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人形・木偶(にんぎょう・ひとがた)について調べてみる。人形は「偶」と表現され、白川静師の「字通」を中心に解読してみようと思う。

偶は人偏をとると、声符は「グ」と読み、意味は「手長猿」を言うと記されているが、他に頭は鬼、身体は蛆(うじ・むし)であると言う。
鬼は死んで白骨化した状態(水がない状態)をいい、虫は総体的に「蛇」を言う。しかし、「偶」は私の「字通」からの推察から言うと、土葬で半ば、白骨状態の腐乱した状態をいい、それは恐ろしい形相の死体、つまり「蝮・まむし」の印象が抽象され、死んで白骨状態の形を言う。それが転じて人形は黄泉の国にいまだ浮かばれない精神状態の鬼を言うと、解釈される。

「偶」は人形を読むが、実は、現実と神(天国)との間を彷徨う死人とも生物ともいえない中途半端な存在であろう。
人形が無気味なのはそのことによる。神木を仲介して、地上に降り立った荒神が人形かと思う。
日本人は天国を地獄と紙一重の世界を思い描いている。多分、同じ建物にある異次元の場所なのだろう。
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近世、西宮の浦に道君坊という翁がいて蛭子大神を慰めるために小さな人形を作って舞わした。
道君坊が亡くなって、海が荒れ、漁ができないので、百太夫が道君坊の人形を作って、神の前に舞わすと、波風が治まった。
百太夫は都に登って、時の帝に召され、その芸を披露して、叡感あって「諸伎芸の首(おびと)」を授かり、諸国の神前に人形を舞わせた。これが傀儡師の初めで、百太夫は淡路三原郡三条で亡くなるが村民がその芸を伝えて淡路操座を興した。(でくのぼう・でくんぼう・てくるぼうと人形のことを言う)

この百太夫は、宇佐八幡宮の「放生会」で隼人を討伐する為に、傀儡師を使って「細男舞」を人形に舞し、隼人を誘い出して、惨殺した。一面血の海であったと言う。

ところで、その人形の起源だが、その初めは神木から作られたと言う。そもそも、神木は天と地の介在をする精霊であり、神は雷となって神木に乗り移り、地上に達する。神の依り代こそ木なのである。その依り代から造られたのが人形であると言う。
人形には二通りの考え方があり、一つは依り代であり、もう一つは生贄としての形である。
かつて、天の怒りを鎮めるために、人は生贄として人を捧げた。しかし、時代を経るに従い、生身の人間を人形に買えて捧げることになる。その代替物が人形なのだ。尾張地方に伝わる「屠人放(ほとほり)」の神事がその例である。

伝承として、海人族の言い伝えと言うのが通説だが、しかし、私は少し疑問を持っている。と言うのは、木は海の産物とは思えないからである。悪まで、木は山の産物で、伝承の初めは山地にあったと考える。

「古事記」の吾田鹿葦津姫(このはなやさくやひめ)は海の巫女であろうが、その父は大山祇神で、「山の神」である。又、火照命(海幸彦)は海の神だが、彦火火出見命(山幸彦)は山の神である。「古事記」の説話は常に山の神が優先をしている。神話の主体は、山の民なのである。

私は縄文以来の信仰が、初期の神話では主体であり、その後、海の民がやってきて、その地位を奪おうとして、伝承を形作ろうとした記憶が、それらの神話に反映したと考えている。
面白い文章を見つけたのでメモをしておく。

「薩摩隼人」の「サツ」も「幸・サチ」に由来するもので、釣り針や弓矢の呪術的霊能を信仰する狩猟民・漁労的性格を持つ。「隼人舞」は服属儀礼に於いて「海幸」の溺れる様を演じるとされているが、これは元々、「神隠しの術」である。これは身を激しく動かし、痙攣させたために、朝廷ではその舞いを演じる部族を全て「隼人」となずけた。それ故に熊襲と隼人あるいは、肥人(こまびと)と言っても、種族的な差を示すものではない。職能などによって、それぞれの時代に名ずけられたものである。
思考法として「垂直思考」と「水平思考」とある。

神話について、「垂直思考」とは真実や象徴を表し、「水平思考」としては歴史や事実を現していると言える。
ニニギ命の降臨は<曾・襲>に降りたわけだが、それは象徴としての<曾>(古事記の表示・私はこの表示は正しいと考える)は<むかし>と読み、白川静氏によると<曾>は甑に通じると述べている。

<曾>は大隅(桑原郡)周辺を言う。その地域にはBC13000年の「上野原遺跡」が発見されている。この遺跡には集積遺構・連結穴坑・丸型平底土器・竪穴住居・大壺・石皿・石匙・敲石・土偶・耳飾・異型土器などが出土している。特徴の一つの集積遺構は蒸し機と言える。つまり、<曾>と名付けられても不思議はない。
この上野原遺跡を<曾>と名つけてもいいであろう。

ニニギ命は「古事記」では<曾>から真来通って「笠沙」に行き着く。図らずも、その「笠沙」には上野原と同時代の「かこいノ原遺跡」がある。出土状況は「上野原」と同様だが、大きな違いは「かこいノ原遺跡」には定住したと思われる竪穴式住居が発見されていない。しかし、もう一つ「かこいノ原」には丸ノミ式石斧が出土している。「かこいノ原石斧文化圏」は大隅諸島、トカラ諸島、種子島、沖縄諸島まで広がっている。そこは海人族の活動地域で、丸ノミ式石斧が、丸木船の製作用具である事から丸木船による航海が行われていたと推察される。
特に、種子島の「大薗遺跡」から東北・亀ヶ岡の<大洞式土器>が出土している。
これは対馬海流とリマン寒流系を利用して、交易が行われ、異文化や物々交換が行われていたことは考えられる。かなりの古い時代から航海による各国の交流があったことは考えられる。
野間半島に戻そう。この半島は黒潮との関係で、南島・江南の漂流物が流れ着いている。「かこいノ原遺跡」はその象徴的遺跡といえる。そして、その地に、ニニギ命は「笠沙」で阿多姫(コノハナヤサクヤ姫)と遭遇して娶っている。阿多はその名の通り「吾田」・吾田隼人の居住地である。

私はこの史実は単なる偶然であろうか。私には八世紀の「古事記」の編集者は「古老」や「巫女」の伝承から知っていたのではないかと思う。

谷川健一師は「縄文からの連続性」を真実だと思うし、ユングの「集合的無意識」はDNAによる夢の具現をリルン的根拠として、また「黄色い葉の精霊」(ベルナツィ~ク)に記載されているインドシナ半島の山岳民族・ミャオ族の首長の驚異的な記憶力・動物に匹敵する感性・そして首長(呪術者でもある)は古来からの伝承を暗記できなくては資格を与えられない。と言った記述を思うに、「巫女」の<天語り>や<神語り>の歌伝承、また「古老(呪術者)に太古の伝承の記憶がなされていたと言う推察も考えられる。

「上野原」から「かこいノ原」の移動は、実は<曾>の伝承は象徴としての話しで、「かこいの原」が史実としての事実のような気がしてならない。そう少し根拠が欲しいが残念ながら、これ以上の説明ができない。
何やら、御前試合の夢を見た。如何してこんな夢を見たのか解らないが、面白かったので創作する。

生死をかけた戦いであった。向き合う両名は、一方が太刀、他方が短槍であった。勿論、真剣である。裁く審判も又、紋付白袴で白たすきで、大地を固め、足を僅かに開く。軍配は雷となって稲びかり、風雲急を告げている。
「オウ」と裂ぱくの気合を発すると、両者は左右に分かれて、対峙する。両者とも正眼に構えて、間合いをおく。先ず、攻撃は槍の鋭い突きから始まり、ハッシと青い剣が受けて払う。鷹の発する金属音がして、熱い火花が周囲を緊張させる。
槍は獲物を狙う、くちなわのように素早く鎌首を伸縮させる。眼光は黄金に光り、切っ先は真っ赤な炎となって、相手の急所を狙う。猛虎は素早い動きで、それを防いだ。数合の絡み合いは、一瞬、二人に間合いを許す。・・・間ができ、両者の額から一筋の汗が落ちる。たちまち、汗は充満して噴出し、太刀の男の肩が緩んだと思う瞬間「殺られる」と翳める。審判も殿上の主君も、短槍に気迫を視た。
が、暫らくは息苦しい沈黙が流れる。非情な審判は、その間合いを許さない。「はっ」と気合を付け、再開を促す。再び槍が空間を突き崩し、風を起こして、雷鳴を呼ぶ。槍を引き、蛇のような素早さと陰険さで突きまくる。太刀は防戦一方である。刀は耐えて槍を払い小刻みに左右に飛んで、槍の矛先を交わそうと必死である。しかし、蛇槍は龍と化し、大地に根を張り轟き渡り、防ぐ虎を飲み込もうと希う。最早、勝敗は見えていたかに思われる。虎の動きは封じられ、息を止め受けて立つより術を知らない。持久戦は負けに等しい。槍は直も激しく風となって付き捲る。
一瞬、太刀は止まって静止したかに見えた。槍が鋭く相手に迫るが、一息、判断の迷いが垣間見られた。止まるはずのない相手が命を捨てて、的となる。その予期せぬ思いが槍に躊躇いが生じる。突いた槍は確かに相手を捕らえてはいた。しかし、浅かった。致命傷にはならず、胸の上部を刺し、相手の皮膚から血が吹いた。と、太刀は槍を払いざま、相手の右肩を斬った。手ごたえはあった。次ぎの一瞬、太刀もまた、踏み込まなかった。そのまま、にじるように後ろへ下がった。攻撃を止めたのである。
それは掟違反である。勝者は必ず、敗者を葬らなければならないのだ。そして、倒された敗者を確認してしんばんは軍配を上げるのである。それが「神」である審判の役割なのだ。
しかし、審判は水平に軍配を保ち続け手から、それを引いた。そして、殿様に向かい「勝負がつきました」と宣言したのである。殿様は厳しい口調で「軍配は降りてはおらぬ。その方の肩にある」と咎める。「死罪は私めに」と審判は膝まずく。殿様は「それ」と正殿の片隅に控えているつわものに告げた。審判の武士は両脇を殿様の家来に捕まれ、試合場を退いた。
その時、敗者の槍の武士に向かい「死ぬな。必ず生きて大役に殉じろ」と告げた。
「何を」殿様は審判を詰る。「掟は掟だ」殿はそう呟くと、目を見開き、それを仰ぐ。

これは先日見た夢を書き付けてみたのである。ここから様々な状況が考えられる。後日、その試合の前後を創作し、少し物語を展開してみようと思う。
政治家が哲学を語るのは当然だが、無闇に本音を語ってはならない。現実に対処するのが政治家の役目である。橋下氏は従軍慰安婦を正当化し、卑俗な人生論に置き換えてしまった。政治は国民だけではなく、他国との関係を考慮に入れながら、持論を語るべきで、世間話のように気楽に政治的話題を語るべきではない。庶民はその軽率さを身近と勘違いして拍手しているが、大いに間違いである。政治家は私人ではない。公人で国民と国に責任を取るべきなのだ。それを勘違いして橋下氏は本音を言うことで「うけ狙いを画策する」タレントではないのだから、人気取りの発言だけは辞めにして欲しい。

橋下氏のようなタレントまがいの人間は政治家になるべきではないのだ。昔のように「行列のできる某」のタレントとして余生を送ることを望む。

縄文時代の住居について書籍をよんでいる。

出雲や吉備、長野(釈迦洞遺跡など)も興味があるが、私は何より、三内丸山遺跡と鹿児島の上野原遺跡とかこいノ原遺跡に食指が動く。

今、三内丸山遺跡(BC5500年から4000年)について数冊読み終わっているが、この遺跡の文化意識の高いことに驚いている。各地との交流もさることながら、自然環境に対峙する姿勢は現代人の姿勢と劣ることは無い。
例えば、稗(ヒエ)はイヌビエと言う野生種と栽培種が渾然している。ヒエは食物として有効な穀類で大量に貯蔵できる。だから、栽培種だけで言いようのものだが、彼等は敢えて両方を収穫させている。自然の災害を考え、その自然に対しての生育の強度を考えて、敢えて野生種の逞しさを温存する。栽培種は純度も収穫量、計画性も有効なのだが、病害に弱いと言う欠点がある。そこで彼等は、敢えて強度のある野生種を残して、災害時に具えている。何と言う読みの深さであろう。それだけ自然界の猛威は強烈だということもあろうが、総合的に事態に対処する精神の高さは現代人にも匹敵する。

羽生淳子氏(元バ~クレイ大學準教授)は外国の例を紹介している。ある北米の種族は狩猟採取を移動型と定住型に分け、移動型は日々の食を集める拠点を持ちそこに簡単な住居を構えて、貯蔵施設を置き、そこから定住の住居に運ぶと言った合理的な仕事をしていると述べている。西欧の分析、合理主義的な定義である。

しかし、三内丸山遺跡はそれに当てはまらない。彼等は完全に定住をしており、食は狩猟、採取、漁労なおも農耕(と言えるか疑問だが)と言った総合的な食の獲得をしている。
それだけではない。黒曜石、琥珀、瑪瑙、アスファルトなどの他国との交流さへも行っている。特に注目すべきは、オオツタノハ・タカラガイ・イモガイなどの貝類でこれは南島にしかできないもので、かなり遠方からも交易は行われていたと言える。住居と墓の峻別、水路や道の建設、巨大な集会施設(共同作業所かもしれない)、20米にも越する楼閣(使用目的には諸説ある)川の使用目的にも決まりを設けて川が汚れない配慮がなされている。これは明らかに、目的意識を持った都市構想的である。

私は西欧の分析・合理的な住居感覚とは異なる一見無駄さえも感じる総合的な志向に感心する。
そこには、縄文人のアニミズム感覚、あらゆる「もの」には精霊が宿ると言う信仰が根底にあることを思う。分析的合理的な思考のほうが精度や進行速度は速い。しかし、人間中心的なので自然を支配するため破壊し、よごしてしまうと言った欠点もあるのだ。総合的に物事を取れえれば、進行は遅いが縄文的な発想の方が優れていると私は思う。
今の世界情勢を見ていると、人間中心の独断的な振る舞いが、自然を汚し、人間に格差をつけ争いの根になっているように思えてならない。縄文人が、いや、三内丸山人の1500年にもわたる繁栄を思うと、「和」による緩やかな階級性(原始共産制でもないだろう。その中間か)は人間同士の諍いを回避しているように私は思えてならない。
三内丸山遺跡を大林組はかなりの評価をしている。BC3500年の縄文中期の遺跡は都市としての機能を完全に果たしていたと評価している。都市は他民族との交流が恒常的であり、市場が開かれていなければならい。文化や宗教の情報交流の場でもあると規定する。
確かに、三内丸山からは新潟・翡翠、黒曜石は北海道、長野・諏訪霧ヶ峰からのものである。秋田や山形のアスファルト、岩手の琥珀、さらに関東の御蔵島・八丈島のゴウホラ、オオッタノハが出土している。これはかなりの交流があったことを意味している。

三内とは少し離れるが、青森・亀ヶ岡の大洞式(おおぼらしき)土器が南海の種子島の大薗遺跡から発掘されている。(縄文後期)そして、日本書紀の崇神天皇紀での「神宝」の条で出雲の神宝を請い、出雲振根が筑紫に行っていたため飯入根が譲渡したという件では出雲振根は多分、舟で筑紫へ向っていたと思われる。

出雲は神在祭で南方から黒潮に乗ってやってくる「セグロウミヘビ」を祭壇に捧げる。当然、彼等はそれが日本近海では捕獲されないのもであることを知っている。「常世から来る神に相当する」と言えば神話的だが、その原産地は解らなくとも、暖かに南方のものであることは理解していただろう。対馬海流に乗って、他国の海人族が出雲に漂着しているのは確実であるから、「ウミヘビ」の確認くらいはしていたはずである。

これらは縄文人がいかに船による他の地域との交流が数多くあったことを証明していたと思われる。
舟はBC一万年にはかこいノ原遺跡には製作されていたと思われ、それが大隅諸島、トカラ島、種子島、沖縄までかこいノ原・丸ノミ式石斧文化圏が広がっていて、その技術は丸木船を製作していたであろうから、海人族として他国との交流を可能にしていたと思われる。(長い時間的な経過の間に、遠洋航海に耐えられる舟の改良は必ず行なっていたに違いない。彼等は命を張って航海を続けているのである。自らに命を保証するために航海に耐え得うる改良は当然の帰結である)

三内丸山遺跡が縄文時代にかなりの他国との交流があり、高度の文化的な情報を交換していた事実が私には驚異であった。私達が考えている以上に縄文時代は高度の文化水準にあったと言うのが事実であろう。
ベルナッナ~クは「黄色い葉の精霊」でミャオ族について色々語っている。その文章をつずって見る。

<ミャオ族がひどく勤勉であり、有能であり、また、実際的な人々であると知った。彼等は肉体的に非常に困難にもよく耐えるばかりか、心気闊達でもある。彼等は文字を持たず、話し言葉以外に意思疎通の手段を持たない。しかし、驚くべき記憶力と皆の巧みな表現力の才能とが太古の口伝を世代から世代と伝えている。それは首長となる資格の一つで、呪術者として太古の口伝を知らないものは資格を与えられなかった。

ミャオ族の古い諺は「魚は水のもの、鳥は空のもの、そしてミャオ族は山のもの」と言う。ミャオ族は中国の湖南省、貴州及び雲南省に住み、さらに北部インドシナとミヤン諸州にも居住して、北部タイにも移住している。彼等の口伝では、彼等が蒙古やシベリアの遠い高地に住んでいた過去があったと伝える。(この文章は徐朝龍氏の苗族の軌跡と一致します。彼は苗族を中国・黄河の北方種族だと説き、黄帝を象徴とする漢族に滅ぼされ、長江流域や山岳に散らばり、先住民族と融合して種々な種族を生んでいます。「呉」や「越」などの倭族・・・さらに朝鮮半島南部や日本列島の「和人・倭人」とも繋がって行きます)

ミャオ族のチン・ツァイは密林の中を慎重に進んだ時はその目は輝き、歩みは敏捷であった。彼は山中で動物が塩を舐めに来る場所、泥の上でころげ廻っている場所、あらゆる動物の棲息地と通い道を知っていた。彼がどんな音からも正確な情報を聞き取り、野鶏や鳩を呼び寄せる呼び声を口笛で吹き、手長のギボン(手長猿であろう)の震える声をそっくり真似る。おまけに木をこすってはそれらの群棲動物を欺き、おびき寄せた>

私はこれを知って、多分縄文時代の呪術者や巫女もまた、驚くほどの記憶力で太古の大自然との生活に関わる口伝や生活必要な情報を幾万の数で記憶していたに違いないと推察する。それは現代の私達が電算機に記入された項目に匹敵するのではないだろうか。言ってみれば、古代の思考考古学と言っていいだろう。彼等は口伝で考古学に相当する項目を記憶していたと、「黄色い葉の精霊」は教えてくれる。

ニニギ命の「天孫降臨」と「笠沙」への移行。それらが「上野原遺跡」や「かこいノ原遺跡」と一致する事実が気になっているのは、この種の文献がそれを物語っているような気がしてならないからです。考えすぎでしょうか。

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