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私は予てから、疑問に思っているのは、山幸彦と海幸彦の説話である。

何故、兄である海幸彦が弟である山幸彦に服従しなければならない事言うことである。山幸彦は端的に言えば、山の民である。そして海幸彦は海の民であろう。
古代史はその海の民を核として歴史を作ってきた。折口信夫の説く「まろうど」信仰は海(常世)を日本人(和の民)は尊崇してきた軌跡であると述べる。その「まろうど」の具体的な名を挙げれば、中国思想と朝鮮思想であろう。神話的に言えば、安曇族と宗像族の齎した思想がそれにあろう。

だが、八世紀の大和人はどうやら、朝鮮から「儒教の洗礼を浴びた種族」が日本列島に先住していた縄文人を屈服させて、先住民と婚姻をかさねて、この国の覇権を取ってきた。先住民はその母系を繋ぐことによって僅かながらその血筋を繋いできた。しかし、文化的には渡来民が先進性に優れ、農耕や灌漑技術それに金属技術や軍事力の先進性は先住民族を圧倒し、先住民族の生き残る道は融和するより術がなかったと言える。

先ず、神話はニギハヤヒ命と物部氏の東遷から始まる。大和への進行はニギハヤヒ命と長脛彦の融和から始まる。つまり、これが山の民なのだろうか。
そして、南九州より海の民であるカムヤマトイワレヒコが侵略したと言うわけである。
海幸・山幸の状況背景はそのような設定であり、山の民(先住・ニギハヤヒ族の融和民)が海の民(海人族)を服属させた物語りではなかったか。

本来、縄文時代から、卑弥呼を引き合いに出すまでもなく「和の国」は出産の司る女性崇拝(地母神)の風潮が著しく、母権性集団であったのである。それを海からの渡来民族が駆逐して言った。
神話はそれを「国産み神話」でイザナミの先行を諌める形で表現する。「女性が優位」であることが「蛭子や淡島」をうむと言う寓話で示したのである。(私はここに儒教の男性優先主義をみる)
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隼人と言う命名は八世紀の始めに、大和朝廷から名ずけられた名称です。それまでは曾(襲)族と呼ばれていました。702年に肥君が大伴氏や五木百部氏などを引き連れて、肥後の国から出水郡と高城郡(たかぎ郡、現在の川内市)に曾族の馴化のため200戸を移動した時から使用された。その後、大隅国に714年に備前国よりやはり200戸を大隅国の桑原郡(現在の国分市)に進出させ、曾族の制覇を目論み、朝廷が送った陽侯史麻呂を殺したため大伴旅人を将軍に党争を続け、740年の藤原広嗣の乱で曾君の多理志佐の裏切りで幕を閉めた。それまで南九州は曾族が薩摩・日向を支配していたと思われる。
曾族の本願は鹿児島湾の奥部の山岳地帯に拠点を置く、「古事記」で言う大山祇神が居住していたと思われる。
南九州は鹿児島湾を拠点に桑原郡と野間半島の笠沙を支配下に置き、上野原遺跡にあるように半狩猟、半採取を営む曾族と笠沙に象徴する、かこいノ原遺跡にあるような海人族を配下に南九州に君臨していたと思われる。

「古事記」に「天孫降臨の曾」から「笠沙」にいたる神話に見えるように、久米氏と大伴氏が先導して阿多鹿葦津姫(コノハナヤサクヤ姫)と婚姻を結び、皇孫の系譜が始まる。

この野間半島は古くから、黒潮の影響で江南や海南島からの漂着物が多く、「呉」や「越」の種族も折にふれ(漂着や戦乱、政争の亡命など)野間半島に上陸していた。
滝川政次郎師は「猪甘部考」に<その北九州に着いたのが安曇氏であり、南九州に着いたのが隼人族である>とのべている。しかし、南の隼人は「曾族」の大和朝廷に屈服した命名である。「曾族」は縄文時代からの先住民族であり、隼人族と言うのはありえない。やはり、ここも「安曇族」である。しかし、その後、南九州に「安曇」の名は見られず、久米氏が活躍している。私見であるが、「久米氏」は南の安曇氏の後裔で安曇氏は隼人や久米氏と婚姻を重ねたか、衰退して名を失ったと思われる。

隼人については征服された民族のため主体的な伝承がなく、真実が伝わっていないが、縄文から弥生にいたる渡来人の優勢が始まるまで(弥生の稲作の進行と人口の増加が起因した)、明らかに「曾族」(隼人はその末裔)が先住していた事実があり、私は「古事記」や「日本書紀」の神話はその記憶だと理解している。


2014.01.27 隼人の周辺。
「古事記」では<故、火照命は海佐知毘古(うみさちひこ)として、鰭(はた)の広物、鰭の狭物(さもの)を取り、火遠理命(ほおりのみこと)は山佐知毘古として、毛のあら物、毛の柔物(にこもの)を取りたまいき。ここに火遠理命その兄(いろえ)火照命に、「各さちを相易(あいか)へて用いむ」と謂ひて、三度乞ひたまへど許さざりき。然れども遂にわずかに相易ふること得たまいき。とある。火照命(兄)は火遠理命(弟)に破れ、兄は弟の俳優(わざおぎ)として服するようになる。>

俳優とは警護と呪術的な衛兵であろう。現代人の常識からいえば、不可解な行為である。しかも、この兄弟はニニギ命の息子である。つまりは皇孫の血族である。しかも、八世紀で覇権をうける天皇族の祖地である北九州ではなく南九州での出来事である。通説では八世紀の皇族は北九州の出自だと言う。その血は朝鮮半島の渡来人の血が色濃く反映している。それであれば、いくら神話と言え、否、神話だからこそ、皇孫の始祖は北九州とするのが合理的であろう。私も北九州が天孫降臨の舞台だと語られても、一片の疑問も抱かなかっただろう。
この不条理な神話をどう受け止めればいいのだろうか。私は八世紀の識者達の知的水準を高く買っている。特にその中心にいただろうと思われる「藤原不比等」の学識はその政治感覚と同様に天才的なものがあると推測している。だからこそ、神代の舞台が「南九州」である事には深い意味があると理解せざるを得ない。
彼等は古代(弥生いや縄文時代から古墳時代にかけて)の文化の基盤は南九州にあったと理解した結果がそうなった思わざるを得ない。

安曇族の始祖はイザナギ命の禊で生まれた綿積見神である。その後に生まれた天照大神とスサオウ命の誓約で生まれたのが宗像三女神である。時間的序列から謂えば綿積見神が先であり、その後に宗像神が現れる。先ず、江南文化が先行し
そのあとで朝鮮・弥生文化が到来するとは考えられないだろうか。朝鮮文化は、多分に中国文化の影響を受け進行したのは間違いない事実だから、中国文化のあとに、朝鮮文化の進行が「倭」に及んだと言う認識が八世紀の知識人にあったと考えるのは順当な理解であろう。
2014.01.27 大隅と熊曾。
大隅の国についてその由来を調べようと「風土記」を紐解いてみたが、逸文にも僅かな記事が載っているだけで詳細を記したものはなかった。

串良の地名の由来はあり、その中で大隅の郡が見えるが注釈には姶良の誤りだと説明する。後は必志の里の件りと醸造(くちかみのさけ)の件りがあるばかりである。

私が推察するに、「おおすみ」は鹿児島湾の奥まった森林地域が「おおすみ」ではないかと思っている。「おお」は崇拝の「おお」で「すみ」は谷川説を取り「神の鎮座する峻厳なる凛とした聖地」ほどの意味であろう。
そこで思い浮かべるのはニニギ命の妻・神阿田鹿葦津姫の父親・大山祇神の棲む本願地ではないかと推測します。(上野原遺跡がどうしても、ちらつきます)

大山祇神は「日本書紀・神代上・一書の第八」で生まれたと言う。この神はその後、草野神と結ばれる。草野神は野椎の神とも称し、蛇神である。この後裔は阿田姫や足名椎・手名椎である。この系譜に私は興味がある。

そこで「熊曾」ですが、以前述べたように、「熊曾」を「神聖な曾の国」と解釈して、やはり霧島山系の麓である大隅の地が「熊曾」とするのが妥当と思います。「曾」が昔の意味に取るか、私が説く「甑」と解くかは別にして、その地が「上野原遺跡」の蒸し器を備えた<集石遺構>や<連結土坑>、大壺などが出土する、大きく言えば甑状の遺跡がどうも私の脳裏から消えてなくならない。
やはり、「曾」はそうした太古の伝承が、何らかの方法で伝えられたのではないかと言う印象が拭いされないのであります。

日向や薩摩は数千年規模で三回の火山の噴火(薩摩火山噴火BC15000年、桜島火山噴火BC9500年、喜界島火山噴火アカホヤ噴火BC6400年)に見舞われ、そのたびに復活した実績を持つ地域です。その記憶が何らかの形で受け継がれ、「曾」の意味を語らせたと言う仮説は妄想だとは思えない。絶滅を賭して生き抜く知恵を語られないことのほうが不自然なような気が私にはするのです。
「黄色い葉の精霊」(ベルナツィ一ク)の苗族の首長の驚異的な記憶力と語り伝える始祖の伝承を引き合いに出すまでもなく、文字を持たない種族の考えられない底力を私は信じています。それは動物が持つ神秘的な本能にも似て現代人の私達には及ばない力があると推察しているのです。
「曾」に私はそうした観念を視ます。
人類の祖先はアフリカにあり、ミトコンドリア・イブとして母系で世界各地に飛び、人種を形成したと言われる。

旧石器の港川1号人は沖縄で発掘されいるが、最近、石垣島や南城市・サキタリ洞遺跡が見つかり、社会性が見られ、イモ類が食べられていたのが解ってきた。
骨盤に大きな傷があり、傷病中は仲間に扶養されている。その社会性が縄文の原始共産制に繋がっているのが解ってきた。

この沖縄の人骨はモンゴリアン言うより南方系(オ一ストラリア、ニュウギニア)であると言う。城南市のサキタリ洞遺跡では川に生息するモクズカニを食していると言う。その理由は不明だというが、その数の多さから原因を待たれる。

現代日本人のDNAは新モンゴリアン系であるが、北海道・東北や南九州は旧モンゴリアンに属し、沖縄などの南方系を合わせると三種の混血と言われる。

私論だが、氷河期以前に旧モンゴリアン日本列島に居住していたが、北九州を中心に新モンゴリアン(弥生人)がそれを駆逐して旧モンゴリアンは北と南に押しやられたと私は仮説している。

沖縄に旧石器時代の人骨が出土するのはさんご礁の地質がアルカリ性で保存がされ易いからである。海流による人の移動は考えられるのだが、本土の地質は酸性なので消失しやすい。もう少し仮説を説く必要が求められていいと私は思う。
竹取物語は一説には、紀貫之の作品だとも言われる。貫之についてはこれから詳細を調べなくてはならないが、私は
紀貫之が「かな」を使って物語を書く事に興味がある。
当時は知識人としての素養は漢文であり、「かな」は女性用の文字であったと言われる。
「かな」は歌に使われ、巫女達が「天語り」や「神語り」を歌にして伝えていたと言う。「大歌所」がそれであろうが、それには、「太・多氏」が深く関り、「紀氏」も同様であったろう。
一説には、紀貫之は「藤原氏」を快く追っていなかったという。「竹取物語」の倉持皇子は藤原不比等がモデルであったと伝えられる。しかし、当時の不比等は黒幕としては隠然とした勢力を保持しており、これも推測ではあるが学者としても一流で、「日本書紀」にも深く絡んでいたのは言うまでもない。貫之にはその意味で対抗意識が多分にあったはずである。

さて、「竹取物語」の主人公は、<かぐや姫>である。
この「かぐ」にはどういう意味があるのだろう。姫は月から来た神女である。いな、巫女であろう。
貫之の考えた「月」は何を意味していたのか。私は、所謂「高天原」を指していたのではないかと推測している。

「かぐ」は天の香山(かぐやま)の「かぐ」なのではないだろうか。「かぐ」には輝くと言う意味のほかに、古事記や日本書紀に表わされた、香具山の榊や土を思わせる。この山の土の色は「赤」であり、「赤」は鉄を含んだ土地の意味と「赤」は邪気を祓うという呪術的な意味を含んでいる。

天の岩戸にも天照大神を引き出すのに、神々は天の香山(かぐやま)の榊に呪具(鏡や勾玉、フサ)を掲げている。また、神武天皇が土蜘蛛(先住民族)を討つのに天香具山の頂の土を取って、天神地祇に備える平瓦や厳瓦を造り、神々に御酒や供物を供えている。
これらはその中に「霊験あらたかな霊力を有する力」を内在していると言える。それは神の木であり、邪気を祓う「赤」の土であると考えるのが、理に適っている。だからこそ、「かぐや姫」はその霊場である「高天原」に帰ったのであろう。
海幸・山幸神話では、火の勢いの強い時生まれたのが海幸で弱まった時には山幸が生まれている。これは血の問題で血が純粋で同族の極みは海幸です。それに反し、先住民と混血して血が薄くなったのが山幸でしょう。

私は日本人の持つ思想の素晴らしさをここに見ます。西洋人は合理主義の思考が顕著で存在を有と無をはっきりと分けます。絶対者がその有と無を決めます。中国の思考法も同類と言えます。彼等は皇帝は唯一で征服民族を女と言わず子供と言わず粛清します。それは存在は一つと言う考えからきています。西欧、特に旧約聖書では神は絶対で存在は神が決め、ものまで神の領域なのです。西洋神話では海幸は存在しません。勝利者・山幸は海幸を末代まで粛清してしまうでしょう。
しかし、日本神話は海幸をその配下に取り込みます。この思考法は縄文からのアニミズム思想からきています。つまり「存在と無」ではなく、日本人は「混沌」として捉え、「気や道」としてとらえ、仏教で言う「空」に近い感覚で捉えています。
私はこの融和の思想を優れた哲学だと信じて疑いません。現代はその根で争いが多すぎます。「和」こそ唯一の救いでしょう。
私は上山春平氏の説う事には大まか賛成である。

しかし、藤原不比等についてはもう少し不比等を上位に見ている。

上山氏は「神々の体系」の中でこう述べている。
「藤原体制ずくり中心に立つ不比等と記紀とを結びつけて考えるようになった。」
「もともと天皇家のためにの歴史として出発したものを、藤原家のためにの歴史につくりかえしながら、しかも天皇家のために見えるようなかっこうに仕上げたものとして記紀をとらえる見地からすれば、この見地そのものの正当性を検証するための史料ちして、記紀をそのままの形で使うことができないのはいうまでもない。」

明らかに、上山氏は藤原不比等は「藤原氏」のために記紀を使ったとしている。しかし、そうだろうか。
私は不比等はそれ程、不遜な人間だと思わない。私はこの不比等を個人的には好意を持っていない。その手法は好きになれないのだ。しかし、不比等の天才性は高く評価するに吝かではない。彼の政治性や文献を深く理解する能力には頭が下がる。それは血筋のよさでもあろうが、田辺史とめぐり合った機縁の偶然性も深く帰依している。
この百済系の帰化学者は不比等に中国や朝鮮のあらゆる文献を教化したに違いない。その成果はその後の不比等に如実に現れている。

私は藤原不比等の事を哲(あき)らかにする能力の卓越性を評価している。彼が影の主導者として君臨するのは、不比等が自らを「人」として自覚し、「神の系譜」に入れない事を十分認識しているからなのではないかと私は推察している。天皇の神聖を現人神として認め、マツリゴトの聖域を侵さない、人は政治には関与しても「神聖」には関わらないという「哲学」を深く理解したからこそ、のちの摂関政治という形を選んだのであろう。その選択性は成功と言う名に当たらない。これは彼の認識の深さの成果なのである。
もし、藤原不比等が力でその覇権を握り、帝王についたとしたらそのごの藤原氏の隆盛は続いたろうか。人として人を支配する本分を悟ったからこそ辿り着いた地位なのではないだろうか。「人の部分は人へ、神の聖域は神へ」この事を不比等が深く認識したからこその天下なのであろう。

私は嫌いな藤原不比等を優れた政治家だと認めないわけにはいかない。ただこの裏技師の手法が嫌いなのだ。女性を楯にした間接的統治を私は生理的に嫌いなだけなのだが、だから私は凡人の名をほしいままにしているのである。天才とはそこが違うと思っている。
2014.01.07 藤原不比等
藤原不比等は中臣鎌足の子であることに間違いあるまい。
彼等は軍事ではなく、律令(近江令から養老令)によって世の中を改革をするよう天皇族と手を結び、地方豪族を従属させたのは非常に象徴的である。何故か女性的な手法せる。

中臣鎌足は中大兄皇子に蘇我入鹿を暗殺させたのは、考え方によれば外国の力(軍事)による覇権という方法ではなく、なにやら女性的な手法を思わせる。

特に、藤原不比等の手法は、間接的な統制手法で不比等は自ら動くと言うより女性を楯に政治に関与する方法を取っている。持統・元明・元正女帝と女性を表舞台に立たせて政治を牛耳っている。さらに、文武天皇の養育係の県犬養三千代を寝取り(その当時三千代は美努王の妻であった)、文武天皇を、三千代を使って牛耳っていたに違いない。その前に草壁皇子の相談役であったとする説があるが、それも持統天皇に取り入る方法として、多分、女帝が草壁を盲愛していたことに付け入ったのだろう。

草壁皇子が崩御すると、母性本能の強い持統天皇は息子の軽皇子(天武天皇)を皇位に就けたいと願っている事に付け入って県犬養三千代を傘下に引き入れたと思われる。その三千代を奪ってまでも天武天皇に近ずく方法は当時としては不倫が違法と知っての強引な方法であったと思われる。

つまり、不比等は女性を手がかりに政治を操って行く謀略的な手法で中枢に取り入っていったに違いない。
私はそれが幼少から母に育てられたのではなく、田辺史の女性達によって育てられたことと無関係ではあるまい。彼は、生来、女性扱いの天才的な性格とあいまって、そこで女性に扱いを学んだのだろう。
彼はその相乗効果で女性に取り入り、間接的な統治を行なった天才的な黒幕政治家であったといえる。
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