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安本美典の「邪馬台国と出雲神話」を再読。読み落としていた箇所があった。

「母理の郷(さと)」の条で、比婆の久米神社に付いて書かれたところがあった。安本も久米の意味には注目してはいないが、ここにはイザナミ命のご稜が祀られていて、天照大神とスサノウ命との関わりを論じている。
だが、私はここに、久米の存在を注目したい。上加世田市の土器・「久米」の刻印がされたことや、「古事記」に書かれた天津久米命(久米直の祖)との関わりはどうなっているのか、と言う課題を問題にしたい。出雲と久米はどこで繋がっているのか。皆目、検討が付かない。例えば、物部氏の宇摩志麻遅命が出雲に流された伝承はそれなりに理解が行くし、正史にも書かれている。
初期、皇孫の系譜には久米氏や安曇氏の存在は重要な地位を占めている。しかし八世紀にはその勢力は完全に失われ、久米氏は大伴氏にとって変わられる。その後、久米氏はその勢力は失われ、端役として表舞台に顔を出すくらいである。

私は比婆の久米神社(熊野神社)を追求してみたいと思う。

因みに、久米氏の伝承で「今昔物語」にこのような記述がある。
「久米氏と安曇氏は仙人のなるために修行をする。直に安曇氏は免許皆伝し、天に昇る。留年の久米氏も一年後に受かり天に昇るが、天から地上を久米氏を見ると、若い女が川に入り白い脛を見て欲情して落下する。といったものである。

ここで注目するのは、久米氏と安曇氏が同族か親しい種族として書かれていることである。通説によれば、久米氏は南九州に居住しているのに、安曇氏は北九州を本願としていることである。「今昔物語」では両氏は親しい交情があったことが書かれているのだ。推察すれば、同族の可能性も考えられる。
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神武東征についての倭の構造は、その勢力図は三つに分類される。

ニニギ命の系列・南九州勢力とニギハヤヒ命と天忍穂耳命の北九州勢力そして天穂日命の出雲勢力であろう。始めに大和に進出したのは北九州系のニギハヤヒ命である。そして、最後に大和に進行したのが神武天皇である。
2012.12.27 再読をする。
新しく本を読む気にならなくて、再読をする。今、風土記を読む。

因幡国風土記の逸文・因幡の白兎は古事記とは少々異なる。先ず、洪水によって兎が移住を決めるのだが、そこでワニを騙して島を渡る。丸裸になった兎を大己貴命が蒲の葉で癒してくれる。しかし、八百神の件はない。

これが何を意味するのか。調べてみようと思うが推理力が働かない。少し時間をおくこととする。
個の確立と現実主義、西欧人はそれを大事にする。自我の確立とは一見、重要のような気がするが、自我の本質は本当は解決していない。つまり生命の起源と一体をなしていて、生命の起源は個の起源(原子の起源)が解決していないので解かっていない。それを西欧人は「神」へ依存する。「神」が決めたドグマ(教条)を受け容れる合理性から出発する。一見明快のような気がするが、フッサ~ルの言う現象学括弧であろう(解からないことまず、解からないままにする。・・・神に委ねる)。
だから、彼等は精神を明確にして迷いが生じない為に、現実を突破できる。

しかし、東洋人は(特に日本人)、その事実を自分に受け容れる。宇宙が混沌として曖昧なように曖昧のまま飲み込む、これは「色即是空」の精神である。中国の「気」の概念も同様のカテゴリである。
日本人の根底には縄文時代から続く多神教の精神が潜んでいるからだと思う。様々な「もの」には物にさえ(九十九・つくも)霊魂が宿る。

現在、西欧人の思想が優位に立っているが、その現状が争いを生み、貧富の差を生んでいる。「個」を強調する考えは私は間違っていると思う。自分の能力を発揮すれば、結果は自分のものであると言う考えは一見、正しいように思われるが、能力は究極、「神」のものであろう。それを自分のものとする錯誤乃至は制度は矛盾に満ちている。
日本人はそれを「和」と言う曖昧な、矛盾を含んだ思想でおし進む。だから、隣人愛が生まれてくる。隣人の幸福も望む寛容さが生まれる。進歩が大事なのではなく幸福感が大事なのである。
私はその哲学の方が優れていると考える。人も大事だが、森も大事なのだ。そう考えると、歩みは遅いがもう土は濃くなる。環境も目を配るようになる。
大事なのは物質的に富むことより、精神的な幸福感こそ大事なのだ。
大穴持命は素兎(しろうさぎ)を助けるが、素兎は一説によると、白波のことを言い、海(朝鮮半島)らやって来たもののことであると言える。
そういえば鰐を騙すのは、新羅と百済の争いのたとえか、百済が鰐で新羅を兎・大穴持命に例えたのであろう。大穴持命の祖・スサノオウは新羅との関わりがあり、日本書紀にも述べられているように、大穴持命は八十神が先住民族だとすれば、朝鮮からの渡来人とも取れる。また、大穴持命は出雲とも関係があるのは言うまでもない。
また、八束水臣津野命は出雲国の国引きで、新羅の一部を引いている。この出雲は先住民(越の土蜘蛛をも含む)や黒潮の流れに乗ってやってくる南方族や江南族、そして朝鮮民族と多民族が集結している。その状況の伝承が「因幡の素兎」の神話を形造っていると言える。
今日、ラジオで小沢遼子が小沢一郎が以前、福田自民党総裁と大連立を提唱した時、反対したがあれは誤りだったと述懐していたが、私はあの時あの政策に賛成をした。
それは民主党が政権運営に何の対策も経験もなかったからである。小沢はそのことをよく知っていて、現実的な提案をしたのである。あれは技術論で本質的な提案ではなかったからである。しかし、民主党党内の松下政経塾と似非左翼の仙石の幼稚生徒創造力のなさで、小沢案は退けられた。その後、野田が推奨した自民党との連立とは本質的に違いがあったのだ。今でも、私は小沢の慧眼を評価している。

それに比べ、安倍氏の経済政策を評価するむきがあるが、それは彼の思惑が見えない人達の見解である。私もこの構造的不況は越えなければ成らないとは思っているが、この施策は熟慮して重層的多面的に考えなければ必ず失敗する。
安倍の考えている政策は、財務省よりの消費税を上げる為の口実作りにすぎない。安倍と麻生が考える小手先の政策は目に見えている。我々はそこをきちんと見据えて、より有効な方法を見つけなければならないのだ。今、私にもその専門的な知恵を具体化する意見を持たない。そのためのシンクタンクや議論。経済界、学者、評論家の意見を熟慮すべき段階だとしか述べられない。それ程、これは構造的な世界規模の議論であるのだ。
安倍の取り巻きで妙案を引き出す軽い懸案ではないのである。
日本国民は心して、本心から自分自ら苦難を承知で改革を自分から始めるべきである。
2012.12.20 日本は。
よく日本は社会主義的だといわれる。それは日本人の意識の中に弁証法的思考性があるからで、「和」が象徴するように妥協が根本にあることによる。官僚制がよりよく作用すれば、日本の統治機構としてはより日本的なのだが、現在の官僚制は偏った悪しき官僚制なので、私欲が多いだけに改革すべきであるのだ。良質の民主主義が確立されれば、私は官僚制に全く反対の反対論者ではない。この米国異存の利権主義の改革して、白蟻退治と独立法人をかんぜん撤廃すれば、国民の福祉は潤うはずである。しかし、甘い汁を舐めた白蟻はその」利権を放すはずがなく、閻魔様が力でねじ伏せるのが得策なのであろう。それ程、ややこしいしがらみでなりったっているから、始末が悪い。
纏まった書物を読む気がなく、中西進の「神話力」に目をとうしているとこんな文章にいきわたる。
「ほのか(水へんの難しい字でパソコンにはない)にして牙を含めり」

「牙」をきざしと読みます。こんな読み方をしりません。しかし、「芽」を読むと「め」ですがつまり、これは、地面から植物の生命の兆しが出ることです。これは意味からすると、「きざし」でしょう。

もう一つ、こんな文章もあります。
「葦牙(あしかび)の如く萌え騰(あ)がる物に因りて成れる神の名は、宇摩志阿斯珂備比古遅神(うましあしかびひこじのかみ)」

この葦牙は「葦が今、萌え出る状態」のことを言う言葉です。葦は一部では、不毛の地に生える草を言う説もありますが、実は古来、生命力が強く不思議な霊力を持つと言われています。
「宇摩志・・・」は非常に生命力の迸る男の神」と言う神様のことです。

もう一つ、菊理媛神が坐(い)ますが、「くくりひめ」と読みます。「くくる」とはもぐると言う意味もあり、「菊」は手偏を付ければ、「くくる」と言う意味になります。黄泉の国に潜り込み、現世にそれを伝える巫女と言う意味でしょう。

古代語は意味深く、非常に興味ある文字です。
才才能はあるが、「うすのろ」で遂には、それが原因で命を落とすことになる。

鈍感で日頃、行動が鈍い。運動神経が劣悪で、期末の試験では常に成績は一番である。しかし、何故か信望がない。服装は平凡でお人よし、学友と一緒に行動しない訳ではないのに、目立たない。二番目に成績が良い同僚は頭が良いだけに立ち回りが上手く服装もいつも変わっていて、学友の気を引くことを怠らない。仲間作りも巧妙で多岐にわたる。何にもまして、利害関係に敏感だから、現実的な選択も的を外さない。だから、学級委員としてはいつも成績二番の男が選ばれる。
しかし、この男は技術的には優れ、表面的な功利に長けているので、現象としてはクラスに幸をもたらすように見えるが、実は技術に優れているだけで、本当の幸を齎すことはない。自分が窮地に追い込まれれば、いの一番に逃げ出す類である。

通俗的ではあるが、これが創作の基本であろう。そういう内容が今は多いのではないか。つまりは、人々の深層心理の中にそういった現象があるので、つい引きずられてしまう。本当に困ったものだ。
2012.12.11 出雲風土記
「出雲国風土記」の奇怪な伝承。
<古老の伝えていえらく、昔、或る人この処に山田を佃(つく)り守りき、その時一つ目の鬼来たりて、佃くる人の男(おのこ)を食いき。その時、男の父母(かどいろ)、竹原の中に隠りて居りし時に
、竹の葉、動(あよ)けり、その時、食われる男、「動(あよ)、動(あよ)」と言いき。故(かれ)、阿欲(あよ)と言ふ。神亀三年、字を阿用(あよ)に改む。

私なりの解釈。これは農耕民族と異民族・山人、蹈鞴(たたら)師の戦いでしょう。
鬼とは異民族で、一つ目とは鍛冶と言うのが古来からの名称です。律令制が進み、朝廷側の政策は戸籍を確立し、人民を支配を始める。その時、朝廷に従わない人々は排除する方向に進む。それに逆らうものは征伐する。鍛冶屋はその従わない(まつらわぬ者)であり、悪人である。だから、貶めて悪評を喧伝する。この伝承はその典型でしょう。

因みに、斐伊川に合流する赤川と阿用川の流域にはモリブデンが産する。上記の伝承はそれに関わる伝承なのかもしれない。
右肩上がりの世の中は終りを告げている。大量生産、大量消費のシステムはいずれ完全に破綻するのは容易に理解できる。又、生産性のない第三次産業が先行すれば当然行き詰まるのは自明の理である。

基本となるのは第一次産業なのはいうまでもない。基礎が確かでなくては全体に支障をきたす。経済はバランスが大事でそれを管理できなくては崩壊に向うと、私は確信している。自由経済はその底で倫理性が要求されるのだ。自由には責任が不可欠だとは、旧来の哲学ではあるが、今、その観念を再確認すべきである。
「ちさんちしょう」(私は地産治商と表現する)はその原点であろう。産土とはよく言ったもので、足元
の生活を等閑にする欲張った思考は不平等を生み、貧富の差を増長させる。その差こそ崩壊を内包しているのだ。

人は元来、平等であるはずである。神のものは神へ返えそうではないか。自然のものは自然へ。人間のものは人間へ還元しよう。その基準は努力以外にない。その地、その地で決めた約束事が掟となる。地方が自立性を持ち、他の地方と関わりを持つその基本がなければいずれはその国は分裂に向う。今、地方分権こそ大事な要綱なのだと私は考えます。
古代史を読んでいると、奇異な文章に出会う。

一つ残酷で奇怪な伝承を紹介しよう。

「彩の帛(あやのきぬ)」を贈った高裕の人は、美女・万の子の閨(ねや)にやって来て初夜を向える。女の閨からは「痛きかな」と言う叫びが三夜聞こえてきた。親は「いまだ効(なら)わずして痛きかな」と教えて放置すると女は初夜、鬼に食われてしまった。閨は血が流れ、小さな白い指と頭が残されていた。その上、「彩の帛」は獣骨となり、車はグミの木となって投げ出されていた」

私は解釈に困る。少し資料をあたり、真意を探りたいと思う。
ただ、この文章で、閨に小さな白い指と言う表現が妙に印象に残る。生死を乗り越えた妖幻さがあり、残酷を通り越して「能の幽玄」の世界さえ感じさせる。
それに比べると、「彩の帛」は獣骨や車は「グミの木」と言う表現は突飛で具体的過ぎる気がする。
南九州の土地はシラス台地です。火山灰の堆積した痩せた土地であると言う。
約BC2万2千年には姶良カルデラ大噴火があり、約BC11000年には桜島大噴火、約6300年の
鬼界カルデラ大噴火で形成されている。
南九州の縄文時代は火山灰大地である。しかし、興味あるのはそんな不毛に近い大地を南九州の人々は土地を大事にした。
ある書物にはこうそれを表現する。

弥生人(渡来人)と縄文人(先住民)の間には、<土地>に対する考えに大きな差がある。
弥生時代、墓を造るのに「土地」を削るのに対し、縄文時代(アニミズム・多神教)は「土地」を傷つけることはなかった。と、記している。

エリア~デ「神話と夢及び神秘」
<我々みなの母を農作によって傷つけたり、切ったり、引き裂いたり、引っ掻いたりするのは罪だ。私に地面を耕せというのか。刃物を取り上げて、私を生んだ母の胎内に突き立てることが私に出来るだろうか。もしそんなことをすれば、私が死んだ時に、彼女はもう私を二度と自分の胎内に受け容れてはくれないだろう。鋤で掘り起こし、石を取り除けと、私に言うのか、母の肉を害して、骨を剥きだすことが私には出来るのか。もしそんなことをすれば私は又、再び生まれてくるために、体内に入ることが出来なくなってしまうだろう。私に干草にする草を刈り取り、それを売って白人達のように金持ちになれと言うのか。自分の母の髪を切り取るような大それたことが、どうして私にできようか。・・・・北米・原住民、ウマチィラ族の予言者の言葉>

現代でも地方に行くと、農民が土地を命と思っている光景を聞く。それは産土となり、神社の形成の母胎となって行く。
私はその事実は日本民族の源が、海人的要素と山人の魂が融合しているのを見る。多分、日本人の基底にはその精神が継続され、今に生きているような気がしてならない。
大嘗祭は先ず、廻立殿で新天皇は天羽衣を纏い湯浴みをする。これは禊と真床追衾(天羽衣)の神事である。天孫降臨の再現と言っていいだろう。それからいくつもの神事を継承して、現人神となる。
その時、廻立殿には八人の采女のうち二人残り、その独りは最姫(もひめ)として、天皇の介添えをする。

「丹後風土記・逸文」では八人の天女が沐浴をしている時、和奈佐の老人が羽衣を隠してしまう。その天女がその家に留まり、酒を噛み、霊薬として売り出して老夫婦は資産家となる。すると老夫婦は天女を追い出してしまう。天女は放浪の据えにナゲキの村に行き着き、そこで暮らす。その天女が豊宇賀能売命である。

又「近江国伊香郡(いかごぐん)・与胡郷(よごごう)伝承」では<昔、余呉湖に「天の八女」が白鳥となって、天より降りて湯浴みをしていた。伊香刀美(いかとみ)はひそかに白犬に命じて一人の羽衣を盗む。帰天が出来ない天女は伊香刀美の妻となり、意美志留(おみしる)・那志登美(なしとみ)の兄弟と伊是理媛・奈是理媛の姉妹を産んだ。しかし、後に天女は羽衣を探して天に帰った。

「江家次第」
八姫の中、二人相ひ分かち、その海老も鰭桶を担ぎて御前の短帖に置く。

天の羽衣は一人の天女が降臨して現人に奉仕する。多分、天女は天照大神の分身であろう。新天皇にニニギ命に化身して、その介添えをする役目を任じさせる為の神事であろう。

政党乱立を見ていると、混乱期には我々は留まるところ、意見が多数にわたる。これは単なる現象ではなく、我々の深層意識に関わることなのだ。アニミズムは古来、我々の信仰する紙魚のような意識としてこびり付いている。「倭・和」こそ我々が空気のように心にこびり付いている自然な観念なのである。西欧人はアニミズムを過当な宗教の始原と言う。しかし、民主主義の根本は対話なのだ。彼等が幾世紀かけてたどり着いたダイアログ(対話)は日本人が古来から身に着けていた哲学である。「和」とは大いなる「妥協」で清濁併せ呑んだ末の決断と言える。この哲学的妥協こそ「平和」に通じる優れた行為である。最悪、話し合いの終結が争いに発展するが、西欧の合理的判断とは異なり、秩序ある争いなのである。

愚かな米国追従主義者が二大政党制などと言う不自然な選挙制度を定着させようとして、小選挙区制を設定してしまったが、このような制度は必ず破綻をきたす。それは我々の深層心理の中に多神教の観念が沁みついているからなのである。数千年かけて、母系の隠れた思想形態(古事記・日本書紀に現れる母系の先住民の血の継続はそれを物語っている)は築かれてきた結果、我々は古来より「真の和」を隠す習慣を養ってしまってきている。
我々は真の民主主義者であり、二大政党制などと言う浅薄な観念で統括されない、強靭な対話の民族なのである。私は今度の政党の混乱を見ていて、嘗て私が小選挙区制に反対したように、国民性を鑑み、多党制の選挙制度を見直すべきである。進歩は緩やかになるが、それが民主主義というものだろう。「真の対話」こそ真の近代国家の理念なのではあるまいか。

因みに、ギリシャからドイツ観念論・へ~ゲル、資本論の著者・マルクスの方法論は弁証法である。弁証法の本質は「対話」である。弁証法とは関係の哲学であり、単一の哲学より進んだ多数の哲学である。
私と言う存在は、他人があるから認識されるのであり、両親があるからこの世に存在する。時間と空間をそうして認識する方法は、日本人が縄文時代から自然と見に付けている、信仰に近い観念度だと私は考えている。

若い頃、新日本文学会で花田清輝の講演があり、花田が「矛盾を矛盾のまま止揚する」」と述べていた。その頃はその意味が解からずにいたが、今は、花田清輝の素晴らしさが理解できる。何と、日本的な発想であろう。西欧的な合理主義ではなく、多神教的な混沌を明快に論理化した。私は現代の混沌とした世界を救済出来る卓越した論理だと思う。

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