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2012.03.31 漆について
漆は聖樹であり、創生と再生に関わる祭儀の樹木でもあった。
中国の説文と言う文字に関する書物には漆は七とかかわりがあり、七は切断した骨の形を表わしていて、一に従うと書かれ、十の従画、つまり十の字の範囲であると言う。中国で一は始めであり、十は一に戻る、つまり再生である。

外来種、中国からヒマラヤにかけてが原産で、長江流域から対馬海流に乗って北陸地方に紀元前8000年くらいに上陸したと思われる。その頃には、樹液採取技術や精製方法も又、確立していて、貯蔵の土器やアンギン状の精製布が出土している。

そのとき、瓢箪等の栽培植物、エゴマ、石製耳飾りも出土していて、とこにエゴマは漆の配色の際の黒と赤の色ずけに使用されている。黒は炭、赤はベンガルや水銀朱が使われ、リャンシャン遺跡の彩陶との関係も考えられ、縄文時代から中国、特に長江流域からの影響が顕著である。

私は土偶や鏡、勾玉と同様に漆もまた、祭儀との関わりが重要な「物」であると考えます。
漆についても少し考察してみたいと思う。
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3・11以後静に様々な枠が崩れて行いるような気がする。行政は中央と地方は完全に考え方が離れて行く。国の施政者と国民もその考え方はその距離が顕著になっている。

最近、消費税の税率引き上げをめぐって二つに分裂している。官僚を後ろ盾に増税派と反対派ははっきりと分かれるだろう。それは決め事の遵守が守る意識と崩す意識が曖昧になり、その結び目が緩んできて、どうでもよくなってきた。そうした精神の弛緩が始まったと私は思っている。

無頓着に言うと、個人的な資本主義が成熟期を過ぎ、崩壊に向かっているからではないか。一見、荒唐無稽に思える天災は人災を呼ぶといった諺は、実は分離して考えるのではなく、自然もまた、その形を変えようとしているのではないか。その崩壊の連鎖が人間に及んできたと私は直感する。

非常に危険な兆候なのだが、それを顕在的に発言する知者が皆無である。ム~やアトランテス、ボンベイの悲劇はこんな時起こったのではないか、と想像するのは荒唐無稽なのだろうか。日本沈没がありえないことなのだろうか。私は、今、そんなことを思いながら、時を数えている。
言うまでもなく、自分の立場でモノを考えるということが大事なのだが、その根底には自分がそして家族がそれを取り巻く隣人がいるはずである。

取り巻く我々の環境は当然、地(くに、ふるさと)が有るのである。そこが発想の原点であるはずである。
つまり、そこを原点にした自主性こそ大切な哲学なのではないでしょうか。

だから、私は恒に自主性を大切にしてきた。

国の政治が消費税引き上げに命を賭けると言う指導者、しかも嘗て、自分の主張と異なる政策に命を賭けるという政治家を私は信用しない。
今、大震災からの復興や原発の対策、経済状況の衰退などなさねばならない政策があるはずなのに、明らかに財務省の尻拭いのために奔走する傀儡はまるで、旧自民党を再現させる官僚主導主義(私は今、予言する現民主党の執行部は連立する。どちらも財務省の傀儡・・・自主性喪失の政治家だからである)の復活に他ならない。
国難はその今根本を命を賭けて行わなければ成らないのだが、その覚悟は野田政権にはない。簡単である。自主性が賭けているからである。自分の言葉を持たないからその全体が見えないのである。(再度言わせて貰うと、私は官僚が犯した失敗の尻拭いのためだが、消費税を引き上げるのは仕方がない・・・それも我々の責任なのだから)

日本は大国ではない。美しい国土と太古から築き上げてきた連帯意識を持った家族主義に近い国なのである。アングロサクソンから見れば幼い哲学というだろうが、この弁証主義的な思想は遙かに先進的な考え方である。私はこの太古からの哲学を誇りたい。
私は彼の行為には賛成しかねる。

私は国際化には反対なのです。国際交流は有るべきですが、大事なのは自分の場、故郷(ふるさと)・産土です。

「東に美(よ)き地(くに)あり、青山四周(よもをめぐ)らす。」このことが故郷の原点です。

自らを愛すること、周囲を愛すること。それが出来ないで飛躍するのは虚しい。私は猫ひろしのカンボジア・マラソン選手選定を聞き、不快感を禁じえない。こんな軽はずみな行動は慎むべきです。
なるべく毎日、文章を書こうと決めたのだが、これが大変難しい。毎日書いていると、書く素材がなくなるのだ。
今日は今日とて、行き詰まる。

そこで何となく、関裕二の「浦島太郎と武内宿禰」に目を通していて、彼が浦島と武内宿禰を結び付けようと、仮説を展開するのを見て、その説は少々無理があると考えていて、ふと「浦島物語」は海人族の漂流説話なのではないかと考えた。「まろびと信仰」の一端で、南方漂流の経験が、異文化接触の驚きや憧れを神話化したのかもしれない。

漁師・浦島は亀(目なし籠)にのって竜宮(南方の異国)に流れ着き、そこで自分達の生活とは異なる生活様式や思想(考え方)に触れて、その地の人々に歓待されて、時間(月日)を忘れる。しかし、彼は故郷が恋しくなり、帰郷しようと決心する。帰途は苦難の連続でかなりの時間を要した。浦島はかの地の女性から贈られた玉手箱を持って国に帰る。玉手箱は異国の優れた生活様式や哲学であろう。そには父母は死に家は他人に渡ってきたに違いない。そこで彼は玉手箱を見ながら途方にくれる。と言うのがこの物語なのではないだろうか。

そしてもう一つ「古代の大王(天皇)」について。

ふと、古代大王は縄文からの呪術者の系譜ではないかと思いついた。多神教である巫ゲキがそのそこに宿っていて、天皇に継承されている。天皇は巫ゲキで人智を超えた超自然的な能力を持つ呪術者であったと思われる。あくまで、縄文の呪術者が天皇制に継承されていると言うのは仮説であるが、一考に値する。

AIJは厚生労働省のあまくだり機関である。それが国民が老後の設計のため積んだ年金保険料をまるで馬券のように消費してしまう。多分、その損失はAIJを倒産してしまえば後の尻拭いは誰がするのだろうか。中小企業家達だろうか。厚生労働省の官僚だろうか。はたまた、国の税金だろうか。いや、私はなんだかんだといって年金受給者の年金額を減額して帳尻を合わせてくるはずダと推察している。今の政治家や官僚は自分の腹や汗をかくことはしない広く一番楽な方法で帳尻を合わせてくる。
受給者は受給者でそれに対して厳しい追求などしない。まるで、アホのように口を開けたまま指を咥えて佇むだけである。
もし、これが民間の個人的な財産なら、眼を血走らせて民事訴訟に持ち込むであろう。

年金の支払い義務者や国はAIJを倒産させてはならない。Aijの責任者にその損失の穴埋めを課すべきである。いや、今まで国民の年金を濡れ手で粟の如くしゃぶりついてきた厚生労働省の責任者から損失した保険料を法にもとずいて回収するべきである。

今の施政者は安易に補填を国民に(税金)負担させる。しかし、悪いのは政府であり関係官僚であり、悪徳業者なのだ。そこには何の責任を負わせずに目こぼしをしているかのように甘い。勘ぐれば、彼等は悪徳仲間なのではないかと疑わしくなる。

この国には政治も行政も司法さえも一塊となって国民の財産を食いたらしている。何時から日本はこんなにダラシのない国になってしまったのだろうか。

不思議なのは損失した保険積み立てはどこに消えたのだろう。損すれば儲ける奴がいるはずだ。まさか、ここには「ヴェニスの商人」いないでしょうね。
2012.03.23 祈りについて
ラジオで呪いとか祟りの放送を聞き、その先には祈りしか方法がないことを知る。

先ず、前近代的な発想である。と考え、ふと、そうだろうかと思い直した。
確かに、祈り事態にその対象、今回においては、大震災だが、自然の脅威に際しては私達は術はない。

科学に何の力を齎さなかった。そのとうりではある。しかし、科学だって捨てたものではない。生活だって戦争だって、私達の想像を超えた思考過程は驚くべきものがある。生活はなんと便利になったのだろう。掃除にしても洗濯にしても、いや皿洗いさえも手を汚すことなく洗い流し直ぐに使用に耐える状態で器具から出てくる。そんな状態での呪いの余地がはないのだ。

私は科学の方法論である帰納法はそれなりに優れた考えだと認識する。それが私達の生活を豊かにしてくれるのだ。いやあらゆる分野で大きな進歩を齎した。
しかし、その偏重は驕りであり、考えようによっては退歩でもある。帰納法の前提は仮説であり、神の分野なのである。その事実を我々は忘れては成らないのだ。そこに祈りの重要性があることも頭の片隅に入れることこそ人間を豊かにするのだと言うことも大切なのだ。

それに関連して、「たけろうト~クパレット」の編集手帳でどこの新聞社か解らないが、地名変更にといての紹介を放送していた。
その中で、「空蝉」について言及している。その「空蝉」について大した言葉ではないと述べている。
しかし、こうした軽い言葉が地名変更を容易にしている根源に成っていることには、気がついていない。「空蝉」には再生神話についての深い意味が存在しているいることにはこの筆者は無頓着なのである。
地名には、確かに地霊が介在しているのかもしれない。地霊については、認識不足でわからないところがあるので、断言できないが、地名には明らかに生活や歴史が存在することは事実で、そこに産土の意義がある。
産土とは、一説には出産に関わる血と地の説話が存在して、出産とその土地が血で繋がっているとする考えられている。産土は「古事記」に見られる「黄泉戸喰(よもつへぐい)」つまり、その地の食べ物を喰らうとその土地の「掟」に縛られる。と、言う意味なのである。

地域の財政、つまり経済・お金がその産土を売ることを正当化する材料になっている、悲しむべき思慮の浅さが呼ぶ、金権体質こそ非難されるべきなのである。これは、大袈裟に言えば、「売国奴」なのである。我々はもっと、地名に対する尊崇の念を持って欲しいと願うばかりである。

気候は不順だが、私は図書館通いは気にならない。

30分自転車で図書館まで行くわけだが、中野中央図書館には図書相談員に永井さんと言う方がおられて、この方が私の無理難題を聞いてくれる。かなり入手困難の書籍も見つけてくれる。有難く思っています。

3月12日でしたか、岩手の釣り船が兵庫県沖で見つかったと言う報道があり、それは海流の関係から、不可能に近い発見なので、私なりの調査を行ったのですが、海洋国日本も日本海の海流に関しては文献が少なく大変、苦労しましたが、永井さんのお陰で二三の文献から、漸くその航路が解り掛けてきました。

自衛隊の見解は、黒潮反流に乗って(黒潮続流・・・本流、のかなり外に流れる)、南九州の外海で合流して、対馬海流に乗って兵庫沖に着いたと述べています。それも考えられなくはないのですが、可能性は薄い。
私は、津軽海峡を越え、リマン海峡を朝鮮半島沿いに北鮮寒流と合流して(北海流)、東シナ海の対馬海流(南海流)に乗り換え、その流れに乗って兵庫県沖にたどり着いたと考える方が可能性としては濃いと思っている。

ここで言いたいことは、それとは関係ないのですが、図書館に通うまで、道路工事や電気工事の多いことである。
多分、公共投資の一貫であろうが、またぞろ工費の無駄使いの可能性が窺われる。この光景は、いつか経験したことがあると思っていてが、それはバブル景気のときだと思い起こされた。あの時の無駄使いがまたぞろ一人歩きを始めたようである。思えば、役所が強くなるとこの光景が始まるのである。そして、間違いなく、その先は景気が悪化するのである。私は執拗な性格なので飽きもせずに、減らず口を敲いているが、この頃は少々辟易気味である。何とか成らないだろうか。
高校野球の選抜戦が始まった。その選手宣誓に私は怒りを覚えた。

あれは高校球児の話す域を明らかに超えている。そこには高校生の生活より醜い大人の政治の息使いを感じるからである。高校生の野球と高校生活に関する息使いを、私はあの宣誓に感じられない。本当なら、高校生活と震災と震災に遭われた人々との挿話を語ることが必要だったはずである。あの宣誓は、心のねじれた私に言わせれば大人が関与した宣誓なような気がする。自主性が感じられないのである。

同じ時期に、民主党の議員総会があって、そこで消費税の論議が成されている。

そこで執行部の文言は「社会補償と税の一体化」と言う表現を使っている。それは野田氏とその取り巻きの政治家の言葉だろうか。私にはその言葉には、官僚、いや財務省の口先が思い浮んでくる。

民主党は政治主導を旗印を武器に出発したのではなかったろうか。あのマニュフェストは具体的には齟齬があったが、あの精神だけは理解できた。大事なのは、精神の継続なのだ。今の、野田氏とそれを取り巻く輩は、その基本をかなぐり捨てた官僚従属集団なのである。

誤解なきように様に言っておきたいのは、私は政治家の失敗を、国民が責任を取るために消費税で補うのは、仕方がないとは思っている。しかし、それには血の滲むような制度改革(制度改革や官僚組織の改革、無駄な費用の削減など)が必要であるのだ。その努力を放棄して消費税を上げるのは政治家の行為ではなく、単なる官僚追従でしかない。

私は天皇陛下が自らの病状の悪さを押して3・11の追悼式にご参列した誠意に、天皇としての自主性を感じ、頭が下がる思いで、感激したことを思い出す。多分、医師団は追悼式の参加を進言しなかっただろうと推測している。医師団は安静を進言したはずである。それを押して参列した陛下の行為は、大袈裟に言えば、命を賭けた行為といえる。そこに日本の君主としての誇りを感じるのだ。

私はあの痛々しいお姿を拝見していて、その側で平然としていろ国家元首に落胆せざるを得ない。

多分、今まで自主性を持って行動しているのは、私が知る報道の中では、天皇陛下だけであろう。(勿論、影で必死になって災害と戦っている被災者やボランタリ~の人々が隠れていることは承知しているうえだが、)

今、大事な事は自分の言葉で考え、自分の振る舞いを起こすことである。他人の言葉で操られることは慎むことである。私は高校球児の選手宣誓を聞いていて、そんなことを思った。
過日、「陸山会」裁判で地裁は三名の被告に有罪を科した。
証拠も自白もない推測裁判である。<疑わしきは罰せず>それは裁判の原則であろう。私はこの裁判は中世の魔女裁判への後退裁判だと思う。明らかに民主主義の衰退が表れている。

大体、時代が衰退して行く時は、必ず大災害や人災が発生するものである。人の心の緩みが論理や倫理観を薄弱にして行く。人々は「掟」の遵守が恣意的に成るのである。「掟」の本質が曲解されて行くのである。恣意とは恐ろしいもので、最早、万民の者ではなくなり、ある個人の邪まな欲望の下で操作されて行く。そこには公人の意識は存在しない。私的で恣意的な私人の意識しか見られないのである。歴史と共に賢人たちが血の滲むような努力で積み上げてきた概念を、それらの愚人達はいとも簡単に突き崩して行く。賢人の賢人たる所以は、自主の精神なのだが、その自主性があるからこそ、外部の権力に妨げることなく、自らの尊厳を貫くことが出来るのである。

私は、一連の小澤裁判にその権威の衰退を見ている。

誤解なきように言えば、私は小澤一郎と言う政治家を全面的に支持するものではない、危険な要素を多く持つ政治家だと判断している。小澤は大阪市長の橋下氏ほどではないが、独裁を許しては成らない政治家である。

しかし、現在所属している政治家と比較すると小澤は「掟」の何がしかは認識しているし、彼の政治に対する信条、民主の意義や地方分権、日本的な教育改革などは現在の民主党がもつマニフェスト精神に近い主張が認められる点で優れていると思われるのである。
裁判官並みの推測で言えば、彼はあの金権政治家・田中角栄(時代を考慮すれば一概に悪とは判断が出来ない)の弟子らしく、金権体質は感じられる。感jられるのであって、その実証する証拠があるわけではない。

しかし、押しなべて言うなら、私達が選ぶ議員の大多数は金まみれだと私は推察している。そして、その点では、監視もやむなし、棚上げをして前進するより仕方ないと考えている人種である。<疑わしくは罰せず>を貫くより仕方ないのである。

しかし、今、小澤裁判を取り巻く状況はどうであろう。検察も裁判官も明らかに有罪を前提に突き進んでる。裁判は成立不能だと言うのに、マスゴミと言うタイコ持ちと共に小澤有罪と言う思惑に走ろうとしている。私はこの世情には反対せざるを得ない。

そして、又、検察審査会成る制度についても、国益の衰退をもいるようで、哀しい思いを禁じ得ない。
この制度は自主性をそぐ非民主的な制度であると思う。倫理を問うなら、私も反対しないが、法律の内容まで踏み込むのには反対である。それは私の以前からの主張である。

第一、罪を五年にするか十年にするかの判断基準を私は持ち合わせていない。それを判断するとしたら、検察の専門的な説明を必要とするだろう。当然、その時は結果として、検察先行の行程を取ることになる。そんな操作可能な世の中」は危険極まりない。世の中が変更した方向に」向かってしまう。

結論を言えば、小澤一郎は無罪である。願わくば、彼が掲げる信条を議員して実行するように監視して行こうと思う。
2012.03.19 海流について
兵庫県沖の岩手・釣り船を調べていて、日本を取り巻く海流がこれほど複雑だとは思わなかった。

海流は南から来る暖流と北から来る寒流に分かれる。主なる海流は黒潮でこの海流はかなり勢力が強い。南九州沖で太平洋方向に黒潮続流、日本海方向には対馬海流に分かれる。更に、対馬海流は、黄海暖流と東鮮暖流に分流する。
また、北から親潮と中国沖にリマン海流、朝鮮側に北鮮寒流が流れている。

そして、南からの各暖流には小さな反流が起こる。つまり、日本海側の潮流はかなり複雑の流れをしている。

岩手の釣り船は津軽海峡を横切り、リマン海流に乗って、北鮮寒流に連なって北九州にたどり着く、そこで対馬海流と合流して兵庫沖に着く。といった経路は可能性がないわけではない。

或いは、東北沖沿いに小さな対馬海流の反流に乗って、兵庫や出雲沖にたどり着く経路も考えられなくはない。
いずれにせよ、日本海側の複雑な潮流は幾つもの経路が考えられそううだ。

暖流は水の密度が低く、寒流は密度が高いため、寒流は暖流の下に潜り込む。だから、北鮮寒流と対馬海流とぶつかると、対馬海流の下に寒流が潜り込むため、釣り船は対馬海流に合流したのであろう。
「古事記」「日本書紀」は都合の悪いことは沈黙する。<卑弥呼>や<蘇我氏>は何も語ろうとしない。多分そこには、大和朝廷に都合の悪い事が含まれているからである。

現代では消費税であろう。そこで特別会計や公的積立金を財務省が語らないのは、そこに重要な項目があるからではないからだろうか。

公的積立金はひょっとすると形式的な表記しかないのではなかろうか。厚生労働省が名目の帳簿記載で保険料を使い込んでいたように、財務省もまた、特別会計を不正に使い込んでいるのではないかと言う疑惑が湧くのは財官僚が必要に拘(こだわ)るのは、そこにあるのではないことを期待する。

日本国民は払ってしまった税金については、無頓着である。そのことを利用されてはいないだろうか。隣のおばさんのように気軽にそういったお偉さんの行動に口をはさもうではないか。そのことが自分達の生活を良くすることに成るかもしれない。
2012.03.16 最近の報道
最近の報道を見聞して、二つほど目に付いた。

一つは検察と裁判官の怠慢・・・冤罪の連続逆転である。特に私が危惧するのは、裁判官の心証優先主義の横行である。裁判は客観主義が原則であり、実証証拠と自白が一致しなければならない。こんな素人でも解ることが、現在の裁判官には平然と見過ごされている。危険な世の中である。

もう一つは家族構成のことである。つまり、現象が日常化していることである。
50年前は私の記憶では、隣人同士の交流があった。それが欧米の個人主義が横行して、隣人との隔離が日常化してきてしまった。

私の持論であるが、太古から日本人の考え方の深層には、アニミズムの思想が染み付いているはずである。

「東に美(よ)き地(くに)あり、青山四周(よもをめぐ)らす」・・・・日本書紀

美しい山とそれが育む渓流とその恩恵そして囲まれた海の幸、それが日本の国情であった。(産土神の祀る国)それが何時からか、日本は経済大国なるものを唱えて(唆<そそのか>され)、美しい環境を破壊してきた。
私は思う。日本は決して大国ではない。小さな国で、限りなく美しい国なのである。その大前提を捻じ曲げて、虚勢をはって無理に無理を重ねれば国は汚れるのは自明の理である。

もう一度、繰り返します。日本には欧米が唱える個人主義的自我は存在しません。日本人が縄文時代から育んできたの多神教的自我である。野暮ったい欧米の哲学用語で言えば、弁証法的自我が我々の自我なのである。通俗的に言えば、お互いに干渉しあって、隣人との融和を図って生活をしてきたのです。私流に言えば、緩やかな干渉主義が私達の生活環境を形創(かたちつく)ってきたのです。

今、孤独死はその弊害の結果でしょう。一考を要すると思います。
東日本大震災は様々な事変を我々に齎した。

行政の緩慢さ、庶民の底力、原発の怖ろしさ、哀しい追悼式の鎮魂歌。

私にとって、天皇陛下の追悼の辞も心からの感動を貰った。多分、陛下は手術後の健康状態はそれ程良かったとは思えない。医者はなるべくなら安静をと進言したはずであろう。そこに私は君主としての誠意を感じた。
かつて、私は天皇制には否定的な人間であった。今でも、我々の占領軍の遺族や被害者にとって有利に働いたとは思わない。しかし、天皇制の起源を探究して行く過程で、嘗て程、単純に否定的な姿勢をとることは出来なくなった。

戦後史で現在の日本の状況を創り上げたのは、米国と吉田茂を中心とした保守勢力であろう。天皇はその中で、どういう状況にあったのか、私は今、検証中であるが、少なくとも、昭和、平成の天皇は誠実に日本の象徴として機能していることは事実である。まだ、私は心の中での結論は出ていないが、3・11追悼式では天皇の姿は心に残ったのは事実である。

もう一つ、岩手に釣り舟が兵庫県沖で見つかった報道に私は非常に興味を注がれた。

戦後史の延長、神武天皇を調べている過程で、ニニギ命の天孫降臨の根拠探しで、野間半島のかこいノ原遺跡で出土した丸ノミ式石斧を分布域を調べていて(それは一万年前の阿多族の丸木舟の製作に関わる)、その領域が南九州から沖縄にまで広がっていることが解った。その一つに、種子島の大薗遺跡で縄文晩期の東北・大洞(おおぼら)式土器が見つかっている。(上村俊雄は大洞土器が2000年前に海を越えて薩南諸島に齎されたとしても不思議がないと述べている)

私の理解では、日本を取り巻く海流は南から北へ太平洋は黒潮が、日本海は対馬海流が流れ、北から南には、リマン海流と親潮が流れているのは了解している。
しかし、黒潮や対馬海流が齎す伝承や事実は数多く知ってはいるが、反対に北から南へのそれは理解が及ばなかった。

そこに今度の兵庫県沖で発見された釣り船の経路は私にとって大変興味を引くことであった。
もし、つり舟の流れた経路が具体的にどういう海流の流れを通ったか解れば、種子島の大薗遺跡の大洞式土器の経路が明らかになると同時に、縄文時代の舟による遠距離交流があかされることにもなる。
それは、ニニギ命や安曇氏・久米氏の江南の野間半島上陸の一助にもなり、古代において海人族の役割が顕著な事実にも証明の可能性を残す。

そして、私の想像力は益々、膨らんで行くのである。楽しいことではないか。今回の漂流が詳細に解明されることを望む。
3・13の報道で岩手の釜石の釣り船が兵庫県沖で見つかった。
津軽海峡を横切り、対馬海峡に逆らい如何して兵庫へと漂着したのだろう。

自衛隊は他説を述べる。太平洋を大きく迂回して南九州で黒潮に乗り、対馬海流に乗り換え兵庫に着いたという。

私は南海の土器を調べていて、種子島の中種子町・熊毛郡納棺・大薗遺跡で、東北地方の縄文晩期の大洞(おおぼら)式土器が出土しているの発見した。上村俊雄は大洞式土器が「2000数百年前に海を越えて薩南諸島に齎されたとしても不思議がない」と述べているが、それがどうしても理解できなかった。しかし、偶然にも、今度の兵庫で岩手の釣り船が見つかったと言う記事を知るにつけ、東北と薩南の交流が可能であったと言う事実を知ることになった。

もう少し詳細な海流の流れを知りたいと思う。
2012.03.12 年金について
企業年金が破綻し続ける。2000億円にも昇る損失。あの悪徳高い厚生年金族・人の金をなんとも思わない倫理観が0の亡者ども。これは明らかに、犯罪である。嘗て、団塊の世代から集めた保険料を不正に使った厚生官僚どもは何の責任を取ることもなく、ぬくぬくと肥え太った。私はその犯罪行為に対して、民事訴訟を起こせと叫んできた。しかし、それを聞きとめる人は皆無であった。

悪人が肥え太る世の中は、当たり前のことだが、滅びて行く。今度の企業年金不正投機も何とか間とか言ってその不正行為を正当化してうやむやになってゆくだろう。

でも、確実にいえることはその不正に流れた資金はどこかの懐に入っているのだ。そして、それを追求する機関は決して現れないことだ。私は根性が曲がっているから、それを追求する機関もまた、東電が金で抱き込んだように悪の網の目を張り巡らして、手心を加えているに違いないこ思っているのだ。

こんな他人任せの世の中はまたぞろ、神様が大地震のお仕置きをするに違いない。私は、最早、70歳である世の中がどうなろうと構わないが、今のささやかな年金が減らされないことを願う。しかし、100年の年金保証も数年で反故にするような行政諸氏や偉い議員さんたちである。30年前、年金があるから思い切って、自分のライフワ~クに打ち込もうと考え、それを実行してきた自分が愚かだっただけである。

今、子供達に言えることは、人のことはどうでもいい自分の利益を優先して考えろ。おの有能な財務・厚生官僚のように頭を使って苦労をしないで、「濡れ手粟」を掴む事を考えろ、そう進言したい。人は信念などと言う愚かの精神を持ってはならないのである。努力より、人を踏み台にすることだと。
東日本大震災・追悼式が国立劇場で施行された。
厳かな雰囲気の中、首相の悼辞、そして天皇陛下のお言葉があった。


東北と福島の県民、亡くなった方々や救助で命を失った人々に対して深い哀悼の意を表された。また、諸外国の援助に対して感謝の念を示された。国民も皆、協力して被災にあった人々を援助のてを差し伸べるようにお言葉があり、この国難を子々孫々これを伝え、深く国の安寧を祈られた。
そして、四方に深々と頭を下げられて退場された。

私は陛下のこのご様子を拝見していて、陛下の隅々までのご配慮を感じ、人となりの誠実さで心温まる思いがした。

ふと気がつくと、陛下は行政や官僚については、一言もお声を掛けられなかった。その時、私は陛下が心静にお怒りの気持ちを抑えられているのを感じたのである。

天皇陛下の前に、野田さんが悼辞を述べられたのだが、彼の言葉は私の中に、なにも残っていない。多分、とうり一編の言葉で飾られていたのだろう。陛下のように、災害に協力していた人々に満遍なく感謝の眼を注がれていたからこそ様々なお言葉が出てきたのだろうが、消費税やTPPの成立に忙しく、東北や福島の方々の本当の苦難など、眼中になかったのだろう。多分、彼の言葉には具体的な言葉はなかったと思うし、福島のふの字の聞かれなかった。

そんなことだから、天皇陛下は政府・行政に要求も訓示もなされなかったのであろう。本当に情けない。

戦前、田中義一首相を罷免のお言葉を口に出して、西園寺なる愚臣に冷たい批判を浴びてから、昭和天皇は「君臨するが、統治せず」のお言葉を述べられ、極力国政には神経を使われたと言います。平成天皇もまたその教訓を踏襲されていらしゃるのであろうが、私は今度の追悼式に望んで、読みすぎなのだろうか解らないが、天皇陛下の静かなる怒りを感じてならなかった。

翻って、愚民は愚臣(議員といっていいだろう)を生み、国を衰退させると、どこかの哲学者が述べていたが、陛下は心の中で諭しているのかも知れない。静かな陛下を見ていて私は深く反省の念を覚えた。

私の家庭は戦後の占領軍の兵士の犯罪から出発した。働き手を失った生活は、貧困と家族の生活苦から来る苛立ちがもたらす荒廃が荒んだ状況を生じさせた。毎日まいにちが口論の連続であった。
半身不随の父はその苛立ちの結果、直ぐに暴力として表れ、それを嫌う私達は家に帰ることを忌避する。新聞配達を終えても、直ぐに家へ帰らず、夜遅くなっても帰りたくなかった。そのことがまた父を怒らせる。母は母でなれない労働で疲れて帰ってきて、父と衝突する。まさに、私の家庭には平安はなかった。
嘗て、ブログに書きましたが、犯罪に近い行動を私は経験して、生き延びてきたわけですが、多分、東北・福島にはそこまで落ち込みはしないでしょうが、現実的には苛立ちの多い生活が想像されます。

今、私は東日本大災害にそうした被災地の方々の苦しみを思い、様々なことを考え、これからの行動を興して行こうと思っています。

先ずは、私は黙祷します。そしてこれから大災害集会に出かけようと思います。

TVを見ていて、原発の廃止について(日本は唯一の被爆国です。それに無神経な人が多過ぎる)、孫正義さんがゴビ砂漠電力施設建設構想を聞いて、孫さんの構想の大きさに驚き、諸手を挙げて賛成したい。私も孫構想を人に伝えたい。
2012.03.09 日本の名称
日本には多くの名称がある。
倭・大和・秋津島(秋津はトンボのことです)・扶桑(桑の神樹のことで太陽樹のこと)そして日本、多分、日下(くさか)・日の本もそれに加えていいと思います。

私はその延長で、扶桑を調べていたのですが、これは江南・長江の上流の国・「蜀」にたどり着いたわけです。
扶桑とは、太陽樹が始源でありましょう。「蜀」は日照時間の短い国で、<蜀犬、吠日・・・蜀犬、日に吠える>の諺のようにいつもこの地は曇りがちだそうです。
曇りの日の合間に、雲の間から太陽が顔を出すと、犬が驚き吠えだすと言うのがその諺の意味です。

それでは何故「蜀」が桑との関わり生じたのかと言うと、最近、蜀の三星堆遺跡から「蜀」の始祖神である「蚕叢(さんそう)」神がそのいわれでしょう。
「蚕叢」の相貌はまるで蟹のように目玉が飛び出しています。また、「古代蜀」には仮面があり、その仮面も眼が出ており、「蚕叢」の化身で<龍>をも現していたらしい。その特徴から「山海経(せんがいきょう)」によると「燭龍(しょくりゅう)」と言う神に近かった。

「燭龍」とは、昼夜の自然界の運行を自在に操ることができて、「直目(縦眼…蟹目)」を持ち、人の顔と赤い蛇身を持つ妖怪である。「燭龍」は、また火を咥えて、天下を照らすとも言われている。つまり、「燭龍」は<火>を司どる「蜀」の龍と似るとも言える。
それは、昼夜を操り、天下に光明を放つと言う現象を考えると、太陽の動きに関わることになり、扶桑信仰と表裏の関係にある。
その他に、「山海経」や「淮南子」などには、崑崙信仰や西王母伝説なども三星堆文化の産物であった可能性が高いと考えられる。

日本の象徴である「扶桑」はその始原はどうやら「古代蜀」にあったようである。蜀は「倭」の領域で大和が中国から「倭」と呼ばれ、江南の諸民族もまた黄河流域の漢人から、「倭」と呼ばれたことから、大和と「蜀」や「中国・江南の倭」との結びつきはかなり深い関係があるとも言える。



3・11の大震災の日、私達は養成科の3階の教室にいた。今でもあの光景は忘れることが出来ない。そして、その後の私達庶民の心の絆がいかに大切なものかと言うことも知った。
私は、妙にあの時の仲間に愛着がある。あまり評判の良くないK氏さえ私は時折思い出して、彼のその後の行動を案じている。子供にたいなK氏の軽薄さが心配なのは、やはり養成科と言う場がなかったら成立していなかったであろう。

今でも、数人の方とは音信があるが、多分あの大震災の受難がなかったら、これほど強く絆が私の心の中に沸かなかったと思う。一期一会とはこのことで、これからも善きにつけ悪しきにつけ大事にしてゆきたいと思う。

養成科で学んだ(?)方々、私はつたない愚か者ですが、これからも宜しくお願いいたします。

私の3・11宣言です。

私は天皇陛下が震災記念日に出られるために退院を急がれたと聞き、その誠実さに頭が下がった。それに引き換え、この国の首相は本当に被災地の人々の気持ちを本当に考えたことがあるのだろうか。彼にはひも付きの政策には命をかけるが、人の不幸には命はかけられないと言うように思える。そう私達には伝わる。天皇陛下とは何と言う違いであろうか。
私は陛下のお言葉には耳を傾けたいとは思うが、野田氏についてはその政策に集中できない。彼に自主性が見られないからである。嘗ての彼の演説を聞いていると、消費税を引き上げるのは反対であったはずである。つまり、官僚の説明でその意見を聞いて、自分の主張を翻したに違いない。人の意見とはその人の全体であるはずである。その一角を崩すことは容易なことではない。
天皇陛下のご意見をお聞きしていると、陛下の全体であると感じるのにと比べると何と言う違いだろう。ありきたりの月と鼈(すっぽん)どころではない。

この私は、宮家復活についてはそれ程の関心がなかったが、天皇陛下の真摯なお考えを接するなあたって、陛下はその件にも並々ならぬご心労が潜んでいると推察でき、私も真剣に考えなければと思うようになった。
そう考えざるをえない。それは陛下のお人柄がそうさせたのだろうと考えざるを得ない。人とはそう言うものである。
私は猿芝居の台本を見つけてしまった。その台本はどぶに捨ててあった。

多分、大きな政治のうねり(泥まみれの欲得族たち)が私には見えている。一人は他国にいて苦境に立っている鉤鼻の亡者、そして自分の銀行預金をニタニタと笑いながら眺める性格の悪い丸坊主、そしてあく代官と老舗大ダナ、これらが大連立とやらを演じるエピロ~グである。どうせ自民と民主(似非左翼と松下政治塾の盆暗)そして愛も変わらずのこうもり党が画策した猿芝居。

私はこの猿芝居で確実に、民主・自民・公明の大連立を見た。如何して消費税の税率を引き上げるために躍起になるのだろう。国民が消費税引き上げを基本的には認めている心理を先取りしているつもりだろうが、国民はギリシャのように官僚がぬくぬくしている状態で引き上げを認めているわけではない。大多数の国民が幸せになるために認めようと言うわけなのだ。

権力亡者は自分達の繁栄に固執して国民を騙すのはもうこれくらいにして欲しい。猿芝居を見ていてそう思った。
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