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私は以前、「日本書紀」は政治的な意図があると述べましたが、「続日本紀」大宝二年十月三日条、これより、薩摩の隼人を征討する時、大宰府管内の九神社に祈祷したが、実にその神威のお蔭で、荒ぶる賊を平定することが出来た。とし、また、和銅七年(714)には、大和朝廷は肥後国より肥君、五百木部氏、大伴氏を薩摩の出水郡と高城郡(現・川内市)に200戸を移住させ、隼人を歓導し、薩摩隼人と命名して服属させている。

これらの記述から八世紀前半には、大伴氏は大和朝廷の主要な氏族であり、確かな地位を占めていたと言えよう。久米氏はこの頃には、衰退したか、失脚したことを示していて、その名を主要なところで見られない。
その反映が「日本書紀」であり、「古事記」は久米氏においては、それ以前の神武天皇との良好な関係を表わしていたといえよう。

仮説に過ぎないが、、初期王朝は薩摩から興っていると私は考えている。勿論、北九州にそれと同等の勢力があったと言えますが、北九州の勢力地図は複雑で、中国系渡来人、朝鮮系渡来人は百済と新羅の系譜が先住民とのかかわりで、数多くの豪族集団を形成している。それらを総合する強力な勢力は存在していなかったと言える。
それらのうちに有力な勢力が邪馬台国であり、ニギヤヤヒとその命を首長と仰ぐ物部氏であったろう。その他多くの国々が群雄割拠して、騒然としていたに違いない。

その中で、いち早く北九州を脱したのが、ニギハヤヒ命の集団で、天忍穂耳命は血統の関係から、同族同士の血で洗う争いを避けたのかもしれない。後に、神武天皇が東遷する際に塩土老爺に「大和にニギハヤヒ命が降りている」と認識していた。それは海人族の長としての塩土老爺の伝達が予めあったと思うが、血族としての情報が優先していたと
思う。

いずれにせよ。北九州の豪族がひしめき合う地帯よりは、南九州は襲(會)族を中心とした同族種族の集まりで、縄文時代から弥生時代にかけては南九州の方が文化的には高い水準にあって、大隅地方の襲(會)族を中心に野間半島の海人族としての襲(會)族連携を保っていたといえる。それは期せずして「天孫降臨」の日向の高千穂の襲(會)からニニギ命が直ぐに野間半島の「笠沙」へ行っていることからも知れる。

また、偶然とはいいかねる大隅地方の上野原遺跡(紀元前一万年)と同年代に現れているかこいノ原遺跡の近似性の存在は、語り部・大歌所の巫女達の伝承の記憶かも知れず、一考を要すると考える。

上野原遺跡は集合遺構は火を使い肉や食物を蒸しているし、連穴土坑は燻製製品を作り、配石炉、竪穴式住居、大型筒製土器、石皿、敲き石、土偶、耳飾、それに泉に下る、排水溝をかねた道筋が二本、整備されている。明らかに、定住を意図した集落である。定住は文化を高める一つの要素で重要な要因である。
笠沙の地である現・加世田市(加世田は笠沙の田の訛りである)で発掘された・かこいノ原遺跡もまた、「上野原」と同じ遺跡が出土しているが、不思議なことに竪穴式住居が見当たらない。その代わりに、「かこいノ原」からは丸ノミ式石斧が出ていて、そこでは丸木舟を製造された形跡がある。(驚くことに、一万年前である。人間の知恵を考慮すれば航海・交易の可能性は限りない)
この丸ノミ式石斧は大隅諸島・トカラ諸島、種子島から沖縄へと連なる海人族的文化圏が構築されていて、かなりの航海・交易も行われていたと想像される。
黒潮の存在を勘案すれば、笠沙と長江沿岸との交流は大いに可能性が考えられる。島伝いの可能性は更に、交流が数多く行われた証左に為るだろう。

「會」について一言、言語の権威・白川静先生の「字通」に掲載された見解を記そうと思う。
「會」には<むかし>と言う意味もあるが、白川先生は「會」は<甑・こしき>に通じると述べておられる。<甑>は蒸し器のことで、上野原遺跡から出土した集石遺構は蒸し器である。この偶然は偶然なのであろうか。ひょっとすると、朝廷の大歌所の巫女の「神語り」や「天(あま)語り」にその伝承が伝えられていたのではないか。また、「風土記」収集の過程で古老や語り部の伝承に、「會」の伝承を知っていた可能性を否定できない。「會」は蒸し器を象徴していると言うのは穿った見かただろうか。

BC473年に、江南・呉国は「越国」の勾践に滅ぼされ、南九州・野間半島に亡命したことはありえることである。滝川政次郎教授は「猪甘部考」で江南より北九州に漂着したのが、安曇氏で、南九州に着いたのが、隼人族だと述べられているが、それは教授の錯誤で、「隼人」は<襲(會)族>の後裔で先住民族である。南九州に着いたのも、やはり、「安曇族」であったろう。
この事実は、天孫族、つまり海人族の(襲・・・會)から野間半島の笠沙への移動という意味で(天<あま>は海<あま>に通じる)、江南からやってきたのは、ニニギ命といった想定は可能性として成り立ち、それにつれて多くの臣下を伴ったという想定も成り立つだろう。天津久米命、つまり久米氏が呉国からの亡命貴族を随伴してきたと言う説話もこのような記憶から書かれたのではないかと推定している。
私は加世田市から発掘された上加世田遺跡の「久米」刻んだ土器片の出土を重く見ている。加世田市は「笠沙」の地であり、「かこいノ原遺跡」の地である。当然、薩摩の海人族の居住地でもある。そのことを勘案すると、「久米氏」の定住が見えてくる。しかし、その後、久米氏の名称は南九州の加世田から聞こえてこない。これは推定でしかないが、先住民・隼人との血縁が久米氏の氏姓を消したのではないかと推定される。女系の姓名がそれを隠したのではないか。しかし、これはあくまで推定で実証は出来ていない。今後の課題でもある。

ただ、天孫族と言われる二ニギ命は大山祇神の娘・吾田鹿葦津姫との間で彦火火出見命を生み、その血を混合させてゆく。歴代、皇孫は地元の女を皇后として向かえ、先住民との血縁を重ねて、神日本磐余彦天皇(神武天皇)へとたどり着く。それは女性を伴わない渡来民の亡命者の宿命であろうか、先住民との融和を図るにはそれが有効な武器なのかもしれない。当然、それに随伴した臣下もまた、同様に先住民との血縁を行ったであろう。そして、先住民と渡来民の種族を形作っていったと思われる。

史実には、安曇氏と久米氏が顔を現すが、両氏の職掌はかなり類似性が認められる。天皇の側近であり、膳手(かしわで)であるのは、皇族との関わりが親近感が濃厚で信頼性も厚い。特に、大久米氏と神武天皇との主従関係は天皇の后妃をも左右している。
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神武東征についての考察は私にとって、大いに興味ある史実である。現人神である天皇の意味は、日本人にとっては大いなる関心事であろう。
その初代天皇は・神日本磐余彦天皇がどのような形成過程にあるのか私は手探りで解明を始めたわけである。正直に言うと、私はその姿勢を反省している。
学習を始めると、その広さ、深さに驚いている。先ず、「古事記」と言うわけで、無防備に取り組む姿勢は無謀であった。
学んで、四年目、「古事記」と「日本書紀」の性格付けは、おぼろげながら解かってきた。それは二つの文献を編んだ識者の目的意識の違いであろうが、明らかにその視点に相違が顕著である。浅学のため、断定はおこがましいが、敢えて言えば、「古事記」は<帝紀及び上古諸事>の伝承を礎に天皇の系譜を表わそうとしているように見える。一方、「日本書紀」はその政治的意図が明白で、その背後に編者の正論が時折、顔をみせるのが解かる。多分、それは、藤原不比等と思われるが、別のところでその解明をしなければならないと考えてはいる。
今、私は「古事記」を中心に神武東征の意味を考えてみようと思っている。勿論、神武東征を解明するのは、そのル~ツである「天孫降臨」を端初としなければならない。
「古事記」では、降臨に際して、五伴緒・天児屋命、布刀玉命、天宇受売命、伊斯許理度売命、玉祖命に八尺勾玉、鏡、草薙剣を添え、思金神、手力男神、天石門別神を伴い降臨させている。

それに続き、「古事記」では次のように述べている。
「故、ここに天津いて、日子番能邇邇芸命に詔たまいて、天の石位離ち、天の八重たな雲を押し分けて、イツのちわけて、天の浮橋に浮きじまりそりたたして、筑紫の日向の高千穂のくしふる岳に天降りましき。故、ここに天忍日命・天津久米命二人、天の石ユキを取り負い、頭椎の太刀を取り佩き、天杷弓を取り持ち、天の真鹿児矢を矢挟み、御前に立ちて仕へ奏りき。故、その天忍日命、こは大伴連等の祖、天津久米命、こは久米直等の祖なり」と。

ここで問題なのは筑紫の日向の高千穂のくしふる峰である。私は九州の高千穂にある襲(會)の地と解釈します。そこから五伴緒、三種の神器などを天忍日命と大津久米命が先導して、野間半島の笠沙へと向かうのです。
「日本書紀」はどうでしょう。
「一書に曰く、高皇産霊尊、真床追衾を以って、天津国光邇邇芸尊にきませまつりて、即ち天磐戸を引き開け、天八重雲を押し分けて、降したまわる。時に、大伴連の遠祖・天忍日命、来目部の遠祖・天くし津大来目を帥いて、背には天磐ゆきを負い、ヒにイツの高鞆をつけ、手には天はじ弓、天羽羽矢を握り、八目鳴鏑を副持へ、また頭槌剣を帯きて、天孫の前に
立ちて、遊行き、降来りて、日向の襲(會)の高千穂のくし日の二上峯の天浮橋に至りて、浮渚在之平地に立たして、そししの空国を頓丘から国まぎ行去りて、吾田の長屋の笠沙の御前に到ります」

ここで「古事記」と「日本書紀」で異なる点は天忍日命と天津久米命の立場でしょう。「古事記」は二人の命は同等の立場であるのに拘わらず、「日本書紀」は来目部を天忍日命の臣下としています。これは重要なことなので、どちらが正しいか見極めなければならないでしょう。

一体に「古事記」は神武東征の条りにも見られるように、久米氏と神武天皇の関係は良好で、むしろ久米氏は重臣の趣がある。「久米歌」もそうですが、安曇目の久米氏が大和の豪族の娘・比売多多良伊須気余理比売を皇后に選定し、血縁させています。このことは、久米氏が限りなく神武天皇に近い存在を表わしているといえましょう。明らかに、重臣であることを示しています。しかし、「日本書紀」ではやはり、久米氏は大伴氏の従臣で、専ら、道臣命(大伴氏の系譜)が活躍しています。神武天皇の大和入りを道臣命が久米部を帥いていると、記しています。
安本美典氏の文献学擁護を読んで、痛く賛同をした。
安本氏とは史的唯物論について若干の相違があるが、科学的考察が古代史を考察する上で万能だとはいえないという説には賛成する。
勿論、帰納的考察は必要である。一定の段階まで科学的な考察は重要である。事実を突き止めるには有効な手段には違いないのである。
しかし、事実とは何なのだろうか。その本質を知ることは、非常に難しい。95%の事実の解明は出来ても、5%の解明できないブラックホ~ルが残る。それを真実にまで引き上げるのは創造力である。それでも、それが真実だと言う確証はないのである。
我々が到達できるのは、95%事実と5%の霊感でしかない。安本氏はそのことを言っているのだと思う。
どうせ選挙があるのだろうが、やはり、国民の半分以上は自分の生活を放棄して、影で不満を述べるのだろうな。海外からは日本人はいい所はあるが、結局は後進国で自分で自分の首を絞めている知恵遅れの人種だと高を括られているのだろうな。哀しいが、それが現実なのでしょうがない。
私は今は、黙々と虚しい選挙行為を続けるより仕方がない。もう何年も生きることが出来ないのだから、自己満足を続けるより方法がない。個人的な抗議行動を続けて、欲求不満を晴らすとしよう。
こういう状況が大変危険なのを知っておかなければ大変なことに為る。犯罪の潜在化なのだから。
スサノオウの子・五十猛(いたける)は新羅からスサノオウと共に日本へ帰ってきたが、彼が持ち帰った木の種子を筑紫から始めて大八洲国の全てに植えたので青山なす国になったという。ああ
五十猛こそは、日本の原風景をもたらした根源の神だといえる。と、戸矢学は言う。

この時、父であるスサノオウは埴土で造った舟に乗って出雲国の簸川の上流にある鳥上之峯に降臨した。この地でスサノオウはヤマタノオロチを退治して、草薙剣を得る。

父子の神は国津神の魁だと戸矢は言う。私はここで塩土老爺の「東に美き地あり、青山四周らす」と語ったのを思い出す。塩地老爺は情報の賢者である。海人族の総大将だと言ってよい。当然、老爺は五十猛が植林をしたの知っていた。彼等・山の民を認識していて、塩土老爺は神武天皇を大和へと向かわせたといえる。
「丹後国風土記」(和銅年間・714年)に説話では、仙女に伴われて海の仙宮に入る経緯は同様だが、浦島は筒川の人夫・日下部首の祖先で、三河・筒川島子といって「容姿秀美」の男性だった。
「日本書紀・雄略紀・二十二年の条」
秋七月、丹波余社(よさ)郡筒川の人、水江浦島子、船に乗りて釣り、遂に大亀を得たり。便ち女に化為(な)る。是に於いて浦島子、感(めで)て婦(つま)と為し、あい従いて海にはいり、蓬莱山に至り仙衆(ひじり)を歴(めぐ)り観る。

この伝承から、私は海人の浦島子を思い描く。縄文から丸木船で航海をしていた漁師たちは、かなりの航行のベテランであったろう。その海人族が海で遭難して、異国に流れ着き、その国で運良く歓待され、異国人に寛容な種族は物事にこだわりのない、南方諸島の資源豊かな国であったのだろう。島子はそこで留まり、居心地のいいまま、三年を過ごしてしまった。南方諸島は航行に優れ、その技術をも伝授され、その文化の高さに学習して、帰国したと言う漂流譚の伝承であったと思われる。

私は神話や伝承には史実や事実が反映されていると言う信念がある。これからもその信念で、神話や民話、伝承を紐解いて行こうと思っています。

私は浦島子説話を読む時、ヒタチ島を描いた画家・ゴウガンを思い出す。有楽の南海の島・タヒチと共にそのそこでは無気味な黄泉の視線を感じるのです。横たわる褐色の肌をした島の女の視線はイザナミを思わす刺すように暗く光る目とその美しく横たわる女の曲線は快楽と畏敬の眼差しをたたえている。

浦島の心境もそれに似た畏敬と喜びに満ちた眼差しのように思われてならない。
彼は日本人を称して聖徳太子の「和」の理念から、物事をはっきり決めずに進む大和思想がこのところ顔を出すと述べていましたが、彼の認識は浅い。日本人の発想は縄文時代から続いていた。

全面的に賛成できかねるが、戸矢学と言う人の「ニギハヤヒ」を読んでいて、スサノオウと共に追放された五十猛は新羅の會市茂梨に天降ったが、スサノオウは、「吾は、この地に居ることを欲さず」と息子の五十猛と共に日本へ戻る。五十猛は、多くの樹木の種を持っていたが、韓国には植えずにすべて持ち帰り、筑紫から始めて八州国のほとんどに植えたので、青山なす国になった。と書いている。
つまり、日本は砂漠の遊牧民族とは異なり、死を背景に生き抜く過酷な生活を与えられては居ない。一つの獲物のために当面の相手を殺すことはなかった。森には鹿もいればウサギも出没する。木には木の実がなり手を加えれば食料に代わる。多少の遠出をいとわなければ、魚介類は海にある。生きるための選択はあれか・これかではなかった。そこに、古来からの宗教観・アニミズムが存在するのである。
聖徳太子が「和」の思想を生んだのではなく、日本人一人一人の心の奥に「融和」の観念が沁み込んでいるのである。

優柔不断さや行き着かなければ決断しない度量は、そうした恵まれた自然界に囲まれた豊かな精神がなせる業なのである。
私はこの鷹揚な精神は現代において貴重な遺産であると思っている。

何故か、先送りを欧米から揶揄されているが、もう一歩先を考えて、その日本人の特性を生かすべきだと常ずね思わざるをえない。
何時も思うのだが、あの野田と言う人は悩み事がないのだろう。痩せもしないし表情も能面のような感情が表れてこない。コメントも大上段でまるで安い時代劇を見ているようだ。

李明博さんは自らの醜聞を隠蔽することに必死のように思われる。多分、彼の心中は恐怖感で一杯であろう。北朝鮮が、李明博さんの事をネズミ男と評したが、当時は下品な表現だと思ったが、今思うと中々適切だと思わずにはいられない。貧相で陰険、臆病な感じが好く出ているように思う。

騒ぎが大きくなればなるほど、彼の裏の行動は消えて行く。今の状況は彼の作戦どうりに進んでいる。関係者はその点を考慮に入れて事を起こして欲しい。

天皇の謝罪発言だが、彼等が唱える、天皇の政治参入を否定しながら、彼等の発言はそれを肯定している矛盾した発言だと気がついていない。彼等が深く考えた戦略ではなく自己隠蔽をするための行動なので、浅慮な行動と言える。本当に幼戯に値する愚かな行為なのだから、無視を出来ないだろうか。

本当に、日本と言い、韓国といい、碌な政治家を生み出していない。国民は心しないといけない。

和(やまと)朝廷の基本的な構造は南北九州・出雲・大和であろう。

南九州はニニギ命、北九州はオシオミミ命、出雲はアメノホヒ命、大和はニギハヤヒ命を高天原は葦原中国へ派遣する。それを最終的に統合するのが神武天皇(神日本磐余彦)である。

私はこの構図の底には史実の裏付けがあると思っている。
ニニギ命は天孫降臨を日向の高千穂の襲に選び、野間半島の笠沙に行き、阿多鹿葦津姫(コノハナサクヤ姫)と
遭遇し娶る。

ここで何故、天孫降臨は南九州なのかと言うことです。北九州の方が合理的に思うのだが、南九州にしたのはそれ相応に理由があるのではないかと思います。
それは初期王朝は中国の影響があったからです。文化は先ず、中国からだったのです。私は笠沙を発祥としたことに意味があると考えます。笠沙にはかこいノ原遺跡が存在し(紀元前一万年前の遺跡)、そこから丸ノミ式石斧が出土し、既に丸木船の製作がされていたと思われます。黒潮や対馬海流を勘案すると、縄文時代から南北に航海が行われていたという事実が浮かび上がってきます。
一方、中国江南からも黒潮に乗って、九州に漂流している事実があります。野間半島・笠沙はその漂流が盛んに発生している所です。高千穂の襲が大隅地方で笠沙との関係、吾田姫(コノハナヤサクヤ姫)と大山祇命の関わりは
ニニギ命はアマ・船に乗って江南からやってきたと想定が出来るのです。野間の會族(大和の命名では隼人族)は明らかに海人族で江南との関係は無知であったとは思われません。幾つかの情報は共有していたでしょう。
そのことは、「日本書紀」「古事記」に現れる<塩土老爺>がかなりの情報通であることから、<塩土老爺>が海人族の首領で多くの情報を持っていたと思われるからです。
かこいノ原遺跡の丸ノミ式石斧文化圏は鹿児島、大隅諸島、トカラ諸島、種子島、沖縄などに広がりを見せており、海を通じてかなりの交易が行われていたと思われるのです。当然、中国江南との接触は多く発生していたでしょう。そのことを勘案すれば、江南から笠沙に着いたのは江南の倭族(私は・呉族であったと考えます)が船で遣ってきて、吾田姫と血縁します。滝川政次郎教授は江南から南九州に着いたのは隼人族と述べられていますが、それは幾つかの錯誤があり、私は隼人族は會族の大和朝廷に服属した種族で南九州に居住していた先住民であったと考えています。ですから、滝川先生の隼人は先生が北九州に着いたのが安曇族と述べられているように、やはり南に着いたのも安曇族だと思われます。
但し、イザナギ命の禊で生まれた綿津見神の末裔・安曇族は神武東征には姿を現しません。久米氏が神武天皇の護衛をしているのが「古事記」に見られます。
仮説に過ぎないのですが、久米氏がそれに代わったのではないかと思われるのです。それを裏付ける文献は少なく、私が知る限りでは、「今昔物語」の仙人修行のくだりで、「久米氏」と「安曇氏」が共に修行をしており、「安曇氏」が先に合格して、天に昇り、続いて「久米氏」が昇天していることぐらいです。
これによれば、両氏はかなり親しい種族か、同族だと思われるのです。二三の文献(扶桑略記など)もそれと同じ記事を載せていますが、そこに大伴氏が加わっているのも興味がそそられます。
各文献を好く読むと、膳手や武人等、両氏はかなり似た性格であり、同族の可能性は十分考えられます。

私は、久米氏・安曇氏・隼人の近親性を追及しなければならないと思っていますが、今の所、大変不十分で後の課題ととなります。
私は「熊襲」について。、前から気になってはいた。「熊襲」は八世紀にヤマト朝廷によって命名された名称である。
「球磨會於」で「球磨」は肥後のことで、「會於」は大隅のことだとする説や「熊襲」は本来は「襲」であって「熊」であって、猛々しいとか優れていることの総称だとか、本来は「會」のことだとかある。

大体が中国の一字はよろしくなく、「好字」は二字だとする中国の用例を大和朝廷の「記・紀」(日本書紀、古事記の略字)こ編纂する際に踏襲したのが理由であると思われる。本来は「襲」とするところを二字・好字の原則を踏襲したのであろう。私は源字は「會」であったと思う。

さて、「會」はいかなる意味なのであろうか。「昔」とも読めるし、「空しい地」と言う意味であったとも言う。私は白川静先生の「會」は「甑」に通じるが気になって仕方がない。

「甑」とは「蒸し器」のことだが、一見するだけでは意味が通じない。
読みすぎかもしれないが、私は大隅地方にある「上野原遺跡」(紀元前10000年)に「蒸し器」が出土している事との関係を八世紀の知識人の慧眼は「語り部」の口承に古太から大隅地方には土器として「蒸し器」が出土しているのを知っていて、「會」を「襲」と命名したとしたのは読みすぎだろうか。
私は「古事記」の「大歌所」の巫女が「天語り」や「神語り」の中に詠う「會(上野原遺跡)」の伝承を知っていたとしてもおかしくはないと思う。
「會」とはそうした縄文時代の先進性の象徴として「熊襲」を代行したとする、屈折した天才たちの屈折した表現法としたというのは私の歪んだ考察なのかもしれない。
現在の私は行動範囲が狭い。そのことを思い患っているが、我慢してしゃがみこんでいるより仕方がないだろう。

谷川師のは何時も刺激される。
「豊玉姫考」で師は古代伝承(縄文以来)はアニミズムが根底にあり、その古代伝承が現在まで受け継がれ、それをキッカケに現在を探る。その方法論の一つに、ユングの集合的無意識を活用する。私はそのことを読むにつけ、深く頷き、流石と呟かざるをえない。

「豊玉姫考」を読むにつけ、私はふと、こう考えた。
師は、朝鮮神話の鳥卵神話が「ニニギ神話」の底にあると、言われる。
浅学のため、朝鮮神話の知識が乏しく断定的なことは言えないが、鳥卵神話は遊牧民族的な臭いがする。しかし、「日本書紀・古事記」の神話の基本は「海人族神話」にあると考えている。特に、「山幸彦・海幸彦」神話は明らかに南島神話である。(これから私は、ヤマトを<和>と言うことにする)
和族は何故、山幸彦が海幸彦を服属させることになるのだろう。元来、氷河期以前は山人(山幸彦)が居住しており、それ以後、海人族が渡来したか、薩摩・大隅・南島諸族が北上したか日本列島に現れる。
「記・紀」はその事実を「山人」が「海人族」を服属させたと物語る。それは「記・紀」の編者が狩猟民族の系譜であったからなのか鮮明ではないが、「山人」優位の伝承に置き換えている。

もう一つ、「天孫降臨」神話だが、「山人」神話の傾向が強いが、ニニギ命が薩摩の笠沙に移動していることから「天孫降臨」の「天」は<あま>であろう。つまり、海洋神話の傾向が強い。

一考を要する。
私は江川詔子と言う評論家を評価している。何時も冷静な世評は感心することが多い。

しかし、今度の大津事件の教育委員長への障害事件は至極最もで正論そのもので、否定は出来ない。だが、報復を客観的な一市民が天誅と言う名の下で委員長をハンマ~でなぐりっかったと言う事件で、江川評論には表向き賛成だが本音では、納得できないできない自分がいる。

法律論は非常に冷徹な目を要求する。客観的と言うのは、一つの抽象である。(エッセンスといっていいだろう)しかし、人間はまた、感情も大事なのだ。違法なのに正しい判断と言うものもある。政治の世界に多いのだが、明らかに政治屋のほうが間違っていることpが多いのだが、一市民としてはどうにもならない心境も存在の事実である。そのもどかしさもまた、正しいのだ。かと言ってそれを実行してしまえば犯罪である。犯罪側の本音を解決する事もまた大事な事なのだ。そうなのだ。この事件は短評かでは論じ出来ない多層的な事件なのだ。複眼的な評論が必要であると感じた。やはり、庶民は水戸黄門様を待ち望んでいる。これもまた、事実なのである。
韓国の大統領・李明博氏はどこかの首相のように、コロコロと信念を変えて見せる。親日家で猫なで声で天皇陛下を招待ようなことを当初話していた。企業家らしく経済には精通していると言う触れ込みは、何だったのだろう。

自分の保存に愛国心を手段に使うなのは、下司の極みである。漸く、芸能や経済等は両国の戦前に寄与し始めているのに、まさしく李氏のような行為は水をさすことになりはしないのだろうか。嘗て、李某かの大統領も犯罪者として成敗されているように、李と言う名はそういう血統なのだろうか。私欲のために、国の利益なぞ、利用しつくすといったやましい魂胆がむき出しになったのだろう。

嫌な世の中になったものである。儒教が聞いてあきれる。聖人君子でわ政治は勤まらないのだろうが、少し、行き過ぎやしないか。物には限度と言うものがある。
2012.08.15 あ、
維新の会とやらが、政党を立ち上げ、衆議院戦に乗り出すそうだ。

またかと思う。付け焼刃に何が出来るというのだ。またぞろ、心地よい看板で国民は騙されるのだ。「羊頭狗肉」経験と力が堆積していない、ある意味で歴史がない皮相な組織は作るのも簡単だが、変わるのも簡単である。

もう気がついて欲しいのだが、大事なのは心底から自分の足もとを見ることから始めなければならないと言うことだ。
それには、自らに痛みを科すことである。共に苦しまず、他人任せで自らに善い状態なぞ作れはしない。自分を磨き、自分の頭と足で物事を確かめるしかないのである。対象を見抜く力こそ状況を変える事ができる。手をこまねいていてはそれなりの成果しかえられないのを知るベシである。

ここで宣言する。「絶対に、維新の会は信じられない」
神武東征を追求しているうち、「古事記」の制作状況まで調べることになった。つまり、書かれた内容がどういう目的で作られたのかを知らなければその内容が正しいのか、そこに作為があるのかの判断が出来にくくなる。相対的に、「日本書紀」のほうが作為に満ちているように思う。

それは「日本書紀」の編者にある目的性があるからだと思う。帝紀を書くように見せながら、そこにはある種族をk誇示しようとする意図が感じられるからである。まだ、資料の読み込みが少ないので、仮定に過ぎないのだが、どうやら、文章の行間から、策士・藤原不比等の顔がうかがい知れる。

多分、「古事記」は天宇受売命から猿女君、稗田氏と続く、歌女が伝承する「天語り」「神語り」を歌に載せて伝承していったと思われる。朝廷の後宮でそれは密やかに語られ、「大歌所」として残って行く。それを管理するのが「多氏」で柿本人麻呂(小野氏の系譜)などが実際的な指導を行っていたといわれている。
語り部と言われる集団がそこには存在していた。

一方、「日本書紀」は藤原不比等が画策した学者や語り部、識者を動員して資料を収集して(古文書や風土記など)、ある政治的な史実を書きとめてゆくのである。「旧事」や「帝紀」は勿論、各地の伝承や言い伝えを収集し、権力に物を言わせて、膨大な資料を集めたに違いない。その中から、自らの部族に都合のよい事項を抜粋して、「日本書紀」として編むことを推進して行ったのであろう。

そう考えて行くと、本当の史実がちらちらと顔を見せてくる。私は今、その少ない事実を拾い出しているとこらである。
オリンッピクは開会式だけを見てそれで終りにしようと思っていたが、その前のナデシコ・ジャパン
を観戦してその試合振りが真剣なのと、沢ほまれの復活振りに興味を覚えて準決勝まで見てしまった。しかし、それも個別的なもので、水泳や柔道を見ていてそれ程の感慨は湧かなかった。特に、柔道はあれは所謂柔道ではなく、胴着を着けたレスリングに過ぎない。大相撲の時も感じたことだが、一つか二つ、頑なに、日本古来を主張したものがあってもいいと考えていた。特に、相撲は国技で日本を主張してもいい競技で外人は無用だと思っていた。それに比べ、柔道にはそれ程のこだわりを持ってはいなかったが、オリンッピクの競技はその感情を遙かに超えて、柔道を逸脱している。あんなものは柔道ではない。床がビニ~ルだというのも興ざめである。

そんな感情の冷めたとところで試合を観戦しても、観念だけが先にたって、感情が動かない、感情が伴わない試合ほど詰らないものはない。

そこでオリンッピクは女子サッカ~を覗いて、たまに録画見物でお茶を濁していた。

その中で、気持ちが動いたのは、女子(何で女なんだろうね)48キロ級レスリングであった。63キロ級の伊調馨の笑顔が美しいとは思ったが、何にもまして、小原(旧姓・坂本)日登美(31歳)のレスリングである。

最初、ポイントを奪われた。私もマラソンを齧ったので良くわかるが、先制パンチを食らうと、そこから立ち直るには強靭な精神力と諦めない忍耐力が必要である。言葉にしてしまえば簡単だが、試合の最中にそれを克服するのは至難の業なのだ。大体が諦めが先に来る。

しかし、小原は違っていた。そこから、挽回し始めたのである。焦りもあったろう、談話にもあったが、一瞬諦めたと言う。彼女をして何が復活させたのだろう。

31歳はもうオリンッピクは最後であろう。嘗て、48キロ級には妹がいて、姉妹で戦うのを避け、55キロ級に変更するが、そこにはあの天才・吉田沙保理がいた。大事な試合で二度とも完敗を喫している。日登美はオリンッピクは諦めなければならなっかた。その時、彼女は落胆の余り引きこもり、体重も73キロにも増やしたという。当然、レスリングから引退を決めたのは自然の成り行きである。この気持ちは私にも甚く理解が出来る。
やけっぱちで恨みごとの一つや二つは口を付いて出ただろう。
そんな時、家族や周囲のコ~チや同僚の励ましで少し心が動いた時、妹の引退を知らされたのである。情報が入らないので、私の推測ではあるが、妹は姉を思って身をひいたのだろう。家族愛の感じられる人々だからである。

小原日登美(31歳)の脳裏の底にはそれらの記憶が瞬時に流れたと思う。それらの力が彼女を復活させた。最後の一踏ん張りが執拗な粘りを生んだ。真剣さが集中力が前面に現れていた。そして、試合に勝った。

彼女は試合まえにこう言っている。
「これが最後の大会になると思う。最後は笑顔で終わりたい」と冷静に語っている。
しかし、実際には彼女は完全に取り乱していて、泣きじゃくり審判への挨拶も出来ていない。私はその振る舞いにも好意を持った。泣きじゃぐるがいい。本当のことに人は感動するのだ。型には感動はない。泣きじゃぐるがいい。と私は思った。

いい場面を見させてもらった。今日、一日はすがすがしい一日が過ごせそうだ。滅多にないことなので大事にしたい。
2012.08.08 公明党の本音
私は永い間、創価学会の連中と付き合ってきた。父方の人達は皆、学会員である。数十年前、父は学会に勧誘をされたが、余りにも打算的な条件にそれを拒否している。
学会幹部は、臣下の会員のことなど考えてはいない。自分の保身に終始している。創価学会の会員の多くは中小企業や零細企業の人達で一般人も下層階級に属する人達で構成されている。そんな人達が官僚や政治家の尻拭いの消費費税の値上げは直接生活に反映されるはずなのである。しかし、そんな内容の民主的議論などされてはいないのだ。上意下達、問答無用の命令で政治的な判断を決めてしまう。

まるで、旧自民党の国民と自民党執行部の関係に似ている。国民の意志は反映されないのだ。

嘗て、公明党の学会員が「何でも自分達に有利なものなら徹底的に利用する」といった暴言を思い出す。
彼等は強い者にへばりつく蝙蝠人間達なのだ。今度の「三党合意」なる金科玉条を振り回すのは、自民党よりは民主党のほうが強いと見るか、三党連合に欲を絡めた算段と私は推測している。
選挙での参加人数が少ないことを利用して公明党は我が物顔で闊歩する。これも日本の国民の民意の低さがそうさせているのだが、哀しいものだ。いずれにせよ、蝙蝠党・公明はまたしても、漁夫の利を得ようとしている。もうそろそろ、国民はそのことに気がついても良さそうなものだが、先の選挙でも選挙に行かない人が多いのだろうな。またぞろ、負の組織票が生きてしまうのであろう。真剣に考える時がきていると思う。
もう数十年前のことだ。日本が占領中に米兵に後頭部をピストルで撃たれ、父は左半身不随で窮余に一生を
えた身体をえた。それを利用しようと創価学会の会員を勧誘されたのを私は見て知っている。その時の彼等の言い草を私は今でも忘れない。「自分達の利益になることだったら何でもする」とのたまっていた。

今の公明党は旧自民党と同じ思想と政治的信念であることは間違えないだろう。堀本の親類は90%創価学会で彼等が皆、貧困であえいでいて、生活に困っているのを私は知っている。中には零細企業の社長で銀行から資金を貸してもらえず、やもうえず従業員の首を切り、事故の財産おも放出して、不景気を憎んでいる人も居る。ここで消費税を上げられれば、倒産は確実である。会員の中には年金生活者も多く、政府の過酷な天引きに汲々としている人達が多くいるのだ。それなのに公明党はそれらに意見をも言わせず三党合意なる悪法を敢行しようとしている。それは彼等が最も嫌う共産党独裁(そうかな)なる思想と全く同じ思想のように思う。民主主義とは対話と大いなる妥協の主義なのである。意見を取り入れてこそ民主主義なのである。それを公明党なる政党は力で封じ込み意見を言わせない。独断的な恐ろしい政党なのである。

私は今、彼等が「自分達の利益になることだったら、なんでもする」といったことを思い出している。彼等はある人間の独断に動物のように従順に従って、一つの塊を作っているに過ぎない。嘗て、オウム真理教は創価学会を悪の宗教として狙っていたと言う。私はその理由が理解出来なかったが、ただ、彼等が庶民の側に立って行動していないのだけは理解できる。私は永久にこの党の近辺にはいないだろう。
土偶関係の書籍を数冊読む中で、土偶が一種の呪術的なオブジェであり、耳飾りと切り離せないことが解かった。それは南洋の海人族が齎したもので、南九州は縄文草創期から、その影響を受けていたのが判明した。

鹿児島・上野原遺跡は土器でも独自な形態を示し、貝殻文の円筒土器で、他の縄文土器の丸底や尖底のように動物性食物との関係で火を摂取し易い構造ではなく、植物性食物を保存、運搬に適するように造られている。そのため、大壺や大きい土器が作られ、石皿や敲き石、磨石などが出土される。
勿論、一万年前から定住がされていて、集石遺構や連結土坑は(動物性食物の燻製装置)として開発され、二筋の道路は交通、水はけ、給水のために開発されている。

通説は縄文文化は北から南に移行したと言うのであったが、それ以上の文化が南九州には存在していたのである。
因みに、同時代の遺跡で、野間半島にあるかこいノ原遺跡は「かこいノ原丸ノミ式石斧」が出土していて、上野原遺跡と同様に集石遺構や連結土坑も見られ、定住がなされていたのではないかと思われていたが、そこには竪穴式の住居が見られなく、推測ではなるが夏用の居住地か造船のための居住地ではなかったかと思われる。と言うのは丸ノミ式石斧は丸木舟の製作に使用されたと思われろからである。

野間半島から沖縄諸島までの海洋領域には「かこいノ原式丸斧」文化圏が形成され、船での航行や交易が行われていた形跡が見られるからである。
そのことを考えると、鹿児島を核にして広範囲の海洋族の存在が明らかになる。

これは私の推測だが、彼等は黒潮や対馬海流の流ればかりではなく、北からのリマン寒流やその枝の流れをも知り尽くしていたともいえる。
それは、種子島の大園遺跡から縄文晩期ではあるが、東北の亀ヶ岡土器(大洞おおぼら土器)が出土していることからも解かる。
つまり、縄文時代の南九州は我々が考えている以上に、高度の文化形成がなされていたと言える。

それが6300前の鬼界カルデラ大噴火によって壊滅的な打撃を受けて、消滅したことになっている。しかし、南九州は薩摩火山噴火や桜島噴火と大噴火を経験していて、その種族的伝承や対応措置は織り込み済みであったと考えるのが自然だろう。現代でも長崎の噴火では、犬が火砕流を避けて生存していたという。縄文人は私達には考えられない嗅覚があったであろうことは推測できる。
彼等は海洋族である。黒潮に乗って、移動して彼等の高い文化を伝播して言ったはずであるし、その一部は故郷に舞い戻って、その文化を伝承したに違いない。

NHK出版の「日本人はるかな旅」にはこう記している。少し長くなるがお知らせしておこうと思う。
「・・・南」九州が発祥地といわれる「連結土坑」(燻製施設)が鴻野木遺跡(三重)、浜井場遺跡(愛知)、匂坂中遺跡(静岡)、関東と黒潮の沿岸に伝わっていることが解かった。また、東京多摩ニュウタウン遺跡(4500年前)にも、南九州の人々が作りだした「磨製石斧」が発掘されている。
と記載している。

これは6300年前の鬼界カルデラ大噴火から逃れた南九州の一族の末裔が伝えた文化ではないだろうか。
私は古代の南九州の文化を高く評価している。それは、會族や隼人が野蛮な種族ではないことの証である
。ニニギ命の天孫降臨の歴史的状況はここから始まるのである。

私は基本的には裁判官制度には反対です。社会的常識の基に素人の浅知恵を導入しては先々禍根を残すことになるからである。

今回のアスペルガ症候群の人間を裁判官の懲役16年を裁判官員が20年に増役下からである。社会的常識に照らし合わせると軽いと言うことらしい。
この病気は精神的な症状で、独断的で自己反省が出来ない症状なのだそうだ。弟が姉を殺害したことだ主因だと言う。先ず、四年の量刑のさは専門的に素人が諮れるのだろうか。この症状についての社会的責任、治療やリハビリの社会復帰についての考察はどうなっているのか、その責任は発言者にあるのか。様々な問題が残されている。
そのことを討議し、開示する必要はないのだろうか。私にはそんな中での量刑の確定を下す自身はない。
こうなると裁判員の裁判制度が必要とされるではないか。この制度には無理があるのだ。裁判官の社会性を監視するなら、公開性の諮問機関を設定すればいいのではないか。方法はいくつかはあるだろう。法の制度は単純にすべきなのだ。公開性にすればおおよそ解決する。提案ではあるが、私はそう思う。
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