上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
講和記念日については、私の父が昭和20年12月に占領軍米兵に杉並区浜田山で拳銃で撃たれ左反身不随になった。当時は薬が極端に不足しいて、手術の為のペニシリン確保のために膨大な費用を必要とし、度重なる手術のために全財産を失った。当然、吉祥寺で経営していた建設会社は倒産して、家庭は貧窮に陥っていった。

父は幸か不幸か一命を取りとめ、多少の脳障害と癲癇のため、現実を見る能力を失い、自らの信念だけに生きはじめる。父は、日本国と米国を相手に米兵の犯罪裁判に生涯をかけ、後年は対米国に対する障害者の為の補償法制定運動を兼業しはじめる。

家庭は貧困の極みで、私などは空腹の為、道に落ちたガムをかんで飢えを凌ぎ、公園の水やそれでも癒されない時は、神社の賽銭を盗んだこともある。小学校三年から新聞配達を始めたからは、漸く飢えだけは耐えられたが、貧困は母の僅かな収入だけで足りようも無く、依然として貧困は続いた。

日本が講和を米国側と結んだのは昭和26年だが、当時の吉田氏は南原繁東大総長の全面講和の主張を「曲学阿世の徒」となじり、米国と講和を結ぶ。しかし、彼は安保条約を一人で結んでしまう。
今、安保の地位協定が問題になっているが、私達はそれを考える前に多くの問題を総括する必要があると思う。新聞紙上で沖縄がその記念日を屈辱の日と読んでいるが、私も何故、それから20年も沖縄の真の開放を黙認したのか、日本国民は真剣に考える必要がある。大多数の日本人は自分さえ良ければ多少の困難には目を瞑る傾向にある。それが、戦前の陸軍と新聞社や大政翼賛会の横暴を許してしまった。あえて言えば、戦争に加担したのは大くの日本人にも責任がある。その意識が欠けているために、日本国民は同じ間違える繰り返す。

私は占領軍米兵犯罪被害者遺族の運動を通じて、沖縄の人たちと同様、異民族意識を経験した。数の少ない「海人えらの苦情は後回しだ、今、われられの生活が大事だ」と言う無言のにらみを何度と無く感じた。
沖縄の人たちも同じ感情に歯軋りしたに違いない。
私は思う。日本人の心根は、他人をいたわる心の余裕はあるはずだ、変に西欧の個人主義の観念に囚われすぎて、真の国民性を剥ぎ取っている。今、我々は日本人が持つ本来の曖昧主義のお人よしの人柄を回復すべきである。米国を頼りにする甘えを脱却しよう。

スポンサーサイト
安本美典氏の新田神社の新田について、新しい田がその命名だと記述して居られる。
私は、旧郡の高城郡に少し、思惑を持つのだが、安本氏の「新田」説のうち、その地が川内(せんだい)は「かわうち)なのではないかと言う説に非常に興味を持つ。
「新田」が新しい田を作ること、つまり開墾を意味するとすれば、そこに従来の農耕技術が投入され、文化革命がなされたと考えることもできる。それは、開墾とつき物の金属器による技術革新を意味しないだろうか。そして、開墾技術はその先で、築城技術や武器開発の軍事技術の開発に繋がる。そこに後の新田八幡宮の意味も解明されるような気がする。

推測を逞しくすれば、長江中・下流域の渡来民族の金属文化を薩摩の先住民族が受け入れ、新たな融合の結果、新しい勢力が生まれたと考えることは可能だと私は考えます。
その観点から、少し考察を進めようと思う。
安本美典氏は「天孫降臨」の地を霧島山の襲・大隅に特定している。安本氏は多くの説を紹介し、持論を霧島山の襲(大隅地方)に特定する。
「古事記」「日本書紀」は日向の高千穂の襲へニニギ命は「降臨」し、すぐに野間半島の「笠沙」へと行くと言うのが定説である。
また、安本氏はその詳細な説明の中で、異説とも思われる。吉田東伍(大日本地名辞典)を紹介している。

「阿多海岸の南側をなし、長屋山(これは、長永山を長屋山とする説にもとずいている)、野間岳などが羅列し、山海が秀(すぐ)れ異なっている。上古、これを阿多の笠沙の岬とよび、天孫降臨の霊跡としている」と述べる。

この説は、ニニギ命の「降臨」が日向の高千穂の襲に降りずに、直接、笠沙に降臨したことになっている。これは私を大変勇気付ける一説である。勿論、この説の有効性を論じるのはさらに、その根拠が必要なのだが、その出所を突き止めなければならないだろう。
私は、通例になっている、ニニギ命の「襲」から「笠沙」への移動を縄文草創期の上野原遺跡とかこいノ原遺跡の存在が妙に気になっている。そして、阿多姫(木花開那姫)が野間半島の阿多族の象徴で、阿多姫が述べる、姫の親が大山祇神と宣べていることは、伝承の流れから、大山祇神が大隅の地に居住する「山の神」であったことになると言う可能性は考えられる。私は非常に興味ある符合だと思っている。
どちらにせよ、その根拠が必要(大変難しいことだ)であろうが、私にはなぜか史実の臭いがしてならないのだ。

史実と言うば、日向の高千穂の曾(襲)は大隅(現在の国分市・旧桑原郡)です。何時も紹介している国分市で発掘されたBC一万年の上野原遺跡には、集合遺跡、連結土坑、丸型土器、大壺、土偶、石皿、石敲、石刀等、耳飾り、道筋などが発掘され、竪穴住居の存在も確認されている。私はその中で、蒸し器つまり甑(こしき)の存在に注目する。甑は曾に通じ、昔と言う意味もあるが、何故か「曾」との符合が気がかりでならない。それだけではない、ニニギ命の「天孫降臨」が曾から、すぐに野間半島の笠沙(現・加世田市)に行き、阿多姫と遭い血縁している。不思議なことに、この加世田市にはかこいノ原遺跡が存在して、上野原遺跡と同様な遺跡が出土し、丸ノミ式石斧が発掘されている。この遺跡もBC一万年のもので、丸ノミ式石斧は丸木船の製造に欠くことができず、大隅諸島、トカラ、種子島から沖縄までの文化圏を構築され、阿多系海人族の範囲である。
阿多姫(木花開那姫・このはなやさくやひめ)の名称どうり・阿多(隼人族の薩摩の別称)との邂逅は偶然とだけでは説明ができない。この符合も私には偶然だとは思えないのである。
しかし、科学的な方法論のなかった古代で、八世紀の「古事記」や「日本書紀」の編者が認識していたと言う宇野もありえないとは思うが、現代人が思いもよらない感覚や文字を持たないが故の口伝は一概に否定もできない。
ただ、ニニギが「曾」から「笠沙」への移動は「上野原・大隅」から「かこいノ原・加世田市」への移動と一致するのは一考を要するのではないかと思う。
安本氏が「邪馬台国は、その後どうなったか」で次のように語っている。

私は、北九州の甘木市付近にあった邪馬台国の一部、または、主要な勢力が、卑弥呼(天照大御神)の死後、三世紀の後半に、南九州へ、移動した事実があったであろうと考える。それが、「天孫降臨」という形で、伝承したのであろうと考える。

安本氏はここで大きな見落としがあることを私は気がつく。
北九州と南九州とは、本質的に思想的な相違がある。それは、習俗の違いである。習俗は生活の延長上にあり、そう簡単に払拭できない壁がある。
先ず、「古事記」の「天孫降臨」のニニギ命から佐野命(神武天皇)は皆、長子ではないと言う事実である。
私は北九州の種族は多分に、朝鮮半島の影響下にあり、儒教的な思考をする。しかし、南九州は南洋、特に江南の影響が顕著である。「古事記」の書かれた内容は、近親相姦、末子相続、文身・断髪、鵜飼の風習等江南の影響が大きい。しかし、儒教は近親相姦は禁忌であり、長子相続が建前である。文身や鵜飼の習俗は極端に少ない。その事実は否定のしようがない。
そんな本質的な相違のある種族がもし、渡来してきたら、それは侵略であり、大戦争になりかねない。しかし「古事記」にも「日本書紀」にもその影も書かれていない。寧ろ、降臨は順調で、「事勝国勝長狭(塩土老爺)」や大山祇神は快諾している。永くなるので省略するが、それは南九州にニニギ命を受け容れるだけの素地があったからで、私はそれを海人族の革新性と開放性で、異国文化の交流がそれを容易にしたと考えている。
つまり、ニニギ命は北九州からやってきたのではなく、むしろ、江南からやってきたのではないかと考えざるを得ないのである。
飛躍を覚悟で話せば、「晋書」や「梁書」で語られる、「倭の太夫は皆、自らを<呉の太伯の末>と言って
いることを重視したいと考えている。「呉」が「降臨」の地で、先住民(隼人乃至は曾族)と何回も混血を重ねながら、人口の増大を補うべく、畑作・狩猟と漁労の地からより生産性の高い地域を、そして軍事的戦略的にも優れた地を目指して東遷したと考えられる。(私は江南が農耕・や築城・造船・金属技術に長けていて、南九州種族は縄文からの先進性を考えれば、かなり両族は高い文化を要していたと考えているので、もし北九州を征服の地と選んでも苦労はするだろうが、獲得は可能であったと考えている。しかし、南九州種族がそれをしなかったのは、ひとえに彼等が情報通(塩土老爺は安曇海人族の首長であろう。海人族の交流は古代において、情報を齎す唯一の種族である)であり、最小限の努力で獲得できる「幸国」は大和であると判断ができていたからだと私は考える。
和辻哲郎師の「邪馬台国東遷説」を受けつぎ、発展させた栗山周一氏は次のように記している。

「結果論からいっても、九州北部にあれだけの文化の進んだ民族が原始的にせよ、国家を作り、大陸と交通して、その文化を輸入していたことを見れば、これらの民族が煙の如く消え去って、文化の非常に進んだ大和朝廷が忽然と起こることは考えにくい。むしろ、大陸をさかんに取り入れた倭国人が、大挙、瀬戸内海を東遷し、大和の地へ移り、強力な国家を作ったと見るのが、理論上、正しいのではないかと思う」
と述べている。
これは、九州の王朝が東征したことを述べたものだが、それを明確しするように、安本美典氏は面白い指摘をしている。

北九州の地名を時計回りに上げて行く。
笠置山=春日=御笠山=住吉神社=平群=池田=三井=小田=三輪=雲堤(うなで)=筑紫高田=長谷山=加美=朝倉=久留米=三瀦=香山=鷹取山=天瀬=玖珠=鳥屋山=上山田=田原=笠置山。

同じように、近畿。
笠置=春日=三笠山=住吉神社=平群=池田=三井=織田=三輪=雲堤=大和高田=長谷山=賀美=朝倉=久米=水間=天の香具山=高取山=天ヶ瀬=クズ=鳥見山=上山田=田原=笠置山。

何と、北九州と近畿の地名が符合する。これは九州からの移民がそう名つけたからだろう。このことも東遷の一因になると言える。

これは安本美典氏の「邪馬台国はその後どうなったか」の一説だが、神武東征を追求する私にとって、非常に興味のある一節である。
私は古代史を南九州と北九州に分け、南九州を江南系渡来王朝、北九州を新羅・百済系王朝の影響下にあるとし、を繋ぎとめているのが、長谷部吉人氏の「日本民族の成立」で言うように<更新末期から完新世初期にかけて、華南に居住した東アジア人の一部が陸橋を通って九州に上陸し、日本人の祖となったと言う説を取ると、九州が日本国の国家成立の端初だとして誤りは無いだろう。

その二つの渡来民族を繋ぐのが、先住民族の縄文豪族で彼等は母系、つまり自らの娘を婚姻させてそれらの種族との融合を図るといった消極的な手段で日本民族を支えてきた。
その思想の根底にあるものは、「和」であり、「愛」であろう。戦いを心底好まない先住民族は渡来族の覇権を「融和」の精神で取り込む、「参謀」的な行為で自らの種族の存在を繋ぎとめる、良くも悪しくも消極的な子孫存続を図ってきた。それは現代でも、舶来趣味と言おうか、外来思想を日本流に取り込んで生き抜く性癖に顕れている。私達はもうそろそろそのことに気ずき、日本人が骨身に沁みて持っているDNAである「和」の精神(多分、これは我々が永く心の底に蓄えている多神教の精神)を積極的な行動で示すべきではなかろうか。
あの3・11の大震災で発揮した民衆の力を日常で持続する方法を見つけることが重要だと私は思う。
私は浅はかにも、天皇制の始原を知ろうと、神武天皇にそれを求めたわけですが、古代史は広く深いことを思い知らされます。

安田喜憲氏は説く、南九州、薩摩・大隅・更に日向が縄文前期より、高度の文化を築き上げていた。(上野原遺跡・かこいノ原遺跡など)その生産方法は豊かな堅果食物とその保存、狩猟や漁猟手段によって、地域の人口を支えるだけの活力を有していた。
安田氏は、それをBC1000年頃の寒冷化による気候の大変動期で、春秋戦国の大動乱期に中国に大移動が行われ、その一部が日本にも上陸した。そして、縄文人も気候悪化に勝てず、稲作を取り入れるようになる。そこで、稲作技術を受け入れようになる。縄文人は稲作文明の階級社会化を知っていて、自らの平等社会を崩したくなかったと考え、縄文期の平等化は「日本」にとって根強かったと言える。(それが日本人の持つ<和>の意義である>

私は、季節変動と中国・朝鮮の動乱と移住は大きな要素だとは思うが、その一方で国力を高める人口問題も大きな要素として横たわっていると考えざるを得ない。南九州の地域では現状を維持する生産手段は保持してはいたが、他の地域はそれを上回る人口の増加は大きく、それに伴う国力の増強はますます大きくなってゆく。
南九州の種族は、安曇海人族の情報によってその事実は把握していたと思われる。(当時は、万葉集の安曇荒雄と宗像海人族(宗像部津麻呂)の融合で見られる通り、交流は親密である)南九州を維持してゆく生産手段は確かではあったが、それにもまして稲作文化の成長力はすざましく、南九州種族はその脅威が自らに襲うことを推察していたに違いない。それが、神武天皇と塩土老爺の会話に窺われる。
特に、北九州、最近の稲作導入による人口増加は著しく、その勢力の伸長は、南九州のシラス台地の生産力では限界があることを熟知していた南九州種族は、自らが生き抜く豊かな生産力を保有する土地を探し求めていた結果が神武東征に繋がったと私は結論つけた。
四川省の大地震は私達も3・11を経験して,身につまされるだけに心配である。被災された方々は大変だろうと察してあまりある。

私は四川省の蜀について調べていただけに、気が動いてしまう。蜀には、三星堆遺跡が存在し、中国の歴史を変えるような高度の文化遺跡が無事だったろうかと、思いをめぐらす。
5000年前に強固な城壁を持つ三星堆遺跡は我、大和にも影響を与えた「倭」の地であり、多分、養蚕の初めだと思われる「蚕叢」と言う王朝が存在していたのだ。それは高度の築城技術と灌漑技術、壺や土器、璧や呪術的な器具、大公共施設(祭祀場を兼ねる。・・・三内丸山遺跡の集会場にも似ている)や道路など古代都市(計画的な都市政策の窺われる)その頃の黄河付近の文字を持った漢民族と遜色のない高度な文化が窺われる。

蜀は日照時間が少ない地域で(蜀犬、日に吠えるの諺・・・太陽の照る時間が少ないので、太陽に驚いた犬が吠えるという)「扶桑」の名を持った太陽樹が語られている。そして、異獣婚姻譚・・・馬と娘が結婚して、それを忌んだ父親が馬を殺した為、樹に吊るされた馬の皮はそこに娘が現れると皮で娘を包み、天に昇ったという。これは東北にも伝わる伝承(オシラ伝承)で私は「蜀」と「東北」には日本海の対馬海流が取り持つ「縁」を感じる。

四川の地震を悔やみ、そんな日本との目に見えない糸を覚えるのである。
私は以前からの持論であるが、現在の米国が軍産複合体と金融資本の世界進出を改めない限りはボストンで阿こった悲劇は繰り返し起こる。新自由主義と称して新市場主義を貫くなら、一部の大資本家が豊かになり、多くの人たちが貧困に悩む、大量の商品を捌こうとすれば、多くの消費が必要になるのは子供でも解る。

当然消費地を次から次ぎえと開拓をしなければ、その商品を捌くことなどできないのは自明の事実である。しかし、米国が目指す商品は第三次生産品で付加価値を目標にした、言ってみればあぶく銭をいかにして儲けるかといった無責任な商法である。市場などどうでもよく、要は儲ければいいのだ。

こうした商法を貫けば、行く末破綻するのは目に見えている。私はこういう経済覇権主義はもう止めにしなければ、人々は不幸になると断言する。

今は意識改革が必要な時なのだ。
千田氏は「もともとは安曇氏も隼人と同じ根拠地を阿多地方に持っていた可能性があるのではないか」と述べています。
こらは、滝川政次郎師や谷川健一師の江南より九州にやってきた渡来の民が安曇氏ではないかとの主張と同じくする。以前の述べたが、滝川師は渡来の民は北九州に着いたのが安曇氏で南九州に着いたのが隼人でるとするが、隼人は元々、熊襲(熊曾)の後裔で縄文からの先住民族であると私は思います。その点では、中村明蔵師の説を支持する者です。
曾と薩摩は大隅諸島からトカラ、種子島、屋久島、沖縄などの南方諸島と関わる海人族、特に上野原遺跡とかこいノ原遺跡から現れる先住民族の先進性が中国・江南との交流を可能にしている。開放性な革新性が海人族には観られ、古代では異民族との交流が文化を高めている傾向が見られ、私は南九州、特に薩摩・野間半島と大隅の曾に注目している。余り学者の間では問題にされないが、上野原遺跡やかこいノ原遺跡の先進性はもう少し研究の余地を残していると言いたい。一万年前に定住を果たし、私個人的には、土偶や耳飾の存在は呪術(現代的には科学的思考か)が存在し、連結土坑や集合遺跡の生活状況は先進性に富んでいると思われるのだが、ことさらに「大和の政権」は南九州を野蛮のレッテルを貼りたがる。まるで、中国黄河民族が南部長江民族を軽視する発想に準じているように思えてならない。
私は隼人と安曇そして久米氏が南九州の先住民と渡来民の融合を解く鍵を握っているような勘がする。
「この印文土器に関連して、貝塚茂樹氏は次ぎのような興味ある事実を述べている。<1954年、中国の江蘇省丹徒県の揚子江の台地で、十数個の青銅器が発見された。その中には周初の中原式の銅器が混じっており、その器の銘文に「宜候矢(そく)が周の康王によって、この地に封じられた」と書いてあるのがあった。かつて呉国は周の二王子の太伯と虞仲が弟の李歴(王李)に王位を譲るために南に奔り、蛮族中に身を投じて建国したと伝承されていたが、この呉国の建国の物語りは、事実とは無縁の説話とみなされてきた。しかし、「二王子ではないが、ともかく周族の有力な貴族が揚子江・江南の宜という植民都市を建てたことは、まぎれのない歴史的事実であった」と貝塚氏はいう。(中国の歴史)こうした発見から倭人の原郷を呉にもとめる伝承、すなわち「魏略」の「倭は自ら太伯の後なりという」とある一句も、従来のように盲説として、退けられるものではなく、より歴史的真実に近ずいたとみなすことが可能である>
坂井こうじろうと言う人が渋谷の地下鉄移動について一言ものを言っている。

渋谷の地下に一点集中して駅を造ってしまい、東急と西部鉄道にとっては便利になったが、井の頭線を利用している人は不便になったと言う。かつて渋谷は放射条に町つくりをされていて、全体のバランスに心を配って、たいしゅうが集約化をされなかった。映画館一つとっても、第一上映館が駅の側にあれば、第二上映館は離れた道元坂に」建てられていた。町並みも一点に集中する事もなく、客の足が分散して町が平均に込むように気を配っているのが解る。

しかし、今度の地下鉄の建設は町を一点に凝縮してしまって、客足も渋谷の町をくまなく歩くという設計にはなっていない。
考えてみれば、この方法は一部の経営者が自分のところの利益しか考えないから、そういう利己的な発想になってしまうのであり、私達がかつて思い描いていた全体の中の一部の精神を置き忘れてしまった結果からそうなるといえる。

今の余り頭のいいとは思えない政治化たちは小さなアメリカを目指して、着々とグロ~バル化や新市場主義化を進めようとしているが、この考えを推し進めると、一部の大資本が金の力にものを言わせて、巨大化してゆくだけだ。得をするのはアメリカとそれに追従する日本企業だけが(結果として彼等もアメリカの一部の資産家に隷従されることになるのだが、そうした想像力が彼等にあるとも思えない)栄えることになる。我々は益々貧困化して貧しいアメリカ人たちのようになってしまう。
私達日本人はこうしたある個人だけが栄える風習には体質的にあわないのです。日本において何故、官僚構造が崩れにくいのかは、私達の心の底に官僚共存主義みたいな精神構造が出来上がっているからで、私はこの構造を悪しき構造に使われないように、ここでもうひと分張りして考えなおさなければならないと思っています。
H・シュリ~マンは神話は史実に基付くと唱える。私もまた、その説に一類の真実を見る。

巷間、「呉」の建国伝承を創作とする説が多い。だからであろう、「晋書」や「梁書」などに倭の官吏が自らを「呉の太伯の後裔」と唱えると記しているが、その信憑性を信じるものは少ない。

ただ、1954年、中国の江蘇省丹徒県の揚子江の台地で、十数個の青銅器が発見された。「宜候ソクが周の初めの中原式の銅器が混ざっており、その器の銘文に「宜候矢(そく)が周の康王によって、この地に封ぜられた」と書いてあるのがあった。<これは、太伯・仲擁ではないが、ともかく周族の有力な貴族が揚子江南に「宜」と言う植民都市国家を建てたことは、紛れもない歴史事実であった。と、「中国の歴史」で貝塚茂樹氏は語っている。

私もこの史実を根拠として「呉」の建国があったと考え、「建国伝承」も強ち、創作なのではないとかんがえている
滝川政次郎は江南から黒潮に乗って北九州に着いたのが安曇族で南九州に漂着したのが隼人族だと説き、谷川健一師もその説に賛同しています。しかし、南九州には曾族の後裔である隼人は先住民族だと中村明蔵師は唱え、私も隼人は渡来民族ではなく、先住民族とする説に賛成します。南九州に着いたのも、やはり安曇族なのです。しかし、文献にはその痕跡は見られません。それらしい記述は、ニニギ命を曾(襲)の地から先導して、笠沙に行った久米氏が見られ、そこで大山祇神の娘の吾田鹿葦津姫と出会い血縁します。

笠沙は現在の加世田市で野間半島・隼人の地です。滝川師が安曇族を隼人と混同したのはそこが薩摩で隼人が居住し、ニニギのように隼人の娘と血縁して安曇の名称を消してしまったのではないでしょうか。
明らかに吾田鹿葦津姫(コノハナヤサクヤ姫)は薩摩の海人族・隼人であったようです。
又、大山・・祇・・は「山」と「つむ」二つの意味を持つ神で、山と海を司る神だと言って言いと思います。この先住の頭領もかつて海からやってきた海人族の土着化であったと思われます。(ニニギ命が殺されることなく曾族に受け容れられたのは海人族の交流による情報がゆきとどいていたからでしょう)

私は初期の神話による安曇族の存在を非常に重要視しています。それは隼人の海幸彦伝承とも関りがありますが、久米氏もまた何かしらの伝がりがあるような気がします。(今昔物語・久米の仙人の説話で久米氏と安曇氏は同族か乃至は親しい種族だと記していますし、上加世田遺跡から出土した「久米」の土器片がそれらしい証左しかないのですが)
いずれにせよ。安曇氏と久米氏、隼人の海人族としての交流を確かめなければならないのは確かです。

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。