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1、日本語は呉音系が主体である。(内藤武久説)2、南九州の習俗(鵜飼・文身・断髪など)は江南的である。3、古代の中国に渡った官人は呉の太伯の後裔(この伝承には錯誤があり、太伯には末裔は居らず、弟の仲擁が正当な継続者です。周の祖)4、大嘗宮の建築様式は高床式である。(正当な天皇の継承儀礼で、南方海人族の建築様式で、南巣北穴のように、北は穴<竪穴式>である。)5、阿礼(創生)は安曇氏の禊が先で、誓約は時間的には後である(解釈は中国文化が先で、弥生・朝鮮文化は後である)6、久米氏は本居宣長説の唱える南方説。7、ニニギ命や神武天皇の重臣は久米氏である。(南九州の皇族である)等が初期王朝が南九州説を表わしている。

縄文期には、明らかに文化は北九州より南九州が高く、それは上野原遺跡やかこいノ原遺跡に現れ、海人の要素は縄文草創期より高度の文化を呈している。野間半島から大隅諸島、沖縄までのかこいノ原文化圏はかこいノ原遺跡の丸ノミ式石斧の出土が根源であろう。薩摩海人族は黒潮を利して各地との交流を可能にしている。

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私達は日頃何気なく使っている「言葉」の意味を考えてたいないだろう。それは私達が会話を主体として表現手段として使ってきた種族だからではないだろうか。

「ち」と言えば、幾つかの漢字がある。「血、地、霊」などですが、「父、乳」もその系列でしょう。
それにはある共通した意味が見られます。
文字を持たなかった古代人は、どうやらあの赤い「血」をすべての生命の根源として考えていた節がある。
何故私が、「赤い」と書いたのかは、会話を主体とする種族はまた、連想が其の延長行なわれるからでもあります。ここではそれが主ではないので、敷衍は遠慮します。

今、私は「父」と「血」について話そうと思います。
「父」は一見、「血」とは関係がないように思われますが、古代人は父と母との性交で「子」が生まれることに注目したと思います。その初めが「精子」なのは素朴に考えたのではないでしょうか。現代医学はそれが「血」ときっても切れない関係なのは言うまでもないでしょう。古代人は直感でそれが「血」と関係があるのを知ったと思われます。
「父」が、「血」と関係があると思われるのは、そんな所からではないかと思います。
「血」が命に関わる言葉である事は、多くの「言葉」に派生します。「地・霊・知」などもそうですが、「乳」や「産霊(ムスビ)」もそこから派生したと思われます。
そう考えると、私達は色々の「言葉」が意味が鮮明になると共に、連想が次々に現れることは本当に興味がたいことである。


余談になりますが、確か、町田宗鳳氏の「山の霊力」だったと思いますが、面白い文章があるので紹介したいと思います。

<原初の生命体>である山は、まず産む力を限りなく持っていた。それは途方もない性欲を持ち、立て続けに孕み、そして、次々と子を産み落しても疲れない強靭な母体のようなものである。

山のたおやかな膨らみは、妊婦の膨らみである、とある。

私は山が、水を生み、川となり、森を育み、樹木を草を生み、動物を生成するのを知っている。そして、「甑立て」と言われるように「山」は蛇に象徴されるように蛇と山は同体であり、それが「妊婦」に譬えられるのは、強ち謂われがないわけではないいだろう。
古代語で蛇は「ハハ」と言い、それが山容に関り、蛇に譬えられは、それが妊婦と関係ずけられることとも無関係ではないだろう。(そこに血が関わるのは言うまでもない)

氏神を産土神とも言う。その土地の神であるのだが、私はそれは古事記の「黄泉戸喫い」はその土地の食べ物を食した者と言う意味にあると思っている。「土地・とち」は「血」に関わるのだが、それはその土地の食べ物が血となり肉となることに起因している。地産地消とは謂いえて妙であるが、意味は深い。

「延喜式」に<地に束草(あつかや)を敷き、上に竹スを加えよ。其の室のスの上に蓆(むしろ)を加え」とある。是は明らかに、産土の小屋の中と同じ構造である。

縄文時代からお産の原型として大嘗宮と同じ構造なのはいかに産土が日本の基本的な産土小屋であるかを物語っている。お産の時、沁み込む産液が地にしみこみ、それがすべての生きとし生きるものの初めであり、我々の根源的な出発点でらると言う宇宙的な発想からくると考えられる。

ある学者は大嘗宮は高床式なので床は「地」のはずがないと言うが是は一部を見て全体を見ない卑小な見解である。「延喜式」は哲学を記しているのであって、現実を述べているのではない。「生まれる」古代語で言えば「御阿礼」の根源的状況を言っているのである。この発想は宇宙の「カオス」にまで行き着く遠大な発想であり、その精神を理解しないと卑近な住居論に陥ってしまう。

宇宙の神秘は「ビッグバン」とともに沸き起こる「膨張」を物語るもので、やはり
「混沌」がその根本にあると私は理解している。

縄文人は科学は知らなかったとしても、直感で宇宙の膨張を真に体感して「混沌」と言う表現を使っていた。我々、現代人は学習で理論を知っているに過ぎないが、実は、時間や空間の真の姿は解かっていない。解かっているような理屈ずけをしているだけある。ある学者のように「目の前の事実らしきもの」に囚われては真実はつかめない。常に疑問が物事の前進を呼ぶ事が出来なくなる。

しかし、日常生活には科学の帰納法は必要で、経験の積み重ねによる生活の進行には誤りの事実は大切なのは言うまでもない。真実と生活の現象とは区別して考えるべきである。
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