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先ずは、今、興味のある古代史を無理に考える。暑さしのぎである。

ニニギ命が高千穂の襲(會)の峰から野間半島の笠沙へ行く。その時、天津久米命と天忍日命に先導される。
私は天津久米命(久米直の祖)が薩摩隼人との関わりで重要な地位を占めていると思っている。神武東征では久米氏は神武天皇の一番の臣下であったはずである。久米舞は大嘗祭にも儀式として取り入れられている。
しかし、神武施政以来、重要な地位にその名を現すことはない。史実でも、上加世田遺跡に久米の刻印を刻んだ土器片だ見られるくらいである。続日本紀では渡来朝鮮工人に久米の姓を奪われてもいる。その衰退は目に余るものがある。
久米直氏はどこへ行ってしまったのだろう。これはあくまで仮説ではあるが、滝川政次郎説のように、江南から黒潮に乗って、久米氏は南北九州に着いた安曇族(私は滝川説の南九州に着いたのが隼人ではなく安曇族であると考える)が先住民族隼人(その当時は海人系會族)と混血を重ね久米氏を名乗ったと考えている。
「今昔物語」では久米寺縁起で、「竜門寺」で仙人の修行を安曇氏と久米氏は行い、安曇氏が先に免許皆伝して天に昇り、一年送れて、久米氏の皆伝したとある。
ここで興味あるのは、二人が中国・江南の道教の教えである神仙思想が見られ、両氏が共に学んでいることである。両氏は同族かかなり親しい部族であったのだろうと思われるからである。
そして、史実として、両氏の共通職掌が軍人で膳手(かしわで)として活躍していることである。
私は江南系王朝が初期王族の主流を占めていたと考える。文化的にも中国部族のほうが上位にあり、朝鮮部族もその洗礼を受けている。北九州の海人族は宗像であろうが、宗像女神は天照大神とスサノオウとの誓約で生まれた神である。血統的には安曇氏のほうが先行しており、宗像氏のほうが後続の血筋である。
「記・紀」での神話でも安曇氏はイザナミ命の禊により生まれた綿津見の神の子である。綿津見神を生んだ後に天照大神とスサノオウが生まれている。この関係は、中国文化が先に日本に上陸し、その後で朝鮮文化が北九州に影響を及ぼすことになる。当然、朝鮮文化は大陸経由で中国から伝播したのであって、その事実が「記・紀」に反映したのである。

しかし、南九州で生まれた江南文化を背負った王朝は八世紀には北九州系の朝鮮文化を背負った王朝に衰退をさせられる。それと共に神武系王朝は交代して、「久米氏も安曇氏」もその勢力を失ったと思われる。

「襲」は大隅地方に属し、そこには一万年前の遺跡・上野原遺跡があり、6300年前の「鬼界カルデラ」の噴火で九州に関わらずかなりの地方へ影響を及ぼし、火山灰は東北にまで降り注いだと言われている。そのため、南九州は全滅に近い被害をこうむった。上野原遺跡もまた忽然と姿を消したといわれている。
しかし、かなりの文献は全滅したと告げるが、私はそう言う非現実的な考察を信用しない。南九州は桜島、阿蘇などその前にいくらでも噴火の経験があったと推察する。その伝承は確実に伝わっているはずだ。生死をかけた生活を危機意識なしに対処していないはずはない。上野原遺跡の高度な文化を確実に継承していると推測する。

<鬼界カルデラ噴火を分析した町田洋は、こう言っている。・・・「三回の噴火の間には、数時間から数十日の間隔があった。火山に対する畏怖の念を持っていた彼等ならば、逃げることが出来たかもしれない>と。
さらに、丸ノミ形石斧に注目し、各地の遺跡の出土物を調査した考古学者・小田静夫は興味深い事実に気がついている。
<丸ノミ形石斧を系統の同じ円筒型・磨製石斧が黒潮の流れに沿うように、木屋ヶ内遺跡(高知)、不動寺谷遺跡(和歌山)、供養橋遺跡(八丈島)などに出土しているのが判明している。この外にも、南九州が発祥の地と言われる「連結土坑」(燻製施設)が鴻野木遺跡(三重)、浜井場遺跡(愛知)、匂坂中<さぎさかなか>遺跡(静岡)、関東と、黒潮の沿岸に伝わっていろことが解かった。
また、多摩ニュウタウン遺跡(4500年前)にも、南九州の人々が作り出した「磨製石斧」が出土している。

これらは、上野原人が太平洋の黒潮に乗り、縄文文化を伝播した証左に他ならない。

南九州の先進性は当然、古事記においても語られているが、多くの学者はあれは神話であるとかたずけてしまう。
日向三代についても、この重要性を述べる識者は少ない。私は初期王朝において、南九州が勢力があったと考える。

安本美典は「邪馬台国は、その後どうなったか」でこう書いている。
「天孫降臨後、第一代二ニギ尊は薩摩半島西端と見られる「笠沙の御前」に到り、木花開那姫(吾田津姫)を娶っている。そして、ニニギ尊の陵墓の有力地は鹿児島県西部・川内市中にある。第二代・彦火火出見尊の陵墓は鹿児島県中央部・薩摩半島と大隅半島が枝別れする根元の部分にある。第三代・ウガヤフキアエズ尊は、更に東に移り、鹿児島県肝属郡吾平町の地にあり、大隅半島の地である。第四代・神武天皇が若い頃にいた狭野の地は、都とした宮崎の地は東であり、後に神武天皇は、東の畿内・大和へと遷ってゆく。
明らかに、南九州の西から東へと移動しているのがわかる。
と述べている。
因みに、ニニギ命を祀る神社は新田神社(川内市)で、彦火火出見命は鹿児島神社(大隅市)、ウガヤフキアエズ命は鵜戸神社(宮崎県)である。

これは江南から渡来したニニギ勢力が地元先住民(熊會族)と混血を重ねながら、南九州をその勢力圏内に入れて行く様を捉えた状況を記述したことなのであろう。




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安本美典は「日向の襲の高千穂の峰」の「襲」と「會」は同じものであるとされている。
そのほかに「曽於」とかそれに類似した文字があるが、二字の場合、<和銅六年の五月の条に朝廷は全国の国司の役所に、郡や郷の名前や地名は今後、好ましい字で表記せよ>と告げ、「風土記」や他の書物は二字表記になったとして「曽於」などの二字になったと言う。
これは私の仮説だが、「襲」は大和朝廷のなずけた中国風の表示で上位目線の表記で、元々は「會」が本字であったろうと思う。

ニニギ命は天忍日命と天津久米命を伴い、「古事記」は<此地(襲・會の地)は韓国(からくに)に向かい、笠沙の御前を真来(まき)通り・・・>とある。韓国を朝鮮半島の説があるが、會は現在の霧島山の裾野・大隈辺りとすると、そこからは、朝鮮半島は窺えない。韓国は朝鮮ではなく、吉田東伍が説くように、「空虚の地<からくに>」の意味であり、「三国命名勝図会」も韓国岳を「虚国嶽」と云っているように、<不毛な地>とする説や「本居宣長」の<からりと見晴らしのよい>と言う説もあり、あくまで仮説だが、<唐国・からくに>とする説も虚妄だとはいえない。

「會」の解字、<字通>(白川静編)によれば、(そう、こしき、かさねる、かつて、すなわち)の意味。
甑(こしき)の形で、甑の初文、冠の八は湯気のたちのぼる形。噌の声符は會である。

「會」については、大隅地方(現・国分市)には縄文草創期の上野原遺跡が発掘され、そこには連穴土坑、集石遺構、石皿、敲き石、蒸し器(甑)、おおつぼ、耳飾、土偶など定住が明らかで、火を使い運搬、貯蔵、祭祀を行いかなりの高度の文化を示していた。ここで注目すべきことは、蒸し器(甑)を使っていることである。「會」は「甑」に通じ、「會」はこしきの意味もあって、太古から「こしき」が地名になった可能性も考えられる。



そして、安本美典は興味深い文章を記している。少し長いが紹介してみようと思う。

「襲の高千穂の峰」の「襲」は地名ではなく「背(そ)」の意であるという解釈がある。しかし、中国人にみせることも考慮し、堂々たる漢文で書かれた「日本書紀」が「背」の意味で「襲」を用いることは、考えにくい。また、「続日本紀」には、元明天皇の和銅三年の条に「日向の隼人、會の君、細麻呂」とあり、聖武天皇の天平十三年の条に、「會の君、多理志佐」とある。「続日本紀」の考謙天皇の天平勝宝元年の条にも、「會の君、多理志佐」の名が見え、この条では、「會の県主、岐の直、志自羽志」と云う名もみえる。
これから、「続日本紀」の「會」が隼人の国、つまり、日向の国から分かれた大隈の国、現在の鹿児島県の地名であるとみるべきである。とすれば、「続日本紀」の「會の峰」の「會」も地名であるともいるべきである。そして、「古事記」が「熊會」と記すものを「日本書紀」は「熊襲」と記している。
古代において「會」と「襲」が通じていたことも動かない。「襲の高千穂の峰」の「襲」は「會」であり、それは隼人の国、現在の鹿児島県にあった。

「古事記」「日本書紀」の古い時代の記述では、九州の南部の呼び方としては、主に「日向」が用いられている。「記・紀」では、のちの大隈の国にあたる地域は、「襲」とも「大隈」とも読んでいる。「襲」の呼び方はやや古く「大隈」の呼び方はやや新しいようである。
「日本国郡沿革考」は上古、大隅の地を「襲国」と言ったとする。
大嘗祭の時、紫シン殿から廻立殿へ行き、天皇は沐浴する。
<東方の小床に御し、天の羽衣を着し、御湯を供す。了(おわ)りて中央のお帖(たたみ)に御す>・・・紅家次第。

「紅家次第」による、天の羽衣は「天孫降臨」に於ける真床追衾であろうと云う。ニニギ命は赤子のまま高天原より高千穂の襲に降臨している。その時、ニニギ命は真床追衾(赤子を包む布)に包まって天下った。そして、天照大神は自分と同化するようにと鏡を渡す。「延喜式」には午後九時半(亥の刻)に悠紀殿御膳(ゆきでんみけつ)の神饌行立が開かれ、天皇が御飯を盛ると記している。
これはニニギ命が降臨する時、斎庭(ゆにわ)の穂(いなほ)をも持参している。それは黄泉戸喫(よもつへぐい)でも解かるように、その所の食べ物を食べると、その地から逃れることは出来ないと言う意味である。つまり、天(高天原)からの食物を天下らすと言うことは、高天原のものしか食することが出来ないのである。そのことによって、天皇は高天原のものになるのである。「延喜式」の儀式はそのことを示している。
また、葦原中国は汚れていて、高天原のように清い所へ行くには、禊をして水で汚れを洗い流さなければならないのだ。
身を禊、高天原の食べ物を食べてこそ、高天原の聖人になれるのである。

大嘗祭とは簡単に言うとそういうことの儀式なのであろう。
私はこのところ、反原発デモに参加して体調を崩してしまった。少し休養のため、地震と津波関係の古代史を読む中で「遠野物語99話」に行き当たる。

柳田国男の津波に関する話なのだが、それが東北三陸にあった話である。

「それは福次と言う男の記録で、彼は養子に入ってそこで大津波に遭い息子と妻を失う。ある夜、ふと目を覚ますとそこに妻と男が連れ添って歩いて行く。
その男は福次が妻と知り合う前に妻が愛していた男であった。多分、あの世で連れ添った夫婦なのだ。妻はそれを知らせにこの世に舞い戻ったのである」そういった話が「遠野物語99話」である。

話はそこで終わらなかった。私が震災関係のNHKテレビを見ていると、その福次の玄孫と言う人が震災の津波の被害に遭い、その奥さんを津波で失ったと、放映するのを見て震えが止まらなかった。そんな因縁が現実にあっていいものだろうか。勿論、その人の妻には男はいなかったが、妻は未だにその遺体が揚がっていないという。礼を失することになるので具体的な分析は控えるが、霊魂の繋がりと言おうか、因縁の濃厚さと言おうか、なんとも不思議な話ではなかろうか。

そこでは、あの役所の女性が最後まで村民に避難の放送をしていて、自らの命を失った地でもあるのだ。
今、その場所には祭壇が設けられ、線香の火は絶やすことがないという。
私は日本人の素朴な生死感がそこに現れていると同時に、目に見えない因縁の綾が顕現されているようで無気味な感情でいたたまれない気持ちで一杯であった。

施政者に祟りあれである。
私はラジオが好きで、良く耳を通す。
どういう訳か、小沢遼子さんとは波長が合い意見を同じくすることが多い。今日の放送でも、国のやらずぶったくりを批判していたけれど、私も同じ意見である。否、国が勝手に個人の財産を銀行口座から天引きするのは、憲法違反ではないかぐらい思っている。彼女は国を称して悪代官と話しているが、いつになったら、印籠をかざした水戸黄門が現れるのですかね。

私は今の民主党を悪くしたのは、松下政経塾と労働者を見放した労働貴族達だと考えて、それによれよれ自民党と庶民集団でありながら庶民など見向きもしない右翼宗教集団、それを上手く操る財務官僚の連合体であろうと思っています。こんな人達が政権の中枢でのさばっているなら、私達の国はよくなるはずはありません。

私は60歳にして、古代史に魅せられたイカレタ老人ですが、今、太古の人々の思想に学び、我々日本人は心のそこから妥協の精神が染み付いた軟弱民族なのです。しかし、軟弱は軟弱なりによさもあり、聖徳太子の「和をもって貴しとする」と言う平和民族でもあるのです。こうした「お人よし集団」は騙され易く、寄らば大樹に寄り添う習性があります。しかし、勤勉で粘り強いといった特性も持ち合わせていて、いざとなると「火事場の馬鹿力」を発揮します。しかし、いざとなるには、追い込まれないとその力を出せないのが欠点なのです。習性なのだから仕方がありません。それを利用されないように気をつけ様願うばかりです。

今、悪代官たちが遣りたい放題の悪政を敷こうとてぐすねを引いています。

平和、いや、爛熟した時代には、兎角、こうした小利口な連中が巾を利かせます。ご用心、ご用心です。気配りは広範囲で勉学に長けた優等生が多い、一筋縄ではやられてしまいます。ご用心、ご用心です。

狡猾な江戸城・狐年寄り財務家老に、悪代官と越後屋手もみ・宗教右派の公明坊主、茶坊主野田が渡来悪人(ベニスの商人・死の商人連合)が加担し、江戸庶民を虐めます。
しかし、大塩平八郎も水戸黄門も今はいません。楽観的な江戸の与太郎と八五郎は遊び呆けるか、湘南などで海坊主。やれやれ、江戸は悪人天国。特に寝技が得意の江戸家老は金と脅し(本屋と結託して、あら捜し)、賄賂とお伊達上手、腰抜けとアホナ侍は腑抜けの金勘定。
世の中浮かれのかっぽれ踊り。地震・カミナリ・洪水、なんのその、自分がいたまらなければ、どうでもいい。世は頭の良い者勝ち、金を蓄えトンズラ暮らし、ウシッシ、後は野となれ山となれ、無責任ほど楽なことなし。
極楽極楽。
この久米の仙人の話は非常に興味を引く。
出典は不詳となっているが、「久米寺流記」「諸寺縁起集」「元亮釈書」「扶桑略記」にも<古老相伝>として関連記事として収められている。

先ずは、その最初の部分を覗いてみよう。

「今昔、大和国、吉野の郡、龍門寺と云う寺有り。寺に二の人籠もり居て仙の法を行ひけり。その仙人の名をば、一人を安曇と云う、一人をば久米と云う。然るに、安曇は前に行ひ得て既に仙に成て、飛びて空に昇りにけり。
後に、久米も既に仙に成りて、空に飛びて渡る間、吉野河の辺・・・・・」と書き出す。

ここで興味あることは、<安曇氏が先に免許を皆伝していて、後に久米氏が続く>ということと<仙の法>を行って居ることである。また、「久米寺流記」と「扶桑略記」にはもう一人「大伴氏」を登場させていることである。

ここでは明らかに、初期の天孫の神話の登場人物が揃っている。久米氏と大伴氏は「天孫降臨」の際の「襲」から「笠沙」への先導者である。また、安曇氏は中国・江南からの海人族である。「仙の法」は江南の道教の教えである。「安曇氏」と「久米氏」は共に仙人の修行をして、安曇氏のほうが先に会得して、久米氏が遅れをとると言うのが象徴的である。
私は「安曇氏」と「久米氏」は同族以上の間柄で、同一氏族の可能性があると推察している。そこで久米氏と大伴氏の挿話は「古事記・日本書紀」で語られるニニギ命の先導説話が関係しているように思われる。

つまり、薩摩の政治状況がここに反映されているような気がして、そうすると、「安曇氏」と「久米氏」の関係が濃厚な証左であると言える。勿論、そうは単純ではないだろうが、煙は立っているではないか。興味がある文献である。
私は「久米氏」の祖・天津久米氏を調べ初めてから、「古事記」と「日本書紀」の扱いが異なっているのに疑義を持ち、どちらの書物が信用できるかを確認しようと模索し始めました。

今の所、「古事記」に真実性があるような気がしますが完全ではありません。多分、「日本書紀」はあくまで政治的な姿勢で貫かれており、そのための表示が行われているようです。
「古事記」は<ふることのふみ>として古伝承に真実味が窺われます。大和岩雄氏の説かれるように、天宇受売命を祖とする猿女君(稗田氏の祖)が歌語り・神語りとして大歌所で伝承して「古事記」に反映し、それを管轄した<オホ氏>が「古事記」に記したと言う、仮説は大変面白いと思います。
<オホ氏>は神武天皇の子、次男・神八井耳命で長男は日子八井命です。(三男は神沼河耳命)・・・・「古事記」(ここで疑問、何故長男には<耳>がつけられないのでしょう。「ミミ」は尊称を超える神に近い尊称です)

<オホ氏>の本拠地は大和国十市郡田原本町多でそこには小子部氏(ちいさこべし)と茨田氏(まむたし)の里があり、親近性があるはずです。それなのに「古事記」ではその茨田氏は排除されています。何かあったのでしょうか?

大和氏は茨田氏に二派あり、「姓氏録」に百済系渡来の新興・茨田氏を嫌い排除したと説いています。

確かに理解は出来る説明ではありますが、何故か腑に落ちません。茨田氏の祖は日子八井命で何か「古事記」はよそよそしいのです。つまり<ミミ>の問題です。

話題は飛びますが、「高御魂(たかみむすみ)命」と「神魂(かみむすみ)命」です。何故「神魂命」には「御」が抜けているのでしょう。当然、意味があるはずです。(御もミと読み尊貴な名称です)一説には高御魂命は天孫族を統率し、神魂命は国津神を統率する「差」であると言います。確かに、高御魂命は高天原を統括し、神魂命は出雲と深い関係があるように思います。理解は出来るのですが合点が行きません。と言って確証があるわけでもないのです。

同じ思いが、<オオ氏>と<茨田氏>にもするのです。兄と弟の問題でしょうか、地位の上下の問題でしょうか。
兄弟の問題で言えば、末子相続が継承されている世代でしょう。しかし、末子は神沼河耳命です。直接的な関係は成り立たないように思えます。

やはり、渡来人問題でしょうか。

2012.07.16 たぶん
多分、原発推進は経済性と軍事性が根底にあるのだろう。私は経済性に関しては楽観的で世界恐慌がその主な原因だと思っている。それはなるようにしかならない。つまり超構造的な問題だからである。

どうせ自主性を唱えようと、平和ボケの日本人は平和ゆえに高々、平和行進が限界であろう。改革はその根底に命の存在が横たわっている。それがなければ、権力者は動じないものだ。
私はデモに参加をし感じたことはこれはこれで一つの方法だとは思うが、民衆が権力を動かした中近東とは違う。彼等はその背後に両者とも命がかかっている。アメリカを見れば解かるだろうが、鎮圧は簡単だ平和的なデモだからだ。私はこの平和でもを生かす方法は誠実に政見を実行する政治家を真剣に選ぶことだ。それが第一歩である。しかし、その先には官僚山が立ちはだかっている。本当はこっちのほうが手ごわいのだ、我々は政治家選べるが、官僚様は選べないのである。官僚を処理できるのは政治家なのである。しかし、現在は圧倒的に官僚が主導権を持っている。

これでは平和デモで揺らぐ状況ではないのである。現代は複合的で単層的な発想だけでは、地盤は揺るがなのである。

思い出して下さい。日本は唯一の被爆国です。私の母は長崎出身で被爆された親類が二三人おられます。それは苦悩の日々です。私は子供心に被爆写真を見てその凄惨さは目をそむけるほどの光景でした。吐き気を催しました。あれから私は日本は核を許してはならないと決意しました。核の平和利用はまやかしの何ものではありません。

8月15日は迫っています。決意を新たにしました。
「続日本紀(しょくにほんき)養老三年十一月二十四日の条(くだり)」

<忍海手人広道(おしぬみのてひとひろみち)に久米直の姓を賜ひて並びに雑戸を除く>とある。

忍海造小滝らが、「日本書紀」神功皇后五年の条には、葛城襲津彦が新羅から連れ帰った俘人が忍海などの四邑の漢人の祖であると伝え、後代の史料には、忍海手人の称が見える。忍海漢人、手人はもと葛城支配の金工集団であったと考えられ、その管掌者が首姓の忍海氏かもしれない。(佐伯有清の解説)

これらの文章から、忍海手人は渡来系の工人と考えられ、その渡来系工人に久米氏の姓を譲ることは、既に「久米氏」がその勢力を完全に失っていたか、もともと「久米氏」は渡来民族かであろう。

天孫降臨の状況を見ると、久米氏は「直(あたい)」姓を与えられている。「久米直」は高御魂命の八世の孫の味耳命の末(すえ)といわれ(新撰姓氏録)、天孫族の一員の印象があるが、「直」は古代辞典によると、<古代の姓、5・6世紀に成立し、主に大和王権から国造などの地位に認められた地方豪族に対して与えられた>とある。
私は久米氏は中国・江南からやってきて、野間半島に定住した地方豪族と判断している。それは、上加世田遺跡から「久米」を刻んだ土器片が出土していることから判断したのだが、滝川政次郎の「猪甘部考(いのかいべこう)」が説くように、黒潮に乗り江南からやってきた渡来人でニニギ命が南九州・笠沙の吾田姫(野間半島の隼人族の女)と血縁しているように「久米氏」も現地・先住民族と血縁した民族であろう。
すると、「養老三年(719年)」の記事は、整合性があるとも言える。

黒潮は日本海側の対馬海流と太平洋側の黒潮続流があり、瀬戸内海、近畿・中部・静岡・関東と海人族の分布範囲で、先住海人族や渡来系海人族の交易圏内ではある。
これから、少しずつそれらの実証をしなければならないだろうが、表記の文章は「久米氏」の問題を考えるのに、格好の材料を与えてくれたように思う。
結果的にl古事記」には<現存>と<原>古事記があり、「原古事記」は古くそれは後宮の巫女が歌語りをして古事記の原型になると言う。
その巫女が語る「古伝承」は古言(ふること)であり、「歌語り」「神語り」と歌唱化する伝承は、地母信仰や母子信仰に繋がる。それは創生神話や宇宙起源へと深化して行くことは考えられる。しかし、大和岩雄はそこに留まってしまう。
私はもう一つ、「古事記」に現れる「古老」の伝承に注目する。巫女の伝承が先住民族の伝承だとすると、古老の語り部は海を核にした海人族の伝承と言える。その中心人物が「塩土老爺」であろう。これは渡来神話が中心になるが、南九州の伝承には先住民神話と南方神話が融合しているだけに、渡来神話も重要であろう。

「続日本紀」養老三年十一月二十四日条

<忍海手人広道に久米直の姓を賜ひて並びに雑戸の号を除く>

天津久米命(久米直の祖)は高千穂の襲の地から野間半島の笠沙に軍を率いて先導した。その後、神武天皇に従い大和の地で健闘している。これを見ると、久米氏は神武天皇の直系であろう。それは天武天皇にまで続き、久米氏は衰退していただろうが、皇族の直系であったのだ。
それが「手人」(技術者)に与えられたのは、その勢力の衰退は目を覆うばかりであったと言える。
橋下氏は野田氏を激賞している。ついに、彼は本性を表した。つまり、国民の声がどうであろうと、「自分の思ったことを達成するにはいくらでも、悪に心は売るよ」そういっているのである。メフィストフェレス・橋下である。

彼には戦術はあっても哲学も持たない単なる愚者である。いや、彼の哲学は単に自分の主張を実行するには、誰でも裏切るよといっているのです。韜晦を装うヒットラ~に近い。ヒットラ~ほどのスケ~ルはないので始末が悪い。単純な力に頼る右翼であろう。

ドイツの悪の爪も始めは口当たりのいい甘言を弄して、結局は国民を奈落へ落とす。こういう人間は気をつけなければならないのです。排除すべき人間である。
野田も政見付かない苦難の時は、私達が納得する甘言を弄していた。(その政見は本心ではなく、商売だったのです)それと同じことをしようとしている。危ない、危ない。

考え方の総体は方法論と理論がある。方法論は手段であって、考え方の基本である。通常、形式論理学的方法論と弁証法的方法論がある。詳細は述べないが、私は日本人は弁証法論理が古来より身についていると思っている。
理論は哲学ともいえるし、考え方の根とも言える。

橋下氏は恒に、手段が先行し、理論はその時の情勢で変わって行く。彼は嘗て「勝たなければ意味がない」と述べている。つまり、勝つためには手段を選ばないというわけである。
彼は野田政見の掲げる消費税問題や原発再稼動には反対していたはずである。これは理論に基ずく者であるはずである。しかし、今度の「野田激賞」は彼が変えない態度を示している。そうだろうか、この短期間で言えばそのとうりである。しかし彼がこの年まで経験もし、勉学を重ねた結果である政見をいとも簡単に変えている。つまり、内容はどうでも、「変えない精神」偉いというのだろうが、これは軽率な愚者の甘言である。大事なのは理論なのだ。それを等閑にすると、不誠実な事なかれ主義に落ちてしまう。これは決して、許してはならない言動である。

橋下氏は弁護士として、再犯問題で暴言を吐いたことがある。彼は確実に固定観念があって、それを買えることはない。ただ、彼はその危険な観念を隠している。推測は出来るが、彼は自らそれを表で証明すべきだ。野田政権のように裏で談合すべきではない。もう隠し事の政治には終止符を打つべきなのである。
このところ、政治的行動をし過ぎました。費用もかかり、生活を圧迫しだしたので、暫らくは戦後史と古代史に視点を変えなければならないでしょう。

幸い「久米氏」の進行が順調で、意欲が出てきています。初期王朝はその文献の主流である「古事記」と「日本書紀」の内容を検討をはじめ、おぼろげながら「記・紀」の違いがわかり始めてきました。

「古事記」が天武天皇が中心で、後宮の歌姫(巫女)がかかわっているという説が新羅的な発想があると言うのは非常に興味がわきます。そして、「日本書紀」が政治的で百済的な支援があるという説は納得が行きます。少し、この問題を追求しようと思います。
「続日本紀(しょくにほんき)」養老三年(719)十一月二十四日条

「忍海手人広道(おしうみてひとひろうみ)に久米直の姓を賜いて並びに雑戸の号を除く」とある。

719年は「古事記」の編纂から7年後である。まだ、天武天皇の勅旨が効力を持っていたであろう。しかし、「久米氏」のネイムバリュウは衰退していたことがわかる。神武天皇の将軍をの務め、皇后の推薦に多大な尽力を果たした名門部族である。それが「手人(てひと)」とあるから朝鮮渡来の技術者にその位を授けるのは曲がりなりにもその勢力が下落していたからだろう。天皇の勢力の範疇にあった事はこれで確かめられるが、先住豪族の氏姓が異国人に譲るのは屈辱そのものであっただろうが、その抗議さえも出来ないほど勢力を衰退させていたのは悲哀そのものであったと言える。

但し、忍海氏は大海氏と同族で尾張氏や多(太・おお)氏とも同族で天孫系の名門ではある。天武天皇を支えた勢力なのだから、その中に、落ちぶれたとは言え「久米氏」も参加していた事実は確かである。

「古事記成立考」(大和岩雄)をここに挙げておく。

「久米直の祖大久米命が「古事記」のみに載るのは、オホ氏の関与が考えられるが、忍(大)海手人が久米直になっているから、同じ忍海の手人の大海氏の関与も考えられる。大海人皇子の養育にかかわる湯沐令(ゆのながれ)の多品治(おおのほむじ)と、大海人皇子を幼児のとき養育した大海趨蒲の大海氏は、大海人皇子をとおして親しかったので、両氏が伊奈と忍海でかかわる久米直の祖の大久米命を、「古事記」独自伝承として原「古事記」にいれたのであろう。
2012.07.08 雑談
金曜デモに期待をしたいが、疑問もある。参加した人達は自分の身の回りにそれを波及させて欲しい。

それにつけても、あの石原慎太郎と言う人間は何と人品が卑らしいのだ。こんな人間が私達の政治的な牽引車だと思うと恥じて身が竦む思いだ。彼には内省と言う概念がないのだろうか。自分が若い頃書いた「太陽の季節」は誇れるものなのだろうか。

TVで尖閣島を都知事としてではなく、石原個人で買って欲しいと述べていたが、私もそのとうりで、田中康夫氏が嘗て石原氏を評して「臆病者」と称した。彼は自分が主体的に行動するというよりは、楯を何時も必要として行動する。やはり、田中氏が言うように「臆病者」なのだ。

都知事をやめ単独に尖閣島に住み、魚の干物の工場でも創設されることを願います。
「古事記」の天孫降臨で久米氏の役わりは大変重要で、「日本書紀」とに大きな違いがある。

「日本書紀」は久米氏を天忍日命(大伴氏の始祖)が配下に従えている。しかし「古事記」では両将軍が平等で指揮を執るとしている。私が調べたところでは702年大和朝廷が薩摩の隼人討伐のため肥後国から出水郡と高城郡(現在の川内市)に肥の君、五木部(いおきべ)、大伴氏を隼人馴化のために送り込んだとしている(続日本紀)。つまり、この頃は大伴氏は大和朝廷で大きな地位を占めていたことになる。「日本書紀」は明らかに、その事実を反映している。(隼人の研究者・中村明蔵もそれを明らかにしている)私は「日本書紀」が政治的な書物だと考えているので、これは朝廷側の意向である。そこへ行くと「古事記」の表現はどこからきたのだろうとの疑問が湧く。

「古事記」の発生を調べようとの脇道に、はいらざるをえなくなった。
「久米氏」の始祖が高御魂神(たあかみむすびかみ、久米氏は八世の孫とある)との記事も確かめなければならないことが、私を「古事記の発生」に向かわせたのだが、最初からこの範囲が広く深いので躊躇せざるをえない。
戸惑い(時間と労力・・・私は年でそんなに時間がない)はあるがやはり知識としてなくてはならないだろう。

読み進むうち、これが思ったとうり、様々な項目が散在している。優先順位を決めるのにも苦労する。「発生」をどこで切り上げるかを考えながら、関係書籍を読み進めている。
「古事記」が女性の視点で書かれていると言われる。
折口信夫は「古事記の本質」などで古い時代の物語は、「女戸主を原則とした氏族」出自の女たちの物語り出会った。と、書いている。(余談だが、折口が同性愛者なので影響があるかもしれない)

これは慧眼である。私はもう一歩進んで、先住民族の考えた末の知恵のような気がしてならない。
大陸から進出してきた種族は、中国・江南にせよ朝鮮半島の王族にせよ、軍事的にも文化的にも当時の日本列島よりは進んでいたといえる。
だが彼等の弱点は女性を伴って上陸できなかった点である。先住民族はそれを逆手にとって、自らの娘を捧げることによって、渡来民族と血族して自らの種族としての血を保とうとした。先住民族としての主張は女性を通して還元されたに違いない。そうした深謀遠慮の底根を私は感じる。

表に立たずに、裏で操るといった日本人の特性の一つが、垣間見られる。
私は直感を大事にします。だから、思いついたら書きとめるように勤めています。

「古事記」の伝承は如何して結実したのでしょうか。縄文時代には文字がなく口伝が伝達事項を伝えていたと思われます。古事記的に言えば、それを担っていたのが、巫女であり俳優でもある天宇受売命(猿女の君・稗田阿礼ら)と塩土老爺(海人族であり呪術者)が重要事項を記憶し子孫に伝えた。類まれに見る霊力と記憶力がその推進力であったろう。もう一つ、私は土偶や土器、更に銅鐸などの模様や絵文字がキイをなってそれを助けていたような気がしてならない。今は、単なる思い付きだが、それを証明する客観的事実を探すよう勤めようと思う。

「古事記」が女性的視点で書かれていて、稗田阿礼は女ではないかとの説もあるくらいである。
巫女の霊感が伝統を伝えるのに役立っているという主張が語り部として「古事記」の編纂に関与したという。その根底には縄文時代からの母権性の名残りだという。

確かに、縄文の土偶や顔面つきの土器には女性の霊力を感じる。しかし、私はその表現の根本は男の情念を見て取れるのだ。つまり、密やかで強い男の息吹が感じられる。明らかに、男社会が後ろに控えて手綱を握っているような気配が見える。

母権制度を主張する学説に一言いうなら、一歩譲って母権、優位に見える体制は「ヒメ・ヒコ制」だそうしているのだと思う。
やはり平和は平和である。平和は悪いわけではない。3・11以来確かに人の意識は変わりつつある。それは事実だ。海外の報道は、原発再開デモを静かな怒りと報道し、その規律ある行動と驚きをもって伝えている。それはそれなりに評価すべきではある。
しかし、平和は平和なのである。単なる平和から何も生み出しはしない。大事なのは命で、命を触発しない変革は尻つぼになるのである。それは私が60年安保闘争から70年安保闘争への変遷を経験した実感である。人心は自分の利益を収斂するように誘導をされ、それに人心が選択していったのである。それは全く間違いではないと思う。しかし、それはベストではないのだ。そのことを乗り越えることはかなりの民度の高さを要求する。だが、民衆を支配するのに、その民度の高さを創造しないのだ、寧ろ抑制に向かう。あたり前のことだ。利巧な民衆などは扱いずらい何ものでもないのである。素直で忠実、熟慮できない状況を創っておいたほうが扱い易いのは言うまでもない。それには平和が一番なのである。

平和が一番、この標語こそマスゴミの伝えるべき麻薬である。

60年安保こそ日本の転機であった。60年の象徴的なのは警察に追われた学生を人々は匿った。そこには安保が民衆の側にあり、そこからの脱出の根が兆していたからである。そんな状況を拡大進展させるだけの英雄が存在していたなら、日本は大きく変わっただろう。しかし、そうはならなかったのはそれを抑える側の力が勝っていたのである。70年には民衆は逃げ惑う学生に目もくれなかった。そこから、現在を予測できた。私達の占領軍遺族被害者連盟もその煽りを受けて、運動の勢いを抑制されていった。私の酒が苦くなったのはその頃からである。

私は一般的な学説が取り上げない、項目に興味が湧いてくる。
久米氏や安曇氏、熊襲(熊會)が目に付く。そして、今度は、高御魂(たかみむすび)である。
高御魂は天照大神の隠れて、その詳細が現われていない。初期皇室の形成には重要な役割を果たしているのだが、その出自さえはっきりしない。

天孫降臨のニニギ命の命運を決めているのも高御魂神である。天忍穂耳命が直前に降臨を辞退して、息子のニニギに譲る。それを許し、真床追衾に包み天降らせるのも高御魂である。至上の指令者でる。しかし、巷間、高天原の統治者は天照大神であるのだ。曲がりなりにも、天照大神の研究はし尽くされており、大体の性格ずけは判断できる。しかし、高御魂の姿は定着されていない。

私はニニギ命の父親が天忍穂耳で母は萬幡豊秋津姫命なのを知っている。(但し、その後の皇孫が皇后を先住民の子女を娶るのに、この両親だけが天孫族同志なのは腑に落ちない)秋津姫の父は高御玉魂であるが、その母は不明である。
ご存知のように、日本の系譜は母系は重要で、縄文時代から母方の血が継続する。だからこそ母方の系譜は明らかにしなければならないのである。私が主張する南九州系王朝説の核心は、母系の先住民族の系譜なのである。渡来した貴族は女性を伴わないのが原則で、その状態は政治的な逃亡がその裏に現れている。だからこそ、原住民の女がその系譜を繋ぐことになるのである。

私が高御魂に視点をあわせるのはそういう意味があるのです。今回はそれをも解明してみたいと思っている。
「続日本紀(しょくにほんき)」を読むと、持統天皇が崩御してから大倭根子天之広野日女尊と名ずけられるのは、一年後である。
その和名は意味を熟慮されたあろう。そこが重要な問題である。私は今までそこに理解がいってなかった。
例えば神武天皇は神日本磐余彦尊であり、ここにも深い意味が潜んでいるはずだ。もう一度、和名のおくりなを再考しなければならないと思った。
私は現在、一ヶ月8万円で生活しています。我慢すれば漸く生活は成り立っています。しかし、これ以上収入が減れば、生活保護を受けなければ遣って行けないでしょう。

平均的な生活をしている人は気がつかないでしょうが、年金は巧妙に少しずつ減らされています。
その片棒をかついでいるのが、公明党、自民党、民主党(松下政経塾や仙石由と野田一派です。)

私達は年金の中から、介護保険、税金、地方税を魅かれます。それは国会議員が法律で本人の了承を得ずに引くことができるように創るからです。民間では本人の了承を得ないで銀行の口座から天引きすれば犯罪です。国がそれを平気で行う。憲法違反の気がしないではないが、議員は平気でそれを法律化する。

基本的に私達の生活を向上するためなら、多少の横暴も我慢するが、例えば、老齢の施設に入るとしてそれが正しく実施されるなら天引きもしかたないでしょう。しかし、永年計画してきた年金でさえ危ういのに介護保険が正しく施行されるなどとは考えにくい。そんな不信感のある保険を天引きされるのは真っ平ごめんだ。
年金からひかれるのは拒否したい。どぶにカネは捨てたくはないのです。本人の了解を得るように法改正をして欲しい。

今の三党は国民を泥沼に引きずり込む悪政曳こうとしている。こんな簡単な現象が隣人達は何故わからないのでしょう。目を覚ますべきです。

私の近未来を思い描いて見ましょう。自殺や犯罪が増え、隣同士が疑心暗疑の腹の探り合いをする世の中になります。人心の乱れは天災の発生です。阿鼻叫喚、地獄の世界が舞っています。
今、私はそういう小説を書こうと思っています。
2012.07.04 何故
GOOGLEを引いて二三の興味ある情報をえた。

その中で「高良大社のある久留米はニニギ命、その孫・神武天皇に従った大来目から転化したものである。
神武天皇のかしわ原宮の隣も久米町ですが、古代豪族久米氏も高木神(高御魂・たかみすび)の孫である。

高良大社の一の鳥居の手前に高木神を祀る高樹神社があって、その神社の伝承では、高木神が高良神に山上の場所を貸したところ、乗っ取られてしまったとある」
そう書かれいる。

来目に関しては、本居宣長が「くるくる目玉の久米氏」と話していて、私はその印象から西郷隆盛を思い出されて、彼が南方系の顔立ちで中国・江南との関連を思い興され調べ始めて様々な知識を得たことがある。
久留米と久米氏の関係は、久米氏が江南からの渡来人と仮説しているので、北九州は朝鮮半島との交流が濃厚なことから、関係性が薄いと考えている。但し、ニニギは天忍穂耳命の子なのだから朝鮮半島との関わりは考えられる。その天忍穂耳は高木神の系譜なので、興味ある逸話である。その関係は複雑で飛躍もあって分析が容易ではない。しかし、考察に値する項目なのは確かで私自身の考察の進展は期待できる。

高良大社の祭神は高良玉垂命である。この神は物部氏の氏神とも言われている。物部氏の神はニギハヤヒ命とも言われ、高良の神とニギハヤヒの神が同じだとすると高木の神との関係は興味が湧いてくる。

少し飛躍があるとは思うが、神武天皇が大和を征服される前にニギハヤヒ命がナガスネヒコを征服している。その事実がここに述べられていると考えると、天孫族の二重構造が見えて大変面白い。私の持論である南北九州王朝の争いが説話化されているようで大いに興味が湧いて来る。

そこで、少々、このことを調べてみたい気分になってきた。Kさんにインタ~ネットの初期の手ほどきを受けたのですが、私にとっては新たな進展で「久米氏」の研究が袋小路に入っていたので、またぞろ息を吹き返したといった所である。感謝、感謝である.

「続日本紀」に目を通していて、いくつか気ずく事は、疫病に援助のてお差し伸べていることや隼人に手を焼いていることだが、もう一つ、気象状況に敏感なことである、月の満ち欠け(月食)や金星が昼か出たことを嘆いたり、雷が衛門に落ちたとか水害・日照りの祈祷が目に付くのだ。

天文や気象は、多分農耕が大いに関係しているのだらうが、よく考えれば稲作が日本にやってきたのは比較的新しい。その以前に、星や天災(地震や洪水など)の古代人の対応が根底にあるからこそ、稲作が日本に入ってきた時に自然現象に直ぐに対応できたといえる。

それは古代人が海に生きていた証でもある。海の航海は海流と時化、急なる気象現象(海上風)などのスカイ認識があったから、容易にできたといえる。
星や月の満ち欠けそれらの考察が詳しかったからこそ、航海は無事に行われたのである。だからこそ、日本にもうこうがスム~ズに溶け込んだのだろう。

「続日本紀」を読んでいてそう感じたのである。
私はキリスト教を認めないわけではありませんが、批判的です。彼等の本質的な理論は旧約聖書でありましょう。彼等の飢え死にの思想・一神教は神との契約で成り立ちます。そのドグマは絶対的なのが私には危険な核(もの)だと感じます。

しかし、我がお人よしのアニミズム・融和主義は誇れる哲学だと思っています。それから引き出される論法は西洋人には理解不可能でしょうが、「物みなもの言う世界」は優れた思想です。私の論理もそこから出発します。

もう一つ、日向(會・・大隈、薩摩、日向)が南九州の縄文草創期からの地盤でしょう。まあ、上野原遺跡(紀元前一万年)の先進性は會族(大和言葉では「襲」族でしょう)が築き上げたものと言っていいでしょう。會族は700年代に大和朝廷に侵略されるまで、日向に確固たる地位を占めていたはずです。大伴氏や肥君、秦氏など(大和朝廷の意向)の侵攻が薩摩や大隈で行われるまで、熊襲(朝廷の呼び名)であり、征服された部族が「隼人」です。征服せずに抵抗を続けたのが熊襲(熊會)です。南九州は縄文草創期から先住民族として會族がばん裾していたはずです。二度の大火山がその存続を危ういものにしていますが、隼人(會族の後裔)の執拗な攻撃力を思うと、私は天災を克服したように思われます。南九州の縄文族の存在は確実です。

余談ですが、天孫降臨の「襲(會)」ですが、私は「會」が真実だと思います。
「會」は昔と言う意味もあり、白川静教授の「字通」によれば、「會」は甑に通じ、<蒸し器>の意味だと述べています。
そこで、上野原遺跡の出土品、集石遺構、連穴土坑、蒸し器、大壺、土偶、耳飾、炉蹟、等は縄文人の定住を確かなのもにしています。ここで注目すべきは「蒸し器」です。
「古事記」や「日本書紀」の編者たちは、当然、中国の古書や日本の「風土記」を熟慮していたはずです。中国の国書の編纂は正確を記します。また、古老の語り部も正確に伝承を伝えたでしょう。
そこで彼等は「會」の伝承を知っていたのではないでしょうか。それが「襲」の表現になったと思うのです。(仮説に過ぎないですが)
ニニギ命は「襲」から「笠沙」に真来通るわけですが、そこで神阿多鹿葦津姫(コノハナヤサクヤヒメ)に遭います。その笠沙も上野原と同じ時期のかこいノ原遺跡が発掘されていて、そこには「丸木船」の存在が考えられるのです。この偶然は単なる偶然でしょうか。私には大変、興味深い出来事に思われてなりません。

かこいノ原丸ノミ式石斧は屋久島、種子島、トカラ列島から沖縄まで丸木船文化圏を創っています。刻に、種子島の大園遺跡には東北の大洞(おおぼら)式土器が出土していて、彼ら海人族の交易の広さを思わせます。

南九州は太古から非常に興味ある地域なのです。
私は戦後の占領下の米国の犯罪を追及してきました。当時の私は明らかに公安警察の尾行を感じていました。警察も家庭調査と称して近所の聞き込みを行い、個別調査として私達の家庭に踏み込みます。

昭和26年以後、警察は反国家組織と称して、自民党政府に反抗するものは官僚とともに制圧してきました。ここで大事なのは、政党は選挙があるので、ある程度の我々の意思が働く。しかし、官僚は行政と言う名の元にあらゆる行動は隠れて抑圧している。彼等は立法権はないが、政党を操ることはできた。そのことは公表されないのだ。ここに現在の政治不在の原因がある。

政党は国民が選ぶ、国民は真実を知らせられないまま、大マスゴミをも官僚は抱きこみ思想統制を巧妙に行ってきた。その結果が現在の官僚天国である。
各官僚は国民の手では如何ともし難い、官僚は法律と言う大変ありがたい護符に守られ、易々と政治家を操った。政治家は明らかに能力が低下しているので、野田某を見れば解かるように平気で自説を曲げてしまう腑抜けしか我々は議会に送り込めない。

これは我が日本国民の民度の低さである。今の状況を作ったのは国民もまた、本質的には担っているのだ。(知らされないハンデはあるとしてもだ)

私は占領軍の補償法制定運動で嫌と言うほどその苦渋をのなされてきた。その虚しい行動は諦めに近かった。それを思うとき忸怩たる思いがこみ上げるが、当時は悔しいほどその状況は変わらなかった。公私共に私は疲弊して、今を思えば言い訳でしかならないのだが、運動を断念しなければならなかった。それからは酒と放楽の日々に明け暮れる。堕落のすえで、私がのは虚しさしか残らない。そんな時、永年の友人の言葉で初志をかなわぬまでも貫いていようと60歳からの手習いを恥じめたのである。

愚かの私は、人も小さくはなったが組織も失った。しかし、私ができることで残りの人生を真っ当するには初心に帰り行動してみようということだった。

私は今、個人で自分の主張をして行こうと思っている。だから、今日も新宿の消費税値上げ反対集会に出席しようと考えている。
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