上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
敗戦後、占領軍被害者遺族連合会と父親の米兵の強盗事件の裁判を行ってきた経験で、私は保守政治家と官僚と米国の圧力をじかに経験してきた。

それを広報してきた大報道機関の行いが世論を左右してきたのは言うまでもない。

それらが談合して世論を動かしたら、世論は容易に彼等の意図する方向に向かされてしまう。私は今、それと同じ感覚を感じている。

例えば、民主党代表戦(菅・小澤)で議員投票は206票対200票で僅か菅だが、地方投票は圧倒的に菅が多数を占めた。しかし、小澤の政見は地方権限委譲であり、官僚の地方の権力を減退させるのが持論であった。菅の姑息な政策より新宿の街頭演説を聞くところでは私は地方こそ小澤票が強いと推測していた。しかし、結果は小澤惨敗である。私はその時、地方の人たちは自ら墓穴を掘ったと感じた。

つまりこの投票で解ったことは国民は目の前の事実を確認することもなく、報道の誘導に載せられ、容易に幻想を信じ込まされてしまうと思った。ここには自立の精神が著しくかけている。

これは危険な兆候なのである。

小澤の政治資金収支報告書の記述不載の罪であるが、これは誠に不平等な裁判なのである。ここには私が敗戦後何度も経験してきた複数の談合の集積を感じるのである。一つの思想志向がはっきりと現れている。実名が隠されて、公共と言う手段がひとの目を眩ましているだけである。

ここに「週刊ポスト・2010年」の記事を少し長くなるが掲げておこう。
<大新聞は先の北海道補選で「クリ~ン」をかかげて当選した町村信孝・元官房長官が政治資金で不動産を購入していたことは批判しなかったし、西松建設の政治団体から寄付を受けた自民党議員の問題には口を噤んでいる。

また、小渕優子氏の政治資金収支報告書の記載日付問題が判明したが、これには大メデアがこぞって、批判してきた、小澤問題の「期間のずれ」と全く同じ重大事件なのに批判をした報道はない。

問題の西松建設の政治団体からは、小澤氏以外にも自民党の森喜朗氏・二階俊博氏・尾身幸次氏・自見庄三郎氏をはじめ多くの政治家が献金やパアティ券を立件されなければならないのに、森・尾身氏らは捜査も行わず、二階氏は会計責任者を事情聴取しただけで不起訴にしている。

また、2011年の政治資金収支報告書の修正は約500件にも達していた。

つまり検察は形振り構わず小澤を悪人にしたて上げてきたのである。私はこの事実が危険であり、許すことが出来ないのである。明らかに思想破壊を複数の匿名集団で行っているのである。これをほっておくことは私の信条が許せないのである。
スポンサーサイト
検察審査会事態、私はよく理解が出来ていないが、検察捜査で明らかになっているように公明性こそ大切なのである。少なくとも審査基準ははっきりさせ、審査員は責任を持たなければならない。陰に隠れて擁護されながら、被告を裁くのは、先に不明性や冤罪性を招く結果になる。

被告を裁くのは被告側の人権もあるはずで、その責任を果たすためには、審査委員の公表はやむをえないと私は考える。匿名で裁くのは将来に禍根を残すのは必定である。

人が人を裁く時には明らかに、裁く側の責任は取るべきで、その覚悟がなければ、人を裁く行為はやるべきではない。
小澤裁判(検察審査会がどう言う規約にやっているか不明だが)が裁判制度に準じるなら、三審制だろうから最高裁まで持ち込まれるのだろう。
私はこの裁判制度が敗戦後のGHQが最終的に決定できるような悪法だと思っているので、現在、無罪だとぬか喜びは早急だと思っている。過去に何度も喜ばせて最後に逆転敗訴と言う煮え湯を私達、占領軍被害者遺族連盟も味わってきた。法の上の正義は絵に描いた餅に等しく、日本の民主主義はまだ、占領下の志向を抜け出していない。政治的洗脳が我々をまだ従属的な意識のまま操られた状態で放置され、その改善はなされていないのである。

私が述べる四悪(官僚支配、財界の独善、癒着政治家の横行、米国の圧力、更にもう一つ食われればマスゴミの言論操作)は依然存在しており、個人主義の下に彼らは結束を図っているから、国民がバラバラのうちはいとも簡単に私達を操ることが出来るのである。
藤井某が野田氏にブレるなと檄を飛ばしているようだが、この財務官僚の連絡係は全ての責任を取る覚悟があるのだろうか。腹が立つ。こんな輩が日本をダメにしているのだ。







堀本(父)の米国の占領下の犯罪や国の責任裁判はことごとく敗訴であった。そのほか、相馬ヶ原事件の日本人による屈辱的な日本人裁判官の哀れな判決で敗訴になっている。

これまで、私の経験した裁判は思惑裁判であった。そこには正義より政治的な判断が優先されていた。
だから、私は恒に日本は隷属的な後進国裁判状況であると、諦めに近い気持ちでいたたまらない心境であった。その気持ちは以後、変わる事はない。

「陸山会」裁判では<やはり>と言う考えが先行した。あの裁判は明らかに思い込み裁判である。法の正義より濁った政治的判断が明らかであった。あれは司法の自立からはほど遠い。私が嘗て何回となく呑まされた煮え湯である。「悪貨」が蔓延るくすんだ国民の結論が正義を遠くしていた。と、諦めに近い感情は以前拭えなかった。

だから、今度も小澤は、多分執行猶予付きの有罪だと思っていた。どう考えても、法律的には無罪である。(私は小澤シンパではない。法廷な立場に立てば、無罪は明らか)しかし、日本の裁判に司法の独立は皆無だと考えていたから、ここも官僚と政治・司法の連携体質は変わらないだろうと高を括っていた。

しかし、結論は意外であった。否、まともであった。おかしな言い方ではあるが、それだけ我々の精神は汚されていたのである。
漸く、まともな精神状態で話が出来るのは良かったが、まだ日本国人の民度は薄い。一番大事なのは、この民度の高さのだ。私達はこれを機会に自分の足と頭で物事を見てゆく習慣をつけたいものだ。
AIJ門題は淺川某の悪巧みであることは明らかであろう。陸山会判決流で言えば、絶対に有罪である。しかし、今の司法界は選択思想が横行していて恣意的に犯罪の量刑を選ぶ不思議な世界である。

この年金保険料使い込みの根は、やはり、小泉・竹中の米国要求・アメリカかぶれの規制緩和の副産物であろう。当時の政府は天下りに対して、その防止を規制していれば(官僚と小泉・竹中は同族なのだから無理か?)、あんな投資会社は厳しく監査され、存在しなかったであろう。その責任はご両人はどう考えているのだろうか。「蛙の面に小便」なのだろう、どこ吹く風であろう。そのくらい無責任でなければ、政治家は務まらないだろう。彼等は結局、消費税増額や年金減額でお茶を濁すはずだ。

だが、私は思う。あの悪人、彼は悪知恵を振り絞ってあの手この手の資産隠しを画策しているはずだ。そんな悪の栄える状況を作ってはならない。

淺川某は貧困のどん底で最低限の生活の中で財政的な罪滅ぼしをすべきである。
そのためには、刑事犯罪はもとより、関係各社は民事裁判で徹底的に淺川某の財産を没収すべきだし、監視すべきである。心の緩んだ日本人は、心優しく淺川某を開放してしまうだろうが、それでは社保庁の第一次使い込みのでたらめな保険金流用を再び許すことになる。いつもその尻拭いは弱者が負わされる。

私は関係各社が徹底的に民事裁判を実行すべきで、淺川某のぬくぬくとした人生をさせてはならない事を望む。重ねて、厳しく淺川を罰して欲しいのである。


この文章を書いていて、いささか欲求不満気味であることが感じられる。
と、言うのは、今、私が読書と物書きにしか出来ていないからである。嘗て、私が信用していた作家で「花田清輝」と言う人がいた。昭和60年代の学生運動の精神的主柱の一人であった。

その花田師は運動家と言うより、哲学者といったほうが正しいかもしれない。花田は書斎から動かない。書くことは過激だが、文化や政治運動には集団を作らない。私は20歳代でその非行動的な態度が不満であった。それを質すと、「馬鹿野郎、10年速い」と怒鳴られた。その時は、腹の中で「この偽善家」と呟いたものである。

しかし、現在、私はその偽善的立場にいる。しかし、経験の蓄積はその「偽善」を包括する。漸くそのことが理解できるようにはなったが、花田のように毅然として落ち着いていられないのは、性分なのだろう。まだ、行動に対する未練が残っている。残念ながら、この歳では運動や行動の推進力が残っていたいのを理解すべきなのだが、やはり、集団の行動のあのエネルギ~は得がたい魅力がある。いやはや。
反省をしていることは近隣に人が現れないこともあるが、病気やら図書館通いやら時間的な制約もあって、一頃の生涯学習の運動も途切れている。つまり、人との接触が少なくなっていた。

またぞろ、緩やかな干渉運動を始めなくてはならないと思う。
風邪をひいてどう、血迷ったか大江山の鬼について再考を始めた。

謡曲・「大江山」は私が縄文の地母神・土偶を調べていた中で出てきた項目である。

土偶は一万年前に上野原遺跡には出土しており、何らかの祭祀に使用されていた。

土偶は明らかに女性で乳房や妊娠が強調されており、バラバラにして埋められている。このバラバラにして埋めるという行為は「屠殺」といい日本古来から行われていた神事が見出される。
尾張大国魂神社の「屠人放(ほとほり)の神事」である。

一月三日・四日の正月行事として「マナ箸」の神事が伝えられている。この神事は二匹の魚・ボラを料理し、共食するものだが、共食の前に弓射の行事があることから、「弓祭」といっている。なぜ、魚を取って食べる行事に弓射の行事があるのか。昔は、鹿や猪を弓で撃って生贄にし、それを食するのが「マナ箸」の神事だったのであろう。なお、「マナ箸」を使って生贄を食べる前に「屠人放」の神事がある。男が女装して、童子の形の藁人形を入れた桶を頭に載せて浜に行き、「今年の屠人(ほと)は目出度き屠人よ」と言い、藁人形の入った桶を海に流す。この神事を人々は人身御供の形を伝えているが、そのことが「屠人」で解るように「屠」は体をバラバラにして殺すことから、本来、人であったものを人形に代用したものであろう。この「屠人放」(ほとほり)の後に、「マナ箸」神事がある。このことから「箸」は生贄に関わると言えよう。否、これは食人行為の名残りだとも言える。
(「マナ」とは、超常現象を自らの中に取り入れ、自らの力にする行為である。)

こういう儀式は世界各国に見られる。
マヤやニュウギニア・マリンド・アニム族のマヨ祭儀もそれである。ここに紹介しておこう。

マヨ儀式は「殺害者としての父」の登場により最高潮に達する。「殺害者としての父」を演ずる者は、特有の武器を持っている。それは祭儀の用具として使われるが、又、マヨの娘と指定された少女を殺すために使われる。犠牲者の少女、マヨの娘は藪の中に連れて行かれて、祭りに参加した全ての男達によって、生殖行為をされた後に殺される。そして、その体は食べられてしまう。少女の骨はココヤシの木の側に埋められる。そして、少女の血はココヤシの果樹の豊かな実りを齎すとされており、この大規模なマヨの祭りの間に、神話のあらゆる細目が演劇的に語られるのである。

キワイ族の伝承

ソイドと言う男は妻を殺し、その死体をバラバラに切断して、整地した土地にバラ撒く。すると、その土地に食料とするヤム芋、タロイモ、ココヤシ、サゴヤシ、バナナの木が実った。

そして
これらの神話の集大成と思われる学説が、イエゼンの「ハイヌエレ神話」である。古栽培民神話で、少し長くなるが紹介しよう。

アメタと言う男が犬を連れて狩りに出た。犬は森で猪を嗅ぎつけて、追い詰める。猪は池に逃げて溺死する。アメタが死んだ猪を引き上げると、猪の牙にココヤシの実がついていた。アメタはココヤシの実をサロング・パトラに包んで(蛇の図柄の布)台の上に置いた。このヤシの実を土地に植えると、三日後にはヤシは生長し、その三日後にはハナが咲いた。その花を切ろうとしてアメタは指を傷つけ、その血が花の液に混ざると、一人の女になった。その少女はたちまち成長する。アメタは少女をサロング・パトラに包んで家に持ち帰り、ハイヌエレとなずけた。娘は三日後には、大人の女に成長したが、彼女は普通の女ではなかった。彼女が用便すると、その糞は皆、貴重な品となる。アメタは、たちまち大金持ちになった。その頃、祭儀の舞踏の庭では、盛大なマロの舞踏会が行われ、それは九夜続いた。九つの家族が参加したマロの祭りで、女達は中央の位置を占め、踊り子の男達に向かってシリ~の葉とビナングの実を渡した。しかし、翌晩、ハイヌレエは男達にサンゴを与える。三夜目には美しい皿を、四夜目には大サラ、五夜目には山刀、次の夜はシリ~箱そして黄金の耳輪、八夜目には美しい銅鑼。が、事態は不穏になってゆく。人々はハイヌレエを妬ましく感じる様になり、彼女を殺してしまおうと決める。第九夜、男達は踊りの広場に深い穴を掘り、舞踏が始まり、ゆっくりと螺旋状に回る踊りの輪の中で、男達はハイヌレエを穴の中へ落とした。マロ歌唱がハイヌレエの叫びを消す。人々は彼女に土をかぶせ、穴の中を踏み固めた。夜明けにマロ舞踏は終わり、人々は家に帰った。祭りが終わっても、ハイヌレエは家に戻らないので、アメタは彼女が殺されたのではないかと考えた。アメタはヤシの葉脈を九本とって広場に行き、九本を次々に地中に刺した。九本目の葉脈を抜き取って見ると、ハイヌレエの頭髪と血がいる。アメタは彼女の死を確認して、死体を掘り起こし、アメタは彼女の両手を残して、他は細かに切断して、舞踏の庭のあちらこちらに埋めた。すると、埋められた身体の各部分は、当時地上になかったものに変わった。まず、ハイヌレエの胃から大きな壺が生まれた。その壺は今日でも聖なるものとして保存され、少女の胃と呼ばれて、酋長の財産となっている。ハイヌレエの肺から芋がうまれ、胸からは女の形をした芋が、目からは芋の塊になる新芽が生じた。恥部からは明るい紫の良い香りの芋が、尻からは乾いた皮を持った芋が、耳からは上を向いて伸びる芋が、大腿部からは大粉芋が、頭からは芋の塊になった。これによって、以後、人類は芋を得るためが出来るようになり、それを食べて生活し、生きてゆかれるようになった。

この神話もハイヌレエが根源で象徴的に人肉を食べることがその深層に隠されているといえよう。

縄文時代の勝坂式土器は体内に無尽蔵の食料をない内臓して、それを惜しまず、生み出して与えてくれると信じられた地母的女神の姿を土器に表現した者といえる。

深鉢の胴体下部にくびれがあり、口縁部が内わんして、平坦な受け口状を呈するものがあり、くびれの部分に中敷きを置き、その下に水を、上に食物をいれ、口縁部に蓋をして、食物の蒸し器として使用うされたと思われる。この深鉢の蒸し器には、口縁部に土器の顔を思わせるよウな人の顔が付けられている。ことがある「顔面把手付き土器」と呼ばれる深鉢は全体に腹部の膨らんだ女性を思わせる形をしている。
この鉢は美味で食物の主の女体から人間に惜しみなく与えられる恵みとして考えられていたであろう。この土器は生まれながら身体から人間のために貴重な食物を恵みとして無限に排出し続ける地母神の表現を見ることが出来る。それはオオゲツヒメやウケモチの神に通じ、世俗化して山姥にも現れてくる。

ここにこれらの説話や神話を総合すると、太古の伝承の中に人肉食の記憶が潜んでいるのは否めない。

最後に、伊波普しゅう(南島古代の儀式・民族二巻五号・琉球民族)
昔は死人が出ると親類縁者が集まって、その肉を食べた。後世になって、この風習を改めて人肉の変わりに豚肉を食べるようになったが、今日でも近い親類のことを真肉親類といい、遠い親類のことを脂肪親類と言うのはこういうところからきた。

この文献は非常に、象徴的な文章である。私はこのフレ~ズは興味深い。

「出雲風土記」
古老の伝えて曰く、昔、ある人ここに山田を佃(つく)りて、守りき。その時、一つ目の鬼来たりて、佃くる人の男を食いき。その時、男の父母(かぞいろ)、竹原の中に隠れ居し時に、竹の葉動(あよ)けり、その時、食われる男、動動(あよあよ)といいき。故(かれ)、阿欲(あよ)と言う。

イタリアの一部のある地区では奇妙な遺伝的な病気が存在する。それは50歳過ぎに発病するのだが、遺伝で調べて行くとどうやら古い時代にこの種族は人の肉を食していたのではないかとの疑いが出てきたと言う。
症例はあるときから、睡眠が取れなくなって、眠れぬまま苦しみながら死に至ると言う。もう少し詳しく調べたいのだが、文献が少なく休止している。

「人食いの民俗学」礫川全次(批評社)

隋の時代では、部落全体の者が死人の肉を食する風習、即ち「部落肉食俗」が行れていたが、後世になって、親類だけが死人の肉を食することに制限され、更に、人肉の代わりに豚肉を食することに改まったのである。

死者に対する神聖な義務的な任務~「死者を冷たい地中に埋めたり、猛獣の餌にするより、暖かい自らの腹に納める方が死者に良いとするからであった。
横になって、ふと、三年前「酒呑童子」について調べていたことを思いついた。

ある作家が「酒呑童子」は先住縄文民族の象徴であると、語っていたことが浮かんだのだった。何故であるか判然としないが、熱で浮かされていた時、思い出したのだった」


その科白は「情けなきとよ、客人たち、偽りなしと聞きつるに、鬼に横動なきものを」と、言うものであった。これは、能の「大江山」での科白である。、

酒呑童子は比叡山で修験僧の修行をしていた時、空海によって追い出される。そして生駒山に流れつき、そこに住み着いて、都の若い美人をさらっては酒席にはべらしそれを殺して食らう。

その噂を帝が聞きつけ、源頼光と四天王(渡辺綱、坂田金時、ト部季武<すえたけ>、碓井貞光)を引きつれ、鬼を退治するように申し付ける。
五人は神仏の加護により、(源頼光・藤原保昌は住吉大神、渡辺綱・坂田金時は石清水八幡権現、碓井貞光・ト部李武は熊野権現)修験者に身をやつし、鬼の館へ乗り込む。

鬼は修験者を仲間とはんしん疑いながらも、受け容れる。そこで酒呑童子は自分のおい立ちを語り、安心して閨に女官と共に下がる。その寝息ばな頼光は襲い、首を挙げる。

「情けなきとよ・・・・」はそのときの鬼の科白である。気を許した客人に正直に話したのに、お前達は嘘をついていたのか、鬼は理不尽な行為はしないぞ」と言うものである。

謡曲・大江山は作者が不明で一説には世阿弥の作と言われている。少なくとも観阿弥派の作であることは間違いあるまい。

世阿弥は加茂氏の系列で、伊賀の忍者・服部半蔵と同族の被差別民族だといわれている。一説には秦河勝の末裔とも言われる。又、楠木正成の系列で正成は浮浪の民の総元締めであった。
世阿弥は足利氏の小姓とも言われ、男娼であったと言う。いずれにせよ、「大江山」の作者は鬼に同情的なのが窺える。

鬼は古来、先住民(縄文先住民・土蜘蛛)の象徴とされ、朝廷から迫害を受ける。この構造は「古事記」「日本書紀」に現れる土蜘蛛や隼人・蝦夷の野蛮、虐殺行為に表れ、定着している。「大江山」の作者が朝廷より先住民よりの精神的構造が読み取れるのは、私としては非常に興味を抱かせる。

「観世の系譜」
観世四代目・観阿弥は上嶋影守(伊賀浅宇田<あそう>の領主)の次男。治郎左衛門元就(忍者・服部元就)は三男。

観阿弥の母は河内国玉櫛庄・橘入道正遠(楠木正成の父)の娘である。

楠木正成は南北朝の土豪で浮浪の民(散所非人、散所法師ら)を束ねる散所長者であった。
散所の職業は声聞師と呼ばれる雑芸能で「大乗院寺社雑事記」によれば「陰陽師、金口(かねたたき)、暦星宮、久世舞、盆・彼岸経読み、毘沙門経読み」などの芸能の外「七道者」の支配を司り、その興行権も握っていた。

七道者とは猿楽、歩き白拍子、歩き巫女、金叩き、歩き経読みなどである。

修験道について、宗教学者・五来重はこう規定している。
<修験道は九割の縄文教と一割の道鏡・仏教が習合したものである。

火渡りの摺り足・能のシテの所作、茶道の摺り足、ネプタ祭りのハネトの摺り足は修験者の悪霊払いである。
相撲の四股(シコ)もまた悪霊払いの所作である。



嘗て、述べたことがあるが、この国は真実より邪まな正義がまかり通る。

米国の属国がと言われて久しいが、権力の亡者と虎の威をかる狐が多すぎる。ある左翼崩れは臆病者で自分の信念を容易く変えてしまう。松下政経塾だか整形塾だか知らないが、ボンボンの観念政治家が日本をダメにしている。今の民主党の主軸は薄っぺらい政治塾の出身者で占められている。そして共通しているのは米国の追従者だけである。国益を考えると米国国益をはみ出すのは自然の成り行きなのに、日本の国益と言う視点ではみ出す政治家は皆無である。腹が据わった男がいないのだ。まあ、国民の民意は低いのだから仕方がないと言えば仕方がないのだが、最低限の正義は貫くべきであろう。

カミュの異邦人の主人公・ムルソ~は太陽が眩しいと言ってアルジェリア人を殺してしまう。母が死に葬式の後で、恋人と喜劇映画を見に行って罪を深くする。
不条理といえば簡単だが、人を裁く罪をこの実存主義者は語っている。

今度の小澤裁判は私の推測では、有罪の判決が下りると推察する。この裁判は正義の裁判ではなく、薄っぺらい政治権力の裁判である。官僚と米国、経済界の意向を汲んだ司法官僚の裁判なのだ。裁判員裁判は底辺から出てきた発想ではなく、安易な魔女裁判の兆しと言える。

敗戦後、米国は最終的に案件を独裁するように制度を作っている。その残骸がこの裁判員裁判システムなのである。

米国は今でも自分の都合いいように行動する。安住財務大臣がIMFで困窮した日本財政を無視した散財(罪)をしている。あの大国・米国は出資を拒否しているではないか。そんな投資が出来るなら国内の景気対策に出資して欲しい。大災害にはその行動が緩慢なのにこういう時には反応が早い。呆れてしまう。

今、私が重要だと思うのは自主性である。自分の立場でものを考えることの重要さが必要なのである。

私は小澤一郎は法的には無罪だと信じる。日本は法治国家であり、司法は推測や主義で判断するのではなく、客観的な証拠と自白にもとずいて判断して欲しい。
思惑でいえば、倫理的には小澤一郎は難があるとは思っている。しかし、現在では厳しく小澤の政治的行動を監視するより方法はないのだ。
2012.04.20 官僚について
私は今の日本を衰退させている大きな原因の一つに官僚制の問題がある。

政治家がその能力が官僚に追いついていないと言う意見が有るが、それは組織的に見てやむをえないとも言える。
官僚はその行政を一とするが大体が、永年雇用が原則である。一方、議員は国民に選ばれた付託による。つまり、国民の選択によるので、選挙民の意向にそぐわなければその職に就けない。しかし、官僚は法に触れなければ、永年その職につくことが出来る。その分、専門的な知識が蓄えられる。専門職と一般職では常識的に判断すれば専門職がそのイニシアチィブを握ることになるだろう。官僚が法にもとずき行政だけに専念すれば問題はないが立法側が未熟であると、官僚が立法や国の進む進路にまで権力を及ぼしてくると、官僚の優位は揺るぎのないものになってしまう。
現在、議員の質が低下したのは、民意は相対的に低いことも問題なのだが、議員の専門的知識の習得が他の煩わしい事項に侵されて中途半端になっていることにもある。議員にも官僚と同様の立場を与えない限り、官僚の闇の権力は益々、増大して行き、国益より官僚の私益のほうが勝ってしまう。官僚には高い倫理性が要求されるのだが、これは個人的な資質の問題で、現代のように国全体が弛緩している状況では望みべくもない。

そこで今、必要なのは官僚と同等の地位を保証する組織が必要で、その方法を考、時期に来ているのである。その現実的な方法の一つが地方分権である。その他、党にシンクタンクを備えるとか専門委員を育てる(議員とは別に)とか、官僚に負けない頭脳集団・政策集団を設けるなど対抗するべきだ。今、明らかに官僚の権力を弱体化させる方法を真剣に考える時期であるのだ。

私は日本が衰退して行く大きな要因は、官僚が無責任に権力を握ってゆくことにあると思っている。明治からの官僚制とよく言われるが、その原因の根底は「寄らば大樹の陰」のような他律主義が蔓延っていることにある。今、自主性こそ一大関心事なのだ。

余談だが、官僚制の堕落の根元に日本人の妥協性があり、妥協はその奥で「和」の精神が横たわっていて、それは日本教である「多神教の崇拝」が関与している。この問題の分析こそ日本人の将来を決める多くの問題が横たわっているのである。

まだ未成熟だが、縄文から藤原摂関政治、明治維新の官僚主義などを分析する余地があるように思う。
書き出しを紹介しましょう。

始めに混沌があった。
混沌が分かれて太古が始まる。
太古は時空であり
時空は宇宙であった。
宇宙は無極で
無極は太極である。
そして太極は陰陽であった。
陰陽は四象を象(かたど)り
四象は虚実と清濁を顕わす。
虚と清から天が開けた。
実と濁から地が固まる。
虚々実々、清々濁濁から
ついに人間が生まれた。

そして人間の世界に賢人が現れる。その賢人を、人々は王に推戴した。
最初に推戴されたのは、有巣氏である。その頃地上では百獣が横行闊歩していた。人々には安息の地がない、そこで有巣氏が王は、樹上に巣をかけて住むことを人々に教えた。

次に遂人(すいじん・すいは火偏)、伏儀・女過、神農・黄帝と続く。

こんな書き出しで「商と周」の戦いを伝奇的に物語を続けて行く。

私も読んでいてしんどかった。しかし、読み出したからには続行してみようと思う。
石原慎太郎と言う政治家は最早、政治家ではない。アジテイタ~でしかない。まるで大阪市長と兄弟みたいに思える。尖閣諸島を中国が固執するのはベニスの商人よろしく欲張り親父の印象で、品がない。最早気品も誇りもない嫌な人格しか浮かばない。あれは日本固有の領土だと、歴史的にも国際的にも確認が出来ている。その事を石原さんが怒っているのは解らないではない。しかし、石原さんは都知事なのである。国がだらしないのは解るが、彼は飛躍過ぎるのだ。それで我慢が出来ないのなら、知事を辞めて国政に転進すべきだろう。言っておくが、もう遅い野田。(これは皮肉な表現のつもり)彼もまた政治的な人間ではないのだ。政治に必要なのは志を一にする複数の集団を形成するしかないのだ。大きな集団(選挙民を含めて)の支持が必要であろう。
石原さんはそれが出来ないスタンドプレァ~なのだ。もう引退でしょう。安らかに余生を暮らせばいい。役目は終わったでしょう。
またぞろ、石原の出たがり癖がでた。

私も尖閣諸島については歴史的にも公式文書の存在からも日本の固有の領土であろうと思う。中国の無理押しは、天然資源の存在が無法に領土権を主張しているに過ぎない。これをゴリ押しと言う。

だから石原の個人的意見なら判るような気がするが、彼は東京都知事である。東京都の都益から考えると、都税をここに使う論理性は薄い。これは国の問題であろう。国がだらしがないのは理解できるが、民主主義は段取りが重要で結論を出すに段階と時間が要する。野田氏が決断するなら、その速度は縮ますだろうが、彼のようなひも付きは影の指導者の了解を必要とする者には、時間がかかるのだ。

石原は顕示性が強すぎるので、自分の権限を越える。これは越権行為なのだ、多くの人を動か背ないのは人格がないのだから、人を組織する所から始めるといい、それが出来ないなら、今までどうり、吠えていればいいのだ。はき違えないで欲しい。

しかし、哀しいのは国を引っ張る指導者が皆無なことだ。それは、又、国民の総意が政治集団の創生できないのだから仕方がないとも言えよう。国民、一人一人にも責任があるのだから、積極的に国民が改革の意志をもたない限り、国力が衰退するのを見守るしかないのである。集団とは像の鈍い感覚に例えられるように動きが緩慢なのである。
2012.04.17 テレビを購入
自分をダメにするとも思い、テレビを観ることを止めたのだが、このところ精神的な状況が良くなく、時間を虚しく使うことが増えてきた。そこで時間つなぎにと、テレビを購入。
私がいかに意志薄弱ののを見せるので躊躇われたが、先週秋葉さんに告白したので、話してみたいと思った。

そこで私は数多くの顔を見ることになるのだが、目に付いて嫌な感覚の顔が映ってのに気ずく、なにやら解らないが政治家の顔が目に付いた。
新聞で見ていて、野田さんが嫌悪感を持ってみていたが、テレビで見ても嫌な顔だった。次には、仙石さんである民主党が政権をとる前にはもう少し穏健な表情の印象があったが、現在の彼は、まるで死臭を嗅ぎつける剥げ鷹を思わせる。それに比べ、嫌いな顔の一人であった橋下大阪市長がそうは思わないのは彼の政治的発言が心理的に影響を当たれているかもしれない。全幅の信頼を置けないが、今の所、私は支持する見解が多いのは不思議な感覚である。私が意外な感情だったのは、平成天皇をお顔であった。以前はそれ程いい顔だとは思わなかったが、最近のお顔は誠実そのもののような気がして、自分でも驚いている。

テレビを観ていて、その顔の印象がこんなにも変わって似るのに驚かざるをえなあいのだが、しかし、やはり相対的にはテレビは危険な部分が繰り返し映されるのには、余程、精神的にしっかりした気持ちを持っていないと、深層心理の中に取り込まれると言った印象も今も感じる。

私は強い心を持ってテレビを観るべきだと言う意識は、テレビを捨てた時と変わらないが、選択してテレビを観ようと、心に銘じている。
2012.04.16 始原について
私は神武東征を調べ始めてから、色々な視点を余儀なくされた。

色々な「神武」追及の視点のうち、「古事記」「日本書紀」は重要な文献である。特に「日本書紀」は多くの示唆を与えてくれる。それは「日本書紀」が当時の政治的文献の要素が強気からであろう。
そして、又、そこに藤原不比等が絡んでいるのは自明の事実であろう。

私はいつも、物事の初めを重要視する。不比等の父親は中臣鎌足である。この鎌足のル~ツは諸説あって定説がないに等しい。鎌足が渡来人であるか、原住民であるかは重要な要素であるのは言うまでもない。
鎌足が信仰する神がタケミカズキである。その初源の神社が鹿嶋神社である。

鹿嶋神社の祭神はタケミカズキである。・・・タケは武で雄雄しいとか優れているの意味である。ミカは星であろう。ツは「の」でチは「血・霊」である。つまり、天の星が関わる太陽の眷族(星)であるとする。

「日本書紀」ではタケミカズキはカグツチの血から生まれている。それもイザナギの剣が関わる。深読みをすれば、鉄と太陽との関わり、隕石か関係あるのではないかと私は考える。そこに黄泉の国(生死の考察)が関わるから、その始原は果てしない。それらの総体はやはり、創生の信仰が横たわっている。中臣が神と人間の仲立ちをする呪術者であるとされ、それが中臣鎌足が関わるとすれば、その考察は限りなく広がる。
それを調べるために、予てから鹿嶋神社を訪ねたいと考えていたのですが、様々な障害があって躊躇していたのですが、月恵さんやみんこさんの神社巡りに触発されました。彼女等の行動力に触発されて、重い腰を上げたと言うことです。

私は「コンサルタント養成科」との出会いは私の想像力をかなり触発しています。彼等が存在しなければ、これまでの前進は遅れていたと思います。そう言う意味では彼等には大変感謝しております。一期一会、大切にしたいと思います。
北朝鮮は秘密国家であり、独裁国家であることは自明のことである。

非常に危険な国である。人権にも防衛に関しても、日本は身構えなければならないだろう。中が見えないということは無気味なのだ。善くも悪くも対話があれば対処が出来る。対話がなければ話しにならない。

といったとこで、マスゴミは悪い部分しか報道しない。しかし、私は今度の発射は今まで、公共しなかった北朝鮮が他国の報道機関を招いたこと、国民にも報道したこと、これらは政治状況に変化の兆しが見えたのは評価しなければならない。すかしだが、門戸を開き始めたことを私は良い兆しだと思っている。

今度の失敗がそれを悪い方向に向かわないことを願うより仕方がない。その点を私は提示したい。
2012.04.12 連鎖について
私は時間つぶしのため、あれだけ拒否していたテレビを購入した。行動してしまえば、経費が嵩み、その防御策として買ってしまった。意志が強ければ、我慢をすればよいのだろうが、意志薄弱の私はつい経済観念が先にたつ。

そのテレビで「じわじわ負担」と言うテ~マを放映していた。

モデルケ~スは四人家族だが、健康保険料、介護保険、児童手当、年金などの収入減額は年間11万円にもなると言う。そのことだけなら、倹約すれば済むことだが、当然、収入が減れば、それまで購入していた業者がいるのがからそれらの業者は売り上げが減ることになる。彼等も控除されているから、それらの業者は更に収入は減る。明らかに、倒産の可能性は予測できる政策である。賢明な財務官僚は織り込み済みであろう。それでも民主党に進言しているのだから、性質が悪い。またぞろ景気は落ち込むうだろう。それが原因で自殺するものが出てくるのも予測は可能だ。それなのに、施政者は自分の欲望だけに留まって、弱者の困窮などはどこ吹く風である。野田さんの顔にはそれが出ている(ぬっぺらした公家の顔つき)。

今、施政者に求められるのは、追従ではなく真摯な政策である。財界にも官僚にも更に圧力団体・米国にも偏ることのない国民を意識すべきなのである。それは野田氏が発言しているように「命がけ」の行動が必要とされるのである。特に米国は自分達の国益に反する行為には恐ろしいぐらいの干渉をしてくる。田中角栄を米国は見事に追い落とし、その影でCIAが巧妙に暗殺を行っている。今はそう簡単に暗殺は出来ないが、過去、キング牧師、ケネディ未遂だがカストロまでも暗殺を企てている。つまり、私に言わせれば、米国は究極的には暴力で要人を抹殺する野蛮な国なのだ。(その根底は日本に対する原爆投下に現れている)

野田さんが真に国益のために自分の命を捨てるほどの勇気を持ち合わせているとは思わない。彼の顔つきは傀儡型である。そんな宰相を待った日本国民は不幸だが、しかし、自業自得と言うものでもあろう。選んだのは国民なのだから。(日本国憲法がGHQの産物なのは首相の選任制度にも現れている)

日本国民はもっと賢くならなければ成らない。
日本テレビのスポ~ツニュ~スを見ていて、ダルビシュの勝利を見事なと表現した。

私は近年、テレビの表現にいい加減な活用が目立つのが気になっている。今回のダルビシュの勝利は見方の打線に助けられた幸運な勝利といえる。初回から制球力が乏しく、4点を計上している。試合後の談話でも思うような投球が出来なかったと自ら、語っている。

見事とはかけ離れた内容である。こんな時、表現として「見事」と言うだろうか。私は絶対にそうは表現しない。「辛くも」とか「味方打線に助けられての勝利」とか表現するだろう。

そのことはテレビ報道の本質を見る。例えば、それがアナウンスの誤りであったなら何らかの行為を取るべきだ。編集段階で修正出来るなら修正すべきだし、その班の責任者は担当アナウンサ~に反省をうながすべきである。
私は嘗て、創作に関わる集団に属していた。そのとき、不用意な表現や独断的な行動をした場合はかなり厳しい制裁があった。時代が違うといえば、それまでだが、ビンタさえ戴いた。しかし、自分にも否がある事を理解して、甘んじて受けたものである。しかし、その制裁は骨身に沁みて二度と同じ誤りは冒さなかった。
多分、現代では、そうした指摘はなされていないだろう。過去に何回も同じ誤りを私は確認しているからだ。

最早、報道の主体性が失われ、より正確な表現を志す意欲が見られない。たるんでいるのだ。現場もそれを統括する責任者も自分の仕事に対する責任感も使命も甚だ軽い。「まあ、いいだろう感」が垣間見られる。もって、反省するべきである。







彼は一年前、胃がんの手術を受け、体重が二十キロ減った。多分、その影響で感情が苛立っていたのだろう。喧嘩になってしまい、電話が一年間ほど不通であった。それが三月の始めに電話があり、私の誕生日にお祝いの言葉が贈られてきた。正直嬉しかった。

その後、四月に入って再び電話が入り、競馬の「桜花賞」へ行こうということだった。勿論、異存がなかったが、私には競馬を行う余裕がない。しかし、顔だけでも見たいと出かけたのだが、意外に元気な様子なので、安心する。そう思うと、安心してしまったのか、つい口論になって又、喧嘩一歩手前である。いやはや、アホナ極み。馬鹿につける薬はないと言ったところだが、幸い途中でそれに気ずき話題を変えたのは正解であった。
危ない危ない。気をつけなければ、と思う。

清水もまた、血の気が多い。でもそれで、決定的な終りにならないのは、腐れ縁なのかもしれない。40年の付き合いとは、泥水にも似て不可思議な様相を呈していて、面白い。
友よ。危ない橋渡りと洒落ようぜ。またの交際を願います。
文化放送で伊藤あつおだかうすおだか知らないが、鳩山由紀夫さんを揶揄していたが、この上から目線と言おうかへつらい目線といおうか、我々庶民の立場でものを語っていないことは解る。
確かに、鳩山さんがイランを訪問するのは日本国政府や官僚の米国・イスラエルよりの立場では好ましくないだろう。しかし、その高等戦略的な政策は理解できなくはないが、一方庶民の側からすれば、この不景気な状況で石油の供給が止まり生活に支障が出来ていることも事実なのである。庶民にとっては生活の方が大事なのである。
もし、高等戦略を完遂したければ、庶民の生活を維持させる政策、例えば、庶民感覚で米国が依頼してきたのなら(実際は押し付けてきたのを押し抱いたに過ぎないのだろうが)、米国に庶民の生活を維持するような見返りを要求してもいいのである。伊藤にはその感覚が欠如している。ただ、高邁や言いがかりを庶民に押し付ける上から目線、今の民主党執行部のように国民に痛みを要求する口先だけの行いと同じで、一方の立場だけで語るぶら下がり評論家ではないかと思わざるを得ない。

彼は口を開けば、民主党事務局長を口にするが、大体説明を求めないのに先回りして言い訳をする人間に碌な奴はいない。本音で意見を披露する人は言い訳は言わないものだ。第一、彼が作成に参加した、民主党代表戦規約なるものは、浅慮な薄い規約である。そこに練りに練った軌跡が感じられない。そんな規約をまるで自分が参加したことを誇りにするような言動は愚か者がする行為だ。私に言わせれば、子供の戯れである。

鳩山さんに欠点がないとは言わない。しかし、この時期にイランへ行く行為は多分、戦争拡大防止も話し合うだろうが、鳩山さんは石油供給の話題もするつもりであろう。

嘗て、鳩山一族は米国一辺とうの政策を取っていない。田中角栄さんもそうだが、米国はそういう日本人を排斥してきた。伊藤うすおがその腰車に乗っているとは思わない。それ程、米国から信頼されていないだろ。、客観的に見れば、強いものの立場で物言う評論家と思われても仕方あるまい。
しかし、つらつら思うに、金を持ち独りよがりの人間は恐ろしい。

私は鳩山由紀夫さんのイラン訪問を支持する。

基本的な意見を言えば、米国は選民意識が強く、口先は巧妙だが最終的には同国人以外の国には無頓着である。
私は米国がイランとの制裁を日本に要求するなら、その損害を日本に補填するように政府は強く求めるべきである。米国の国益を優先する日本の国益を優先するべきである。
私は米国勢力が日本に原爆を投下した事実を忘れない。原爆投下に協力に指示したのどんな人間なのだろうか。私は推察出来るが、今度も米国やそれに加担する国が核を使用しないことを、摂に望む。
関東大震災の前には、その前に長雨が続き、おびただしい数のウンカが舞い上がったといいます。

異常気象は地震の前触れと受け取ってもいいと追います。歴史を紐解いても、大災害の前には必ず、人災が起きていて、戦争や紛争、一揆、狂った行動が頻発します。人心が緩んで、自分本位になって、他人を思いやる気持ちが失せるため、人と人の間に亀裂が入り、対立が深刻化するためです。

今、私達は歴史の教訓を学び、融和の精神を強く持つべきです。勤めて、独りよがりは慎むべきです。
ラジオ番組で週刊朝日の編集長が福島の原発について、菅直人の現地視察の報道の際、菅が米国オバマ大統領にそこで電話していることを報じている。

私はその事実が、今の日本が置かれている現状が明鮮明に現れているので、ブログすることにした。

日本が安全保障について当国の首相がコンタクトを取ることは理解は出来る。個人的には、自主性を尊重してもらいたいが、自体はそれ程、単純ではないだろう。しかし、あえて言えば、それでも日本人としての誇りを持って欲しかった。感覚的に私は、週刊朝日の編集長がそれを発表した時、言いいれぬ不快感でいたたまれなかった。取り巻く状況がそれ程単純でなく、戦争や権力闘争や世界の経済状況が微妙に絡み合っていて、最早、私にはどうしようもないことも理解できます。しかし、なんとも不快なのです。その事を、はっきりと、表現したかったのです。

日本と言う国は、美しい自然に囲まれた小さな国です。大国では有りません。青々とした山並みそしてそこに端を発する清らかな清流、そして豊かな海に囲まれた恵まれた国です。その自覚さえあれば、我々は十分に生活を楽しむことが出来る国土を待っています。
それに、我々は太古からその美しい自然と関わった生活の軌跡が有るのです。それが一つ一つの存在に生きる精霊を崇める根拠になっています。この多神教的信仰は、私が思うにこれからの世界を救えるかもしれない哲学が内在していると信じています。

だからこそ、私は菅直人が原発の現場から米国の大統領に臣下の電話なぞして欲しくないのです。もっと毅然として、振舞ってもらいたいのです。今やそれは単なる願望でしか伝えられないのが哀しいですが、マックが言ったように私達は「餓鬼」を装うざるを得ないのでしょうか。十二歳の日本人は永久に十二歳なのかもしれません。

哀しいことです。

私はこの頃、あえて、国際化に異論を唱えようと思う。

私は、敢えて、原点に戻り、愛国について考えてみたいと思った。
言っておきたいが、私は、所謂民族主義者ではない。既成の民族とは、どちらかと言うと、一神教的な選民思想を思わせるが、それとは異なる。

戦後の敗戦で私達占領された国土で、占領米兵の犯罪で生活を奪われた被害者た人々の一員が私達の家族である。残念ながら、と言うか理不尽といおうか。私達は正当な権利を得られないまま、敗戦国民と言う責任を取らされてしまった。何の国からの補償もないまま、置き去りにされてしまったのである。

占領軍補償法制定運動は日本国民が無関心を装うままに敗れ去り、私は精神的な打撃を得ながら、自堕落な生活を続け、私自身全てを捨ててしまった。
まるで無頼である。酒やギャンブル、遊行にうつつを抜かす愚か者に成り下がったのである。そして、気がついた時には60歳になっていた。両親も肉親全部を失い、天涯孤独になって振り返ると、後悔の積み重ねであった。ふと、友人の一言で私は、自分の戦後をもう一度考え直して見ようと天皇制を再考し始めた。

古代史を始めた契機は反省からであった。

古代史がこれほど奥が深いとは思っても見なかった。大体、認識とすれば、私はわが闘争からすれば、強固な敵対する障害としか思わなかった。そういう視点から見れば、天皇制は悪であり排除する制度そのものなのである。

しかし、客観的な視点で見てみると、古代史とはそんな単純な事(事象)ではなかった。特に、「古事記」「日本書紀」の奥深さは読み進めれば、読み進めるほど留まることのない奥深さを感じる。(勿論、天皇制を含めてのことである。それを一言でいうのは難しいのでここでは省くが、愛国に関して、私は古事記の優れた文章を披露したい。

神武東征で神日本磐余彦(神武天皇)が塩土老爺にその指針を問う時老賢人は「東(ひんがし)に美(よ)き地(くに)あり、青山四周(あおやまよもをめぐ)らす」と示唆します。

特に私は、地を「くに」と呼ばせるいにしえの知識人の鋭い感性にただ、ただ驚くばかりです。

地は「黄泉戸喫(よもつへぐ)い」です。これも卓言と言うしか有りません。

「黄泉戸喫い」とはイザナミ(女)が最後の出産でホトを焼き、黄泉(死の国)へ行きます。そこで、生きとし生きる国に住むイザナギ(夫)は黄泉へイザナミを追います。イザナギ(夫)は建国のために黄泉から現(う)つ国へ帰ることを望みます。
そこで妻はこういいます。「私は黄泉の食べ物を食べてしまいました。だから、最早、現(う)つ国へ戻る事は出ません」と語りかけます。
つまり、人の生死はその国の食べ物に関わり、一超一端には行かないと言うわけです。(古事記では黄泉の大王の了承が必要となっています)

その食とは人が生きるための有機的な連鎖が絡み合っていると言うわけです。自分の所属する地域を愛せないで自分を成立させることは出来ないとイザナミ(女)は言うのです。
その底には、私達が培ってきた全ての存在には霊魂が宿っているといった配慮が滲んでいます。

私が畏敬する谷川健一はそれを「意識の連続性」といい、ユングは「集合的無意識」と唱えた。医学ではその結果をDNAと名ずける。

私は、古代史が縄文時代から連続して続く「地」の意識が日本人の全てを関連で捉えようとする、優れた感性に注目している。「地(くに)」とは、そういう意味で愛国なのである。

現実の世界では、自我を優先させ、個人を個人として認識させる世界観を持つ。その個人は神が創生した規範が全てである。神典こそ個人が目指す目的であります。そこで選ばれた人が人間なのです。
社会規約とはその神典を言います。
詳細を語るには憚りますが、ドグマ的に言ってしまえば、そこには食物(いのち・命)を命がけで勝ち取る弱肉強食の砂漠の思想が窺えます。私は、最早、この砂漠の思想からは何者の生まれないような気がします。「多<さわ>に物言う神の宿る世界」、関連で物を捉える世界。その世界こそ世の中を救うような気がします。


「東に美き地あり、青山四周らす」素晴らしい言葉だと思います。追って、肝に銘ずべしです。
私は日本は大きな三つの大きな集団が権力を握っていると主張してきた。

この二三日の政治状況を見ていると、やはり日本の国民は赤子の手を捻るように財務省のスト~リィのままに動かされているのがはっきりした。見事に野田氏を使って検察さながらの物語作りは見事だと思う。誰が見ても野田氏が俳優でその演出は財務省とその眷属の力が働いているのは明瞭である。

私はもう予言してもいい。財務官僚と、政治家検察、裁判官の三権分立は最早、機能は失っている。その序章は三陸会裁判である。あの裁判は人を裁く唯一の原則である証拠と自白を無視した魔女裁判である。今度の小澤裁判はシナリオどうりに有罪だろう。私としては司法の独立性を望むが、客観的に観察すれば難しいと思わざるを得ない。(これまで狡猾な施政者は国民を飼いならしてきた。反抗しない国民の育成は見事である)

消費税の税率引き上げに始まる官僚と眷属たちは民主党を手中に治めた。小澤裁判はその開幕である。

私は今、語っている推察が私の独りよがりであることを摂に望む。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。