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「他の分野の科学・技術は、急速な発展をとげているのに、日本文献学のみ、百年の眠りにふけっていてよいのであろうか。十九世紀的文献批判学は、西欧でも、中国でも、史的事実の把握において、失敗をくりかえしてきた。
十九世紀的文献批判学は、「イリアス」や「オデュッセイア」などを、ホメロスの空想の所産としたが、この結論は、アマチュアのシュリ~マンの発掘によって崩壊した。
批判や否定の精神のみでは、科学の名に値しない。
古代の探求は、仮説検証的な方法のよるべきである。」

この見解には私は賛意を表する。
古代はその総体が時に埋没していて、全体が見えない。それを仮説で真実解明の俎上にのせて、あらゆる光りを当てて事実を帰納する方法は最善の方法であると考えます。安本説を支持したい。
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2012.09.28 絹の話題。
肥前の国風土記を読んでいて、悪神が通行人を殺すので、可是古がそれを退治する方法を占うと、幡(はや)を立てて占った。そして、占った結果、悪神を退治する。

その幡の起源は朝鮮の「蘇塗(そと)」と言う儀式が起源であるとする説がある。幡は絹で織られていて、樹木に鈴鼓を掛ける。当然、布を織る技術を必要とする。絹は大変難しい技術を必要とし、蚕の飼育も難しい。しかし、桑の木はどの環境にも生育する樹木なので、簡単なので蚕さえ飼育できれば絹の生産は容易だ。

桑の原産は中国・長江域だといわれ、紀元前4000年には発見されている。その後、朝鮮半島にも伝わり、日本には1000年前に伝わったと言われる。

「古事記」にも天照大神がスサノオウに織姫に悪戯をしたことが契機で天岩戸に隠れる神話を持つ。その他、オオゲツヒメや保食神の神話には死体化生説話にも「桑」現れている。

それが朝鮮の習俗が始原だとすると、絹の生産は朝鮮からと思われるが、実際伝わったのは中国・江南であると言う説の方が正しいような気がする。
ただ、「日本書紀」や「古事記」を編んだのは、八世紀の朝鮮系知識人であるのが定説で、その影響は現れているのは否めない。

また、「蘇塗」は樹木を立てる習俗がある。これは縄文時代からの巨木信仰と関係があるかもしれない。木は、天と地それに黄泉に通ずる要(かなめ)で、神が乗り移る依り代で神と同等の御神体でもある。
例えば、玉串は、私が想像するに、カミナリが大木に落ちる状態を形にしたものだと思っている。

確かに、「蘇塗」は日本神話の端緒を象徴しているように思われる。それは、八世紀の書物の製作者の考えが反映しているのかもしれない。

私の知るところでは、養蚕の始めは四川の蜀であると理解している。
「蜀」は蚕の形象である。蜀の遺跡で、三星堆遺跡があるが、その始祖は蚕叢と言う神で、蜀に養蚕を奨励したと言われている。その三星堆には、馬と娘との婚姻伝承が伝えられている。
絹を商売にしていた父親が三年も帰ってこないので、娘は自宅の馬に父親を連れて来れば、自分は馬の嫁になると約束をする。馬は飛び出し、父親を連れて帰ってくる。
娘から事情を聞いた父親は馬を殺し、自宅の前の木に皮として晒す。すると、娘が木の前に来ると、馬の皮は娘を包み天に昇り蚕になったという。
そう言われれば、蚕の頭は馬に似ていると言える。
私は日本人の基本思想から言って、二大政党制は愚挙だと主張してきた。勿論、当時からそれに耳を貸してくれる友人も少なかった。

何から何まで米国の物まね、こんな愚かな施政者は国を滅ぼす。日本人の心の根底には八百万の神を称える「和」の精神がある。日本人には、多くの意見を聞き、それを哲学的妥協で乗り切る知恵を、太古から築き上げてきた。その象徴が聖徳太子の「和を以って貴しとする」である。

私は今度の民主・自民の二大政党制度がどんなに愚かだったか、骨身に沁みて解かったのである。
明らかに、現民主・自民は日本の政治を駄目にした。私達は、先に民主党を選択したのは、マニュフェストを支持したからである。確かに、マニュフェストは理想に過ぎた。しかし、その精神は優れたものであることは認められる。
日本人の愚かなのは民主党の旧変をマニュフェストと共に切り捨ててしまう所である。マニュフェストを生かし、育てる精神に掛けていることに、気付いていない。(育てるのには時間がかかるが重要なことである)
体制とは生き物で、繋がりを持ち、絵に書いた餅ではないのだ。繋がりこそ複合的で有機的なのである。それは時間や訓練を必要とする。もしくは復活を望み、徹底的に破壊しまた、構築するかだ。革命はそれ相当の覚悟が必要だが、今の日本人にその覚悟はない。それに気ずくべきなのである。今は、骨や肉を補強し矯正することも大切なのだ。切捨ての思想はもう終りにしよう。本物の体制を作るには自らが知性を持ち、総合的に物事を判断する努力をすべきである。それには苦難はつき物であるのだ。
平和外交とはその裏で多くの情報を必要とする。防諜、つまりスパイ組織が大切だと言うわけである。

日本のように、軍事的優位が望めない国では、当然、防諜を確充するより方法がない。それなら防諜を駆使して各国の裏社会と対等にわたり合うには、国防費の相当分を費用に充てるべきである。
防諜には有能な人材と膨大な費用が必要なのである。私は以前から、日本が平和外交に徹するには、防諜に国防費の多くを使うべきであると主張していた。今でもその考えは変わらない。日本は防諜組織を確充すべきであると主張する。
私が「阿修羅」と言うブログに載せた文章を残しておきたいと思う。

私は敗戦後、昭和26年までに日本国内で行われた米国人の犯罪に対する補償法制定に関した者で治外法人に何度も裏切られた経験を持つ。

米国は軍産体制と金融資本家が国政を牛耳っている国で90%以上の物心の貧しい人達の集まる歪んだ国です。それらの選ばれた人々(キリスト様が鎮座まします教えです)に日本は蹂躙されていると言っていいと思う。その米国・ご主人様の召使が、財務官僚と歪んだ政治屋、マスゴミ、倫理観の欠如した商売人などです。

今の日本の経済の衰退は、米国とその仲間が起こした内需喚起、つまり、公共投資と官民一体となった無駄使い(これがこれから実行される消費税が埋めます)、大店法による地方経済の弱体化、皆、旦那様の要求で、日本の手揉み族がこれに従いました。

嘗て、GHQの棟梁・マックがこういったのを思い出します。
「知能程度・十四歳の餓鬼にアングルサクソンの民主主義を強制してやる」と。なんという屈辱でしょう。残念です。

日本人は砂漠で飢えた一神教の狩猟民族ではなく、聖徳太子が唱えた「和を以って貴しとす」の多神教の民族なのです。その精神は一神教に言わせれば、「お人よし」の論理と蔑むでしょう。しかし、私達はその「お人よし」の血が流れているのです。私達はその「お人よし」精神を誇りにすべきです。

私は、「神武東征」の出征の言葉<東に美(よ)き地(くに)あり、青山・四周(四方をめぐ)らす>は素晴らしい言葉だと考えます。

あるエコ学者が言います。「山を整備し治水を完備すれば、川からの養分は海に流れ豊かな海水が保たれます」と。
日本は大国ではありません。小国に属するでしょう。背伸びをしていいことがないのです。小国は小国の覚悟があるのです。その「質的優位性」は揺るがないのです。小国に徹しようではありませんか。
「大日本地名辞書」(吉田東伍)
<笠沙が訛って、加世狭となり、加世田となった>
<今の野間岬がこれである。天孫が留まり住んだ址とする。野間岳に野間神社(野間岳神社)があり、天孫の事跡が残っている>

「古事記」
<此地は韓国に向かい、笠沙の御前を真木通れりて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり、故、此地は甚吉き地と語りたまひて、底津石根に宮柱・布斗斯理(ふとしり)、高天原に氷ギ多迦斯理(ひぎたかしり)て坐しき>

「日本書紀」
<日向の襲の高千穂峰に天降ます。既にして皇孫の遊行(いでま)す状(かたち)はくしふるの二上の天浮橋より、浮渚在平(うきじまりたいら)に立たして、ソシシの空国(むなくに)を頓丘(ただおか)から国まぎ行去(さ)りて、吾田の長屋の笠狭崎に到ります>

「吾田」について(大日本地名辞書・吉田東伍)
<吾田国。薩摩国の旧名称である。日置、鹿児島、川辺、揖宿などあり、その地形は半島をなす。したがって、この半島を吾田半島と称すべきであり、その西側の港湾を吾田湾と称すべきである。吾田の名は最も古い>

<吾田隼人は隼人の中の信望のある一族であって、皇孫に奉戴して、隼人の中で君長をなしていた。・・・・古くは阿多と薩摩とは、そのさす所が互いに通じていた。吾田の地名の拠点は、はじめ笠沙の辺りにあったことを思いいたるべきである。阿多と薩摩は、両地を対象して用いられた例がなく、同じ場所を阿多または、薩摩の名で呼んでいる例だけがあるから、薩摩の本拠も吾田国のほかではない>

「和名抄」
<薩摩国阿多郡阿多郷とある>

「日本書紀」
<阿多、吾田国、鹿児島西部の古称・・・・唱更国(はやとのくに)、ついで薩摩国と命名され、大隅国のように、国名として残らなかった>
「続日本紀」大宝二年九月十四日条(702)
「これより以前、薩摩の隼人を征討した軍士にそれぞれ功績に応じて、勲位を授けた」とある。
これはこれから以後、薩摩国が建立する年でもあった。薩摩隼人が大和朝廷に服属したのである。また、和銅六(713)に「日向の国の肝属・曽於・大隅・姶羅、四郡を割りて、初めて大隅の国を置く」とあり、これより大隅隼人が朝廷に服属を始める。しかし、大隅の會族はさらに抵抗を続け養老四年(720)には、大隅国守・陽候史麻呂を殺害して、抵抗を続け、太平十二年(740)の藤原広継の乱に會君・多理志佐が朝廷側に就いて終息する。

「続日本紀」によると、大宝二年(702)肥君・五百木部・大伴氏が薩摩の出水郡、高城郡(現・川内市)に大和朝廷から200戸移住させられている。また、和銅七年(714)に豊前の国から200戸、大隅へ隼人を恭順させる為、移住させられている。

<肥前国風土記>
姫社(ひめこそ)の郷(さと)について、郷に山道川(やまじかわ)があり流れて、御井の大川に合流する。その川の西に鬼神がいて、通行人を半分殺した。そこで筑前国・宗像郡の可是古(かぜこ)が占い(旧事紀には物部阿遅古連とする)、機(はた)を立て風によって落ちた所の女神を祀れば、通行人は殺されないですむ。と宣託する。それを実行すると、通行人に危害が及ばなくなった。

それは物部氏の起源伝承でもある。つまり、宗像信仰は新羅の信仰でもあり、物部氏が新羅の渡来人とも言える。
そうだろうか。少々疑問である。物部氏は北九州の先住民であるとする説もあり、更なる考察が必要であろう。

機を立てる習俗は朝鮮の「蘇塗」の習俗と関わりがあると言われています。
「蘇塗」とは、神聖な特別な邑が設けられ、そこでは大木を立てて、鈴鼓を掲げて、鬼神につかえる祭りを行う儀式である。
それは大木は天上・地上・地下を結ぶ宇宙的依り代であることである。それは日本の神々にも言えて、天の神々は大木に付き、その木に依り代する。それは縄文時代からの樹木信仰の継承で、三内丸山遺跡の櫓・巨木、出雲神殿の巨柱、吉野ヶ里遺跡の巨木、諏訪の御柱祭、伊勢の心の御柱などから窺われる。
ただ、機(はた)を建てることは、布を織る行為を伴うが、朝鮮において養蚕の習俗が少ないような気がする。その点が気がかりだが、「蘇塗」の習俗は姫社(ひめこそ)の伝承に関りがあるかもしれない。

ニニギ命が笠沙から高城郡に移動してそこに定住する。伝承では、新田神社はそれを祭り、可愛の山稜がニニギ命のみささぎであろう。その子・彦火火出見命は鹿児島神社の主祭神で高屋の山稜に祭られ、ウガヤフキアエズ命は鵜戸神社に山稜は吾平の山稜に祭られている。
これらの命は薩摩から日向、三代で築き上げた勢力図であろう。私はこれらが南九州王朝の基盤だと考える。その影には、吾田鹿葦津姫、豊玉姫、玉依姫の先住民族との血縁が大きな要因となっている。この姫たちは明らかに會族乃至は隼人族の娘で、恐らく巫女的な重要な立場にいる皇后であったと恩われる。

隼人は多種族的な要素があるのは、彼等が所謂、「海の隼人」と言われ、阿多の地・加世田のかこいノ原遺跡に見られる太古から海人族として南方諸島や江南との交流があって、「山の隼人」(これは襲・會の地の先住民)のように純潔性を重んじるより開放的、革新的な血がニニギ命や外海人族(多分、久米氏や安曇氏はこれに続する)との血縁にさほどの抵抗を示すことはなかったろう。

説であるが、吾田隼人が會族との親近性がなかったら、ニニギ命の野間半島上陸がそれ程上手く行かなかっただろう。「海の隼人」の海外の種族や文明との接触の重要性を具体的に説得できなかったなら、数多くの漂流異人の略殺談は生まれない。「花宮御前」の空船(うつぼふね)の漂流異人の奪略・殺戮伝承や「手杵祭」の言い伝えは残らなかったであろう。(勿論、これには祟りの影が存在しその伝承説話でもある)

このことは、日本民族の思考形態を語る上でも重要な要素でもあるが、「海の隼人」の存在なくして、南九州の先進性や開放性を語ることは出来ないだろう。又、薩摩・日向の種族の優秀性もこれらの混血種族だからこそ達成されたと思われる。
本当に今の政府は何をしているのだろう。中国や韓国に対する外交は世界への情報の発信であり、日本の受けた被害を只管外国に声高に声に出すべきだ。

外務省も積極的に日本の国益を参謀として意見を出すべきであろう。その支持を政府は出しているのだろか。聞くところによると、パナソニックは中国の依頼で現地へ出向した経緯がある。その企業も中国人の手で破壊されている。こんな理不尽な事はない。中国は国境問題で多くの国と諍いを起こしている。そんな一方的な中国について国連や他国の情報誌へ喧伝したらどうななのか。日本も中国軍の越境に対して軍事を持つべきだと反面宣伝をしたらいい。米国にももっと日本の支持を米国議員に圧力かけるのもいい、新聞・TVの枠を買い、日本に有利な情報をながすがいい。こんな私みたいな素人が思いつくのだから、真剣に多角的に謀略的に中国を貶める宣伝をするべきだ。今の民主党は何をしているのだろう。野田氏のTVに出てくる顔の表情を見ているとその焦躁感が窺われない。少しは痩せやしないだろうかと目を凝らしているが血色はいいし肌つやも上々である。この人には悩みはないもだろう。

こんな指導者を持つ我々は不幸と言うしかない。不安でたまらないが、今の私には為す術がない。ほ
柳条湖事変を考えていて、野田政権が浅薄な権力闘争に明け暮れ、国内政策も海外政策も非常に底の浅い人達の集まりであることがわかる。米国一辺とうの浅薄な政権や好き嫌いで決めてしまう子供世界の政治遊びが横行している。小澤氏を追い出したのも単なる幼い勢力争いで世界を見つめていない。田中真紀子は何をしているのか。野田氏が中国とのパイプがないなら、田中のラインを何故使わないのか。(田中にその力がないのか。少なくとも小澤は定期的に中国との交流を続け手いるはずである)その未熟さが、国際会議で中国首脳に睨まれて、俯くという破廉恥な行為しか出来ない小さな人間しか選べないのは、極論を言えば日本国民がだらしがないからである。
柳条湖事変の9・18の記念日があることぐらい解かっていたはずである。それなのに、何故今、尖閣島を政府が民間から愚かにも20億円かけて購入するなどと言う愚挙に出たのか。素人でも中国人の反日感情を逆なでするのは判断できる。アホと言うより呆れるばかりだ。

私は予言する。日本維新の会が次の選挙である程度の議員を国会に送り込むだろう。素人政治集団・民主党が政権を無視して、消費税だけを通過させるといった愚かな政治を認める日本人の不見識な心理は改めるべきである。
もう、素人に政治を任せる愚かな行為はロクな結果を生まない。真の政治家を育てるべきである。時間がかかるが仕方がない、そういう日本にしたのはわが国民なのだから。

今、小澤氏が代表の時、大連立を画策した。彼が「このままでは民主党員はなり行かない。余りにも政治について素人過ぎる」と言ったことを思い出す。彼は自民党からあの実際的な引継ぎを求めたのだろうが、それを理解した民主党は少なかった。そうした先を見通す政治家はいないだろう。似非左翼や素人政治家に任せる見識だけは改めよう。本当に国を滅ばしてしまう。

私はノストマダモスの大予言や仏教の末世思想、マヤの終末思想を頭から信じているわけではない。しかし、そこに共通する無気味な暗黒を何と理解すればいいのか。
このところの、気象は明らかに異常だ。私も古代史を齧っていて、紀元前6300年に喜界カルデラの大噴火を思い出さずにはいられない。火山活動が活発化してきたのだろうか、太平洋プレ~トの歪が頂点に達したと言うことに為るのか、それに呼応して人の心の緩みがそれらに拍車をかけているのか、段々と不安が増すのはどうしたことだろう。
このところ、私の中に祈りにも似たドグマが沸々と沸いてくるのを禁じえない。太古の人々が自然の災害の予兆を前に祈る呪術者にも似た気持ちはこれなのかも知れない。

いずれにせよ。私達は真剣に予防の心得を持たなければ為らないと共に真剣に私を考えなければ為らないと思う。
2012.09.16 古代史覚書3
ニニギ命が日向の高千穂の襲から野間半島の笠沙への先導役に天津久米命(久米直の祖)の行方を追っているのだが、神武天皇の久米氏の活躍以外、主だった舞台を私は知らない。
史実として、縄文晩期の上加世田市から出土した「久米」を刻んだ土器片のほか頼りになる情報がない。加世田市は笠沙に違いなく、そこでニニギ命と吾田鹿葦津姫は邂逅している。吾田は海人を意味し、隼人族の名称でもある。滝川政次郎教授は隼人族を江南からやって来たと説くが、隼人は南九州加世田市に土着していた海人種族(多分、會族の分派であろう)で、江南からやって来たのは、滝川教授も北九州に着いたとされる安曇族であったと思われる。安曇族もまた南九州では、その軌跡が皆無の海人族で何やら久米氏と似たところがある種族ではある。
私はこの野間半島(笠沙)を廻って、久米・安曇・隼人が微妙な関係があるような気がしてならない。

「今昔物語」には久米の仙人の伝承があり、龍門寺と言う寺で仙人修行を安曇氏と久米氏で行う、とある。このことは久米氏が安曇氏と同族かごく親しい関係にあった事を物語っている。(扶桑略記には、もう一人大伴氏が加わる)
これは「天孫降臨」の伝承に繋がるが、そこに安曇氏が顔を覗かせるのが興味深い。

職掌もこの海人族は軍人・膳手(かしわで)・俳優(わざおぎ・呪術者)と似たところが多い。何やら同族の臭いがしないではないが、それを結びつける根拠が見つからない。私のこれからの課題かもしれない。

久米氏については幾つかの説がある。隼人説、大伴氏説が有力な説だが、四世紀まで久米氏が勢力を持っていたが、五世紀になると大伴氏が台頭してきて、久米氏は衰退の一途を辿ると言う。その際、大伴氏は久米氏の仲から頭角を現したという。「古事記」は<久米氏>を優位にとるのは地方豪族の活動が著しく「壬申の乱」の影響を強く受け、「日本書紀」大伴氏を上位に採とのは専制的な律令政治の完成期である「奈良朝初期の風潮」をより強く受けていることに起因する。

「日本書紀・補注(巻第二)二十六、久米部は四国・中国地方を中心に、一部は東海沿いに分布。各地に久米郷などの地名、特に、伯き、美作、伊予に久米部がある。

名称の大伴はどうやら、その名前の意味から考えると、その氏名に始原性が窺われない。大伴の伴には名門としての発祥性が感じられない。大伴は部民としての首長の意味だろうが、どこかの地方豪族に仕えた有能な武将なのであろう。大嘗祭では久米舞のパ~トナ~に佐伯氏を従えているが(大伴氏が琴を弾じ、佐伯氏が太刀を振るって土蜘蛛を退治する舞いだそうである)、両者には従者の頭の臭いがする。その意味では、嘗ては大伴氏の主人は久米氏であっても辻褄はあう。

久米氏が隼人とする説は、滝川政次郎教授の「猪甘部考」で述べられた江南からよってきたのが隼人であると言う主張に、「天孫降臨」の際、笠沙に軍人として先導した事とが重なる印象を両氏が同族であるとしたことから名ずけられたのであろう。

「加世田」のこの地は古く「万瀬川の河口域」の「潟湖」と想像される岸辺の上にあり、「潟」を囲む「東700米」ばかりの所「上加世田遺跡」が、北1キロ程の所に「かこいノ原遺跡」が、西1・5キロ程の所に「笠沙の宮跡」が知られている。「阿多郡」の域なのである。
2012.09.16 古代史覚書2
古代史に興味を持った要因は初代天皇、神武であった。その結果「天孫降臨」から始めることになり、南九州に探求の志向が強かった。

北九州はそれ程の文献を読みこなしたわけではないが、傍流としての知識はある。
北九州は民族の坩堝と言える。黒潮に乗り中国江南より遣ってくると思えば、島伝いに新羅、百済かつ高句麗そして縄文先住民族が群雄割拠している。神話的に言えばその中でニギハヤヒ命が物部氏を率いて、いち早く北九州を脱して近畿の大和へと東遷しいている。(その理由は明らかではないが大切な要因なのでいずれは解明されなければならない)そのことは「古事記」特に「日本書紀」には明示されている。若御毛野命(後の神武天皇)が塩土老爺に遷都を尋ねると老爺は「東に美き地あり、青山四周らす。先にニギハヤヒ命が東遷している」と述べる。神武天皇は既にその事実を知っていて「ニギハヤヒ」の名を口に出している。
私はこの事実は非常に重要なことだと思っている。先ずは、北九州から東遷していることである。仮説ではあるが北九州は朝鮮半島の文化的、軍事的な影響が大きい種族で既に、大和を統治していた豪族・長脛彦と連合して先住民族の首長の妹と血縁している。このことは重要な事件である。二つの民族が血縁すると言うことは、かなりのエネルギ~を必要とする。その基盤は時代を超えて力を沈着させる。詰まり潜在的な力を蓄えるのである。

そこへ神武天皇が割り込むのである。激しい闘争があるのは自然の成り行きである。



持論で言えば、南九州を背景とする神武天皇は中国・江南の文化を担う南九州・會族との混血種族であり、ニギハヤヒ命は朝鮮民族と縄文先住民族(物部氏か?)が血縁した種族同士の戦いのはずであるから、並みの戦闘ではないはずなのである。

それ程神武東征は重要な東征なのであると私は理解している。

ニニギ命とニギハヤヒ命は兄弟である。(ニギハヤヒ命が兄で、父は天忍穂耳命です)
その三代後が神武天皇で当然、神武天皇は南九州の種族に属する。ニギハヤヒは北九州に属しているのだからこれは微妙に血族の違いが生ずる。ニニギ命が江南の安曇族の首長であると仮定すると、この種族はイザナギ命の禊(みそぎ)によって生まれた種族で、北九州の天忍穂耳命は、天照大神とスサノオウ命との誓約(うけい)によって生じた種族なのである。
天照大神とスサノオウ命は、安曇氏の祖・綿積見神の後に生まれる神々で、少し穿った見方かも知れないが、先ず中国文化が先行し、朝鮮文化はその後で形成される。その時間的影響度が初期の神話に盛り込まれているといえないことはない。

私は「古事記」と「日本書紀」の内容は広く深いと思っています。両書の編者の考察度は驚くべき深さを感じるし、かなりの文献や伝承に精通していたと信じている。

南九州が江南・特に「呉族」との関わりが濃厚なのは、文化・習俗が江南のそれと同類だからである。
ニニギ命は次男であり、彦火火出見命も火照命の弟である。勿論、神武天皇は四男である。つまり、共に末子である。そのほか、久米氏は安曇目であるし、隼人もまた文身をしており、鵜飼の習俗が伝えられている。これも江南の習俗である。
他に、中厳円月(中世の「日本紀」の作者)は神武天皇は「呉」の太伯の末と述べている。「呉」は言うまでもなく江南の倭俗である。江戸の儒者・林羅山もまた、その支援者である。
南九州と唱ってはいないが、中国に朝献している「倭人」は皆、自らを「呉」の太伯の後裔と名乗っていると記す。
「倭人」(九州の倭国であろう)は江南の「倭」と血族関係にあったと言いたいのである。それがどれほど信憑性があるか疑問ではあるが、少なくとも、中国・江南との交流があったことの証左ではある。

「呉の建国伝承について」
伝説によりますと、周の古公旦父は末子の李歴に家督を譲り、さらにその子・孫である英明な昌(文王)に王を継がそうと考えていた。父のその意志を長男の太伯と次男の仲擁がそれを察して、李歴に家督を相続させ、衡山に薬を取りに行くと偽って逃亡し、国境を越えて、荊蛮の地にやって来て、梅里に住み、この地の風習に習って、文身・断髪し、句呉と名乗った。即ち、「呉」にいて、梅里の人々に慕われ、呉王となり、「呉太伯」と名乗った。太伯が死ぬと、仲擁が後を継ぐ。(BC585~561)
2012.09.16 古代史覚書。
私は古代史の始まりを九州に置く。九州は南北に分ける。明らかに、北と南とでは文化に相違がある。

南は中国・江南の影響が強く。北は朝鮮半島に影響されている。先ず、九州は南から開ける。縄文時代は南の薩摩・日向が高度の文化を開花させる。私は會(大隅地方)の上野原遺跡に注目する。
上野原は紀元前一万年に既に定住を始めている。集石遺構は肉や魚を蒸している。連結土坑は燻製を始めていた。石皿、敲き石等御は堅果食物を粉にして加工していた。円筒土器や大壺は貯蔵や運搬に使用されている。土偶や耳飾りは呪術的用具であろうか。竪穴式住居が220基ほど出土している。二筋の道路は排水と通行のためであろう。その先端は泉に到達している。
これは明らかに定住の徴である。いや、既に合理性と目的意識を持った都市化の理念が内蔵されている。
さらに、野間半島にはかこいノ原遺跡が発見されている。(現・加世田市・・・笠沙の地)時代も上野原遺跡と同等に紀元前一万年である。出土品は上野原に近いが、ここには竪穴式住居は見当たらず、特徴として「丸ノミ式石斧」が出土している。これは丸木舟を製作する用具で舟の出土はないが、恐らく舟の製作は行われていたと推測される。
この丸ノミ式石斧は、大隅諸島、トカラ諸島、種子島から沖縄まで海人族の文化圏を形成していて、一連の南方諸島との交流があったと考えられる。これらの島々は黒潮の関係を考慮に入れると、比島から江南地方まで繋がって行く。

但し、九州は三度の大災害(火山の大噴火)に見舞われている。薩摩カルデラ、桜島噴火、最後に6300年前の喜界カルデラ噴火である。よくこの現象をボンベイと比較されるが、それは本質的な相違がある。ボンベイは一度であるが、九州は三度の災害に見舞われ、そのたびに再生している。この脅威的な再生力は九州特に南九州の底力であろう。
2012.09.13 古い手帳。
書籍の下から、古い手帳が出てきた。7・1・5とあるから、平成7年のものだろう。

その中に「力士とトンボ」と題するメモが書き付けてある。面白いので、記してみようと思う。

彼は若く期待をされた力士である。幕ノ内に昇ったのか、横綱に昇進したのかははっきりしない。しかし、彼は不安で一杯であったのは事実である。多分、昇進などしなかったのかもしれない。内心は、普通の青年のように、自由の振る舞いたいと願ったのだ。組織からも親方からの規制は厳しく、谷町からの期待も並外れていた。彼としてはもう、この世界から逃げ出したいと思っていたのである。
親方は参謀の一人に占い師を抱えている。その占い師は中国道教の心得があり、幻術をも心得ている。親方と占い師は、ある晴れた日に昇進力士を迎えようとしていた。広々とした境内にも似た場所だがはっきりしない。そこの鳥居の影からトンボが一匹、空中を舞った。すると、占い師は、「力士が逃げる」と叫んだのである。果たして、力士は失踪して、行方知れずに為ってしまった。

これは私の創作なのか、書籍やテレビ・映画の走り書きなのかはっきりしない。いくら思い出そうとしても記憶が定かではない。しかし、一つの印象は鮮明である。大変、面白い文章である。
何度、浅薄な政党を我々は耳にすれば気がすむのだろう。もう素人集団の口先だけの実力の伴わない政治家は民主党で懲りているはずであろう。
勿論、日本国民がだらしがないのだが、政治家を選ぶ心を国民一人一人が充実するしかないのだが、半分以下の投票者でしかも、民度が低ければ、政治はよくはならない。
私は今、日本は落ちるだけ落ちればいいと開き直っている。情けない。

少なくとも、「日本維新の会」などと言う。一見、良さそうな名前を信じない。もう一度言う。橋下氏は政治哲学も、腹が座った政治見解も聞いたことがない。高校生に毛が生えたようなスロ~ガンで我々は動かない方がいい。
2012.09.11 久米氏の謎。
久米氏について私は少ない文献の中から、多分、四世紀までの氏族でそれ以降は弱小氏族の部類に入ると思われる。(その後、五世紀には大伴氏が頭角を現してくる)

「天孫降臨」では<古事記>は天忍日命(大伴連の祖)と同格の天津久米命がニニギ命一行を「襲」から「笠沙」へ先導している。次に久米氏が登場するのは神武東征である。つまり、天孫族の遠征には中心的に活躍をしている。その後、久米氏の名が主として出てくるのは、大嘗祭の「久米舞」であるが、ここでは久米氏が実際に関与していず、「大伴氏」と「佐伯氏」が実行している。

久米氏の主な登場舞台とはその三点であろう。その後、久米氏を知る記事は「続日本紀」の新羅の手人・忍海の工人に「久米直」の名を献上した。没落記事とか大和に移住した地が高市郡久米郷である(この付近は金属の鉱山が存在する)。
ただ、少し深入りをすると理由なく、渡来の民に名前を渡すとも思えない。仮説だが、久米氏も渡来的要素があったのではないか。それが中国系か朝鮮系かが解かる由もよしもないが、歴史の浅い氏族なのかもしれないのだ。感じとして、早い時期に衰退していた可能性がある。そう考えると、南九州系王朝の存続は、歴史的には比較的短いのかもしれない。それに対応していたとすると、久米氏もその活躍時期が短かったという仮説も成り立つ。

ただ、加世田市(加世田は笠沙の田が訛ったものである)の上加世田遺跡から出土した「久米を刻んだ土器片」が重要だと思われる。しかし、その後、日向にも薩摩にも大隅さえ「久米氏」の影は射してこない。
文献や伝承では、久米氏が隼人であるとか、久米氏が大伴氏に変更したと言う伝承がなされている。
「大伴」と言う名称にだけ拘れば、「伴」は明らかに、附随氏族で発祥氏族ではないでしょう。その点からは「久米氏」は先行して、「大伴氏」が久米を改名して、継続した。と、する説は成り立つ可能性を秘めている。

「久米氏」が隼人とする説の根拠は「吾田鹿葦津姫」とのニニギ命との婚姻が影響しているのであろう。当然、首領のニニギ命が「隼人族の女」と血縁を結べば、南九州は「會族」系の種族は主体的な種族なので、臣下の天津久米命もまた、「隼人族」の女性と血縁したであろう事は、大いに考えられることである。その際、「久米氏」が隼人の名の下に隠れてしまったことはありえよう。

もう一つ、安曇氏との関係であるが、両氏の職掌が非常に似ているのである。軍人として、膳手(かしわで)や俳優(わざおぎ)つまり、宴会を取り仕切る役目として皇孫に尽くしている。
私は「今昔物語」を読んでいて、<久米の仙人>のくだりで、久米の仙人が仙人修行をする場面がある。その際、同時に「安曇氏」も仙人修行をしている。(扶桑略記では大伴氏の加わっていると書いてある)その件は偶然ではない。折る意図が感じられる。つまり、この三者は同族か非常に近しい種族であろう。
その点では、「大伴氏」の久米・改名説や「安曇氏」の同族説は全く根拠がないものではなかろう。しかし、それを確定するだけの資料は少なすぎるので、明言はできないのである。
意識して古代史を読み始めたのは四年前からである。それまで私はユングの神話の研究に刺激されて、聖書やアフリカやマヤ、東南アジアの神話、勿論、日本の「神話」や「民話」、中国の神話について本は読んでいた。

古代史の読書量が増えるに従い、古代史の範囲が広く、深いことが解かってきた。

古代の理解が進めば進むほど、日本人の思考や習慣の根底には多神教(アニミズム)が脈々と横たわっているのが解かる。世界は聖書の思考・哲学が主流を占めている。俗な言い方をすれば、砂漠で遊牧の思想は個人を主体とする飢えの思想である。砂漠の中では獲物は命と交換するほど過酷な運命を背負っている。そこ行くと、日本列島は青々した森林とそこに育んだ清冽な川と行き着く先の豊穣な海に囲まれた素晴らしい、どこかの腹痛首相の言う「美しい国」(それを維持するなら原発は一番先に否定するはずです)とは違う「美しい国」が横たわっています。何と恵まれた国民でしょう。

あれかこれかの選択しよりあれもこれもの世界で、二人の狩人が森で鹿に出会ったら、先に見つけた狩人がそれをとるでしょう。遅れてきた狩人は相手を殺すこともなく、次の獲物を目指します。獲物はまだ、森の中に存在します。そこが貧しい遊牧の思考とは隔絶の差があります。

その根源は黄泉の国と葦原中国を一つの国として考える素晴らしい弁証法的な発想があるからです。
我が天孫の祖・天照大神は思えば、イザナギ命の禊から生まれて着ました。これは見逃してしまいますが、黄泉に穢れから生まれたと言えます。(スサノオウの目は本質的には禊をしても黄泉の穢れを沁み込ませています)西欧の弁証法は合理性を一とします。野暮ったく言えば、正・反・合の図式です。明らかに「個」に還元します。しかし、日本(倭・和)は正と反を矛盾したまま止揚します。駆逐された反の欠片を残したまま統一します。これを融和と言いますが、統一は不完全で、ここに多神教独特のすべての神々を認める柔軟性を認めます。多分、谷川健一師の言う「意識の連続性」とはこのことを言うのだと思いますが、本当に素晴らしい哲学です。豊かな民族が持つ豊かな思考であると思います。
以前から気にはなっていたが、海幸彦と山幸彦の関係である。「古事記」でいえば、彦火火出見命(山幸彦)と火照命(海幸彦)の説話である。

ここでは、ニニギ命と吾田鹿葦津姫の息子である。つまり、血族と言うわけである。言うまでもなく、山幸彦は天孫後継者であり、海幸彦は隼人の祖先であるとする。神話と史実の問題なのだろうか。時たま、名称の混同が起こることがある。
私の認識では、隼人は熊襲(熊會)の末裔で、朝廷に従わなかった種族が熊襲(熊會)族で従属したのが隼人だと理解している。熊會族は南九州に縄文時代から居住していた先住民族である。
私は本居宣長の熊會説をとり、會族は南九州に先住していた民族と思っている。その中心は大隅地方・上野原遺跡もある霧島山の麓であると考える。「天孫降臨」はその會(襲)から野間半島・笠沙(現・加世田市、加世田は笠沙の田の訛りだという)へ行き、ニニギ命は吾田鹿葦津姫と婚姻しその地へ居住した。その名残りが、可愛(え)山稜であり、祭られているのが新田神社であろう。初期天孫族の勢力範囲内である。吾田姫は「大山祇神」の娘とされているから、明らかに「會族」(後の隼人)である。中村明蔵師らの説のように「隼人」は先住民であることはほぼ、明らかだと判断します。

ただ、大山祇神又は、命の情報は少ない。出自から種族まで決定的な定義が出ていない。三島が本願だと言われるが、だとすると、笠沙に何故、吾田鹿葦津姫が住んでいるのか。吾田姫はどこから遣ってきたのか。「吾田」と名ずけられているのだから、隼人や薩摩(野間半島)と関わりがあるのは事実であろう。すると、吾田の地域の豪族である可能性が高い。
「古事記」「日本書紀」は頻りに「襲(會)」を取り上げる。それは、「襲(會)」が以後の天孫族と関わりがあるから「襲(會)」を取り上げるのに違いない。熊會は隼人の前身なのだから、大山祇はその「襲(會)」に居住していた現住民だと考えるのが自然だろう。総体的に考えれば、上野原遺跡のある桑原郡の大隅とするのが正解だと思う。

ここで疑問な点は、「古事記」が説くように、山幸彦と海幸彦は血の繋がりがある兄弟同志の勢力争いなのだろうか、江南地方独特の風習の末子相続の説話なのだろうか。
史実は明らかに、隼人は南九州の先住民族とされている。私の理解では彦火火出見命は天孫族(私の仮説だが渡来民族)であり、「古事記」の神話と矛盾する。
すると、海幸彦はその名称を変えていたのかもしれないという仮説も成り立つ。海幸彦は「海人族」であることは間違いないであろう。そこで天孫族と共に行動をしていた天孫系の種族の可能性はないだろうか。「海人族」で同族なのは、「久米氏」がそれに近い。実に、海幸は「久米氏」であるという説も成り立つように思う。隼人族と久米氏は同族かそれに近い種族だというのが私の説なのである。
上加世田遺跡に「久米」を刻んだ土器片が出土している。加世田市は明らかに、笠沙であり、薩摩・野間半島の海人族」の地である。ここでも「久米氏」と「隼人」が近接している傍証になる。

そうすると、神武東征における「久米氏」の役割が「隼人」の役割に符合する。
久米氏は恒に、神武天皇の先導役(軍人としては近衛兵であろうか)であり、膳手(かしわで)であり、俳優(わざおぎ・久米舞)であった。それは「古事記」で海幸彦が山幸彦に約束した職掌である。「隼人」そのものではないか。ただ、史実としての実証が不足している。今後の検証の必要はある。今は、推定でしかないが、状況証拠としては可能性はある。
周の文王、太公望と語る。

文王が、呂望(太公望のこと)にたずねた。
「天下を治めるにはどうしたらいいだろうか」
呂望はこう答えた。
「王者の治める国は人民を豊かにしますが、覇者の治める国は軍人を豊かにし、滅亡に瀕している国は役人を豊かにし、道義の失われた国は倉庫を豊かにします。統治者がすっかり取り上げて、国民の手もとに何も残らないというのは、こういう状態を言うのです」
すると文王は、
「よくわかった。善政を明日まで引き延ばすのはよくないことだ」
と言って、その日のうちに倉庫を開き、身寄りのない一人ぐらしの人たちに施し物をした。

周は殷(商)を滅ぼした国です。封神演義はこの時代を物語り風につずった書籍です。
「説苑(ぜいえん)」は周の時代を書いた書物です。作者は劉向(りゅうきょう)。
多分、今度の選挙では「維新の会」がシャシャリ出てくるのだろう。
私は彼が大阪府知事候補の時、出馬を聞かれて200%ないと嘘をついた。あの時は政治家と言うかたがきはなかった。政治家は「嘘」をつくのが職業だから、こちらもそれなりに斟酌するが、素人には白い気持ちで接する。
つまり、彼は本質的に嘘つきなのである。だから、私は大飯原発開始のとき、いとも簡単に前言を廃したのも驚かなかった。ただ、今度は彼が国政には出馬しないとの前言があったので、私も批判的な発言は控えた。だが「嘘つき」が政党として国民に信を問うとなれば、一言発言しなけえればと思ったわけである。

この先、彼は必ず約束を破る。それは民主党の野田氏の比ではない。彼には信念も哲学もない。その場その場の情勢で変えてゆく。腹痛いた引退首相を持ち上げるのは、彼が改憲論者で国民を「新至上主義の米国」の傘下で軍国主義の道へと突き進む意図が見えている。
それには旧自民党のように、官僚(今の地方分権など方便である)、ひも付き政治家(自民・公明党の執行部)・財界・米国の仲間になるということである。
今、マスゴミは彼を持ち上げているのは彼等にとって、都合がいいからに過ぎない。信念をいとも簡単に変える人気者を飼いならすのは彼等の陣営にとって意義のある事なのだ。おしまい。
情けない。政治家は何をやっているのか。政治に従事しているのではないか。官僚の奴隷に何時成り下がったのか。
国民の生活を犠牲にしてまで、財務省の恫喝を甘んじて受けるのか。君らは政治家としての自負はないのか。地方交付税を遅らせるなどとは、政治の敗北だろう。
民主党とは旧自民党以下の官僚支配の政党だと言うのは野田氏を見ていれば明らかだが。自民や公明党の責任も重い。彼等もまた、財務官僚の手のひらで踊らせられているだけだろう。何度、政治が、いや民主主義が悪代官に牛耳られることない世の中になるのだ。勿論、選挙民より、財務省が上にいる世の中は民主主義ではない。誤解を恐れずに言えば、日本は独裁国家だ。官僚が投票率の最悪な日本国民をあざ笑っている。何をしている。日本国民よ。私も何度となく挫折を繰り返したが、かつては官僚と政治家が米国・GHQに牛耳られ、今は同じ構図でGHQが財務省に代わっただけに過ぎない。もう気がついてもいいだろう。こういう構図の可能な支配を脱却すべきではないか。情けない。

私は実はここで小澤一郎を語るのは控えようと思い、電源を切ったのだが、やはり意見として述べるべきだと思い直して、話すことにした。
小澤排除の財務省・マスゴミ・ひも付き政治家・米国・財界らの意向が現れたのである。それが、財務省主導で表面化したにすぎない。私は小澤シンパではない。しかし、現代では小澤氏はキイポイントなのだ。小澤を排除することは、とりも直さず、財務省の意向なのだ。小澤氏を生かすことが、我々の意向を主張することでもあるのだ。
でも、こういう特殊だとも思われている意見は、少数派なのである。それ程、官僚の読みは深いといえば深い。あざ笑っている顔が浮かぶだけに、悔しくてならない。立ち上がれ隣人よ。
常ずね、不思議に思っていたのだが、あんなに神武天皇の大和上陸に功績があった物部氏の祖・宇摩志麻治命は結局は島根の岩見に流されて、物部神社に祀られる。しかし、七世紀頃までは、物部氏は天孫族の重臣である。
一説では、反朝廷の物部氏は長髄彦と共に東北に逃れ、安倍氏となる、と言う。
すると、宇摩志麻治命は反朝廷だったのか、或いは裏切り者として、景行天皇のように、天皇の策謀に乗ったとしても、父親を殺害した長女の市乾鹿文Uいちふかや)のように抹殺されたのだろうか。しかし、思うのだが、天皇勢はよく策略を弄する。そのくせ、策略家を嫌う。何と自分本位の血筋なのだろう。
宇摩志麻治は岩見で生涯を終わったと言う。島根は反大和派の出雲族の本拠地であるはずだ。皮肉といえば皮肉な流れではないか。
ニニギ命が仮に江南から渡来したとして、多くの臣下を率いてやってきたに違いない。
それを考える意味で「史記」にも載る「徐福」の船団移動の状況を考えてみたい。

「史記・淮南衡列伝」には、紀元前三世紀頃、秦の始皇帝の不老不死の妙薬探しの命令で、斎の人・徐市(徐福)が、不老不死の薬を求めて航海している。<男女三千人を遣わし、之に五穀種、百工を資して行かん>と記している。
それを詳伝するように「櫨山記」では説明をしている。
「一千人の童男女と五穀の種子のほかに七族と言われる<航海・天文・呪術・作士(造船)・記録・薬司官などを五百隻に分乗させた>といい、<大鮫魚のために上陸不能と談じ、始皇帝に援軍を申し出た徐市(徐福)の二番隊には、総勢五百五十四人、医師・農業・鋳物師・酒造職人・大工・石工・金工・紙工・製塩製油の専門家を八十五隻の舟に分乗させた>と述べている。
因みに、降臨の集団と言えば、ニギハヤヒ命がいる。河内国河上のイカルガの峰に天降る。
その時の臣下を「先代旧事本紀」ではこう述べている。(但し、数が多いので氏姓は省略)

三十二人をして、並びに防衛(ふせぎまもり)となし、天降(あまくだり)し供(つか)へ奉(まつ)らしむ。
また、五部(いつとものを)の人を副え、従いて天降り供え奉る。と、五人。
そして、五部造(いつともをのみやつこ)、伴領(とものみやつこ)となり、天物部(あまつものべ)を率いて天降り、供え奉る。
さらに、天物部(あまつもののべ)ら二十五部(はたちあまりいつとも)の人、同じ兵杖(つわもの)を帯びて天降り、供え奉る。
その他、六人ら。
総勢、七十三人で天下る。
私はかつて映画に従事していて、其の頃、若い仲間が寄り集まって(新宿・風月堂やア~トシアタ~など)、シナリヲなどを見せ合っていました。
其の頃、私は松本俊夫の「映像の発見」に傾倒していて、彼は新左翼の映像作家で「石の詩」や「薔薇の葬列」でピ~タ~を起用したきわどい映像でした。シュウルや実存主義、マルキズムなとを映像化しようとした理論家でその影響でシュウルには少しのめり込みました。
元々、超現実主義は理論的には「ブルトンの宣言」が初めで絵画や詩、映像にええいきょうがありました。その基礎的な思考は「フロイドの深層心理学」があって、「夢の記述」が表現されていたように記憶しています。
ダリやブニュエル、其の先に現れた実存主義の作家達、映像作家では「ベルイマン、ゴダ~ル、シャブロ~ルなど」絵画では「ダリやキリコ、ムンク」小説では何と言っても「カフカの変身や城、審判」でしょう。

かつて、時間についての映像を考えていたことを、「ゆうこさんの30時間の観念」で思い出しました。
私も若かったので「時間と空間」についての思考錯誤を繰り返し、解からないなりにも「相対性原理」なホ~キングの「ブラックホ~ル理論」を齧っていました。多分、正しく理解をしていたか疑問ですが、多少の参考にはなったように思います。

そこで「30時間」の映像ですが、私は「ダリの時間の絵画」やブニュエルの「アンダルシアの犬」、ムンクの「叫び」に影響され、空間を一枚一枚、鋭い刃物で切り裂き、その無限で広いが感覚的には日常と変わることのない空間を描こうと提案したことを思い出しました。

「ダリ」の溶ける時間、それは24時間ではなく、はみ出した30時間を表現したいといっていたように記憶しています。「ムンク」と消えて絵行く空間、「ブニュエル」の女の眼球が雲間に消える月と同時に切り裂かれ、どろりとしたゲル状の液体の流れ出す様子がその根底にあったと記憶します。
今となると、いささか恥ずかしい思いがしますが、「ゆうこさんの超現実主義と30時間の発想」を見て思い出したわけです。甘酸っぱい青春のむず痒い思い出です。
「史記」は呉の太伯を記述している。

「周の大王(古公壇父)には、三人の継承者がいる。長男は太伯、次男は仲擁、三男は李歴である。李歴は優れた人物であった上、その子の「昌」は聖徳があった。大王は李歴を後継者にして、のちその子の「昌」を押したかった。太伯と次男は父の胸中を推し量り、荊蛮の地に落ち延び、文身・断髪して従属を表した。太伯荊蛮の地に亡命すると、この地を「句呉」と称した。荊蛮の民は太伯の義を慕い、太伯に従う民は千余戸に及び、彼を王として、「呉」の太伯となずけた。

また、上野武は「倭」と「太伯」の関わりを<日本の古代、倭人の登場>でそれを付加している。
「魏略」の記した太伯伝承は正史である「晋書・四夷伝倭人」で文身習俗の記事とともに「自からを太伯の後」として、その後「梁書」「北史」にも受け継がれた。さらに、宗末元初の歴史家・金仁山(1232~1303)が「通鑑前編」で<日本いう、呉の太伯の後なりと、けだし、呉亡(ほろ)んでその支庶(人達)、海に入って倭となる>と記したように、中国人にとって倭人は太伯の後裔とするのは常識だったと見てよい>と述べています。

さらに、南北朝の禅僧・中厳円月(1300~75)が1341年に著わした「日本紀または日本書」で神武天皇は呉の太伯の後だと説いている。
円月は朱子学も学び、自説を検証するために七年間、江南の寧波に渡り修学している。しかし、「日本紀」は当時の朝廷の信を得られずに焚書の憂き目に遭っている。江戸時代の林羅山はそれを惜しみ、世の中に「神武天皇論」として、公表している。

「東山僧・円月、かつて日本紀を修す。朝議協(かなわ)ずして果たさず、遂に其の書を焼く。余、ひそかに円月が意をおもうに、按ずるに諸書、日本を以って呉の太伯の後と為す。それ、太伯、荊蛮に逃れ、断髪文身し、交龍と共に居る。その子孫、筑紫に来る。おもうに必ず時の人、以って神とならん。これ天孫、日向高千穂の峯におりるの意か。当時の国人、疑いてこれを拒(ふせ)ぐ者のあるいは、これ有るか・・・・」と記述している。

林羅山の説は代々、息子・鵞峰、孫鳳岡(ほうこう)に世襲され、林家の家学として伝えられている。
渡来民が土着性の強い村に流れ着いたとしたら、そこでは命を賭けた争いが興るはずだ。それは村民がその地に対する執着が強いからである。その保守性は頑なで排他的である。

上対馬町の三宇田に伝わる「花宮御前」の伝承は、空舟(うつぼぶね)で漂着した「花宮御前」を村の有力者が御前を殺害して、全財産を略奪した話である。(ここにはもう一つ、祟りの逸話が要素としてあるが)
小浜市矢代では「手杵際」が行われ、羊歯を頭にかぶった男の神役が、侵入した外来者を殺して、財宝を奪うと言う行為を祭祀化している。
また、八重山の「マユンガナシイ」の祭りにも見られる外部から村に侵入した異人を警戒して殺害する話が伝わっている。

私はこの異人殺しの伝承は、村の人々のその土地を守ろうとする強い保守性から来るのだと思う。それは海人族より土地と格闘をした執着心や愛情があるからである。「山の民」や「農耕民」の宿命だろう。

私が二三の異人殺しの伝承を見つけたのは、野間半島の漂着の状況が知りたかったのです。「古事記」や日本書紀」には漂流者の殺害が少ない。しかし、自分の故郷を守るためには侵入者を排除するのは自然の成り行きと考えるのが順当だろう。そういう意識が私にはあって、調べ始めたのだが、海人族といわれる南九州にいはそういう伝承が少ないのだ。
その中で、印象的なのは野間半島の「馬祖伝承」である。

「馬祖伝承」は中国・江南の馬祖神信仰である。馬祖は女性で巫女と織姫の要素を含んだ神秘的な予言者である。
ある日、漁に出かけていた父と兄が遭難した夢を機織の最中に夢見てしまう。彼女の脳裏に移った光景は、兄は遭難でう海の藻屑となり、父だけが助かると言う予言であった。その予言は当たり、兄は海で亡くなる。
そこで、妹は海へ身を投げて、誓う。これから海で遭難した漁師を私が救うと。

その伝承が、「馬祖信仰」として漁師の間に広まっていったのである。それが野間半島の海人族にまで定着して言ったと言う。
「馬祖」と「野間」の語感が似ていることから伝承が伝わったと言う説が膾炙しているということだが、私は多少の疑念を持っている。
ただ、野間半島には、神吾田鹿葦津姫が海の巫女的要素の濃い存在だけに、「馬祖」との関わりが皆無とはいえないような気がする。これも江南伝承の一つであろう。

一体に先住民が保守的なのは自然の成り行きであろう。土地や森林の整備は自然との闘いで自然は幾多の命を奪って行く。つまり荒魂である。大和民族は自然を畏(おそ)れ、怒(いか)る。しかし、それらの尊い実りの源を守るために、原住民は異民族に対して、それを排除する意識が働くのは、自然の成り行きであろう。

私が南九州が先進的だと思うのは、そうした保守性が古代史から窺われないのである。
私はその原因が所謂、薩摩隼人が新石器時代から、丸木舟を御して航海をして、既に他民族、他文化との接衝があったからと推定している。そのために、彼等の思考法は柔軟であり、解放的革新的である。だからこそ、江南からの異民族を受け容れる器量を示したと考える。私は南九州が狭い地域に留まったのは、国見山系であり、霧島山系であったと思う。あの険しい山々がなかったなら、南九州の先進性は北九州にまで波及していたと考えている。彼等は海に執着したからこそ、他国への侵略の志向を排除したと思わざるをえない。誠に日本的な発想である。
私は時折、閃きみたいなものがある。そのことを私は大事にしている。

今日は天宇受売命と猿女君について閃いた。
天宇受売命の「天」は「地」に対するものであろう。「高天原」と「葦原の中津国」の対比でもある。
つまり、貴いことの象徴であろう。次に、「宇受」は貴いとか珍しい、また渦の意味であろう。そこには得体の知れないとか謎の意味、そして宇宙の星雲の象(かたち)を込めているような気がするのである。
天宇受売命にはそういう、神秘的な精霊の世界を背負った巫女の意味があると思う。

猿女君の「猿」は「さる」であって、獣の「猿」ではない。
魂には、古来より、「和魂」と「荒魂」があり、更に「和魂」には<幸魂>と<奇魂>がある。
幸魂の「幸」は<さち>であって、<さ霊(ち)>であろう。その<さ>とは幸福な状態、安楽で平和な状態を言うと私は思う。「さる」女の「さる」はそういう、安楽で平和な状態を言うような気がする。そうした状態に拘わる巫女が「猿女君」なのであろう。

是が今夜、寝ようとした時、閃いた項目である。後々好く考えてみることにする。
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