでいたと考えます。私は谷川健一教授の「意識の連続性」にいたく刺激され、縄文時代の気候と風土によって、日本人の性格決定がされたという主張は、正しい思想だと支持するものですが、小泉先生の「民族の遺伝子・炭水化物体質」が日本人の基礎体質と思想の根源であるという教えもまた素晴らしい見解だと思います。

小泉先生は米国のアングロサクソン的体質と日本人の繊維質を中心に摂取する生活態度は、相入れないものであると唱えます。数万年培ってきた食文化は、数年のパンや肉・牛乳文化にはその体質や志向が、目には見えないが追いついていかないと言われます。

食を取るために、縄文人は山を計画的に整備しています。「サンカ」や「マタギ」も山を大切に扱っていました。三内丸山遺跡には栗を計画栽培していて、山を手入れしています。上野原遺跡も堅果植物を摂取するために、計画、貯蔵をしているのです。つまり、生きている山を育てながら、共存しているのです。しかし、今、欧米化した食生活は山を荒して、洪水を呼んでしまったのです。「食」の欧米化は私達が営々と営んだ日本人の根源的な生活や体格それに伴う思考法を崩しにかかっているのです。これは日本と言う国を衰退させるも元になる様な気がします。私は欧米化を排除しろ言っているのではないのです。私達が培ってきた風土と習慣を踏まえて、欧米に習うべきだといっているのです。日本があって他国があるのです。そこを間違うと大変な異土異民になってしまうのです。自主性こそ大切な志向だと言えます。

「和食」こそ、たとえば米や麦そして味噌汁を肉やパン牛乳に変えたとしても、腸の長い日本人の体内メカニズムはそれに対応することが大変難しく、結局はそのことがどこかに歪をもたらすと小泉先生は言います。

私は戦後史を学んでいて、マッカサ~が日本人に徹底的にアングロサクソンの民主主義を叩き込むと叫んだ時、この民族は本当に人間を理解していないと思いました。つまり自分勝手なのです。その時は「意識の連続性」に出会っていなかったので、ただ漠然と(私は理性的な人間と言うより直感的な人間なので)これは間違いであると感じたのです。今思えば、あの占領は思想的侵略だと確信があります。

私は極端な民族主義者ではありません。ですが、人種にはそこに住み着いた環境があります。自然と人の調和はその人種の血と涙の自然との格闘で築き上げてきたものです。(古事記でイザナミが黄泉つへぐい、つまり黄泉の食べ物を食べてしまったことで現世に帰れないと言うくだりがありますが、それは大変深い意味を持っていると思います)それを無視して一方的な見方で変革すればまた、弊害も必ず現れます。私は去年の大震災で国民(政府でも官僚でのありません)の日本人らしい連帯意識に感動しました。あれこそが日本人の持つDNAだと感じたのです。本来なら、あの意識を持続されるべきだったのです。しかし、数ヶ月過ぎるとそれは沈下してしまいました。
この潔さは日本人の持つ粘着力とは本来の粘着力には相反するものです。隠すことが美徳だと言う悪徳は反省すべきです。

私は小泉先生(醗酵仮面と言う字<あざな>なのだそうです)の言う「民族の遺伝子」がもたらす有益な性格を今は真剣に考える時期だと、つくずく思った次第です。私達は「腸の長い」モンゴロイドなのです。
天津久米命は天忍日命と共に、ニニギ命の天孫降臨を日向の高千穂の襲より、笠沙へ軍人として先導したと記しています。その吾田の地(現・加世田市)・上加世田遺跡より、久米を刻んだ土器片がそれを証明しています。

久米氏は「古事記」での表現であるが「日本書紀」では来目と記します。私は「古事記」の表現は<音>としての立場が強く「日本書紀」の<訓>表示より意味を伝えきってはいないきらいがありますと思っています。

本居宣長は久米氏を、目が大きいとしたのは卓見だと思います。それは南方系(沖縄、江南、南島系の種族)の風貌を述べており、神武東征で大久米命を伊須気余理比売(いすけよりひめ)に「さける利目(とめ)」と言わしめたのは、大久米命が安曇目(あずみめ)で、海人族(あまぞく)の形状を呈していたからである。

これらの事実を総合して判断すると、久米氏は南方系の種類に似て、肥前国風土記にある「海人が隼人に似る」と述べるのは、渡来の海人族である久米氏も又、隼人に似て、南方系であるか、隼人との混血による種族であったと思われます。

三品彰英は「日本神話論」で<久米氏が栄えたのは四世紀頃で、大伴氏が軍事的伴造として台頭したのは五世紀である。久米氏はもともと西南地方の隼人系出身と言われている。「クメ」と言う名は「肥人」「熊襲」の「クマ」と同じであり、隼人系の人々は海人族の民であった>と説いている。

ここで、詳細は省くが、「クメ」「肥人(くまびと)」には異論がある。隼人系の人々は海人族だという主張も、薩摩隼人、大隈隼人、吾田隼人と多少その性格に差異がある。敢えて、海人族と言えば、野間半島の吾田隼人であろう。
私の仮説だと、南九州の大隈周辺には上野原遺跡に見られるように、會族が先住しており(大和朝廷をそれを熊襲と呼ぶ)、それらの種族が薩摩全土に居住していた。そのうち、黒潮との関係で、後に「海の隼人」とよばれる吾田族が時を重ねて、沖縄、中国江南地方、南方諸島と交流して、海人族として活躍したと思われる。一方、大和朝廷より大隈隼人と呼ばれた「山の隼人」・會族は上野原遺跡(BC9000年)に見るように大隈周辺に先住していて、かなり高度な文化を有していたと言える。
上野原遺跡からは、220基もの炉を備えた竪穴式住居が見つかっており、堅果植物の実の灰汁を抜き、煮沸して粉にしたと思われる蒸し器や貯蔵のための大壺が出土している。土偶や耳飾(占い用)の存在は明らかに祭祀が行われていた証左であろう。
また、會には「字通」によれば「甑」に通じ、「蒸し器」「大釜」の意がある。勿論、八世紀には考古学は存在しないので、上野原遺跡の「蒸し器」や「大壺」は考慮の外であるが、推測するに地元の伝承ではそれらの言い伝えは聞き及んでいた可能性はあったでろう。それが「會」の名称になったとは考えられないことではないだろうか。
「甑」は甑隼人とも関わりがありそうで、大隈地方と「甑島」そして大山祇命の関係も大変、興味がある。神武東征の後の追及になるので、時間が待ってくれるだろうか。

縄文時代は少し下がるが、BC5500年東北の三内丸山遺跡は200人にも及ぶ人たちが共同作業をしたと思われる大集会場や祭祀場、かなり高層の櫓や分業、栗の栽培、川の合理的な使用法、墓地が整備され、ゴミ捨て場も整然としている

この三内丸山遺跡から類推できるのは、少々、粗雑過ぎるかも知れないが、ただし、縄文文化を考える上では、大いに参考になりはしないだろうか。翡翠やアスファルト、黒曜石が発見されており、それらは他の文化交流の証でもある。
日本海には、対馬海流や親潮の影響があり、舟による交流も推察できる。それは、南九州を流れる黒潮の影響と似たとこらがあるように思われる。

いずれにせよ、大隈周辺の縄文時代の優れた文化は間違いないところである。
その先住民族の結束力と勇敢さが、吾田族を介在として、高度な文化や造船技術、軍事力を備えた渡来民族と血縁したとなれば、そこには優れた種族が誕生するはずだ。それが隼人の実態であろう。

私はニニギ命から神武東征まで、それらの種族の軌跡だと理解している。
ニニギ命の新田神社、彦火火出見命の鹿児島神社、ウガヤフキアエズ命の鵜戸神社、佐野命・神日本磐余彦命の宮崎神社と南九州をその勢力で制覇した感がある。私はそれを南九州系王朝と呼ぶが、せれを支える臣下が久米氏と隼人或いは、その混血種族だといえるのではないかと想定しています。陸海、二つの要素をあわせ持った集団が南九州系王朝だとして、この集団は何を考えたのでしょう。

私はここで、南九州系王朝の先進性を考えたい。ご存知のように、南九州は火山地帯で、嘗て火山の噴火により、農作物には不向きなシラス台地である。水を必要とする稲作には適用しない地質なのです。しかし、高温多湿の気候は再生力に優れ、森林は繁茂し木の実や根菜、小動物の成育には最適である。
他に、彼等はもう一つ最大な武器を持っているのです。それは海人族だからこその特権、秀でた情報収集があると言うことです。彼等は船を使用して、各地を巡り交流して、行き着く先との交流、交易だけでなく、文化・地形・国情さえも収集することが出来たのです。

神話では塩土老爺が重要な時に現れ、有効な示唆を与えます。
ニニギ命の笠沙への移住、彦火火出見命を竜宮に導く時、それからもっとも神話の核心である神武天皇の東征の指摘が塩土老爺であった。塩土老爺こそ、豊富で正確な各地の情報を把握できる海人族の首長であったと思われます。安曇族を中心として、宗像族をもその手中に握る海人族の機関の頂点だからこそ、塩土老爺は有力な示唆が出来るのです。

私は来目(久米)氏を「海の隼人」との融合と述べましたが、来目(久米)氏が海人族的な性格を持っていて、時代が下ると彼等が膳手(かしわで)の職掌を担っている伝承に出会う時、それは何かを思い出させるのです。その何かは「安曇氏」です。来目(久米)氏と安曇氏とは重なり合う要素が多すぎるのです。南九州へ上陸した海人族・膳手としての職掌、そして各地への氏族に因んだ地名が多いことそして、初期において彼等の勢力が衰退していることです。

同族、いや、同族異姓の感さえあるのです。滝川政二郎が安曇族を隼人族だとした意味は、隼人族と久米族が同族だと考えれば、三つの氏族(久米、安曇、隼人)が同じ要素に集約されていたからこその錯誤であったと思われます。
安曇氏と来目(久米)氏は同族で隼人との融合、混血が南九州系王朝を形つくっていて、その主要部分が東征し、八世紀頃には北九州系王朝に覇権を握られたと言うのが私の仮説です。(大化の改新をそれに比定することは容易なことではないでしょう)安曇氏も久米氏も、早い時期にその勢力を衰退させたのは、南九州系王朝の衰退と重なるとこがあるには、偶然の一致なのでしょうか。私はますます、この伝承の姿を明らかにしたい衝動にかられます。




最近、目立つことは野田さんの狂ったような消費税宣伝と米国のイラン排除です。両方とも言えることは国民の意識や生活のことなどは二の次で官僚の意向や米国の意向が優先で放射能が国民にえいきょうが出ようと後廻しで官僚が先ざき困る資金繰りや米国のための意向で石油を供給してくれるイラン(此れまで友好的であった)を国益を後まわしにして、米国のごり押しに屈する。(たぶん、米国の大統領選挙とイスラエルの援助のためでしょう)
私は今はもう、だれも発言しない官僚の天下りや財政の無駄使い、過去の失政の断罪等の反省などは消えてしまい、国民に痛みだけを押し付ける自分勝手な論理で事を運ぼうとしている。こんなとこは米国の自分勝手な思考方を見習わなくてもいいのに見習う。私はもう、米国がイラクの間違ったごり押しを諌める識者もいなくなったことを心配している。
これでは日本を愛する気持ちなどは起こるはずはないと断言する。ここまで病むと少し手荒な改革しかないようにも思われてくる。
2012.01.16 雑感
自分で決めたことで誰にも文句は言えないのだが、毎日書き続けることは大変なことである。

大体、創作は構想があるので熟慮さえすればある程度格好はつく。とはいえ、その熟慮はいつもでいるというわけでもありません。そんなわけなので、その他の文章はぶっつけ本番なので、直、難しい。文章修行のつもりが苦行になりつつある。今日も、パソコンに向かい何とかなると思ったのだが、何も題材となるモチイフが出てこない。
そこで雑感となったのだが、やはり雑感以外の何物ではなくなった。

さて、明日からどうすればいいものか。大変だ。
ニニギ命の天孫降臨の件(きだり)で「古事記」は<此地(ここ)は韓国(からくに)に向ひ、笠沙の御前(みさき)へ真来通(まきとお)りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故、此地は甚吉(よき)地(とこ)>とある。
「日本書紀」では、<日向の襲の高千穂のクシ日の二山峯(たけ)の浮橋に至り、うきじまのたいらに立たして、ソ穴(そしし)の空国(むなくに)の頓丘(ひたを)から、国まぎ行去(としま)いて、吾田の長屋の笠狭崎(かささのみさき)に到ります><降到(あまくだ)りまし処をば、日向の襲の高千穂の添山峯(そほりのやまたけ)という>と述べています。

ここで注目すべきことは、「古事記」の<韓国に向かい>と「日本書紀」の<添山峯>である。
韓国とは、どこを言うのであろうか。新羅だろうか、百済だろうか。私は古事記における漢字を日本書紀に言うその意味のように重きを置かない。古事記は「カラクニ」なのである。つまり、古事記は訓(くん)より音(おん)を重視するからである。日本書紀の<添(そほり)>が問題であろう。<そほり>は新羅の王都(徐伐・そほり)を音訳したものだとされている。

ここで「記・紀」を俯瞰すると、両書は共に八世紀の書である。古事記は兎も角、日本書紀はたぶんに、政治色が濃い書物である。それを踏まえて、添山峯を考えると、これが新羅の山を擬したとしても、この表現は無理がある。
私は高千穂の襲を九州の南部ととらえ、襲を會に比定する。また、例えば、西臼杵郡としても、その地が朝鮮半島には遠すぎる。北九州の地が、江南や朝鮮半島からの渡来人が移住し、地元の先住民族と血縁したとしても、国見山系や九州山地、霧島山系が人の交流を阻んでいないだろうか。
説明が長くなるので、結論を先に言えば、朝鮮渡来民族の勢力範囲は高良大社、さらに伸びたとしても英彦山神社が限界であろう。それ以上は勢威を見せるには諸条件が厳しすぎる。

日向・薩摩は、上野原遺跡、かこいノ原遺跡に見るように決して、古代文明において北九州と劣るものがない。後の大和朝廷が熊襲征伐に苦戦をしていたように(特に、熊襲と言われる<會>つまり、大隈周辺の先住民)、戦力的にも大和族に引けを取らない。
その一つに、野間半島が黒潮の影響により、江南からの渡来人の流入の可能性を窺えるので、「呉」「越」の文化交流は大いに考えられることである。熊襲の強靭さと江南の軍事技術が古代の南九州を支えうる状況にあったとしても不思議はない。

初期の南九州系王朝がニニギ命の新田神社、彦火火出見命の鹿児島神社、ウガヤフキアエズ命の鵜戸神社、更に神武天皇の宮崎神社の軌跡を追うと、南九州はかなりの国の勢いを有していることが解る。(仮説では在るが、私は狗奴国も又、この南九州の範疇に入ると考えている)

これらの要素を考えると、少なくとも日向・薩摩は南九州系王朝が統括していたことは明らかである。勿論、私はニニギ命の天孫降臨を<海>江南からの移住者と想定しており、その降臨の際、朝鮮半島を意識する可能性は薄いと思っている。
考えられることは、八世紀の「記・紀」の編纂にあたり、朝鮮半島に関わりを持つ種族が付会した可能性の方が大きいと考えている。

以前別のテ~マで、大伴氏と久米氏の地位を問題にしたことがありますが、日本書紀では明らかに、八世紀に大和朝廷に位置を占めていた大伴氏を引き立てる書き方をしている。それは何時の世でも、歴史の勝者の特権で、その点は古代史を考える上で重要なポイントなのだと思う。

私は大化の改新が本当に行われたかは疑問であるが、中大兄皇子(大兄とは長男のことである)に見られる様に、長子相続が八世紀には主流だと思ってます。それ以前、特に、神武東征までは末子相続がなされていて、八世紀の王朝とは文化的に違った潮流を感じている。政治的に、班田収受や戸籍の作成、律令制の施行などが大化の改新の主なる成果だと喧伝されているが、私は南九州系王朝(江南思想)を北九州系王朝が駆逐した思想・宗教改革的要素をあったと推察している。此れも、あくまで論拠となる証拠が少ないので、仮説の域を出ませんが、このことはこれからの私の課題でもあります。
2012.01.13 年頭に思う
今年になって、なぜ私が古代史に魅かれるのか考えてみた。
よく、日本の社会構造は社会主義的だと言われる。官僚主義がそれを色濃くしているなのそうだ。
「曖昧さ」とか「和」の精神がそうさせている。確かに、日本人には「お上」任せな愚直な所がある。この「和」と「お上任せ」はどこから来たのだろうか。

「和」と言って、思い起こさせるのは、あの有名な聖徳太子の十七条の憲法の「和をもって貴しとする」とする教えであるが、あの憲法には多分に、仏教の影響がある。。
太子は中国の皇帝に対して「日出処の天子、日没する処の天子・・・・」へと問いかけている。太子は「倭」を「和」即ち「大和」と意識改革をしたのであろう「

それが日本人の「和」の根源だと唱える人が多いい。しかし、そうだろうか。私は日本人の意識の底には多神教(アニミズム)が横たわっているのではないかと、考えている。

日本人の基底思想は一万年にも及ぶ文化を保ち続けた縄文社会が創り上げたのではないかと思わざるを得ない。
ユングの集合的無意識や遺伝工学の言うDNA形成を考えると、環境に於ける意識の対応の繰り返しが行われることによって、人の意識が変えられ、それが人格形成を創って、一つの種族を生み出した。

縄文時代の遺跡の一つである三内丸山遺跡は大きな共同作業所(二百人ほど入れる)で作業が行われ、祭祀場にも使われた形跡があり、ゴミ捨て場から出土した木の実や穀物、魚や獣の骨を観察すると、明らかに分業が進み、翡翠などはそこで祭祀者が人々を主導していた形跡が窺われる。
これは仮説ではあるが、狩猟や建設は男が、植物採取や栽培作業は女が行い、経験や霊感の強い老人が首長となって種族を統率すると言った社会主義に近い社会があったのではないかと、私は思っている。

私の意識の底には、その融和精神が根ずいていて、たまたま、眠っていた古代史への志向を引き出したのかもしれない。そう考えたのは今年の初頭なので、それが正しいのかどうかは考察の余地を残すが、今年はその日本教に近い思想を掘り起こして見たいとも思う。
私は以前「古代の出産」について話したことがある。勿論、あれは素描であって、あれから論を広げて行くわけだが、基本的には述べたとうりであろう。

しかし、出産についての「よごれ」について、産屋を焼くという行為を付言しておきたいと思う「

古代において、精子と卵子の結合などと言う出産のメカニズムは解明されてはいなかったのだから、出産は排泄物と出産は同じところから現れると言った即物的な感覚から発したのであろう。聖と「よごれ」とはそうした感覚から端を発していたに違いない。

出産とは黄泉の国にある「よごれ」<土葬による肉体の腐敗・・・・かみなりの怒る様>と聖なる再生が混在している現象なのであろう。産湯とはその「よごれ」た血と産褥の「汚れ」を火で祓う行為であろう。
産土(うぶすな)とはその火で清められた砂<土>のことなのだと思う。そこには新たに生まれた<生>だけが残るはずである。

赤は邪気を祓うと言うのは、火が「よごれ」を祓うと言う意味であろう。
2012.01.12 創作13
大山鹿子は奈良県生駒市の生まれである。鹿子は一条紀子とは相性一条紀子似たとこがあって、諍うとこがない。
一条紀子もまた、おっとりしていて、今様なサラリ~マンの性急さには周波がかみ合わない。店は昔からの常連が多く、まるで時代がさかのぼった様な感覚に襲われる。客筋も所謂、上流社会に続する老人が主でどこか緩やかなテンポが流れ、浮世離れがしている。
鳥居警部は店に入った瞬間、腰が引けたが、店の一番奥に鎮座ましましているママの方に歩んで行き、予め依頼しておいた鹿子との聴取の許可を得た。
店の奥、二坪ほどの控え室に鹿子を招きいれ、事情聴取を開始した。
「大伴さんは、何時頃から店へ来るようになったのですか」
鹿子は大きな目を一瞬見開き、一呼吸おいてから話し始めた。
「ええ、そうでしたね。確か、三年前だったかしら」
「誰かの紹介ですか」
「そうです。もう、亡くなってしまいましたが、藤原先生のご紹介でした」
「その先生は何時亡くなられたのですか」
「一年前です。ああ、亡くなったといっても、ご病気ですよ」
「・・・・・、それからは一人で、」
「ええ」
そう言って、鹿子は珍しく、上目使いになった。
それはそうだろう。短い間に親しんでいた人間が二人も亡くなっているのである。しかも大伴は殺されたのである。様々な感慨が去来したであろう。目の前の刑事が煩わしいのは自然の感情と言えた。
「誰かと諍いがあったとか。憎みあっている間柄が見られるといった出来事があるとかありませんか」
鹿子は鳥居警部をジイっと見つめてから
「大伴さんは優しい人です。喧嘩は愚か、声を荒げたこともありません」
「大伴さんの職業をご存知ですよね。あの仕事は激務ですよね。普通、自分達が出会った人たちは、飲むと感情が抑えられずに本音が出るものです。そんな時、諍いが起きます。人間ですからね」
「・・・・・でも、あの人はいつも穏やかでした」
「何が楽しみで飲みに来るのですかね」
と、カマを掛けたがそれには彼女は反応をせず
「私は絵を見るのが好きで、そうした話をするのですが、あの人は絵画にも精通していて、楽しそう会話してくれます。お客さんに蝶に引かれる人がいらっしゃるのですが、大伴さんはそんなことにも造詣があって、ウラギンヒョウモンと言う蝶が好きだと話しいあっています。あの人は趣味が広く話題に事欠くことにかきません。諍いなど見たことがありません」
「そうですか。その中で親しい人はいましたか」
「どうでしょう。大伴さん忙しい人ですから、店の外でのお付き合いはなかったと思います」
そう言って、鹿子は指の後ろでコツコツとカウンタ~を敲き始めた。すると、バア~テンの根本義男が顔を出した。
「刑事さん、そろそろいいですか。ご指名される方がお待ち名のですけど」
と、退室を促す。
時計を見ると、六時を少し回っていた。鳥居警部は「なるほど」と言って席を立った。
「また、窺うかもしれません」と依頼の言葉を残して、鳥居警部は店を出た。
災害献金は続けていますが、正確な情報が入りません。現地の住民は皆、頑張っていると思っていましたが、NPOを立ち上げているある人と話していたら、現地の多分、一部でしょうが、失業保険で潤っていて、勤労意欲を減退させているとのこと、行政はそれらの人のために支給期間を延長する法的手続きを取るように動いていると言います。私はそれを聞いて、また施政者どもは我々を間違った方向に導こうとしていると、憤りを覚える。行政は就職先を誘導することが第一なのに、またぞろ金で解決しようとしている。十ヶ月の間何をしていたのだろうか。


若くて、行動資金があれば、私は直ぐにでも現地へ跳んで行きたいのだが、一ヶ月7,8万円の生活費ではままになりません。今、出来る事は正確な情報を掴み、最短距離の行動をするしか方法がありません。ラジオ放送の一部は紐突き出ない情報を知らせてくれますが、それでもやはり民放は民放です。CMが足枷になります。十分吟味して純真な情報を引き出すように努力はしていますが、それも限界を見ています。

例えば、福島原発の最前線で就労している方々は想像を超えた条件の中で働いているのを知ると、世の中は本当に間違っていると思う。汚れた仕組みを排除するのも施政者の役目だと思うのだが、今の脆弱な政治ヤではどうにもならないだろうし、私もまた、ダメな国民の一員なのだから、このまま世の中が傾いて行くのを見ているより仕方がないのかも知れない。

今日は、酒を飲みたい気分だ。金魚にも今日は餌を遣らない。酒を飲みに行きます。
文化放送(ラジオ)の番組で田原総一郎が世情を語る番組がある。そこでジャア~ナリスト・青木さんと対談をしている。
大変興味ある対談であった。私は先般、陸山会裁判の推測有罪を大変、危惧をしているとブログした事がある。この裁判は大変危険な裁判であるのに、国民も報道する人間もうやむやにして抗議さえもする気配がなかった。考えても見てください。もし私がやってもいない事件を「お前は事件の時に不穏な動きをしている」と言う推測だけで有罪にされたらどうであろう。それこそ恐怖裁判でと言うことにならないだろうか。

そのことを田原らは抗議するはずの人たちが「無難に」走った。とかたずけた。つまり、解っていて、諸々の障害を恐れて(官僚から取材を断られるとか、社内の上司との確執を恐れた)、口を噤んだというのだ。最早、世も末である。苦痛は避けて、安楽な仕事をして楽な生活をすればいい、と言うわけである。国民も国民だが、ジャ~ナリストは権力に媚びてしまえば行く末は地獄である。

そこで彼等はもう一つ恐ろしい機関を挙げる。国税局である(財務省)。彼等は司法(警察と裁判官)を従え、罪を穿り出し、罪人に仕立てると推察する。(節税と称して誰もが脱税まがいの行為は犯している)そして、どうすれば事実被告を「無難」に脅すかの実例を挙げる。まさに、陸山会裁判の裏話である。こんなことがあってはならないのだ。裁判は確かな証拠に基ずき、自白を伴って有罪が確定するのである。「疑わしきは罰してはならない」のだ。その過程を無視すれば、中世の魔女裁判である。

悪に染まることは悪であるのだ。見過ごすことは悪人を増長させるだけである。何時から日本人は抗議も行動も忘れてしまったのだろう。昭和60年代は我々も体を張って抗議をしたものだ。若者はストやデモの先頭に立って行動を起こし、見守る国民も警官に追われる若者を匿ったものである。今では、理があって追われても、災いを恐れて見て見ぬ振りをする。私はこれを「悪しき個人主義」だと思う。日本人の正義はどこへ行ってしまったのだろう。
古くから培った日本人の「和」の精神はどこに行ってしまったのだろう。私は確かに、日本人は欧米人に比べれば、利巧とはいえないであろう。しかし、愚かだとも思わない。嘗ての隣組精神は決して恥ずかしい文化ではないはずである。

2012.01.08 創作12
二日後に四谷署からの報告があった。大伴雄三が通っていたスナックが判明したということだった。

JR四谷駅から東に200米行った路地の小さな店である。二条紀子(65歳)が経営している。従業員四人で、チイママは大山鹿子、調理をする男は早田武雄と言う。後の二人はアルバイトの女の子である。
紀子は元皇族だったが、嫁いだ大企業の三男坊が親から受け継いだ会社を倒産させて、離婚したわけだが、生活に困り、始めたのがよるの商売であった。これが意外に当たり、不思議な雰囲気が客を集めた。軌道に乗るまでは何回か人に騙され、脅されたが、持ち前の大らかさが運良く助ける人も現れて、店は固定客が増えて行く。
この店でまともな感覚の人間は調理を受け持つ早田であるが、この人も経営感覚はバランスが取れて、計数にも明るいが、無口で欲が表に出てこない。通常、水商売は危うい商売で、従業員に金銭を任せれば使い込みは必ず興る。しかし、この早田にはそれがない。異常といえば異常なのである。常連もまた、客質がよくつけを溜めても必ず支払いは済ませる。金銭でいざこざを起こすのは新しい客で、それも時間をかければ淘汰されていった。家族的といえば家族的でその雰囲気に慣れるまでは、暫らく時間がかかる。
そんな環境が大伴の気持ちを惹きつけたのか、大山鹿子ののほほんとした性格が気に入ったのか、彼は密かに店に通うようになった。
曽於を私は會が本来の意味だと思っているのが「ソ」には資源の乏しい国とか、不毛の地や人間を意味するとか諸説があるが、「大壺」や木の実を保存食に変えるための灰汁抜きの器具である「蒸し器」の存在を象徴的に国名へ使用したと言う説も捨てがたい。
つまり、「記・紀」に言う天孫降臨の神話は、事実ありうる話なのである。では、「アマ」(天・海)からやってきたのは、どこからなのでしょうか。私はそれは海からやって来たと思います。具体的に言えば、それは「呉」なのではあないでしょうか。呉族は江南の地から亡命した(BC743年の越との敗戦)支配者が黒潮に乗ってやって来たとは考えられないでしょうか。

滝川政次郎は「猪甘部考」で<漢の武帝が南越を征したあと、飽くなき誅求をのがれて百越(呉・越など)の民は、黒潮に乗って九州西海岸の南に北へ渡って来た。黒潮は屋久島の沖で、二つに分かれ、その一つが北上して対馬海峡に向かっているので、南北九州に着くのはほとんど同時である。・・・・>
また、「晋書」や「梁書」によると、倭国から朝貢に来た太夫(官僚)は自らを「呉」の太伯の末裔と名乗っていたり、南北朝の禅師・朱子学者、円月が自らの「日本紀」の中で<神武天皇は呉の泰伯の後裔である>と述べている。

また、文化的にも末子相続や文身・鵜飼の習俗・道教の浸透などを考えると、私はニニギ命は江南からやって来た「呉族}の首長の可能性が濃いと思わざるを得ません。
その軍事先導役である天津久米命は笠沙に居住し、隼人との血縁を果たしたと言う仮説も、強ち、可能性のない話だとは思いません。加世田博物館に閲覧されている「久米の土器片」はその証左の重要な一つの証拠でありましょう。
ニニギ命の天孫降臨の条(くだり)で、天津久米命(久米氏の祖)と天忍日命(大伴氏その祖)に対する地位の違いが古事記と日本書紀では大きな差がある。古事記は両氏の地位は同格とするが、日本書紀では久米氏は大伴氏に服属しているとしている。
私はここでその差異を検討してみよう。

来目について、古事記では久米と表現している。元々、古事記は音に重きをおく傾向にあり、文字にそれ程の意味を置いていないように思われる。それに引き換え、日本書紀は文字に意味を持たせる。
本居宣長は目に注目している。くるくる来目と表現し、ある学者は論外と言って問題にもしていないが、私はそこに南方系の隼人を見るし、もう一歩踏み込んで考えると、目がはっきりした安曇目とも想定できる。
一方、大伴の「伴」は八と半の構成で、八は両分の意味で、両半のものが、伴にある時<伴>と言う。「牛を折半することとし、「ともがら」と表している。つまり、狩猟を糧とする遊牧民族の首長を思わせる。

中国に於いて、民族は大きく言えば、二つに分けることが出来る。一つは黄河流域の畑作・狩猟民族を言い、他を長江流域の稲作・漁労民族と説く。

そして、朝鮮半島は黄河流域民族の影響をうけ、九州にもその傾向はあるが及ぶが、南九州は中国江南民族の影響が見られる。
こうして、俯瞰して見ると、来目は長江的な傾向にあり、大伴氏は狩猟民族的な表現に行き着く。

南九州、吾田の地(現・加世田市)は野間半島を巡る地を言い、そこから上加世田遺跡が発掘された。その周辺には紀元前9000年のかこいノ原遺跡もあり、海人族の色彩が濃い地域である。上加世田遺跡から「久米」を刻んだ土器片が出土したのも、そこが海人族の居住の地だと思うと、久米氏も吾田族の一員として、定住していたことは大いに可能性があると言えよう。
この野間半島は黒潮の影響で、南方、沖縄、江南地方の漂着の多い所で、あの有名な鑑真和上も秋目(現・鹿児島坊津)に漂着している。

当然、異文化の摂取も盛んで、縄文時代より高い文化を有している。かこいノ原遺跡も、竪穴式住居、炉穴、焼け集石が見られ、土器、石皿、すり石、石ゾクなどが発見され、縄文時代の典型的な要素が全て出揃っていて、日本列島に先駆けて、いち早く豊かな森が成立し、木の実の加工用石皿、敲き石、スリ石或いは、その灰汁抜き、煮炊き用の土器から使用され、森から海の食料源が豊富で、定住、可能性な要素が備えられている。また、特質すべきは、この遺跡からは、丸ノミ式石斧も出土していて、紀元前9000年には丸木船の製造から考えられ、海を通じた内外の交流も行われていた。

ニニギ命の天孫降臨の説話を多くの学者は神話として捕え、創作だと断定する向きが多いが、私は南九州、ここででは野間半島に限っても、定住を可能にする文化と異民族との交流をする文化の接点であると考えている。ニニギ命一行が日向の高千穂の「襲}より、真来通って、の野間半島の笠沙に移住し、吾田鹿葦津姫(コノハナヤサクヤ姫)と血縁するのは強ち、創作とは言えない環境にあることが解る。吾田は隼人<八世紀の熊襲>の定住地で、襲(會・曽於・山の隼人)を中心とした種族の分派(海の隼人)であろう。吾田鹿葦津姫の吾田は吾田隼人の意味である。そこで、吾田鹿葦つ姫が自分の父を大山祇命と名乗っているのだが、「記・紀」の文脈から言えば、それは會(襲)の地の首長である可能性が強い。この仮説をとれば、「山の隼人」曽於の地が薩摩隼人、吾田隼人などに統括したと思われる。吾田姫が大山祇命を父を名乗ったのはそう言う意味であろう。
天孫降臨の本意は、海からやって来たニニギ命の一行は一度、野間半島に着き、そこから南九州の連合国・曽於の首長に和平へ向かい、融和の象徴として、吾田鹿葦津姫と血縁すると言うことは、ごく普通な説話であろう。
当然、會・曽於の地にもまた、紀元前9000年に存在した縄文の先住民族が定住している。それは、国分市(前・大隈・旧桑原郡)から発掘された上野原遺跡の炉を備えた竪穴式住居が証明し、土偶や耳飾の存在はそこで呪術的な祭祀も行われていたことを想定できる。

津田左右吉は南九州を野蛮な地と称しているが、それは単に資料不足であって、事実、縄文時代早期は他の日本列島と引けをとらない文化が存続している。
その文化の源は吾田隼人であろうし、その情報を吸収して、統括していた曽於の主張の政治力であったのはさほど誤りではないだろう。
私は元旦に地元、産土神(うぶすなかみ)の氷川神社へお参りに行った。かなりの混雑で我々は本当に無意識のうちに日本教の信者であるらしい。しかし、それは意識として捕らえているわけではなく、あくまで習慣、無意識に崇拝しているに過ぎない。
私は今年こそはその意識を顕在化される運動を始めようと、行動するためにも初詣をしたと言えよう。
地元の氷川神社は祭神はスサノオウ命でそのほか摂社が三社在った。御嶽神社、稲荷神社、北野神社である。

本願の大宮氷川神社は祭神をスサノオウ命でかなりの摂社、末社が祀られている。摂社の主は天照大神で、末社は手名椎神、足名椎神である。元々、氷川神社は産土神社としては荒巾脛神を祀っていた。祭神は荒巾脛神が主神であった。しかし、大和朝廷の勢力が強くなり地方豪族がそれに服属し、神社の祭神が変えられるようになった。面白いことには、氷川神社は出雲系で国津神を祀る神社で大和系の神社とは異にしている。

神社で面白いのは、祭神より末社の産土探しである。私は産土(出産の時に産屋を立て、砂・土を敷き、出産の際に染み込んだ血のついた土を言う。つまり先住の地である)神に興味があり、そこにこそ、その神社の本願があると思っています。

その地元の神社の参詣を終え、次の日にラジオを聴いていると、野田首相さんが「ネバ~ネバ~ネバ~ギブアップ」と叫んでいるのを聞き、何のことかと聞き耳を立てていると、どうやら彼は消費税を上げるために叫んでいるようでした。

私も消費税はアホな官僚や政治家の尻ぬ食いの為ではあるけれど、仕方がないとは思っています。しかし、野田さんが力んで叫んでいるのを聞いていて、彼は裸の王様そのものだと実感した。王様は出来の悪い、ねい臣から吹き込まれたソロバン片手の理論を、後生大事に説きまわる、素直といえば素直な良い子であるが少しできの悪い生徒会長よろしく、ただ拡声器のごとく垂れ流しているに過ぎない。
少し頭を使うことが出来る人なら、いや真剣に国民のことを考える者なら改革は片手落ちではならず、もっと本質的な改革でなければならないことぐらいはわかるはずだ。改革には流血が伴うのだ。自ら血を浴びないで出来るものではない。自分の力が最後の砦なのである。今の野田さんを見ていると、自分は安全な所にいて苦労をしないですむ税金の取立てにいそしんでいるとしか思えない。税金で動いている官僚組織には手をつけず、政治家に痛みを要求せずに借金は減らないのです。借金をしたのは国民ではないのです。官僚と政治屋です。そのへんの改革には目を向けず、簡単な税金を取ることに終始するなら誰にでも出来ます。口角、泡を飛ばすこともないのです。
努力なくして、施策は成立しないことを肝に銘ずるべきです。

また、今年も年金減らしの元年になりそうだと肝に銘じました。数年前、年金の百年の計はどこへ行ったのでしょう。30年前の年金計画のばら色人生は泡だったのでしょうか。何せ官僚の無責任な言葉と政治家のころころと変わる軽い言葉はどうにかなりませんか。
これも仕方がないのでしょうね。なにせ、政治家を選ぶのは軽い国民なのですから。


古事記に天孫降臨の軍事先導者として、天忍日命と天津大久米命を伴ってあまくだります。北九州から神武天皇より先にニギハヤヒ命は物部氏や海人族、その他の伴部を率いて、大和のイカルガの峰に降り立ちます。ここで問題なのは、ニギハヤヒ命が多くの臣下を率いていることです。一つの集団の首長が移動する時には海人族、軍人、職能集団を伴います。
例えば、徐福が神国へ不老長寿の薬を求めに行く時も、多くの集団を率いて行きます。

「史記・淮南衡列伝」には<男女三千人を遣わし、之に五穀種、百工を行かしむ>と述べています。

また、「櫨山記」に<一千人の童男童女と五穀の種子のほか、七族といわれた航海、天文、呪術、造船、記録、薬師官、農耕人を五百艘の船に分乗させたとあります。

一説には、<大鮫魚のために神山に上陸できず、始皇帝に援軍を求め徐福の二番隊に総勢554人、医師、農業人、鋳物氏、酒造職人、大工、石工、金工、紙工、製塩製油人などの専門家を85艘の舟に乗せたとあります。

ここで天津大久米命について考えてみようと思います。

ニニギ命の一行は、天忍日命(大伴連らの祖)と天津大久米命(久米直らの祖)と伴に「襲」の峰に降臨し、笠沙への移動を先導します。日本書紀では、天忍日命が久米部を率いていると記述していますが、古事記では二命は同格であると書きます。
私は同じ部隊に指揮官が二人存在することはありえないと考えます。日本書紀の言うように、天忍日命が上司で、久米氏は副官だとしたら、それは軍隊の体をなしているでしょう。
しかし、私は少し見解を異にします。

大和朝廷の正史(続日本記)に、702年、南九州にばん居する「熊襲」を征伐するために、肥後国より、肥君、五木部氏、大伴氏を出水郡と高城郡に派遣します。その結果、その地は「薩摩隼人の国」と「吾田隼人の国」へ分割されるのです。
また、大嘗祭の久米舞の披露に大伴氏が琴を奏で、佐伯氏が太刀で蜘蛛を斬る舞を演ずるのです。
この久米舞に久米氏の名前がありません。不自然ではありませんか。大伴氏主導なら大伴舞でもいいではないですか。それがそう改まらないのは、久米氏が舞の発祥でそれに意味があるからです。
しかし、何らかの理由があって久米氏が衰退して、大伴氏がそ肩代わりをしたと考えた方が合理的でしょう。

そもそも、久米舞は久米歌から発祥したとされ、それは、神武東征の際の戦況を「舞」にしたものと思われます。ここでの主役は明らかに久米氏で、その後に続く神武天皇の皇后選びにも、久米氏が重要な役割を占めていることからしても久米氏は神武天皇の重要な側近であることが顕現されるのです。

当時の久米氏は神武天皇の重臣であったのです。そらが日本書紀が記すように、大伴氏を久米氏の上位に置くのは、八世紀に於ける大和朝廷が北九州系王朝(これは私の仮説で朝鮮渡来人と先住大和人の混血)が政権を握ったからに外なりません。神武天皇が南九州系王朝(これも仮説で江南人と熊襲との混血)であるのに対し、天智、天武、持統天皇と続く王朝は明らかに朝鮮系王朝なのです。
大伴氏は、正史の隼人征伐に見られるように、大和朝廷側の豪族であるのは明らかです。
藤原不比等を中心とする天智系の識者が編んだ「記・紀」に、特に日本書紀には、北九州系王朝に組した豪族が優位に取り上げられるのは正史の宿命といえます。
では何故、久米氏が歴史の中から衰退したのかは、不明な点が多く、私は久米氏が南九州系王朝側であったため、頭角を現すことが出来なかったのではないかと推察していますが、そのことはこれからの追及にまつ外に方法がありませんが、今、言えることは、上加世田遺跡に「久米」を刻んだ土器片が出土している事実をさらに考察するしか方法がないと思われます。

2012.01.02 今年の目標
今年は戦後史の再考と「久米氏」「安曇氏」の解明をしたい。もう一つは、古代史の学習グル~プを立ち上げることです。

特に、学習集団の結束は思ったように行かないことが解ったので、理解をしてくれる人を二人見つけるようにつ
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