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細男舞については、「八幡愚童訓」で安曇磯良は細男舞に魅かれて海上から現れたと記述する。

「八幡愚童訓」の記述を詳細します。
九州志賀海神社の祭神・安曇磯良が神功皇后の三韓征伐の折にその水先案内人に立つべく海中より浮き上がった時に舞ったと伝えられる細男舞。三韓征伐出兵の為、香椎の地に赴いた皇后は敵を破る方策を住吉大神に尋ねると大神は志賀島の海中に住む安曇磯良を召して竜宮城に遣わし、竜王より干満の珠を借り受け、この珠の威力によってsめれば安らかに勝利すると教えられる。磯良を召しだすのには、磯良は「せいのう」の舞いを好むと言うので、海中に舞台を据えて、舞いを奏すると、磯良は首に鼓を懸け、浄衣の舞い衣となって亀に乗り、海中より浮かび上がった。しかし、永年、海に住んでいたのでその顔は牡蠣や鮑がびっしりと付いて、あまりにもついて見苦しいので、浄衣を脱ぎ、顔を覆い頭を垂れて舞った。

例えば、「呉」の意味は白川静師の<字通>で、サイ(祝寿器)を掲げて踊り神を崇めるとある。

「宮廷神楽」では、その初期に<阿知女、阿知女、於々>と唱える。阿知女の作法の「阿知女」は「阿度女」「安曇目」で安曇磯良と言う海の精霊を呼び出すものであった、と伝える。

私は「呉」と「倭」は、「晋書」「梁書」に<倭の太夫は自らを呉の太伯の子孫>と記述している。又、滝川政次郎師は「猪甘部考」で、江南から黒潮に乗って、北九州にやってきたのは安曇族で南九州にやってのは隼人族だと述べている。しかし、隼人は渡来民族とは思えず、先住民族の可能性が大きく、南九州にやってきたのもやはり、安曇族だと思われる。勿論、北九州の安曇族と南九州の安曇族とは同族分派だと言った方が
いいと思う。

磯良舞については、細男舞のことであり、「呉(呪術師)」と「安曇氏(安曇磯良は祭神である)」の関係は濃く、細男舞の「細(さい)」は白川師の「サイ(呉の祝寿器)」の可能性は大きいと思われる。

安曇目について、「記・紀」では久米氏もまた「さける利目(安曇目)」と書かれていて、安曇氏と久米氏の近似性もまた注目に値する。久米氏は上加世田遺跡から「久米の土器片」が出土していて、野間半島に久米氏は居住している根拠であり、安曇と久米氏の関係も考えられる。(多分、久米氏が四世紀には衰退しているので、表舞台から消えた事と無関係ではないだろう)
又、今昔物語の「久米寺の条」では久米氏と安曇氏は同族または、かなり近しい間柄だと記述している。
このことから考えると南九州の久米氏と安曇氏は同族で、隼人とは血縁関係があったと思われます。
安曇氏が南九州での存在が名前を変えてまたは隠れて存在していたと思われます。

又、隼人の伝承で「隼人舞」は宇佐八幡神社でも述べられているように、「細男舞」に釣られて姿を現したように細男舞には親近感があったと思われる。その根は、縄文時代から隼人には、神がかりの祈リの舞いが存在した。そのしぐさは「古事記」の海幸彦の海中での溺れるしぐさと同じ仕草である。あの仕草は神が乗り移った行為、天宇受売命の魂鎮めと同様である。この行為は「細男舞」に続くものである。
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2013.09.24 再読その三。
面白い文章が書いてある。しかし、残念ながらその著者が記していない。三年前から記した文章には必ず著者と出版社を記入しているから、五年前の記述であろう。

その前半で滝川政次郎師の文章が乗っている。
「安曇族、隼人族は共に同一民族であって、ともに文身の俗を持っている。

とあり、その次ぎに書かれていた。

神武天皇は高千穂宮にあって、肥後、日向に住んでいた隼人族を訓練して、強剛なる軍隊を編成し、これを率いて中洲を制定して王朝を肇められたのであって、天皇の親衛隊である久米部は肥部(あまべ)即ち隼人族である。
孔舎衛坂の戦いに敗れた天皇が、直に紀州の熊野(肥野)に向われたのは、熊野にも隼人族の集落があって、その衆を味方に引き入れて、征族を増強する見込みを立てられたからである。天皇が伊那佐の山に苦戦して応援を求められた鵜飼の伴は、熊野で編成せられた隼人族の軍隊である。故に、久米部の兵士である久米の子も、久米の子を率いる大久米命も、みな面に入墨をしていたのである。伊須気余理比売が大久米命のさける利
目(とめ)を見て、奇(あや)しと謳った歌はこの事を証明している。

この文章は隼人が太古から海人族の性格を帯び、安曇氏や南島の海人族との交流があり、薩摩の地に根ざして各地にその移住を可能にしている。神武天皇も薩摩・日向にその勢力を持っていたから、隼人がその勢力化にあったのはありえることである。それがこの文章を書きとめた理由であろう。確かな記憶はないが間違いではないだろう。
猿田毘古神はニニギ命を先導して、天宇受女命と血縁され伊勢の海で比良夫貝に喰い合わされて、溺死する。この童話に近い話に多分、疑問を持つ前に通りすぎた人は多いでしょう。私は以前からこの伝承に何か引っかかるものがありました。あまりにも突飛で現実性の余地がないように思われたからです。

私の想像でこの伝承を解釈すれば、猿田毘古は出雲の先住民族であろうと思います。その先住民が渡来民のニニギに服従し、天宇受女と血縁をさせられ、伊勢に行く。分類でいえば、猿田毘古は山の民であろう。その山の民が出雲の民だと言うことが問題で、出雲が大和族に征服された史実が反映されたのだと思います。

それでは何故、ヒラブガイ貝に殺されたののでしょう。貝は南方産の二枚貝だと言われています。つまり、それが海人族の象徴だとすると、猿田毘古が出雲の南方の海人族との交流の場で親交があり、特別な関係があったと考えられます。その戦略的な秘匿事項が猿田毘古の裏切りの結果、南方海人族が制裁のために暗殺したとする話だと解釈しました。

そう考えたのですが、少々、我田引水な話だと思ってはいます。しかし、当たらずといえず遠からずでしょう。

又、類似した伝承があります。それは中臣鎌足の長男・定慧の暗殺です。定慧は天智天皇の子とも孝徳天皇の子との言われています。私は定慧は戦略的な暗殺の臭いを感じるのです。定慧は猿田毘古的な暗殺なのではないでしょうか。根拠はありません。私の想像でしかないのですが。
南九州の一部の住民が「隼人」と呼ばれる前に、七世紀中葉までにこの地域の人々を区分すると、南部九州本土の東部大隈郷には「北に曾人」南には「大隈人」西部の薩摩側には「薩摩人」南には「阿多人」の地域があった。
又、南島には多禰人、屋久人、阿麻弥人などがいた。八世紀初頭、中央政権は国政施行を目指して、南部九州の北半に進攻した。曾人、薩摩人の両地域を支配しておくのが目的である。大宰府に命じて、三野・楯積の二城を修復させ、信濃、歌斐の梓弓を大量に大宰府に備えている。大宝二年(702)に薩摩・多ねの二国が和銅六年(713)に大隈国が成立しているが、いずれも住民の抵抗があったことを「続日本紀」から世も取れる。薩摩人は終わったが、曾人の抵抗は養老四年(720)から翌年にかけて、中央政権の国守を殺して続いた。

隼人は江南から東シナ海を渡って、薩摩半島の阿多地方にやってきた海人族(滝川政次郎説)は大きな耳輪を下げ、犬祖伝承や鵜飼の習俗さらに文身、金属技術を持って来た。(鹿児島・日置郡金峰町高橋から弥生前期の棒状の鉄器が二個出土している)

羽原又吉は海人族を宗像系、安曇系、隼人系に分けている。隼人は南方的要素を持った海人集団であろうと述べている。

八世紀中頃、薩摩国三郡のうち、わずか三郡の例であるが、北部の出水郡の軍司には、肥後国の豪族・肥君、五百木部、大伴部などの氏名が見られる。肥後勢の南下が窺える。又、薩摩君が南部の阿多郡まで勢力を伸ばしていることが解かり、一方では阿多郡に阿多君が見いだせず、八世紀中頃に近い天平期には衰退している。
曾君は八世紀に至っても、その勢力を持続させたほど隼人最大の勢力であり、その本拠地は一部を鹿児島湾岸におきながらも、南九州の内陸部を領有しており、容易には大和朝廷に従属していない。(最終的には、藤原広嗣の乱・740年、曾君・多理志佐の裏切りまで続く)

薩摩国の国府は高城郡に設置され、大隈国の国府は桑原郡(現・国分市)に設置されたが、それぞれの国府の周辺には各200戸、四郷分の移民が配置され、国府の守護を住民の教導がなされた。移民は薩摩には肥後から大隈には豊前・豊後からであったから、南国の国府周辺には移民の本願地での氏名があったはずだが、それらを確認するス涼は見当たらない。
私はベルナツィ~クの「黄色い葉の精霊」での興味はピ~・トング・ルアング族に苗族である。ルアング族二ついてはのちに語るとして、インドシナ山岳族としての苗族を古いノ~トから記そうと思う。

我々はミャオ族がひどく勤勉であり、有能であり、又実際的な人々であると知った。彼等は肉体的に非常な困難にもよく耐えるばかりか、心気闊達でもある。彼等は文字を持たず、話し言葉以外に意思疎通の手段を持たない。しかし、驚くべき記憶力と皆の巧みな表現力の才能とが太古の口碑を世代から世代へと伝えている。

ミャオ族を訪れた時、首長チン・ツァイはナム川の水源近くにいたが、村に虎が若者を襲い殺された。首長はそれをベルナツィ~ク達の仕業と考えた。ベルナツィ~クが抗議すると、首長はそれを占った。

激しく燃える焚き火がチンを照らす。チンはその前に跪くと、つり上がった目で、じっと火を
見つめる。まるで魂が離脱しているようだった。彼の額は深い考えに沈んで暗い。そこから鷲鼻が大胆な弧を描いて、薄い、キッと閉じられた唇へと下がっている。大きな銀の首飾りが痩せた身体にまとった黒い着衣の上に重くさがっている。彼は両手を挙げて大地の精霊にあまりにも突然にミャオ族の領域に現れた二人の白い異境人が、虎に食われた男の死に関わっているのか占う。そして、二人がこの部族にとってどういうものか占う。
チン・ツァィはたけを縦割りにした数本の神裁棒を手にとって、それを二度三度炎の中い通し、天の向けて、差し上げる。それから、彼は祈りを唱えてから、精霊を呼び出し、祭祀の目的にだけ使えわれる精霊の紙を燃やすことによって判断する。右手の親指の長い爪で神裁棒を一定の間隔を取って押し曲げ」、突然それらの棒を折りたたむ。棒の曲がった角の位置と方向から精霊の教えを、チン・ツアィは読み取るのである。

チン・ツアィは又、密林の中を慎重に這うように進んだ時は、彼の目は輝きを増し、歩みは俊敏であった。彼は山の中で動物が塩を舐めに来る場所・泥の中を転げ廻っている場所・あらゆる動物も棲家と通る道を知っていた。彼はどんな音からも正確な情報を聞き取り、野鶏や鳩を誘き寄せる呼び声を口笛で吹き、手長猿のギボンの震える声をそっくり真似る。おまけに木をこすっては、これらの群棲動物を騙し、誘き寄せた。

ミャオ族の古い諺は「魚は水のもの、鳥は空のもの、そしてミャオ族は山のものと言う。ミャオ族は湖南省・貴州に住み、さらに北部インドシナとミャン諸州にも居住して、北タイにも移住に。彼等の口碑伝承では、
彼等が蒙古やシベリアの遠い高地に住んでいた遠い過去があったと述べている。










昔、高辛氏の時代に西北域の民族・犬戎が襲ってきた。帝は「告」を出し、犬戎の大将・呉将軍の首を取った者には、黄金と領地を与え、末娘を娶らせると公示した。すると、帝の飼っていた五色の犬・盤瓢(ばんこ)が呉将軍の首を咥えてきた。帝は喜んだが、犬に姫を与えることを悩み、家臣と協議したが結論が出なかった。しかし、姫はこれを聞いて、国が決めたことは守るものだとして、盤瓢の嫁になる。盤瓢は姫を背中にのせて、南山へ走り、石室にこもった。そこは人の寄せ付けない険しい所で、犬と娘は生活し、三年の間に六男六女をもうけた。盤瓢が死んだのち、その子たちは互いに夫婦になった。彼等は五色の衣服を好み、尻尾があるように見えた。母親は、のちに国へ戻り、帝に申し出て子供達を呼び寄せたが、言葉が通じず、平和を好まず、山谷に入りたがったので、帝は青山た広い沢のある地に住まわせ、その子孫は、犬の功績と母の地位に免じて、農耕や商いを営む時には、租税を免除された。それが、今の武陵の蛮である。

三から五世紀の中国・中南部洞庭湖の山地に住む民族(現代のヤオ族、苗族など)の祖先の伝説である。

「後漢書・注釈」によると、湖南省西部・武山の中腹にその盤瓢の石室があり、狗に似た石が存在する。盤瓢の塚と言われている。
東晋の時代・四世紀前半の「晋記」(干宝)には、武陵、長砂、ロコウ、の異民族は盤瓢の子孫であって、盤瓢は険しい山に住み、度々害をなすので、魚肉のたたきを供え、大声をあげてそれを祭ると述べ、山神としての犬信仰が存在したことをのべている。

湖南、広西、雲南に住む苗族も盤瓢の子孫と言われ、盤瓢の妻の生んだ六男六女が苗族諸部族の祖となった。苗族は年の初めに盤瓢を祭る。そう清氏の記録にある。(山海経・注釈)

<雑記>
犬祖伝説などは、犬が人間の繁殖に信仰上最も直接的に関与している。犬は多産系で豊穣を意味し、マナ行為の延長だろう。出産の前に苗族は犬を食べてしまうと言う。

平岩末吉は、女性の生理臭に犬やオオカミは寄ってくると言う。

「肥前国風土記・藪郡の条」
景行天皇の巡幸を迎えて、天皇の犬が吠えたが一人の産婦が犬を覗きこんだら犬は吠えるのを止めたという。
産婦には呪術的性向があり、その霊力が犬を抑えたといわれている。

鹿児島・肝属郡南部では、子供がうまれて最初の三月三日にカンダテ祝いを行い、その日は犬を上座に据え、これに衣類を着せてから、子供に着せる。

長野県諏訪では、糠を死出の旅路で出会った時に、犬に舐めさせながら行くと言う。

奈良では、犬を大事に面倒を見ておくと、飼い主が死んで三途の川を渡る時、その犬が背負って渡してくれる。冥土の苦行も犬が代行してくれると言う。

犬が人間を他界へ導くと言う思想は古くから世界に存在する。

アテネがオヂュセウスの前に現れた時、人には見えないが犬には見えた。

ユダヤの古い伝承では、犬が遠吠えするのは、死の天使がやってくる報告である。

「ケルト族のオ~レン」の猟犬が亡霊を見て哀しげに泣く。

秋田北部では、犬が<くもかく(遠吠え)>する時は霊が歩いているので、死人」の出現を知らせていると言う。

鹿児島国分市では、夜、犬が遠吠えするのは、人の霊が出た時だと言う。



勿論、源流はその現在を探る上で非常に大事なことであるが、その対象に大きく左右している場合もあり、その特質が潜在化していることもある。

私が倭(和)を探る過程で、一万年以上前の苗族に行き渡る。その苗族の源流は中国・黄河流域に行き当たる。当時は夏王朝の出来る前である。その当時神話によると、黄帝が進攻して来て、苗族を滅ぼして、苗族は一部、山岳地帯南へ落ちのび、一部は長江流域に居住する。そこで、三苗族を作り、倭となり、百越族を形成する。春秋時代にはそれが「呉」や「越」などに分散され、最後には「越」が残るが、それも「秦」により撲滅されて、三国時代に入ることになる。

そして、最後の「呉越の戦い」で「呉」は「越」に破れ、南方へ、朝鮮南部へそして、南北九州へと落ち延びる。日本の「倭」は最終的には、この「呉」の残党ではないかと、私は推察している。勿論それ以前に、江南からは様々な交流(漂着・亡命・進出などが繰り替えされているが小規模であった)は最後は「呉越の戦い」の結果現れたと思う。

「呉」が古代史の中で、神話や中国の正史に「倭」の言葉として取り上げられる「自らの祖が太伯だと名乗るのは
強ち根拠のない空言ではないだろう。「呉」が南北九州に与えた史実がそういわせていると私は考えている。

ただし、「呉」や「越」と苗族の習俗を比較しても全く同じではなく、その比較検討はこらから慎重に行なわれなければならないだろう。
日本の識者は「呉」建国の<太伯>を軽視して憚らない。火のない所からは煙は立たない。神話には史実が横たわっている。私はそれを解明するのが識者だと思っている。

ここに「呉」の建国史実を述べる文章があるので、紹介しようと思う。

「この印文土器に関して、かいずか茂樹氏は次ぎのような興味ある事実を述べている。<1954年、中国の紅蘇省丹徒県の揚子江の台地で、十数個の青銅器が発見された。その中には周初の中原式の銅器が混じっており、その器の銘文の「宜候ソクが周の康王によって、この地に封ぜられた>とかいてあるのがあった。かつて呉国は周の二王子の太伯と虞仲が弟の李歴(李王)に王位をゆずるために南に奔り、蛮族の中の身を投じて建国したと伝承されていたが、この呉国の建国の物語は、事実とは無縁の説話とみなされてきた。しかし「二王子ではないが、ともかく周族が揚子江南に「宜」という植民都市を建てたことは、まぎれもない歴史的事実であった」と貝塚氏はいう。(中国の歴史)そうした発見から倭人の原郷を呉にもとめる伝承、すなわち「魏略」の「倭は自ら太伯の後なりという」とある一句も、従来のように妄説として、退けられるものではなく、より歴史的真実に近ずいたとみなす可能である。」

「宜」の伝承を「呉」建国伝承と比定している。ここに「太伯」の臭いを感じ、五世紀の倭(和)人が信じていたことは紛れもない事実であろう。

余談だが、「越」が「呉」の方が情報が多いのは、どうも「久米氏」より「大伴氏」の方が多いのに似ている。
これは勝者と敗者の関係だろう。「百越」とは言うが、「百呉」とは言わない。それは最終的に「越」が勝利したからであろう。久米氏も四世紀に衰退したことと、八世紀に「大伴氏」は重要な地位を占めていたからだ。
徐龍朝氏が「長江文明の発見」でこう述べている。

<呉越同源>の項目。
「一方、地域的な近接と文化風土の類似によるものか、時代が下がるにつれて、呉地と越地の文化は次第にその共通性が顕在化するようになった。また、「越有百種」といわれているように、「越」の地域的な広がりと時代的な延続などを重要視し、考古学の上で呉の文化を越文化の一部として捉えている学者もいる。」

これは「呉越」が春秋時代前には、「倭」と呼ばれていた事と意を通じるような気がする。そして、その「倭」の本願は「苗族」であることを思うと、「苗族」と「呉越」の共通性を探るのま重要な意味があると思う。私は「和(倭)」の遠い始祖である可能性が認められることを思うと、少々食指が動く。
私は呉に付いて興味を持ったのは、「晋書」や「梁書」で倭の太夫が自らを「呉の太伯の末」と名乗っていることからであった。

その後、谷川健一師の「古代海人族の世界」で、滝川政次郎師の「猪甘部考」での一説<漢の武帝が南越を征したあと、飽くなき漢人の誅求をのがれた百越の民は、黒潮に乗って九州西海岸の南北へ渡って来た。黒潮は屋久島沖で二つに分かれ、その九州の北に着いたのが安曇族であり、南九州に着いたのが隼人族である>

結果から言えば、それは「苗族」に行き着く。苗族は元々、黄河付近の遊牧民族であったが、黄帝の出現で敗北して、一部は山岳地方にのがれ、他は長江中流域の洞庭湖に居住して「倭」を形成し、栄える。その核は三苗族で首長は「しゆう」である。この地は法律を持ち、堅固な城壁を構築していた。銅や鉄の生産と技術も盛んであった。これから推察するに、農業の灌漑のなされ、豊富な農産物(麦が中心だろう)が考えられる。しかし、前2200年の世界中の大洪水で長江流域は破壊された。当然、黄河も打撃を受けたが、幸いにして下流域に留まった。そこに三苗族も移動した。元来、そこは彼等の領域だったことからの移動であった。

これが有名な神話の「啄鹿の争い」である。
「しゆう」は雨師や風師を率い、81人の親族は金属器を操る豪族で、黄
帝は敗退を余儀なくされた。そこで黄帝は、天に昇り西王母に助力を求める。西王母は女神「魃
」を与え、三苗族を敗退させ、三苗族は長江へ追い戻される。
そこで生まれたのが、百越である。そしてさらに各種族が独立して、「呉」や「越」を建国することになる。

「呉」は白川静師に従えば、祝寿器を捧げて踊りながら神を崇めるとする。「越」は馬に乗って、矛を不利化がして走るさま、だという。さらに「越」は自らを「僕莱(僕には水編がある)」と呼び、明らかに長江の水稲民族と言うより、黄河流域の畑作(麦)民族に近い。「呉」は呪術者であろう。

このル~ツを見れば、「呉」「越」は黄河的で後年の海人族的要素は窺われない。多分、それは初期の苗族の名残りであろう。そういえば、少数民族の苗族には入墨の習慣はない。しかし、「呉・越」の民族は入墨をしている。
もう一つ、「呉」の建国者・太伯は元々周の長子で生みの親に疎まれ、亡国する。話が長くなるので割愛するが、これが末子相続の起源です。

そして、春秋時代の「呉と越」の争いで、呉王・夫差は破れ、その種族が朝鮮南部や九州に敗退するのである。それが「晋書」や「梁書」の発言に通じるのでしょう。
私は滝川政次郎師の「隼人族」がこの「呉」の系列と考えています。ニニギ命がその首長というのが結論です。

まあ、病中のまとめで、粗雑で根拠に弱いのが欠点ですが、概ねこれは私の正論です。
目くら状態が悔しいので、色々考えて見た。その一つが「天孫降臨私観」である。

私はシュウリマンの「神話は史実である」を深いところで理解しているつもりである。
神話は史実の抽象乃至は凝縮であると理解する。

「天孫降臨」はニニギ命が日向の高千穂の襲(曾)に降り立つ。襲(曾)は霧島山麓・大隅(旧桑原郡)周辺であろう。その地には、縄文・草創期の遺跡・上野原遺跡が発掘されている。そこからは、集積遺構・連結土構、蒸し装置・燻製施設があり、それを運ぶ大壺や角丸型平底土器が出土する(運搬、貯蔵、祭祀にの使われた)。それに堅果種子を粉にする石皿、敲き石、石匙、石斧などが見られる。これは定住の証で、竪穴式住居が発掘されている。そこには二筋の道が築かれ、泉に通じている。そのほか土偶・耳飾・異形土器があり、祭祀を思せる。

ここで白川静師の「字通」の「曾」の解説を思い浮かべる。白川師は「曾」を、昔という意味と甑に通じる。と解説している。
上野原遺跡の集積遺構は象徴的に言えば、「曾」そのものである。つまり、大隈周辺は「曾」の地で
甑」を言っているとも言えないことはない。その「曾」の地から、ニニギ命は天津久米命と天忍日命の先導で野間半島の笠沙に行っている。そこで、吾田姫(コノハナノサクヤ姫)と遭い、通婚する。不思議なことに笠沙にはやはり、縄文・草創期のかこいノ原遺跡がある。集積遺構・連結土構・土器・石器なども出土しているが、不思議なことに竪穴式住居は見つからなかった。しかし、そこには「丸ノミ式石斧」が出土する。

この「かこいノ原・丸ノミ式石斧」は丸木船の製作の使用する器具である。この遺跡から、丸木船は発掘されていないが、大隈諸島、トカラ列島、沖縄までの範囲でこの「かこいノ原・丸ノミ式石斧文化圏」が形成され、海人族の文化圏で丸木船は発掘されている。

特に、種子島の大薗遺跡には、東北・大洞(おおぼら・亀岡産)式土器が出土している。簡単に出土と書くが、是は意味が深い。
例えば、黒潮は東シナ海で二分し、一方は太平洋へ、他方は日本海へ対馬海流となって北上する。それは南から北へは可能性として考えやすいが、北から南に南下するのは困難である。

対馬海流の反流が細かく日本列島側に生ずるが、それを具体的に述べるのは難しい。もし、その方法を取ったとしたら、かなりの経験と熟練が必要で、かなりの時間を懸けて習熟した結果からの判断の結果だろう。

もう一つ、リマン寒流を使うという方法だが、是にはかなりの時間を有する。

平成22年の大災害で、岩手県の釣り船が、兵庫県沖で発見された。一年後である。
これは、リマン寒流が朝鮮半島側に流れ(寒流より暖流の方が強く押しやられてしまう)、中国の東シナ海で対馬海流の下に潜り込み(密度の関係である)、押し戻された形になった。

つまり、寒流の流れに乗るという方法も考えられなくもない。

このように、海人族の航海は広範囲、遠くまで交流をしていたと考えらる。

その海人族の象徴が「吾田姫」であり、かこいノ原文化圏こそ、ニニギの「天孫降臨」の行き着いた意味なのであろう。そこで、「吾田姫」は重要な発言をする。姫の父親が「大山津見神」だと名乗る。「吾田姫」と「大山津見」は同族であり、「古事記」の構成を考えると、「大山津見」は「曾」の地の族長の可能性が強いからである。

この神話と史実の関係は時間的には遠過ぎる。神話の作成は八世紀であり、上野原遺跡は前一万年である。この差を埋める根拠は、ベルナツォクの「黄色い葉の精霊」の苗族の首長の驚異的な記憶力や動物的な嗅覚・長としての資格は膨大な太古の記憶と、ユングの「集合的無意識」、DNA形成と環境の関係、そして「霊夢」の顕現などであろう。
私は、古老や語り巫女の存在に期待している。今は推定だが、「古事記」の編纂者は古老や巫女から上野原やかこいノ原の存在を知っていたと考える。その足がかりは「曾」である。

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