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5000年前のアイスマンの映像をNHKにて拝見させていただきました。

弓で射られて、後頭部を撲殺された遺体が寒気で冷凍されて現代まで完全なる身体(といっても木乃伊化していましたが)で発掘された。
腸には数種類の花粉が見つかる。それはもみの木(高地性)とアサダ(山の麓)が発見された。つまり、彼は山を逃げ回り、ついに山の上で捕まって、矢で射られ、後頭部を殴られて死に至る。その胃からは肉(羊や鹿)小麦、煤の付いたパンそれにハ~ブが見つかった。
衣服はヤギの毛皮(装飾を施されている)付け靴は熊製の靴底で干草を敷いてある。銅の斧(99・7%の精錬)されたものである。そして、身体には十字や×印、平行印の入墨が施されていた。実は、それは中国の鍼灸のツボに当たっていた。

これを観ると、アイスマンが非常な優雅な食事をしていて、金属もかなり高度なつくりである。日本では縄文中期辺りだが、その時代でも彼等は現代人とそうは変わらない文化程度を持っていたといえる。
この事実から推察すると、私達が考えるより私達と同じ志向にあったと考えていいかもしれない。縄文後期や弥生時代の先住民はそれと変わらぬ民族だと言う過程で物事を考えなおすのも一考である。
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ある行事が蔓延するためには、そこに生活がなければ広がるものではない。
特殊な事実や衝撃的な行いが流行するにしても、そこに受け容れる民衆が存在しなければ、永く生き残れるものではないのだ。

私は一つの伝承があるとき、その時間の経過や環境、地元民の生活が見えないものは信用しない。
例えば、神武天皇と伊須気余理姫の聖婚説があるが、単なる話としては成立しないと思っている。現人神と巫女の説話は数々あるが、そこには伝統的な行いが隠されていなければならない。事実の積み重ねが神話を生むのである。

聖婚には歌垣やカガイが存在し、それが広い地域で行われて居るからこそ、聖婚へと華昇し伝承として結実する。私は采女制度が太古より行われていた風習が普通に存在していたからこそ、伝承へそして、神話へと発展して言ったと考えている。
ここに「貸妻」の伝承が各地に聞かれる。その二三を紹介しようと思う。

阿波国那賀郡沢谷村小字北谷の伝承がある。
ここでは旅客があっても宿屋がないので、普通の民家に宿泊する。旅客を迎えた家では、その夜は娘や妻を客に同衾させるが、もし、旅客が娘を断りでもすると、娘は大声を発して「出戻りさん」と叫ぶ、すると親や夫が出てきて、その旅客を夜中でも追い出してしまう。こうして一度でも「出戻りさん」の名を負わせられると、その村に宿るべき家を与えられないのである。(週刊朝日・第九巻二十二号)

又、肥前・天草島でも、他の地方から旅客が来ると、良家の子女が自ら進んで枕席にはべる。これはこうして、多くの異性に接するほど、早く良縁が得られると信じているためであるという。(郷土趣味・十二月号)

更に、肥前国南松浦郡富江村は、五島と称せられる有名な島の一つであるが、ここの山下部落では、特のほか、外来人を忌む風習がある。それは昔から昭和二年に至まで、外来人が「あの女を借りた
い」と云うと、処女でも妻女でも貸さなければならない風習があるためだと言われている。(橋浦泰雄の報告)

そして、因幡・伯嗜の各地に人妻を好んで旅客と関係をする。勿論、売春行為ではない。
越後国岩船郡三面村、ここでも昔は他から旅客が来た時に、盛んに「貸妻」の土俗が行われていた。(橋浦泰雄の報告)
などの証例がある。

私はこれらに采女制やカガイ、巫女との聖婚の基盤を感じる。これらの風習は更に時代を遡って見られるはずであろうが、惜しむらくは文献として残っていない。そして、「古事記・日本書紀」に良く見られる女系の皇孫との婚姻もここから進展したのであろう。
戦後史のうち、1931年と1935年および32年の5・15事件は重要な年であると私は考えている。

1931年9月18日、奉天郊外柳条湖付近で満鉄線路が爆発された。それは演習中の独立隊と中国軍とが交戦状態になった。つまり、満州事変である。
1935年7月7日、北京郊外の盧溝橋で、日華軍による衝突事件が起こった。世に言う「日華事変」である。
これは関東軍の張作リン暗殺による謀略と蒋介石と日本軍を交戦させる目論見だという説がある。
田中義一総理は、天皇陛下にその処理を速やかに行うように命じられたのを、うやむやにした責任を取り割腹自殺をした。
その当時、天皇を西園寺公望、鈴木貫太郎侍従長、牧野伸顕左大臣が補佐していたが、西園寺が突如天皇に対し田中義一を罷免された行為が憲法違反ではないかと述べ、天皇はそれを受け入れ「以後、君臨するも統治せず」と宣言し、国政に口を直接はさまなくなった。
このことはその後の「御前会議」の天皇の発言を大きく左右することになった。この時、平和論者であった天皇がもう少し発言権をもっていたら、事態はどうなっていたかわからなかった。

この時から、天皇は国会・政府についての発言を抑制するようになる。それは微妙に当時の情勢に影響を齎したと私は考えている。陸軍の勢力の抑制が効かなくなった一因がここにもあったと、推察する。
2013.03.19 kami
ここに興味ある文章が記述されている。徐朝龍氏の「長江文化の発見」である。少し長いが紹介してみる。

剣を好む風潮が盛んな中、呉越では剣を作る優秀な鍛冶屋が輩出し、数多くの名剣を世に送り出した千将、莫邪、欧冶子(おうやし)といった職人がその名を永遠に歴史に刻んだ。一方、考古学の発掘でもこれまで「呉王剣」「呉王矛」「夫差剣」「越王子勾践剣」などをはじめ、十数丁の呉越製の剣の実物が発見され、なかでも「越王勾践剣」のように外形が全く破損なく出土したものもある。それは数千年の歳月を経てなおも美しく、今でも一度に十数枚の新聞紙を軽く切断することができるものもある。なお、春秋時代晩期は、青銅にかわるべき鉄(鋼・はがね)という新しい金属が登場した時代でもあった。考古学の上では」、呉の領域の春秋・晩期の墓から中国最初の鉄や鋼が数多く発掘され、呉国がこの人類史上、革命的な金属を開発し、鉄器時代の先頭に立っていたことを証明している。かくして、勤勉な民、豊かな経済、発達した交通、成熟した技術、強大な軍事力などは春秋戦国時代の中国において大国として台頭する呉と越の未来を固く約束したのである。

これはBC5世紀の呉・越が青銅器に変わって、鉄器を開発し、稲作で蓄えた財力や灌漑技術、造船技術を背景に勢力を伸ばし始める時代であったともいえよう。
ここで思い出すのは、BC220年頃の長江中・下流域の大洪水である。三苗国の「しゆう」は既に、神話ではあるが金属器を駆使して黄帝と戦っていることである。三苗国とは幾つかの苗族の連合体であり、灌漑技術や城築技術に優れ、鉄器さえも駆使している三苗国とは、呉や越の発祥国である三苗国のことであろう。
黄帝に敗れた苗族は再び長江中流域の洞庭湖周辺に帰り、居住したという。
その後裔が「倭」と総称される苗族系の種族であることは明らかである。呉や越、特に越の分派は数多く、苗族の血を引きながら独自の種族として伸張してゆく。

その後、「倭国・大和」は九州から大和へと進出し、八世紀に大和朝廷を築き上げるに到る。
それは北九州勢力が中心であると考えられるが、北九州勢は弥生時代から勢力を伸ばし始めた朝鮮半島の新羅や百済の貴人が北九州の先住民族と融合して作り上げた勢力だというのが通説であろう。

しかし、その頃の中国南部・江南は朝鮮半島以上に高い文化を持つ呉や越が在住しており、朝鮮南部はその勢力化にあったと考えられる。その江南の思想や技術を学んだ朝鮮が北九州に渡来してその勢力を伸ばしたのではあるが、一方、黒潮の流れになった江南の貴人は南九州、特に野間半島に漂着し、北九州以前に文化・技術を伝承していたことは大いに考えられることである。
それは南九州の習俗、末子相続制や断髪・文身、鵜飼の習俗など北九州とは交わる事のない習俗・文化が神武東征までの伝承には色濃く現れていて、神武東征はその成果が明らかに表現されている。
日本紀或いは、日本書は、中厳円月(1300~75年)の作と言われる。
円月は禅僧で朱子学者である。円月の主張は「神武天皇は呉の太伯の末」と説く。
円月はそれを実証する為に、商船に乗り九州から江南へ渡り、七年間、江南で呉や越の習俗等を学んだ。しかし、当時の朝廷に受け容れられず、自らその書を焼いたと言う。

しかし、江戸時代の朱子学者・林羅山は彼の「神武天皇論」でこう述べている。
「東山の僧・円月、かつて日本紀を修す。朝儀協(かなわ)ずして果たされず。遂に其の書を焼く。余、ひそかに円月が意(こころ)をおもうに、按(あん)ずる諸書、日本を以て呉の太伯の後と為す。それ、太伯荊蛮に逃れ、断髪・文身し、交龍と共に居る。その子孫、筑紫に来る。思うに必ず時の人、以て神と為さん。これ天孫、日向高千穂の峰に降るの謂か。当時の国人、疑いてこれを拒(ふせ)ぐの或いは、これ有るが、これ大己貴神、順(まつろ)い服せざるの謂か」

私は円月が朱子学の知行統一の論を実行する為に自ら江南にまで実証に行き、呉や越の習俗を検証している。その科学的志向を買う。
滝川政次郎師もまた、九州に着いたのが江南からやって来た安曇氏だと説く。私は呉(呉の意味は白川静師によれば祝寿器を頭に載せ踊りながら神を称えるの意味であると言う)が呪術的な要素が窺える種族だと思う。安曇氏もまた、磯良に代表されるように呪術的な種族だと断じ、ニニギ命は江南からやって来た「呉の貴族」の可能性を探っている。

円月が「神武天皇が太伯の末」と説くのは、ニニギ命がまさしく、呉の人間だと言うことであるから、私は円月や林羅山の論を支持せざるを得ない。初期南九州王朝は江南からやって来た王族で先住民の曾族(朝廷の用語では隼人)と数代、融和を重ね、神日本磐余彦命(神武天皇)の時、大和へ進出したと考えている。
八世紀には天智天皇(私はこの王朝は北九州系だと考えている)が覇権を握って、以来この系統が王朝を持続するおうになった。と推測している。

太伯について、二三の記述を披露しておこうと思う。

宗代「太平御覧」阿・魏志の条
<倭の人々が、自分達は呉の太伯の子孫である>

「魏略」魚カン撰
<倭人に文身の習俗有り、その旧語を聞くに太伯の後裔と自らを言う>

「漢書」・地理志の文意と同趣旨をのせた後で記述する。
<中国の史書は倭の人々が自らの出自について、呉との関係つけて紹介する一方で、倭人の習俗が「越」のそれを同じと言う見解をとっている>・・・夏后少康之子、封於会稽、断髪文身、以避交龍之害。

「周礼」(漢代)には、於越、南越、句呉、駱越、南陽、欧人、目深(ぼくじん)、夜郎等が居たと書かれている。・・・・百越は新石器時代晩期ころから、この地に住み着いたと言われる。(BC5000年)

種子島・中種子町・熊毛郡納棺・大薗遺跡では東北地方の縄文晩期の大洞(おおぼら)式土器が出土している。上村俊雄は大洞式土器(亀ヶ岡)が「2000年前に海を越えて薩南諸島にもたらせても不思議はない」と述べている。

薩南諸島はかこいノ原・丸ノミ式石斧文化圏に属し、、丸木船がBC10000年前に造られていたと思われ、当然、交易の可能性は考えられる。

去年、兵庫県沖で岩手県の釣り船が発見されている。これは二年前の3・11の東日本大震災際、流された舟である。それはリマン寒流が大陸沿いに南流し、最後に東シナ海沖で黒潮(対馬海流)と合流して、逆流した形で日本海に到達したと思われる。(海上保安庁は黒潮の逆流で太平洋を大きく迂回して、やはり東シナ海で黒潮に合流した見解を取っている。考えられなくはないが、これは少々無理がある)
つまり、まず順流で対馬海流に乗って東北へ航海し、リマン寒流を利用して帰還した可能性は現実的であろう。

私は、縄文時代から丸木船による航海が可能であると考えられ、交易は困難な航海ではあったろうが行われていたと、推察している。
薩摩・野間半島の加世田市は太古より南方諸島(フィリピン、ポリネシア)、中国江南などの到着点であり、異文化の交流が行わがれた可能性が考えられる。出雲が南方、新羅、高志などとの交流があったのは史実であり、特にセグロ海蛇が祭祀の供物であったことも傍証としては、加世田(笠沙)が航海と交易の出発点であるのはありえることであろう。

日本列島の南と北の交流は縄文時代から、困難を乗り越えて行われていたと考えられると推論することは、古代史を考える上で非常に重要な要素である。この事実を踏まえて、私はこれからの古代史の一つの視点としたい。
文献を調べていると、中国と古代日本の神話には類似している説話が多い。

「トウテツ・漢字が見あたらない・この意味は、貪り食うという意味もある。虎に似た怪獣である」は、西南方の荒野で生まれ育った毛人(えみし)で、頭が豚で、生まれながらにした貪欲でけちで自分で働くのが嫌いで、他人の物を奪い取るが、弱い者虐めで、強い者を恐れ、群れをなして、人を見ると隠れ、一人でいると襲う、と言う。この「トウテツ」は黄帝と争って負けた「しゆう(これも漢字にはない)」と同人であると言う。

「しゆう」は<史記>にも出てくる三苗族の長で81人の弟を持ち、彼等は頭に青銅、額に鉄をのせる怪獣である。雨と風の神を従え、苗族も配下にいた。霧や霞で周囲を晦まし、黄帝を指南車(磁気を積む戦車)を使用し対抗するが劣勢であった。黄帝は、そこで天上の西王母に助けを求め、西王母は援軍として魃・女神を降し、天気を晴らし、漸く「しゆう」を破る。(この構造は、神武東征の際、長髄彦に劣勢を天照大神は「ふつのみたま」を降ろして、長髄彦を破る。神武天皇の金鵄は指南車か。これもかなり類似性がある)

「常陸国風土記」
・・・・昔、国巣(くず)<都知久母(つちぐも)または夜都賀波岐(やつかはぎ)>・山の佐伯、野の佐伯ありき。普(あまね)く土窟(つちむろ)を掘り置きて、常に穴に居(す)み、人が来れば窟に入りてかくれ、その人が去れば更(また)郊(の)に出でて遊ぶ。狼の性(さが)、梟の情(こころ)にしてひそかに窺(うかが)いて、掠(かす)め盗みて、招(お)き慰(こしら)へらるることなく、いよいよ、風俗(ふりしわざ・普通の生活)を阻(へだ)てき、・・・・

この二つの文章はなんと似通っていることであろう。これは私の推測に過ぎないのだが、「風土記」の編者は中国の古典を熟知していたのではないかと思われる。
大隅国風土記・串トの郷の条(くだり)と景行紀の「熊襲タケル」または別称「取石鹿文(とりしかや)」を調べていて、薩摩が三度の火山の大爆発から再生を果たしていることと無関係ではないと思った。

BC15000年は薩摩大爆発、BC9500年は桜島大爆発、BC6400年は鬼界カルデラ爆発と三度も国土を壊滅状態にみまわれ、再三そこから復興している。
それは驚異的な再生能力である。人間もそうだが、自然界の動物や植物・樹木もまた、それと相関関係にあると言える。

薩摩の地は、大自然の脅威を乗り越える再生能力を秘めていると言える。

串トは「クシラ」と読み、奇しの郷(くしのさと)、驚異的な郷と言う意味とされているが、それは大自然の脅威を乗り越えた熊曾族の居住した地(くに)という意味であろう。

又、景行紀の取石鹿文(とりしかや)であるが、その「鹿文(かや)」を大林太良師はインドネシア語系の「かや」を<呪術と資産を有する>と言う意味として言う。熊曾をその傍系と説いている。そして、「曾県(そのあがた)」も呪術的な司祭的種族の系譜と考えていた。

私はそれを全面的に信じるものではないが、薩摩の地、特に野間半島が黒潮の漂着地でもあり、南方種族が上陸していたとしても不思議ではない。その交流は可能性として色濃く、薩摩熊曾族の強力な生命力が呪術的能力(神降ろしなど)に優れている要素と同化したともいえる。

「隼人舞」や「海幸・山幸説話」は大和朝廷への服属儀礼として伝承されているが、その底流には、曾族の持つ「神降ろし」の術や呪術能力が資質としてあったからであると私は考えている。

隼人(曾族の末裔)の氏族には曾婆加理くらいしか見られないが、曾婆加理の「加理(かり)」は「鹿文(かや)」と同列であろう。ソバカリもまた、呪術的能力を持った種族が貶められた例であろう。

大和における「隼人」は犬の遠吠えに見られるように、明らかに呪術者として表示されている。

熊曾族は薩摩において、究極の大災害を乗り越えその生命力を内に秘めた呪術的能力を持ち、その能力で薩摩を統治してきたのであろう。大隅の上野原遺跡の文化の高い種族は定住や高度の思考性、土偶や耳飾り謎の玩具などから推し量って呪術者の存在は明らかである。

私は先住曾族こそ薩摩の呪術的民族であると考える。そこに南からやってきた海人族と融合したのが初期南九州王朝であると推察することは、強ち無理な推論とはいえないような気がする。
中西進氏については全面的に賛成はできないが、私に重要なヒントを与えてくれる。

私は安曇磯良が「八幡愚童訓」で、神功皇后の三韓征伐で住吉大神に神托を祈願する。
すると、大神は安曇磯良を水先案内人にすれば戦に勝てると神言する。
そこで、磯良を召し出すのに、大神に教えられた通りに「せいのう」を舞い、海中に舞台を据えて、舞を奏すると、磯良は首に鼓を懸けて浄衣の舞衣となって亀に乗り、海中より浮かび上がった。しかし、海中に永く住んでいたためにその顔には牡蠣や鮑がびっしりと付き、あまりにも見苦しいので、浄衣を脱ぎで、顔を覆い、頭を垂れて舞いながら浮き上がってきた。

ここでも「せいのう」(青農・細男・才の男)が語られている。一説には、この細男の舞は宮中雅楽の初めだと言われている。又、隼人征伐の際に「細男舞」に釣られて隼人が顔を現した時に皆殺しにあったと伝承している。

折口信夫は「細男」について宗教的には、祖神と精霊の掛け合いが始原だと述べている。
古来、才の男とは、神に対する神もどき(精霊)との掛け合いである。とし、太古のみしゃくじ(御石神)と地母神との掛け合いと述べ、更に猿田彦と天宇受売姫との掛け合いと説き、それは性と生との関りに端を発し創生(豊穣)・護国に発展する。細男舞はその始原状態から発したと言う説もある。

私はそれらの諸説を踏まえて、「細男舞」を思い悩んでいたのであるが、中西進が「演劇というのは一つの模擬行為であるとし、死を死として演じることに意味を持つ」と述べているのを見て、細男舞の、「神と神もどき(精霊)の対話、死と死についての演技の関係に関わることを示唆していることに気付かせてくれた。

宮廷雅舞や神楽の初めは、やはり「神との呪術師に対話」や「死と死の演技との関り」がその根本に横たわっていると理解した方が良いのではないかと、中西進氏の説を見て、私は直感した次第である。
もう少しこの考えは堀り起こさなければならないだろうが、一先ず行程は定まったような気がする。

北九州と南九州の習俗には明らかに違いがある。

南九州は江南の影響が強く、末子相続、鵜飼の習俗、文身・断髪、近親相姦の許容などであるが(どちらかと言うと、道教的である。古代天皇は近親婚は認めている)北九州は長子相続、鵜飼の習俗はない、文身も少ない、近親相姦については禁止である。もとより、儒教の影響が強く出ている。
八世紀の大和朝廷は儒教的な影響が色濃く出ていることが出ているのを見ると、北九州的な政治形態が継続されているような気がする。

現代の韓国の傾向は、1、血縁関係の意識が強い。2、長子相続で、祭祀権・財産権は長子が継ぐ。3、近親相姦は禁忌である。・・・・この事実は北九州の形態と類似している。
これは「神話力」の一文章である。

「・・・(神武天皇は)各地を回って行く。どこの宮に何年、またどこの宮に何年という具合に年数を掛けながら、やっと瀬戸内海を通過して、日下の蓼津を越えて大和へ入ろうとすると、登美毘古という賊がいて入れない。そこで、熊野を回り、吉野を経て大和に入って王者になる。・・・」

当然、中西進師は神武天皇の視点で語るのは主題にそったからであろうが、私は登美毘古(長髄彦)が賊という表現が気になる。もう一つの視点、長髄彦の立場は賊なのかといった視点が欲しい。
元来、長髄彦こそ、大和をまとめた首領ではなかったか。国巣や猾族・磯城族などを統括していた君主なのかもしれないのだ。長期の安定政権の可能性が考えられ、ことによったら名君かもしれないのではないか。(安日彦との兼ね合いから、長髄彦は縄文以来の先住民だったともいえる。(<ながすね>は縄文の形態の一つでもある)神武は南九州からの侵略者である視点も成り立つのである。

私は谷川健一師を師と仰いでいるものだが、谷川師にはその視点がうかがれる。中西師に長髄彦についての詳細な記述が知りたいと私は切に思います。
眠れないまま死に至る。病名は致死性家族性不眠症と言う。

2001年、イタリア北東の水の都・ヴェネチアを中心に小さな町や農場が広がるヴェネト州のある一族に発症する。
それは50歳過ぎに現れる。突如、震えがきて衝撃が襲う。目はうつろで斜視になる。平衡感覚が失われ、ぎくしゃくしてしっかりと歩けなくなる。転んでばかりの者もいる。不意にくすくす笑ったりまたは大笑いをする。それは不安定で、無気力な反応の症状の顕れであった。
その後、進行が進めば壮絶で、物音が気になり出し、夜に眠ろうとするが、眠りにつけず、目を閉じて横たわるが眠れない。ただ時がジュクジュクと過ぎてゆく。うとうとするがそれが覚めると、気がつくと一気に疲れがやってくるが眠りにつけることはない。その繰り返しで狂うように死んで行く。

しかし死の直前まで意識ははっきりしているのだ。死後、能を解剖するがさして異常がみられないのだ。ただ、通常たんぱく質が癌細胞のように正常な細胞を侵食するためにそれらの機能が破壊されて不全の為死に至るのだが、この遺伝性の不眠症は、たんぱく質の中に同じたんぱく質が発症して作用するために機能不全に陥るらしい。まことに謎に満ちた症状なのである。
著者はこの一族は彼等の祖先が食人の経験があり、それが遺伝子に組み込まれたのではないかと推察している。ヤコブ病(プリオンが原因)は動物(牛や羊)を食べて発症するらしい。又、ニュウギニアのフォレ族は明らかに、食人の経験がプリオンを産ませてヤコブ病と同様の症状を表わす。(ク~ク~と言うらしい)

私は環境と遺伝子の相関関係がそのような異常な症状を現すのではないかと思うのですが、DNAとはかんきょうの反復と作用が時間の経過や当然変異によって形造られるような気がする。
私も年で記憶力が退化している。記憶すべき書籍も探さないとどこへいったか解らなくなる。

そんな理由で、重要と思われる記事はパソコンに入れるようにしている。

「長江文明の発見」(徐朝龍)の<長江下流域の復興>の書き出し。

呉は「句呉」ともいい、いわゆる「呉地」とは主に現在の江蘇省と安徽省の南部およびせっこう省北部を指すとされている。古代の伝承によれば、西周王朝の王室直系子弟の泰伯と仲擁が王位をその弟に譲るために、自ら「野蛮の地」といわれる呉地へはいったのが呉文化の勃興のきっかけになったとされている。なお、呉国の首都は於呉といい、現在の蘇州にあたるといわれる。一方、「越」とは「於越」とも呼ばれ、その
名は越地において流行していた斧(えつ)という生産具からつけられたものとされているが、越人に自らのことを「僕莱(ぼくらい)」と称している。そして、越の勢力圏はおよそ今のせっこう中南部、杭州湾、太湖周辺を中心とする長江以南の広大な範囲を含む(ほぼ、あの良渚文明の分布と重なる)と見られている。そして、越国の都は会稽におかれ、今の紹興一帯であるとされている。

ここで重要なのは、「呉」の建国神話が語られていて、それが「晋書」や「梁書」の「日本の倭人」が泰伯が<祖>だと語っていることである。
又、「越」は彼等が斧(おの)を使用していることであり、自らを「僕來(ぼくらい)」(僕は本字はさんずいがついている)と呼び、僕は<神のしもべの意であり、莱は<むぎ>のことであろう。
つまり、白川静師が述べているように狩猟民族であり、そして畑作に従事していた民族であろうと思われることである。(ここに、苗族との共通性が窺われる)

長江中下流域は、民俗学的にも九州、特に薩摩や南方諸島との影響が多いのは一考を要するのではないかと思う。

どうもこの「つぶやき」はそれはそれなりに、ためになるのだろうが、細切れの現代的な良くもあり弊害の多い制度のような気がする。それなら長い文章を書けばそれで済むと言う意向もあるだろうが、粘り強く事に取り組む姿勢が軽視される時代ではどう対処していいのか迷う所である。

倭について私が問題にするのは、苗族が黄河域に居住していた頃、黄河族に侵略され、様々な地域に拡散して行く、その一派が長江流域に居住し「呉」や「越」の民族を発生させる。この「呉・越」が大和(やまと・おおわ)との関りが濃厚なので、確かな認識を持っておく必要があると思うからである。

先ず、白川静師の「辞通」による文字の解釈から始めようと思う。

「越」が大和との関わりが強いといわれる知識者が多いため、その語源を知っておかなければならないだろう。「越」とは馬に乗り武器をかざして走る様とある。この解釈での印象は明らかに狩猟民族としての名称である。と言うことは、その始原は江南より黄河の狩猟民族にその初めがあるような印象がある。多分、黄河に居住していた狩猟民族が何らかの理由で長江中流域に移動したことがその「越」にこめられていると、解釈する意向は考えられることである。

では「呉」はどうであろう。その文字は、神に祝いの言葉を入れた箱を持ち踊り神を称える様といわれる。それは呪術者の様を思い起こされる。この状態は狩猟・漁労民族、双方に見られる形態では有るが、私は神功皇后の三韓征伐の際、住吉大神の神託により安曇磯良を呼び出す時の、磯良の現れ方が磯良舞を踊りながら現れる呪術的現象に酷似していると、思われることが何等かの関連が考えれれるからでらる。
私は「呉」の呪術者と倭(和)の海人族との関係に影響を及ぼしてと考えている者なので、その一考として理解している。と言うのは、「晋書」や「梁書」に見られる、倭(和)の朝献した太夫(官僚)が自らを「呉」の「呉」の太伯の末と認じている伝承にもよる。また、鎌倉時代の円月と言う朱子学を学んだ禅僧が「日本紀」で神武天皇は太伯の後裔と書いた事実も「呉」を日本の皇族との関係を明示した記述をも考慮に入れなければならないであろうと思う。

滝川政次郎は「猪甘部考」で江南からやって来た種族で北九州にやって来たのが安曇族で南九州に辿り着いたのが隼人族だと説いている(私は概ね賛成だが、しかし、隼人は薩摩の先住民族・曾族の後裔だと考えている。・・・その点では中村明蔵師の説を支持する・・と言うことは南に着いたのも安曇族の分派<多分、久米族であろう>とする)

と言うことで私は、「呉・越」が南・北九州への影響を強く考えている者なので、その始原である「苗族」を軽視できないのである。

先に、黄帝が三苗族が洪水で長江から移動して、元もとの居住地であった比較的洪水の被害が弱かった黄河中流域に移動した先で衝突したのが「史記」で言う「琢鹿の争い」である。
三苗族はかなりの文化水準に達していて、洪水に襲われる前には、堅固な城壁を築き(と言うことは灌漑工事の技術も発達していた)、刑法に依る支配が実施されていたと言う。この地方は遺跡でいえば、良渚遺跡(紀元前23世紀)の時代で漁労・農耕文化に優れた実績を残していた。見方によれば、黄河・黄帝が支配する畑作・狩猟文化より進んでいたともいえる。しかし、黄帝に退けられ、勢力を衰弱させて、洞庭湖流域にまで敗退してった。

この先でその後も分散して行く苗族について語りたいとも思うが、さらに長くなるので、ここで先ずは筆をおこことにする。
古い話しで恐縮ですが、昭和51年の朝日新聞2月6日の夕刊・ニュ~ス三面鏡を紹介させて戴きます。
<副題・米兵犯罪の被害調査に執念・堀本さん、補償法に熱のない政府>

夕日で病室が真っ赤だった。ひん死の父に、祖母が「生き返ってくれえ。生き返ってくれえ」と夢中でお経を唱えていた。
5日夕、米兵犯罪を告発している東京地裁の「笠井訴訟」に、国側との和解交渉開始で姿をみせた東京都心中く北新宿・会社員堀本隆興さん(33)は、昔の記憶をたどっていた。
堀本さんの父、稲夫さん(現在66歳)は23年(これは間違いで20年です)暮れ、杉並区浜田山の自宅付近で二人組の米兵強盗にピストルで撃たれ、頭部貫通の重症を負った。一年入院して命は取り留めたが、左半身不随、テンカン持ちの体になっていた。社長をしていた建設会社はあっけなく倒産した。
暗い青春だった。風の便りに米兵は軍法会議にかけられて、本国に送還された、と聞いただけだ。日米間になんの取り決めもない時代だったから一銭の補償も出なかった。生活保護を受けた。両親のケンカが絶えなかった。弟と一緒に父を背負って、国会や政党を陳情に回った。(アルバイトをして通った)大学を中退しなければならなかった。
いま堀本さんは終戦直後の米兵犯罪の被害者遺族連合の理事である。「(生活を省みない)オヤジを殺してやりたいほど憎んだ。やっとオヤジの心がわかってきた。執念を息子が継いでやらなければ、オヤジは浮かばれないでしょうから」
都内の被害者の実態を調査してまわっている。ジ~プで両足を根元から切断された男性。夫が下腹部をうたれ、子供が出来ない夫婦。娘を暴行殺害され、生活保護をうけている老婆。36年に占領軍被害者給付金法ができ、防衛施設庁自身が、「涙金」という金額がようやく支払われた。
堀本さんの父、稲夫さんは四年前から東京都拝島市の老人ホ~ムで寝たきりになっている。脳障害があるため息子の顔を見れば、「俺は国に二億円の貸しがある」偏執狂のように繰り返すだけだった。だから堀本さんはまだ独身である。
補償法の陳情に行くと、「心配いらん、まかせてくれ」と大臣、政治家はいう。が、防衛施設庁筋は「政府、自民党にその気はないようです。面倒みきれんということで」と話している。

これが朝日新聞の全文です。その二年前に「内外タイムスと赤旗」に同様な記事があり、それを見た記者が取り上げたと聞いています。
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