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カササギは朝鮮カラスとも言うが、棲息は北九州に限られていると谷川健一師は「古代史ノォト」で記している。私は「魏志倭人伝」が重要な文献ではあると思ってはいますが、全幅の信頼を持ってはいない。専門的にそれを実証する時間を私は持っていないけれども、谷川師の文章に「魏志倭人伝に、その地には牛・馬・虎・豹・羊・カササギ無し」とかかれているが、「牛と馬とは日本列島社会の縄文から弥生の時代にかけて海外から移入されて存在したことは、出土する牛骨や馬骨によって確かである」と記述している。そして、朝鮮に多いカササギを渡来の血
をひく渡来人の人たちの偏愛であろうと考察している。亦、魏志倭人伝は朝鮮人の目を通したものではないかと疑問を提示してもいる。
私もその見解に賛成で、「魏志」の作者は見聞だけで書いていて実証を省いていると言う中国人の正史を信頼するの余り記事を無批判に取り入れる風習がある。確かに、より正確に書こうとする精神は感じられるが、一方多少大袈裟に誇張して書く精神もなきにしもあらずでもある。
全体的に文献主義者は「魏志」を取り上げすぎて真実のように書くが、多少疑って見るのも大切な精神である。
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「十八史略」に面白い文章を見る。

越既に呉を滅ぼす。ハンレイ之を去る。大夫・種に書を遣りて曰く、「越王の人となり、長頸鵜烏喙なり、与(とも)に患難を共にすべきも、与に安楽を共にすべからず。子、何ぞ去らざる」と。

ハンレイは越の軍事参謀です。呉の王・夫差を攻略して捕える。嘗て、越が破れ勾践は囚われた時、慈悲で救われたことから、島流しにしようとしたが、ハンレイは固くそれを拒んだで死罪とする。そのハンレイが越王を観て越王は混乱の時はともに戦えるが、平和が訪れゆとりが出来ると、猜疑心が優位を占め命も危ないと看破した。をれが長頸烏喙、頸が長くからすのような顔がそれを表わしているというのである。
この策謀家・ハンレイは呉王・夫差を攻略すのに、自らの愛妾・西施をスパイとして送り込んで情報収集し、堕落を誘っている。


ハンレイはその後財産を臣下に分け与え、斉国へ行き、シイシヒと名乗り財を成したが、再び、陶の国へ飛び、さらに財を為す。

この天才にして、人を見る目や蓄財の方法を知ると言うことだろう。
三ヶ月前だったろうか。ある村の老人が放火した事件が起こった。この60歳の老人は都会に住んでいたが、父親の死で帰郷してその村に住み着いたのだが、隣人との折り合いが悪く、積年の恨みが表出して突然放火に至ったという。彼は放火の前後は覚えていないと供述している。

私はこの事件は重く複雑で人の意識の深層に潜む重要な事件だと考えている。
私達の意識の形成は200年いや、一万年まえの縄文から継続して形作られてきた。多神教の日本人は「他との融和」を基本として、思考の形成を続けてきた。しかし、戦後の教育は付け焼刃の西欧民主主義と個人主義を基本に施行している。マンションは続々と建設が進み、閉じ込められた個室は他人との心の会話を隔離し、隣の人間が何をしているのかさえ知っていない。私の子供の頃は、いい意味での干渉主義が残っていたが、昨今は隣人の親交は皆無である。
しかし、地方の村ではまだ隣人同士の交流は残っていて、薄れたとは言え緩やかな干渉主義(隣組精神)は残っている。今回の帰還老人と村人の心の齟齬が起こした事件と言える。老人は村で孤立していたと言う。老人は自分中心の行動を良しとして疑わなかったであろう。都会では、下手な他人の介入は犯罪とも認定され、プライバシ一の名の基に孤立は合法化されている。むしろ、その生活態度こそが是認されるのである。だが、村でではそうはいかない。他人を認め、自らの意向を我慢してまで、村の隣人同士の生活を優先する。つまり、大いなる妥協を要求されるのである。その譲り合いの精神こそが日本人が培ってきた精神なのである。
私はそれを「古い」だけで退けていてはならないと思う。「近代化」と「融和の日本精神」との根底からの考察が必要な時期が来ていると私は思う。「村と都会化した老人の意識」の融和こそ考える時期に来ていると思います。
気が萎えると、私は古いノ一トをめくる習慣がついてしまった。

私はノ一トの右脇を数行空白にして、そこには注釈や思い付きを書くようにしている。そこに面白い書き込みがあった。

神武東征を読んだ読書感である。
そこには単なる思い付きではあるが、面白い書き込みがあった。
「卑弥呼の男弟こそが物部氏の首長であり、新羅から渡来した王族と混血して饒速日命を生み、大和へ東遷した」と書き込んでいる。勿論、根拠などない。単なる思い付きなのだが、なかなか面白いとは思う。

そしてもう一つ、こうも記している。
<私は日本書紀にある一節「東に美き土有り、青山四周らす」は卓見であり、洞察の深い哲学であると思う。
これは太古の知識人・塩土老爺の言葉ですが、この老人は海人族の頭領で、全ての情報の収集者である。
東とは、日が昇る新進の状況を示しており、陰陽五行説では「春」を象徴し、「青龍・水を司る神」である。それは正に活動を始めようとする瞬間を思わせます。
「土・くに」はそうした状態を言うのです。決して「国」ではないのです。「国」とは王つまり王位を囲む所の意味でしょう。それは人が人を支配する空間です。しかし、「地・くに」とは、全てのものを生み出す自然をいいます。
私は日本書紀を編んだ知識人の多くは、朝鮮半島から儒教的精神を担った種族だと考えます。弥生人と称される侵略種族でしょう。
しかし、この「地」を意味する思想はそれとは異なります。縄文人が持つ、自然を共有する思想が現れています。つまり、青山・・・山・川・と海に囲まれた豊かの美しい国を言のではないでしょうか。それらに囲まれた「地
・くに」が古来の日本の姿と表現されているのだと思います。
縄文を形つくる一万年は、その自然を崇拝する心が繋げた「円の思想」があったから持続したのではないでしょうか。それは天災(大噴火や洪水・旱魃など)以外は平和に過ごせた時代だったのです。彼等は産土神(地母神)を祀り、自然を母として生き延びた種族だったのです

この書き込みを読むとこの後半部分は今と変わりがありませんが、前半の思いつきは一考を要すると思います。
「古事記」については、暫らくは秘匿の書で「日本書紀」が正史として流布するよりかなり遅れて知られている。
「古事記」の序に太安万侶が表わしているが、安万侶は民部省の任にあたり、地方豪族の強化に努めてると言うのが通説で「古事記」に関る時間的な余裕はないと言われている。しかし、大伴家伴の例にもれず、軍事の役職にいらがら、歌をよんでいる。太安万侶も直接「古事記」を編んでいるわけでなく、稗田阿礼の素材を選択し、編集したといえる。

太安万侶は天武天皇の湯沐令(ゆのうながし・・幼帝の養育係)である多品治(おおのほむじ)の系譜で大歌所の管理者である。その大歌所の現場の指揮者は柿本人麻呂である。
多氏は神武天皇の兄・神八井耳命で祭祀を司る職掌の長で、もとより、祭祀の専門家である。大歌所は巫女の「天語り」「神語り」の統括者で「帝紀」「旧事」の伝承を歌として残している。

大歌所の巫女は地方豪族の采女から優れた歌い手、呪術者である。その教育係は、所謂、地方の識者である「古老」が当たっていたはずである。
稗田阿礼にはその「古老」や巫女たちが伝える「話し」を収集し、口伝する可能性をひめている。それを「古事記」に反映させることはありえることだろう。

一方、「日本書紀」は中国の正史に倣って、当時の頂点にいた識者が合理的理論的に結集した政治書である。当時の皇室や上毛野氏・忌部連・安曇連・難波連・中臣連・平群臣などが名を連ねている。
その統率者として藤原不比等がいるのは確かであろう。不比等は幼少から百済系の学者・田辺史のもとで教育を施されていて、中国や朝鮮の主要な文献を熟知しており、魏志・倭人伝や旧漢書、新漢書はもとより晋書・梁書まで目を通していたと思われる。
国内にも、「風土記」の作成作業中、各地の「古老」が貯えた様々な古伝承も収集しているはずで、膨大な情報の中から「日本書紀」に反映させているのは明らかだろうと思われる。
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