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2013.08.14 安倍氏の癖。
安倍氏は語尾を曖昧にするような話し方が私は前から気になっていた。
ある心理学の本を読んでいると、意志薄弱な人の例として書かれていた。他人異存、判断の欠如が現れると言う。
もしそれが当てはまるとすると、彼は主体的な判断が欠如していて、他人の意見を自分の意見のように表現している可能性がある。具体的には官僚や政財界の受け売りである。
以前、彼は日本を「美しい国」とすると発言した。確かに、日本は緑の山々や清冽な渓流、豊かな資源が蓄えられた海に囲まれた美しい国である。その風土から、産土の神が祀られ、食性や仕来りが生まれ、文化が生活の習慣が反映する。その循環を彼はどう考えているのだろうか。TPPや原発の海外売り込みや推進は「美しい国・日本」とどう関わるのだろう。嘗て、小澤一郎氏は自らの政治理念は「仁徳天皇の国見思想」がと唱えた。ここには古い日本文化を紐解いた軌跡が窺われる。しかし、保守主義者・安倍は日本の古来から現れる痕跡も見られない。
私は彼が憲法を姑息に変えようとする、いじけた心・一見、西洋近代主義を装った中途半端保守主義のような気がしてならない。
彼はもっと日本が古来の古典を勉強して欲しい。日本の保守の原点は「和」なのを心底知って欲しい。
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TBSテレビ放映の「生きろ」を観映して、官僚のあり方をつくずく感じた。島田は兵隊でも政治家でもない。彼は役人である。敗戦六ヶ月前に沖縄県知事を受ける必然性はない。本当はその個人的な理由を聞いてみたい気もするが、テレビではそれには触れていない。言えることは彼は軍人ではないのだから、あの劣悪な状況を拒否することもできるはずだ。それを島田は沖縄人ではない、兵庫県人であり、最終学歴は三高(野球の名手)だから、何故沖縄で火中に火をとる必要があるだろうか。私にはよく理解出来ない。

ただ、現実に島田叡は知事を引き受けており、先任の荒井退造警察本部長と共に軍部に抗して県民を救済してゆく。
彼等は明朗に狡猾にそして、真摯に軍部にあたる。「照る照る坊主照る坊主」が彼等の合言葉である。

この言葉は非常に恐ろしい呪文で、農産物の収穫が望めなくなってゆきずまった農民が生贄を覚悟の上(多分自分の娘だろう)神に捧げ、報われなかった時には娘を殺す祈りである。

この詩は島田・荒井の両氏を暗示するように、彼等は沖縄いや、人間として身を犠牲にして黄泉の国へ向う。
島田の言う「断じて行うは鬼人もこれを避く」は虚しく響く。彼等はテルテル坊主として贖罪したのだろうか。
赴任の時、島田は大阪に妻子を残してきたのは、覚悟だったのか運命を感じたのだろうか。それとも黒い糸に導かれたのだろうか。非常に霊意に満ちた映画であった。
月読命については、資料不足でその確定には自信がないが、創造的試論を試みてみる。

私は古代史における漢字にはあまり信を置いていない。そのため先ず、「かな」に戻して考える。

「つくよみ・つきよみ」は「着く黄泉」と読んでみる。黄泉は月読命とまるで関係のないものではない。イザナギ命の禊によって生まれたが月読命である。イザナミ命ととの決別がその原因で、黄泉の穢れを祓うための行為であった。その結果、月読命は「食(お)す国」を任される。通説では「食す国」は暗黒の黄泉だとされている。しかし、私は少し異なった意見を提示したい。

妻・イザナミを夫・イザナギが迎えによくと、イザナミは「黄泉戸喰い」(よもつへぐい)、つまり黄泉の食べ物を口にしてしまったので、黄泉の大王の許しが必要だから許しを請わなければならないと、奥に引き下がる。イザナギはあまりに遅いので櫛に火を燈し、部屋を覗くと、妻の身体は腐敗してそこから雷が発していた。

これは土葬の現実的な表現で、地中に埋められた肉体は地の中で栄養分に変化し、雷は豊穣をかもす霊気であろう。「豊穣」の根源がイザナミを言える。「食す国」とはそのことだと創造する。
イザナミこそ月読命だと私は考える。その前身は「土偶」の地母神信仰であり、俗説化したものが、山姥伝承であろう。
勿論、この説に対する根拠を提示する作業が必要だが、残念ながら今、私は「神武東征」に主眼を置いているために更なる考察が不可能である、今は仮説に留めたい、そのうち主題が完了したあかつきには根拠を追及してみたいと思っている。
私は愚かにもある時期挫折感から占領軍被害者の仕事を放棄して弟にゆだねリタイヤしてしまった。その時引継ぎて、資料を彼に渡してしまったので、正確な知識ではないが、この会の象徴的な案件であった菊本文雄氏のことをお話しようと思う。

彼は昭和21年当時30代後半であったと思う、国鉄(現在のJR)職員で線路修理の仕事に従事していた。彼は補修の仕事に神経を奪われて、背後から貨車がくるのに気がつかなかった。二人の酒に酔った米兵が背後のポイント(貨車運行操作器)を抜いて貨車を走らした。菊本氏が気がついた時は間に合わなかった。彼は両足を切断して自由に仕事が出来ない身体になっていた。国鉄を追われ、生活保護で生活をしている中、妻子を養おうと親類・知人から資金を集めて、義足と特殊な車を購入して、印刷業を始めた。その直後、彼は生活保護を打ち切られた。彼は福祉事務所と掛け合い、軌道に乗るまで生活費の援助を申し出たが、法律外の一点張りで許可されなかった。
だから、彼はこの補償法制定に大いなる期待をしていたのだ。自らの生活を向上するためには多少の資金的補助は必要であった。
しかし、それも適わぬ望みであった。補償法の制定は政治家や官僚の志向から外れていた為、議員立法では難しかったのである。

菊本氏は涙を流して怒った。私は今でもその暗く怒りに燃えた目で「この国は障碍や貧乏から脱却しようと努力しようとするものには冷たすぎる。官僚はいかに無駄に税金を使っているのを私は知っている。その一部でも弱者に回せないのか」と涙を流したのを覚えている。

菊本氏のような人こそ補償法は必要だし、生活の援助はすべきなのである。矛盾と言うよりやり切れなさでいたたまれなかった。
私の記事が昭和51年の朝日・ニュ~ス三面鏡に掲載された。

見出しは「米兵犯罪の被害調査に執念。堀本さん、補償法に熱のない政府」である。

その時の記事を全文掲載してみる。

夕日で病院が真っ赤だった。ひん死の父に、祖母が「生き返ってくれえ、生き帰ってくれえ」と夢中でお経を唱えていた。
五日夕、米兵犯罪を告発している東京地裁の「笠井訴訟」に、国側との和解交渉開始で姿をみせた東京都新宿区北新宿三丁目、会社員堀本隆興さん(三三歳)は、昔の記憶をたぐっていた。
堀本さんの父、稲夫三(現在六六歳)は二十三年(誤記・二十年)暮れ、杉並区浜田山の自宅付近で二人組の米兵強盗にピストルで撃たれ、頭部貫通の重症を負った。一年入院して命をとりとめたが、左半身不随、テンカン持ちの身体になっていた。社長をしていた建築会社はあっけなく倒産した。
暗い青春だった。風の便りに米兵はぐんぽ会議にかけられて、本国送還された。と聞いただけだ。日米間になんの取り決めもない時代だったから一銭の補償も出なかった。生活保護を受けた。両親のケンカが絶えなかった。弟と一緒に父を背負って、国会や政党を陳情に廻った。大学を中退しなければならなかった。
いま堀本さん終戦前後被害者が結成している占領軍被害者遺族連盟の理事である。「オヤジを殺してやりたいほど憎んだ。やっとオヤジの心がわかってきた。執念を息子が継いでやらなければ、オヤジは浮かばれんでしょうからね」
都内の被害者の犯罪を調査してまわっている。ジ~プに両足を根元から切断された男性。夫が下腹部を撃たれ、子供の出来ない夫婦。娘を暴行殺害され、生活保護を受けている老婆。三十六年に占領軍ん被害者給付金法ができ、防衛施設庁自身が「涙金」という金額がようやく支払われた。
堀本さんの父、稲夫三は四年前から東京都は拝島市の老人ホ~ムで寝たきりになっている。脳障害がある。人の話は聞かない息子の顔を見れば「おれは国に二億円の貸しがある」偏執狂のように繰り返すだけだ。だから堀本さんはまだ独身である。




私はもう30年前に被害者連盟についたは語るのは終わりにしたいと思っていた。しかし、この頃「語り部」について考えているうちに、寿命がなくなるまで戦後のというより昭和20年から26年の講和条約締結までの治外法権の時代の米軍の犯罪行為について語って行こうと思い出した。

先ず、吉川よしさんについて話そう。彼女もまた、全国占領軍被害者遺族連盟の会員であった。
昭和21年に彼女の一人娘が犯罪に遭い死亡した。年齢20歳、銀座の松竹映画館に勤務していた。その帰途の出来事であった。自動車で彼女の横に乗りつけ車内に引きずり込んで強姦の末車外に放り出したという。彼女が激しく抵抗した為突き落さざるを得なかったのだ。

昭和26年までは日本は米国に占領されていてこの種の犯罪は米軍ないで処理され、軍法会議とやらで採決されて大体が微罪で済まされた。

吉川さんの落胆は目に余った。当時、細々と下北沢で麻雀屋で糊塗を漱ぎ、娘さんを育てただけに吉川さんの嘆きは一角ではなかったが、警察も国もましてGHQさえも門前払いで取り合ってくれなかった。
そんな時、私の父が起こした被害者連盟の存在を知り会員となったのである。

吉川さんにはもう一つの運動があった。それは猫虐待に対する反対運動である。その動機は彼女の娘さんが無類の猫好きでその可愛がっていた猫が失踪して、尋ね歩いた先で解ったことは、猫が三味線を作る業者に捕らえられ、その皮をはがされて三味線にされたことから、三味線業者の三味線製造反対運動も行っていた。

その吉川よしさんも補償法制定運動の最中に鬼籍に入ってしまい挫折している。

葬儀は貧しく参列した人も僅かであった。今、又、ご冥福を祈る。
新墾田の、鹿猪田の稲を、倉にあげて、あなひねひねし、吾が恋ふらくは(三八四八番)

訳・新たに開墾した田の、鹿や猪の荒らす田の稲を刈って、倉に積み上げて、ひね米になるように、ほんに、ひね米のようになってしまったよ。私の恋は。

この歌には、忌部首黒磨(いんべのおびとくろまろ)が夢の裏にこの恋の歌を作って友人に贈り、目が覚めてからその友人に暗誦させてみたら、全くその通りであった。という意味の注釈がほどこされており、自分が夢の中で作った歌を贈った友人はちゃんと記憶していた、というふしぎさが語られていた。

これは谷川健一師の「古代海人の世界」の一節だが、心の不思議は時代を超えてDNAに刻まれ、ユングの集合的無意識となって、太古の事象を表出することはありえる。「巫女」や「呪術者(古老)」がその表出を実現したとしても不思議ではない。(ベルナツィ~ク「黄色い葉の精霊」の苗族族長の超人的な記憶力や夥しい数の伝承記憶もまたそれであろう)
大歌所の「神語り」や「天語り」は伝承も有るだろうが、太古の表出があったとも考えられる。
予てから、ニニギ命から神武東征までその臣下の特定が出来ていなかった。私は安曇氏と久米氏それに隼人の母系が関わっていると考えていたが、安曇氏と久米氏が同族の決め手がわからないまま進んできた。
滝川政次郎師や谷川健一師は江南より九州にやって来たのが安曇氏だとしている。

滝川政次郎師は江南の政治事情で黒潮に乗って、九州にやって来たのが北九州に来たのが安曇族で南九州に上陸したのが、隼人族としている。しかし、隼人は熊襲(熊曾)の大和朝廷に服属した名称であると、する説があるが、元々、曾族は縄文依頼の先住民族で渡来民とは言えず、その論点から隼人もまた、先住民と考えることになる。

滝川師の唱える「隼人族」はやはり、安曇族とするのが妥当であろう。
私は志賀島の安曇族は本願で、薩摩の安曇族は同族の分派だと思われる。

ただ、薩摩には安曇に関する名称がない。そこに見られる同種の説話には久米氏の居住にまつわる話があるだけである。
薩摩・野間半島の笠沙つまり、加世田市の遺跡に見る・上加世田遺跡の「久米を墨守した土器片」が久米氏の居住を示している。
久米の意味は、本居宣長の言う「目の丸い南方系種族」で見られるように、南方からの渡来人の可能性がある。そして、神武東征にある久米氏の「安曇目」は安曇族との関りも考えられ、両族の職掌が「膳手(かしわで)」や海人族的性格等を勘案すれば、同族との見方も出来る。

久米氏は五世紀には衰退して、久米氏に注目して探索する識者が少ないので、久米氏のル~ツははっきりいないのが残念だが、初期皇孫神話には重要な地位を占めていると思われると私は思っています。

余談ですが、大伴氏が久米氏の後裔との説があるが、確かに五世紀に久米氏衰退以後、大伴氏が台頭していることを思うとその説もあながち、空想とはいえないだろう。大伴の「伴」は主たる氏族より従属して成り上がった氏族の印象が強い。

「古事記」にあるように、久米氏は「天孫降臨」以来の有力氏族の印象が強く、「大嘗祭」の久米舞はその名残りだと思われる。
安曇氏は北九州系の種族が主体で南九州系は少数派と思われるので注意しなければならないが、薩摩・久米氏と安曇氏が同族で、それに隼人の母系が絡み複雑ではあるが、三位一体の種族を形成している可能性はあると私はおもっている。
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