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このところ、古いノ一トを見直す機会が増えている。よく考えるとこれも不思議な事で縁としか思えない。

百太夫は傀儡子が信仰する神である。道祖神との関係が濃厚ですが、元々、蛭子信仰が本願であろう
。すると、どうやら、蛭子信仰は道祖神と繋がるようである。道祖神は縄文からの土着信仰であり、塞の守り神といわれるが、その根源は性の信仰があると言われる。しかし、私は関係がないわけではないが、土偶の地母神信仰がその底にあるのではないかと思う。
土偶に本質的な定説はないが、「生と再生」の祈りを私は感じる。大林太良氏はウェマ一レ神話の「食物起源神話」と関係があると説いています。「古栽培民」思考(ウェマ一レ神話)は「死と再生」の食物起源神話で、女神と食人思想がその根底にある。
「ウェマ一レ神話」はニュウギニアの神話が元に解明された説だが、この島は「マヨ儀式」にあるように「食人行為」が根にあり、狩猟民族としての資質が関わっている。

土偶はバラバラされ土の埋められている。多くは乳房と性器が強調されていて、「死と豊穣」の祈りが窺われる。道祖神にはそんな闇の怪異な思考が横たわっている。
私は鬼や黄泉のイザナミ、縄文の土偶に共通の混沌としたマグマを感じ取ることが出来る。地獄と天国の混合が底には顔を出す。日本土着文化の奥深さを垣間見ることができる。
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2013.11.30 水蛭子。
私が神武天皇を調べ始めて、「古事記」を紐解き、最初に興味を持ったのは水蛭子であった。イザナミ・イザナギがその聖婚上の先で近親相姦と言う異常成婚が行なわれる。
そして、その結果現れるのが「水蛭子」で二人はそれを葦舟に乗せて流す。その次に生まれるのが淡島である。その最悪の結果を慮って、両神は天にいる神にお伺いを立てる。すると、「ふとまに」で占い、女から誘ったのが悪かったのだから、男から言葉をかけよと宣託が下る。その通り実行すると正常な行為が回復され、国産みが始まるのである。

「水蛭子」は奇形児であり、「淡島」は流産の象徴であろう。天上の神は母権の弊害を指摘したのであるが、本質的には近親相姦そのものの弊害が現れたと考えるのが常道であろう。
穿った見方を言えば、縄文時代の母権社会を戒め、弥生時代の父権社会を形成する主旨がこういう表現で表されたといえるかもしれない。

ところで、葦舟で流された「水蛭子」はその後、どうなったであろうか。
私が、その疑問を調べ始めた一番最初の資料が次に挙げる文章である。

近世、西宮の浦に道君坊(どうくんぼう)という翁がいて、蛭子大神を慰める為に小さな人形を作って舞わしていた。(これが西宮神社の夷信仰の謂われである)
道君坊が亡くなって、海が荒れ、漁師は漁が出来ないので、百太夫が道君坊の人形を作って神の前に舞わせると、波風がおさまったと言う。
百太夫は都へ登って、時の帝に召され、その芸を披露して、叡感あって「諸技芸の首(おびと)」を貰い、諸国の神前に人形を舞わせた。これがクグツ師の初めで、百太夫は淡路三原郡三条で亡くなるが、村民は百太夫の芸を伝えて、淡路操り座を興した。と伝えている。

世界が必ず洪水神話を持つ。ノアやウトナレシュウピそして伏義神話。数えれば限がないが、紀元前2200年頃の世界的大洪水の記憶であると言われている。
古代人は文字を持っているにしろ、待たないにしろ、その自然の脅威を語り継いでいる。
私は南九州を襲った数度の火山大噴火(薩摩12000年桜島9400年喜界島6400年前など)、それに伴う地震や大津波は語り継がれているはずである。残念ながら、その記憶を伝える文献・物証(考古学を除き)が見つからない。私はこの生死をかけた現象が伝承されないはずはないと考えている。何故ならそれは生活に密着しているからである。困難であるが、それを幾つかの視線が交錯した地点で発見するしかないであろう。
1957年(昭和32年)一月三十日群馬県相馬ヶ原の演習場で坂井なか(46歳)が射殺された。犯人はウイリアム・ジラ一ド三等技兵が犯人である。

米軍三ヶ尻区憲兵隊より県警本部渋川署の派出所に連絡が入る。
群馬大医学部の見立ては背後より撃たれ、胸部大動脈上部より空薬莢が発見される。

村民・小野英次の証言「朝、八時頃、私は家を出た。演習場では女・子供をまじえた八・九十人がタマを拾い出していた。米軍は、午前中、ライフル銃と機関銃の実弾射撃を行い、昼食後一時から空砲射撃に移った。私は二・三人で物見塚の中腹にへばりつき、兵隊に近ずいた。射撃が終わって、休みになったので、飛び出して行くと、一人の兵隊が私の前方、七、八米の所に、薬莢をバラ撒いた。手招きをするので走り寄ると、横合いから、坂井なかさんが飛び出してきた。この時「ママさん、ママさん」と言って、その兵隊は、四米ほど前にある壕を指さした。坂井さんは私から離れて、壕に飛び込んだ。私も、壕の方に行こうとして、ふと兵隊を見ると、銃口が私を向いている。「危ない」という思いが一瞬、頭を掠めた。慌てて二・三歩かけ出した途端、ブスッとタマが足元をかすめた。ふり返ると、兵隊は二発目をこめながら、坂井さんに「壕をでろ。出ろ。GETOUT、OFHERE」と怒鳴った。二三歩這い出した時、坂井さんは「キャッ」と言う悲鳴をあげて、その場で動かなくなった。足をやられたか、気絶したかと、近寄ってゆすぶってみたが起きない。背中に少し血がにじんでおり、脈はなかった。兵隊が「おぶって家に帰れ」と言うので「もうダメだ」と手招きをすると、青くなって衛生兵を呼びに行った。隊長がやって来て、私に時計をみせ、「十時半だったか」と聞くので「演習中ではない。いまやられたのだ」と手招きすると、慌ててMPを呼びにいった。その時計は二時十分を指していたから、坂井さんがやられたのは、一時五十分頃だったと思う。麻袋に薬莢が30本程入っていた。(週刊朝日・1951・2・24)

事件後、2月5日・第一騎兵師団長・エドウィン・カ一ンズ少将「調査中だが、事故死と断定できる」と声明した。
ジラ一ドの直属上官モ一ホン少尉は「事故が起こったのは実弾演習の行なわれていた午前中で、実際、自分が被害者の倒れている現場に行ったとき、日本人農夫が被害者の死亡時刻を午前中にするか午後にするかの相談をしていた」と声明する。

2月7日、群馬知事あての書簡・・・カ一ンズ少将「事件は被害者が明らかに自分の安全を無視して立ち入り禁止区域に入っていたために起きた。安全規則を無視した場合、重症・死亡が起きることを県民に徹底させてほしい」と述べ、嘆いてた。

米側「15から20米の距離から空へ向けて撃った」とか、ある目撃者は「7・8米の至近距離から水平に撃った」の証言があった。

事件の結審、11月5日。
裁判長・河内雄三(ウォ一レン最高武官の発言をうけ、公平な裁判を行なうと発言する)
懲役三年執行猶予四年。

N三等特技兵の証言
「7・8米から12米」か赤いら撃つ「薬莢を撒いて呼び寄せる」「立ち撃ちの姿勢で銃を肩にあて、坂井さんを狙って撃った」「犯行後、距離を長く見せるため、発砲地点近くにあった機関銃を遠くにいどうした」
等の証言があった。
山本事件から、再び古い記憶の整理を始めたのですが、又、興味あることに気ずきました。

私は「古事記」「日本書紀」にその広さ深さを痛感するのは、時折、驚く様な深い文章にぶつかるからです。
塩土老爺が神武天皇に東征を示唆する「東に美き地あり、青山四周らす」もそうですが、「日本書紀・神代・第五の一書}にもそれを視ます。

イザナミ命、火神を生む時、灼かれて神退去(かむさ)りましぬ。故(かれ)、紀伊国の熊野の有馬村に葬(はふ)りまつる。土俗(くにひと・その土地のひと)、この神の魂を祭るには、花の時には、花を以って祭る。又、鼓(つずみ)、吹(ふえ・笛)、幡旗(はた)を用て、歌舞し祭る。

この文章には、これを書いた編者の見識の高さが窺える。
イザナミの黄泉国行きの序章であり、紀伊国の熊野伝承には熊野神社縁起が下敷きになっている。(この縁起は長いので省略する)もともと、熊野は出雲にも存在し、出雲と大和の関りは古代史の根幹に関わる伝承なので見逃せない。
出雲は国津説話の基底でもある。火継ぎ神事は大嘗祭の端緒であろう。
それに花祭りの信仰がからむ。私は花祭りには、「兆し」を感じる。「兆し」は古くは、「牙」であり、それは「芽」に転化する。その先で「阿礼」を思わし、「生まれる」瞬間の「ビックバン」さえも想像させる。別の表現を使えば、<神秘的な霊光>さえも思わせる。多分、それが「うず」のはじめなのだろうが、近代物理学で言う「ビッグバン」、混沌の閃光、無の揺らぎなど様々の表現で語られる。
「花祭り」とは荘厳で神秘、不可解で無気味な事象なのであろう。
また、「鼓、吹(笛)、幡旗(はた)」とは、それぞれの意味は深い。
「鼓(つずみ)は鎮魂の呪具で、あのリズムは道教や修験道で言う<へんばい>であり、「たなしずめ」の呪術である。又、それは悪霊払いの呪術でもある。
「吹」は息吹と表現され、ここには生命の意味が潜んでいる。蹈鞴の製造神話の「再生と生産」の神事にも通じ、、五百木部氏や息長氏の氏姓伝承をも通じている。
「幡旗」は、神の依り代であり、「神木」や「心の御柱」に行き着く。また、葬礼に際する「歌舞」は「魏志倭人伝」の習俗にもみられるが、それは天宇受女命の呪術的な「天の岩戸神話」の踊りから端を発している。

こう考えてゆくと、「記・紀」の編集者たちは、日本の「風土記」や伝承に精通しており、さらに中国や朝鮮半島の故事・史実をも熟知していて、それが日本神話の成り立ちに深く反映されている。

私はまだ、古代史を始めて日が浅く、浅学の徒ではありますが、「記・紀」を中心に、中国・朝鮮の故事・伝承また史実を読みあさっていて、その卓越した内容に驚嘆の声を発せざるを居りません。何故、もう少し前に知らなかったかと後悔の念を禁じえません。それ程、古代史は魅力ある領域です。
私はアイルランド移民のジョン・フィツジェラルド・ケネデイには少なからず興味はあった。(多分米国軍産複合体との確執であろう)しかし、キャロライン・ケネデイ氏に対するアイドル並みの歓迎は何だろう。この皮相な民衆とマスゴミの迎合は何故か吐き気を催す。確かに彼女は米国を代表する才女である。日本にとって有益な方策を私も期待するが、贔屓目に見ても、それは期待薄すと考えるのが、常識的な見方であろう。彼女はアメリカの国益を代弁する為にやって来たのである。私はこの浮かれ現象とそれを煽るマスゴミのあり方に、傾国の「兆し」を視る。特に、マスゴミは識者としての冷静な視点でこの就任を語るべきである。一部の大衆に迎合する立場をこそ宥めるべきなのである。哀しいマスゴミの役割を回復することを望む。

私はひそやかに迎賓の礼をとることにしよう。
「南からの日本文化」の中で安田喜憲氏が興味深い文章を載せている。それを紹介する。

長江下流では、7600年前に稲作が始まっているのに、日本に進入が遅れた理由には、栗や栃の木の半栽培農耕と漁労や狩猟を合わせた食生活が豊かで、農耕をあえて必要としなかった。ドングリや栗の堅果類の利用法を発展させ、食物体系は堅固であったので、稲作・漁労文化に比して「半栽培漁労文明」で十分であった。縄文人は東シナ海や日本海、むしろ太平洋を横断した可能性もある。長江との交流もうかがえる。しかし、稲作をあえて受け容れないでもよい豊かな食料環境にあった。BC1000年頃の寒冷化による気候の大変動に中国に大変動が行なわれ、その一部が日本に移動した。そして、縄文人も気候悪化に勝てず、稲作を取り入れようになる。そこで、稲作技術をもった人々を受け容れることになる。縄文人は稲作文明の階級社会を知っていて、自らの平等社会を崩したくなかったと考えているのではないか。縄文期の平等化は「日本」にとって根強い。

私はこの文章に共感を得た。縄文文化が一万年もの間存続しいたのは縄文の「円の思想」が根底にあるからであろう。アニミズム思想を引き継いだ「和」の思想は循環の自然志向を取り入れた優れた哲学が根底にあったからである。しかし、力の思想が、高度の稲作と金属技術を持った大陸思想には勝てずに、縄文人はそれを取り入れて生き抜くしか方法がなかったのであろう。
私は残念ながら、縄文人の側にたった志向を正しいと見るが、現実は「勝者」の論理が優先する。まことに遺憾だがそれが現実である。

「古代海人の世界・谷川健一」より。
漢の武帝が南越を征したあと、飽くなき漢人の誅求をのがれた百越(中国南部に住んでいた民族の総称)の民は、黒潮に乗って九州西海岸の南北へやってきた。黒潮は屋久島の沖で二つに分かれ、その一つが北上して対馬海峡に向っているので、南・北に着くのはほとんど同時でおる。その北九州に着いたものが安曇族であり、南九州に着いたのが隼人族ではないか、と滝川政次郎はいう。(「猪甘部考」より)納得できる推論である。

「倭人の登場・森浩一」
大陸に到達することは縄文人の航海術で十分可能だったのである。縄文人は、縄文早期や前期から、大陸にいたり、あるいは往来できる航海術を着実に磨きあげていたのである。

「水産海洋研究63の2」
1998年8月20日、薩摩半島西岸から南薩の広範囲にあたって大量のゴミが海岸に漂着した。ゴミはプラスチィクライタ~やボトルで、これらの製造地域は中国華東、華南地方、台湾及び日本で、韓国を含めた黄海沿岸地方の製品がほとんど見られなかった。大量ゴミの発生地方は中国華東、華南地方および台湾の東シナ海南西海域であると推量される」


陛下は現在の土葬から火葬に変更される事を望んでいらしゃる。又、皇后との共葬をも希望されています。それについて賢明な皇后様は現在の並葬をご希望されています。

陛下は多分、国家財政が逼迫されている事も考えられ質素にと様々なご提案をされていくのでしょう。その誠意がひしひしと感じられます。皇后様も民間のご出身ですが、並葬はそのご懸念ではなく、古代より「ヒメ・ヒコ制」にまで考えを及ばせているのではないでしょうか。伝統の重要性がお心の中にあると思います。

さて、葬儀の方法ですが、浅学の私がお話するのも僭越ですが、土葬と言えば、イザナギ命の黄泉の情景を思い起こします。土葬の原点はアニミズムにあります。一方、火葬には「火具土の神」が端緒です。生命の始原が神話で語られている端緒はそれなりに深源ではあります。そこで陛下は火葬を選択されたのでしょう。私も陛下のお考えに賛成します。改葬となると、また官僚や政治つながりの企業家がしゃしゃり出るのでしょうが陛下のお心をくみ、質素にすべきでしょう。
2013.11.12 反省。
私は考えた末、ブロギングしようと決意した。山本議員に一票入れた人間として深く反省している。
自民・公明に反対の意思表示として参戦したが、また野党に希望ももてないまま、山本氏に入れた。しかし、あれほど愚行に走るとは思わなかった。

天皇は「大嘗祭」がある限り、「現人神」であろう。それは所謂「神」ではないが、日本の文化遺産の継承として、天皇はニニギ命の心を受け継いだ祭主であるに違いない。しかし、私達はその遺産を軍事問題としてさかどりをされ、不幸な戦争に巻き込まれたと言う苦い経験を持つ。山本氏はその原点を忘れ、無知にも愚行に走った。深く反省を要求する。彼に一票を入れた私にも自ら制裁を科そうと思う。一週間、好きな本を読む事を自ら禁ずる。情けない。
新天皇の継承儀式は「大嘗祭」、出雲の国造就任の儀式は「火継の神事」が行なわれる。

この神事の形態はどちらかと言うと「火継の神事」の方が古式を伝えていると思う。縄文文化の始まりは、やはり土器の発明で火との関りが定住を促し、文化の向上を約束したと思われる。その火は、火山の溶岩とか神鳴り(かみなり)の雷火が直接的な体験からであろう。「日」はその後の考察の結果、抽象されたのだと考えられる。

そう考えると、縄文からの伝承は「出雲」の方が古いと言える。神在祭もそうだが、出雲にはその中心は、先住民族がその統率下にあり、各地から豪族を派遣したのだろう。「出雲風土記」には杵築大社にはその豪族が建立したとある。

<出雲国造の葬儀>
祭主(千家)が亡なると、その死骸に化粧を施し、生きているように見せ、柱にもたせかけて、前に膳を置く。新国造になる人は昼夜兼行して出雲の熊野神社まで行き、そこで火切杵と火切臼で神火を熾し、ご飯を炊いて歯固めの儀式を行なって出雲に帰る。
その後、旧国造は裏門から出されて、出雲市の東南にあった菱根の池の中に赤い牛の背中に括りつけられ、沈められる。
唐の律令に皇帝や皇后の服装を規定した令がある。その唐の律令を模した律令が「大宝律令」「養老律令」である。その律令には天皇と皇后の服装を規定していない。

その理由を梅原師は八世紀の天皇が女帝が主力を締め、服装の重量が重いことが原因の一つに挙げているが、私は「「職員令集解」の文章に注目する。

それは大嘗と鎮魂について述べている項目である。
<唯、この二つの祭は、是れ殊に人主の為にして群庶に及ばず>
この儀式は天皇だけで其の他の人々には及ばないと言う意味である。つまり、
大嘗祭は新天皇の現人神への儀式であり、「天皇」は人から「神」への移行を現した儀式である。

人より神の儀式とは大嘗祭の主題であるが、具体的に言えば、先ず「廻立殿」で<小斎の御湯>で新天皇は天の羽衣を身にまとって「禊」を行なう。その後、大嘗宮(悠紀殿・天神と朝食をおす)で神座と新天皇の御座を設けて供食する。それは天照大神とニニギ命の一体化であり、新天皇とニニギ命の霊継である。それが人からの神・・・現人神への移行と言える。つまり、天皇は生きたままの神と言う訳である。

だからこそ、ヤマトの官僚は{皇帝の人間である事}と区別する為に「天皇」は、あらゆることに恣意的で衣服を規定しない理由であると思う。
「古事記」「日本書紀]の編纂は八世紀である。その編者の知識は当然、「唐」を足がかりに中国古典を学んでいたはずである。決して朝鮮半島の文化を学んだはずではないだろう。たとえ朝鮮文化を取り入れたとしても
その根底には中国文化を吸収した結果である。そのくらいの認識は容易に理解できる。

確かに八世紀の知識人は百済や新羅の渡来人が大勢を占めている。だから、朝鮮色が強いのは否めない。しかし、古い時代の文献は帰化系ヤマト族は中国の文献や伝承を参考にしたのは確かだと言える。

例えば、イザナギの「禊祓い」は先ず安曇族を先行させる。その後、天照大神とスサノオウ命の「誓約」が下で宗像三女神を産ませている。つまり、安曇族が滝川政次郎師の唱える野間半島の渡来族(滝川説は隼人族だが、押しつずめれば安曇族である)だとの説がある。それが古い伝承で、その後で宗像海人族がやってくるという道筋である。穿って推測すれば、先ず中国伝承があり、それを受け継いで朝鮮伝承が伝わったと見る見方も出来る。

そして、「記・紀」の神話を南九州から始めるのは、八世紀の識者は古代の文献を参考にしたからに過
すぎない。いや、四・五世紀の海運規模は圧倒的に中国文化が優位にあって、中国船舶が朝鮮の舟より九州にやってくる頻度は多いに違いない。そして、九州の縄文文化とあいまって高度の南九州が構築されたと私は考えている。

だからこそ、「記・紀」の神話は八世紀の識者が確認は出来ないが、中国の古文献を参考に表現したのであろう。これも推測に過ぎないが、八世紀の編纂者は薩摩の文化を知っており、持ち前の中国・中華思想を立てに見下した表現を使ったと思われる。つまり、初期神話を南九州から始めた根拠に違いないのだ。

彦火火出見神話で隼人を皇孫の系譜に入れたのはそういう理由からであった。
谷川健一著の「白鳥伝説」を読むが、谷川師の史実考証は綿密で多岐に渡っているので、私には読みこなすのが困難です。私は文中の引用し書は読むようにしていますが、谷川師は多すぎて読みきれない。未消化のままですが、思いついた事を書き留めたいと思う。

安倍氏は物部氏と蝦夷の混血だという説は考え深い。蝦夷は安日彦のことだろうが、文中では神武天皇に政略され東北へ亡命すると書かれている。安日彦は長髄彦の兄である。長髄彦は脛が長い八掬脛と同様で土蜘蛛でしょう。これは縄文の古モンゴロイドの特徴で先住民族と思われる。当然、血の繋がった安日彦もまた、縄文先住民であろう。
文字を分析すれば、安日は安東であり、「日は東」と同義で安日を安東と言い換えることも可能だ。この分析から言うと、安日は安東氏であり、安倍氏とも同族だと言える。
巻末の対談で谷川師は、「安東氏の流れをくむ秋田家は明治になり爵位を授与される際、宮内省に対し安日を始祖とする系図を提出している。自分達は、神武東征の軍と戦ったナガスネヒコの兄たる安日の血脈を連綿と受け継いだ氏族だ」と意思表示している、と書いている。

それは宮内省には蝦夷を軽視する傾向にあるので、安日の末を省くのが得策だと進言しているが、秋田家は安日の末を誇りを持っていると伝えられている。

谷川師は日本人の起源を縄文に置いているようで、渡来人と先住民の混血である初期王族を冷ややかな視点で見つめておられる。
初期王族が悪ではないが、彼等の志向性は弥生的であり、どちらかと言うと中国的な儒教的思考が窺われる。縄文的な自然と同化しようとする思考とは対極にあるような気がする。儒教には人智を優先する志向があり、西洋の一神教に似た合理的な考え方が窺える。縄文人の志向は「円の志向」が基本になっていて、自然の循環を重んじる。「上野原遺跡」や「三内丸山遺跡」に見られるように、縄文人には「和」の思考が現れている。自然には越えられない脅威があるが、それには「祈り」で対抗しようとする。

私はその縄文思考に共感をする。私の身体の根底には自然と同化しようとする感性が潜んでいる。欲望より「融和」が顔を出す。欲望がないわけではないが、仲良くしようとする志向が優先する。谷川師と同様、縄文思想を今、再考すべき時期に来ていると考える。



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