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マスゴミが運動部の担当顧問やコ~チなどの部内暴力を喧伝している。桜中学のバスケットコ~チも暴力で生徒が自殺したことが初めで、次から次へと同様な事件が揮発されている。マスゴミはここぞとばかり暴力を振るった担当者を弾圧する。

何時も私は思うのだが、マスゴミの先見性の欠如、想像力の貧弱さにある。彼等は基本的な理念を持っていないから、その場その場の状況で評論する。予め、それらを取り巻く状況を把握していないし、分析の出来ていない。だから場当たりな評論しか出来ない。

今、必要なのはマスゴミ内の改革である。マスゴミは独立性を確立しなければならない。現在の広告収入に頼った報道はスポンサ~にだけ顔を受け結局、スポンサ~を擁護する行動しかしない。内部で正論
を唱える若手がいても、陰険な形でその人間を除外してしまう。上層部には骨のある人間はいない、否、そういう人物を排除してきたので公正な報道組織が育たない環境を作り上げてきたのだ。

多分、そこには上層部の国家権力と結びつく力が働いていて、組織的に国家権力に都合のいい組織が作られているのである。

国民の大多数はそれに乗せられ動かされる。大体が教育も先導もそれに対応する人間達を育成しているのだから、一部の良識は飲み込まれ力になる前に沈静化をさせられると言った状態に陥るのだ。これではわが日本は永久にミスタ~Xの思うがままである。

誤解なきように述べれば、究極の暴力に私は反対ではない。現在行われている暴力はあれは私憤である。感情的な憤りは何の生産性も向上も齎さない。残るのは恨みだけだ。絶対的な弊害を突き破るのは力である。
しかし、そんな力が安易に現れるはずがなく、それを行使するときは自らも究極の覚悟をしなければ成らないのだ。自ら安泰を約束された地位を投げ打って行使する暴力を私は否定しないのである。

現在は命を張るような状況は現れない。しかし絶望にあって、人は聖人君子ではいられない。無抵抗主義という手は在るがそれは一般的ではなく、通常は抵抗権は温存されるべきなのだ。
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涌井さんの緑化運動は素晴らしい。その中に「場所を愛し、その自然を愛す」の金言は古代の産土、氏神信仰であろう。都会は土地が高い、屋上に木々を植える。この発想は本居宣長の言う「大和心」の発現であろう。
私は涌井雅之さんを支持します。
公務員の退職金が減額されると言う。年金もそうだが、長期にわたる約束事は慎重でなければならない。賞与が状況によって賞与が減額されるのは理解が出来る。しかし退職金はその額も多いし
受給者も計画を立てているものだ。それを簡単に解消する思考法は傲慢か精神が衰退しているかである。

今、教師の退職金が問題になっているが、こう言う時には官僚は「教師は聖職者」とのたまう。敗戦後、彼等は教師を他の職業と平等に扱う政策を取ったのではないか。そのため教師の質が凋落したと私は思っている。それは官僚や米国の意図したことであったのではないか。それを今更、教師を「聖職」よばりは片腹痛い。これこそ「天に唾する」行為である。

このような狡猾で自己保存で凝り固まった人間達に国を任せれば、国が傾くのは目に見えている。
私はもう諦めているが、若い人たちはそれらの行うことを熟慮すべきだ。大体、君等は内向を押し付けられ、「オタク」か自分本位の「カタワ」に育てられたのだから仕方がないか。
良くも悪くも私が学生の頃は自分の主張を体で表現できた。しかし、「破防法」施行以来、エネルギ~は舞い行させられ、身体を張って主張を出来る若者は皆無になった。不幸なことだ。

教師が平均化され、聖職意識が希薄になったのも「うべ」なるものかである。私は期限内退職は仕方なしとり解する。言えることは官僚や政治屋はエリを糺(ただ)せと言いたい。
若者の行動を見ていると、自分の視点からが強く感じられる。東北大震災に於けるボランテア精神は賞賛に値する。しかし一方で電車の中では老人であろうと妊婦、障害者が立ってても席を譲ろうとしないモラルの欠如もまた現実にある。そして、電車の中で子供が騒いでいても窘めもせず平然をしているし、靴を脱がさずに車外を見させて周りの人の迷惑を顧みない親が多すぎるのも事実である。

これらは個人の利益を優先するからであろう。自分が安泰なら他人はその次だと言う悪しき個人主義がそうさせているような気がする。敗戦後、様々な改革が施行された。米国はこういっている「十四歳の日本人にアングロサクソンの民主主義を教えてやる」と公言した。そのうちの一つが「教育」で徹底的に西欧個人主義を叩き込まれた。
我々の愚かな大衆主義は確かに弊害を齎した。帝国陸軍とマスゴミに踊らされて戦火への道へ突き進んだのは寄らば大樹の思考のある国民は愚かであったのだが、かといって、日本人が持っている「和」の精神は最悪ではないのだ。さかしい米国はそれを熟知しているがゆえに逆手にとって、「お上」に弱いと言う群集性を利用した。中流米国家庭を宣伝し、個人をことさら強調する教育を徹底した。そして一方、公共に反抗する若者のエネルギィを摘み取り、平和で大人しい人間像を要求したのだ。骨抜きになった若者は去勢され、所謂「オタク」たちを創り上げた。内向きな他人に興味を示さない良い子が完成したのだ。家庭は只管、その内向きな良い子を勉学にいそしませ、国は丸バツ制の知識優先の教育に偏重させた。

その結果が「他人」が意識の外にある自分本位の人間に育つと言うわけである。こんな世の中は権力を持った者どもの言いなりの世の中である。操られる世の中がこうして出来上がるのです。

教員が退職に際して、教育精神を選ばず、自らの経済的な安楽を選ぶ意識が蔓延るのは、自明なことなのだ。国の福祉政策がまやかしなのだから(私は年金が長期にわたる設計なのだと思っていたが実は国の施しなのだとは努々思わなかった)、教員が聖職も何も関係ないと考えても咎められるイワレないだろうと思う。そう言う思考の国民を創り上げてきたのだから、お役人が教師を非難するのは実は「天に唾」をはいているだけなのだ。

もう群集主義は止めにしよう。私達が意識して、本来継承してきた善き「和」の精神を復活させよう。
何も私は戦前の帝国主義に戻ろうと言っているのではなく、3・11の時に発揮した融和の精神を具現しよう説いているのだ。それを民主主義の原則に照らし合わせて考え直そうと言っているのである。
相撲に外国人が目立っている。私の友人も大体が是認派だ。

私は相撲は神事であり、日本人のアイデンティティに関わると思っている。だから、私は愚かにも相撲に国籍が日本人でなければ認められない。ただ、日常生活に関する移民は是認できる。国際的には賛成だが、国際化には反対なのだ。

日本人は多神教であるからあらゆる存在に精霊を見る。しかし、それゆえに、産土、自分の生まれは土地を非常に大事にする。氏神とはその意味である。その氏神に関わることは妥協してはならない。相撲については詳細を語ると膨大な量になるで割愛するが、太古から積み重ねてきた精神的遺産である。その事実を大事にすべきなのである。

主体性とは意固地と違う。自分とそれを位置つける精神的遺産(これが伝統なのかもしれない)は他に譲っては成らない。だからこそ、私は相撲は愚かにも日本人だけで行うべきだと考えている。

相撲の神話で野見宿禰と当麻蹴速が相撲を取るとある。史実では、続日本紀では大隅隼人と薩摩隼人が相撲を取って大隅隼人が勝ったとある。
その祖神は、多分、手力男の神であろう。天岩戸神事で天照大神を黄泉からこの世に連れ戻した呪者である。
苦労して読んだので、ほっとしているが、何せ大書である。それに引用が多岐にわたり、完全に理解したとは言いがたい。

大和岩雄の結論を記しておく。
「ふること」の語りは、女達が歌に加えて伝えてきた<語り>である。従って、その<語り>を「書ふみ」にした「原古事記」(712年頃)は日本最古の古典だが、天武朝の内廷でワニ氏・息長おきなが)氏・尾張氏などの后妃出自氏族と大海人皇子を養育した大海人アラカマや大海人皇子の湯沐令(ゆのうながし)であった多品治(おおのほむじ)など、壬生(みぶ・皇子を養育すること)に関わる人物が「原古事記」の成立に関与している。
「古事記」は文字以前から私達の祖先の伝えてきた「ふること古言」「かみこと神言」の語り、歌物語を「ふみ記」にした日本最古の古典で或いは、最終成立年代が平安初期(812~4)であっても{これを現存古事記となずけ、原古事記(712)を元本とする}、「古事記」としての価値は変わらない。

注・古事記には数種(多氏古事記や一古事記・あるこじき等)あるが、この場合,古来から巫女達によって語り(歌い)継がれてきた「原古事記」と様々な事情で812年頃編まれた「古事記」(これを大和氏は現存古事記と言う)がその頃の大歌所の大歌師(後宮・巫女の集まりの特殊部屋、その管理者が多氏・おおし,歌の補助者が柿本人麻呂です)であった多人長(おおひとなが)によって再度編纂されたと言う・・・・これが大和岩雄説です。
麻生氏が又、暴言を吐いた。と言うより、本音を漏らした。世間は安倍・麻生コンビを期待しているが、麻生発言で解るように、高齢者切捨て(弱者切捨て)を底根で隠しているのは歴然としている。景気をよくする努力は国民と言うよりは消費税を上げると言う目的のために行っているように思う。そのための財政出動は(公共投資のばら撒き)非常に短期的な発想で世界経済のバブル崩壊化や国内経済の動脈硬化状態であろう。経済界は安倍政権の景気回復策では給料が上がらないと論じている。彼等は自分の保全に汲々として固い殻に閉じこもってそこから出ようとしていない。

私は彼等が蓄えている内部留保を引き出す政策が必要だと思うが、安倍も企業側も自分のことを優先して動こうとしない。まあ、世界経済のバブルが崩壊している現状(この状態は根が深い、先進国はあぶく銭を稼ぎすぎたのだ。戦争・付加価値だけの金融・生産性のない官僚主義つまり無駄使いなど)、その悪しき集積が世界を狂わせているのだ。

今、大事なのは無私の社会還元なのだが、勿論それに手を付ける勇者は周りを見回しても皆無である。革命以外考えられないのだが、それもまた望むべくもない。日本においては、国民は骨抜きにされている現状ではっらくだが針の穴を通るより難しい。安倍政権は言わずもがなである。彼は財務省(子分の外務省・厚生省・経産省など)や米国の操り人形なんだから言わずもがなである。ああ、公共投資(内需拡大と言うお題目の官僚利権と大企業の焼け太り)、大店法、破防法、教育法改正、悪行が横行する官僚と政治家、経済界の談合政治は米国に操られて国民を弱くしている。

それらを鵜呑みをしている安倍政権はこの財務省の発案した経済政策の後に来る財政の超のつく財政膨張の対策をどうしているのだろうか。消費税のアップと社会福祉の切捨てで乗り切るに違いない。
昨日、65歳の老婆が「氷川きよし」のファンクラブを止めて動機を「年金」の国による削減で会費を払えず、脱会したと告げている。老婆のささやかな楽しみを奪うこの状況はいいとは言えないだろう。その状況は益々加速するに違いない。けれど、彼等はその減額を抗議することはないだろう。
ラジオで松島トモ子が重度障害者のメデイの差別意識に反抗して、池袋にある障害者の経営成功例を滔々と述べていた。この人は天然であまり知的とは言えない。

勿論、障害者が経営に成功するには並大抵の努力でないのは理解が出来る。そのことに異論はない。しかし、この会社は首になる従業員も多いという。それは障害者である社長の信念と言おうか怨念と言おうか「才能のない奴は辞めろ」だそうだ。
まあそのとうりなのだろうが、しかしこの才能を事業の手段としか考えない考え方には異論がある。この社長は猛烈社長で「秋葉原にあるメイド喫茶にたいな店」を経営していると言う。私はメイド喫茶を全否定をするわけではないが、それを媒介にして過度の経営で再生産する方法が行過ぎることにある。
「才能のない奴は首だ」と無慈悲に解雇するその精神は「悪」であると思う。
「才能」はこれほど曖昧な概念なくそのことを評価すれば、資本主義では個人的な「富」に還元される。

私の持論ではあるが、才能は本質的に「神」に属するもので、「個人」には還元してはならないのである。評価できるのはそこに投じられる「努力」なのである。
例えば、縄文時代はその富の分配はその対象に応じて配分される。幼児・成人、男・女その立場にあった仕事に従事する。才能はそれ程評価されていない。ごく当たり前の存在としてその最善を求められるのである。その成果とは関連を持たせない。いくら優れた仕事をしてもそれは部族のものでその個人のものではないのである。
未開の野蛮な状況だからそれが可能だと言われているが、本質的にはその論理は優れたものであることに違いがない。

その猛烈社長はそのことを履き違えている。儲けた収益は、例えば障害者施設の建設に当てるとか社会福祉に還元するはしていない個人の財産として蓄積されていると言う。
この事実は、私から言わせれば「この時代の悪」である。評価は出来ず、否、否定される存在である。

それを松島トモ子は滔々とその素晴らしさを語る。もう少し、物事を深く考えろと言いたい。

太安麻呂が712年に「古事記」を書いたとされているが、太氏は「古事記」に反映されている大歌所の大歌師を任じていて、後宮の巫女を統括していたとされる。
その太氏(多氏)の祖は神武天皇の次男・神八井耳命である。神八井耳命は弟の命(スウゼイ天皇)に皇位を譲り、自らは祭祀を司った。つまり、弟を補佐する司祭を任じたことになる。代々太氏はその祭祀をたまわる氏族であった。太安麻呂が「古事記」に名を連ねるのはそういう経緯があるといえる。
ただ、当時、太安麻呂は民部省に藤原不比等によって抜擢されていて、「古事記」編纂に従事する余裕はなかったとされる。それが「古事記」を疑いの目で見られる原因になっている。又、稗田阿礼が猿女君の末ということで出来すぎの感があり、その疑惑に拍車をかけている。
大和岩雄によると、古事記には「現存古事記」と「原古事記」があり(その他、一古事記・多氏古事記等がある)、「古事記」と名の付くものは九世紀に多朝臣人長(おおのあそんひとなが)が作成したとする。その台本になったのが「原古事記」だと大和岩雄は述べている。
私は大変興味ある説だと思うが、神武東征と言う視点から、「古事記」の天孫降臨の際の笠沙への先導が天忍日命と天津大久米命によっている説話は両氏が同等であるに拘わらず、「日本書紀」では天忍日命にの臣下とされている。大和説よると、「日本書紀」のほうが正しいということになるが、「続日本紀」などによると、八世紀始めには、薩摩の隼人征伐には大伴氏が参加していて、政治的な意味合いから「日本書紀」の記述になったと思われ、「古事記」の記述の方に真実が窺われる。どうも「古事記」にもそうした混同があり、大和説が全面的に正しいとは思われない。
2013.01.14
「古事記」編纂に当たって、大和岩雄は興味ある文章を知らせてくれる。

<天武十年三月の「帝紀」「旧事」は、川島皇子、忍壁皇子、広瀬王、竹田王、桑田王、三野王と二皇子・四王が大極殿の天武天皇の所に集まり、大錦下・上毛野君千、少錦中・忌部首、少錦下・安曇連稲敷、難波連大形、大山上・中臣連大嶋、大山下・平群臣子首らが呼ばれ、天皇の詔を受け、中臣連大嶋、平群臣子首らが、執行し、記録したと見える。
「原古事記」は、天武十年の正史編纂に刺激されて、天武天皇の内邸(後に後宮)の女性達が語っていた「ふること」を「記(ふみ)」にしたのが、「原古事記」である。と大和岩雄は説く。
天武天皇の後宮の女達とは、明らかに大歌所の巫女達であり、彼女達が伝える「天語り」や「神語り」の「歌」を言うのであろう。「古事記」には、太古より伝承された物語りを巫女が語り伝えている。彼女達の霊力と類まれな記憶力が様々な伝承を語り伝えたに違いない。それが「古事記」に反映されているのであろう。
天皇は古代語では「すめらみこと」と言います。これは、天(すめら)御言、ないしは御事です。砕いて言えば、天からの直言でしょう。神宣や霊感を言うのかもしれません。神と人の仲立ちをする聖人が天皇の意味でしょう。ここに、天皇がその本質に呪術的な能力を要する意味が見られます。それを補佐するのが、仲皇命(なかつすめらみこと・高貴な女巫女、血族に近い皇族の巫女でしょう。何か皇族に近親結婚を是認する傾向は内包されているのが理解されます。近親結婚は異常児が生まれるが、大天才の出生の可能性もあります。多分斉女・大和姫はこの辺に意味がありそうです)、そして仲臣(なかつおみ・これは有名なのが中臣であり、忌部臣、多氏、春日氏、和邇氏などです)ですが、古代において、呪術的要素が今で言う最先端科学の要素であったのですから、こうして霊感が重要な意味を持っていたと、いえます。

御言(みこと)持ちの意味を、私は「霊感・神の言葉、太一(道教)・宇宙原理」と言う表現であると思います。
今、「古事記成立考」を読んでいるが、一説に「古事記」が女性の記述が多いとある。

梅沢伊勢三はこう記述している。
「古事記」の態度は、多情淫奔好色とみられる歌謡や物語りに対し、特に善悪の反省を加えることもなく、人間の自然的性情に何らか批判もせず、共感と同情を見せているが、「日本書紀」はそれに対し、様々な批判を加え、倫理的規制を加えようとしている。この対比は著しい。」

武田祐吉は、古事記が女性に味方しているのではないかと論述し、女性によって語られているような書き方である。

「古事記」は大歌所に所属している巫女の「天語り」や「神語り」がその主流を占めていると言い、稗田阿礼は天宇受売命の後裔・猿女君の末、稗田氏が暗誦しているというのは、それを稗田阿礼が象徴的にひょうげんしているのではないかとしているからである。

一考を要する記述である。

古事記と日本書紀の大きな分類

「古事記」~女性的、大和心(本居宣長)、自然的人間観、母系を重視する。
「日本書紀」~男性的、漢心(からこころ)、大陸的倫理観(儒教的)、父系を重視する。
2013.01.11 私の戦後史。
若い頃、父親について行って、国会議員と先ず握手をする。だが殆どの議員はその握りが軽い。その中で、強く握ってくれたのは、当時の北山愛郎さん・社会党であった。しかし残念なことに弱者の頼りになる議員はその勢力は弱い。大体が二世で地盤を受け継いでおり、いいとこのボンボンで金持との血縁が多い。こんな議員に庶民の気持ちは真から理解できるはずもなく、平和に向う日本は大天才は望むべくもない。要するに、駄目な息子を持った親の心境なのだが、その親も大体が愚鈍で少さな要望に捉われて他人のことなど思いやる度量のない。つまり、程良く統制されて、扱い易い素直(アホ)な人間達を育成してほくそえんでいるのだ。施政者は良く人心を掴んでいて、「悪貨は良貨を駆逐する」を良く理解していた。
どうあっても私達弱者は、施政者に太刀打ちできない仕組みの中で、奮闘するより方法がないのである。糠に釘を打ちながら、運動を続けるには余程の根性と忍耐力が必要なのだ。私はそれに負けたのだが、親父のような身に受けた傷の痛みを引きずりりながら動物的に動くしかなかったと思う。
でも、後悔してももう遅い。今、私が親父と家族に出来ることは、私達の戦後史を他人に伝えることだと思っている。
嘗て、全国占領軍被害者遺族連盟の運動をしている時、北村さんと言う長期信用金庫の戦後の引揚者預金凍結の預金回収の運動をしている時、私達も共闘を汲んだときがあった。この時私達も公安に付けねらわれていた。が、しかし、それだけでなく、戦後の負の遺産である様々な施策を当時、それらの事項を報道記事にしていた「赤旗」と「内外タイムス」から取材を受けていた。私は「内外タイムス」の記者内藤さんも又、公安におわれていた。それは彼が、「ロッキィド事件」に関わる二三の人間の不審死を追っていて、それが政治の主中枢に関わっていたので公安が動いていると語った。そこに当時裏で権力を握っていた謀右翼の秘書が又、「内外」の記事を妨害していたのだった。勿論、不審死に纏わる記事だった。それらが渾然として、私達も監視がついていたのであった。
「赤旗」の編集者と「内外」の内藤さんは共闘を組んでいて(この時、「内外タイムス」は謀右翼との新聞社乗っ取り裁判に勝ち、首にされた記者が復帰した時で内藤さんもその一人だった)、「赤旗」の編集者が内藤さんに対して「謀殺を気をつけろ」と忠告していた。
今、「内外」はエロ新聞だが、その時は記者に気概があって良い記事が多くあった。
戦後の様々な状況の中の一コマだが、私もそんな中で動いていたことを今、はっきりと思い出せる。ただ、私達は総勢四万人ほどの少数派なので、政治家は米国の圧力に屈していて、大手マスゴミは報道を控え、国民は無関心を装い結果として、私達の補償法制定運動は行き先の暗い暗礁に乗り上げ、方向を失って久しかった。
私は古代史に興味を持ったのが、60歳を過ぎて遅すぎたので、先ずは神武東征をきっちりと私なりに解明したいと思っているので、「古事記成立考」を全面的に調べるわけにも行かず、久米氏がらみの事項を掘り下げている。
著者の大和岩雄氏は現存する「古事記」・特に太安麻呂の序文は偽書であるとしていて、成立を九世紀だと首相している。ただ、久米氏に拘れば、「日本書紀」より古いことが証明出来る。
ニニギ命が日向の高千穂の襲から笠沙に行く行程で、天忍日命と天津大久米命が同等で先導している。しかし、「日本書紀」では久米氏は大伴氏の臣下だと記述している。この記述は明らかに政治的な思惑が見え、八世紀には大伴氏が優位にあり、久米氏の衰退が現れているに過ぎないことが明らかだからである。
その上では一概に古事記が「日本書紀」より新しいとはいえない。多分、大和氏の言う「原古事記」成る書物に記載されているのだろうが、現存する「古事記」は混交した書物だと言える。

ただ、大和氏の考察は資料豊富で説得力があり、興味は津々である。
2013.01.08 [
大和岩雄の「太安万呂」について考えてみた。
当時、律令制度は地方行政の肥満化からその統制が利かなくなり、てこ入れを当時の宰相である藤原不比等はその強化を図り、それ程有力ではない太安万呂を民部省の長官に任命して、地方行政を強化していた。太安万呂はその行政能力に優れていたのだろう。その期待にこたえていた。強力な家系ではない「太」氏はそれを推敲するためには人の数倍の努力をしなければ成らなかっただろう。身を粉にして戦略を練り実行していったに違いない。

その情景を考えると、太安万呂が「古事記」の編纂に直接関与していたとは思われない。しかし、彼の系譜は大歌所の大歌師であるように「古事(ふるごと)」(天語り・神語り)の「誦謡者」であるように歌謡には長じた家系であった。そこには「天宇受売命」の後裔・猿女君の末である「稗田」氏とも親交があり旧事の知識は深い家柄であった。

そのことが「古事記」編纂の根拠であったと思われる。ここに私は不比等の天才を見る。ここからは私の推測ではあるが、地方豪族の統制に従事しながら、その家系や伝承までも把握していたのではないか。また、それを安万呂に指示していたのかもしれない。だからこそ、太安万呂を「古事記」編纂の選者にしたとの推察が成り立つ。

私は藤原不比等を類まれなある施政者だと認識しているので、その広範囲にわたる目配りは当然のこととして考えている。
2013.01.07 再び、再読。
因幡国風土記・逸文(塵袋・第十)から、因幡の白兎を読む。

塵袋からと言うのは、これが種本ではないだろうが、一つの説としても興味ある問題を提起してくれる。sれは兎が老いていて洪水に遭い、隠岐の島から故郷の高竹の郡(こうり)に帰りたくてワニを騙すのだが、ワニを明らかに、魚と特定している。

私は神武東征からの派生事項なので、心からその説話を追求してはいないが、この分析は落ち着いたら行ってみたいと思う。

高竹の郡は「たかや」とも読み、思い出すのはニニギ命と吾田葦鹿津姫との逸話に出てくる「高屋」を思い出す、関連性はどうだろうか。
「出雲神話と邪馬台国」を読んでいて、興味ある文章に合う。

<井上光貞や水野裕が、出雲国の「国譲り」があったのに、なぜ、ニニギ命を日向高千穂の襲の地へ降臨させたのかと、疑問を呈している。
私は元々、大和を征服したのは、北九州皇孫であり、南九州の重要戦略地への降臨、天穂日命の出雲はの降臨は大和制覇の布石である。その大和への征服の礎がニギハヤヒ命の侵攻であろう。それらの説話は巧妙に仕組まれた話である。北九州皇孫の大和制覇の困難さを表現した頭脳的な表現である。
川添登はこう記述している。

出雲大社の建っている付近は、銅鐸文化圏の西端と言うよりは、銅矛・銅剣文化圏の東限に当たる。
そして、出雲大社のすぐ隣の命主神社(いにちぬしじんじゃ・出雲大社の摂社・祭神はスサノオウ)から、銅剣が翡翠の勾玉と共に出土している。
「命主社神器出現之記・佐草自清」は、神社の後には、大石の下から銅剣は発見されたと、記している。
出雲大社の付近から銅剣が発見されたと言うことは、この地が北九州の勢力化にあったと思われる。
「古事記」には出雲振根が北九州へ出向いていることから、出雲と北九州はかなりの交流があったことが窺われる。

先ず、命主神社の大石のしたから銅剣が出土したと」言うことは、この神社は古く、縄文時代の石神信仰の影響を受けていたと言える。そして、銅剣の存在は、出雲振根の筑紫出向とあわせて、北九州との交流をうかがわせる。
「アラハバキ」の荒は荒々しいと言う意味より、台風や竜巻のように超自然的な畏しい力をいい、ハバキは脛であるから、狩猟的には素晴らしい速度で走る神がかりな「もの」とか、あらゆる「もの」を踏みにじって通過する強風の意味であろう。

また、「アソベ」は遊びと言う意味に取られ、楽しみぐらいの意味に解釈されようが、実は神楽や天宇受売命の踊りのような呪術的、宗教的な踊りや事代主神が海で鳥と「遊ぶ」と言った、どちらかというと仏教の「空」に似た太極的な表現である。
陽的な言い回しだと、神仙の世界をいい、陰的な世界だと、黄泉国のカオスに近い世界を言うのではないかと思う。
以前から述べているように、日本国は縄文時代からアニミズム・多神教をその精神的思考法に根つかせている。それは氏神信仰として守護神社を祀り精神や生活の寄りどころにしている。
聖徳太子の「和」の精神や仏教の融和の哲学は「弁証法」の対話に依拠している。日本人には太古からその思考法が染み付いていて、真剣に考えると結論としてその真髄が現れる。
だが、古代で先住倭人は大陸からの高い文化を持った渡来人を巧妙に受け容れるために身内の娘を血縁させ母系から操る知恵を永年おこなってきた。それが「和」であり、所謂「大いなる妥協」なのである。

そうした精神的状況を無視して、日本人の性向を語ることなぞできない。私が小選挙区制を採用しようとマスゴミがほざいている時、反対したのは彼等は近代化を主張して(本当は米国二大政党の物まねである)、日本固有の様々の思考を内在した多様性を理解していなかったからである。
確かに多数の意見を認めると結論が遅くなる。しかし、我々の先祖は色々な思考錯誤を行ってきた。その経過を検討すれば素晴らしい結論が得られるのに、舶来趣味の人々はそれを無視している。大事なのは自分の足元なのだ。

敢えて国際化という風潮の中で言わせて貰えば、今は分散化より固有な個を歴史的、地球的(環境的にか)に見つめ直すことが大事だと考えるからである。
今年は蛇年なので、再生と豊穣の年のはずだが愚かな政治選択は再生も豊穣も期待できない。
第一安倍氏の顔に知性も勇気の感じられない。愚かな浅薄な思考力しは思い浮かべられない。私は公共人に言い訳を認めない。一度の失敗は我々は許せるが、国を預かる公人に過去は厳しく考察されるべきだ。

彼は選挙前、これほどの勝利を予想していなかったに違いない。だから比較的穏当な公約を語っていた。だが組閣では原発は推進に方向転換しているし、経済も財界に顔を向け公共投資のばら撒きを始めるだろう。1930年代の米国大統領のように真の政策として施策しているのでなく、軽薄なばら撒きなのである。彼に哲学は存在しない。
かつて「美しい国」と称したが、あれは単に美しいだけなのだ。小沢一郎氏は日本書紀を引き合いに出し、仁徳天皇の「国見」を政治規範に挙げていたが、安倍氏は単に「美しい」と言う抽象的な言葉を使っているに過ぎない。
「美しい地(くに)」と言えば、塩土老爺の「青山四周らす」の呪言を引用して欲しかった。ただ、その言葉は環境を配慮した氏神を称える言葉で、生まれた土地を大切にしろと言う諫言でもあるのだ。決して、原発推進のように故郷を破壊するような愚かな暴言は吐きません。つまり「美しい日本の土地」を汚す行為の言葉名野を彼は気ずきもしていない。それ程浅薄な頭脳の持ち主なのだ。

彼に世界を見通せる理性などのだ。その補助者が麻生氏なのだから聞いて呆れる。漫画が悪い訳ではないが、漫画にはまだ、世界を変える深さを私は出会っていない。興味はあるが趣向の段階で他人に哲学として語れるのもをしらない。そを堂々と愛読者と言っている。アホな元首相なのだ。それでもカ~ネギィのように他人を真に見抜き登用できれば立派だが、その器用はない。

単に元の自民党に返ったまでである。日本国民はそれを忘れたのだろうか。お調子者に飴を与えれば浮かれるだけだ。具合が悪いのは、彼等は小利巧でそれを隠して上手く行動する狡さは持ち合えているのである。

私は宣言する。一時はよくなるが、先々は完全に悪くなる。それぐらいの創造力は私にはある。

新年早々、又愚痴になってしまったが、言わずに置かない最悪な状況があるからです。桑原くわばら。
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