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李国棟の「日中文化の源流」は興味ある説であるが、少々、正確さに欠くので取り上げにくくはある。

古代中国語では、「三苗」は「三毛」とも言うと説く。「三毛」は正攻法で読めば、三つの毛髪であろう。しかし、例えば「三つ毛人」とも読める。「三」は多いとも判じられる。「毛人」は夷であり、北方の狩猟民族であり、彼等が黄河流域先住していた民族で移住してきた「夏(か)の種族」に滅ぼされて、一部は山岳に逃れ南へと流れ、一部は長江中流域、洞庭湖周辺で居住したと思われる。前二二世紀の気象異常の大洪水で長江流域は崩壊し、住みなれた黄河へと移住したが、先住していた漢人との争いに破れ、再び長江中流域へと帰還する。

その時の神話が「三苗族」のシユウと黄帝の「啄鹿の争」である。
徐朝龍氏の説では、前二二世紀の「三苗国」は律令の施行をされており、築城技術に長け(と言うことは灌漑技術も高度なものであったろう)初期の戦いが優勢であったのは黄帝族より文化度は上位にあったと言う。しかし、西王母の助成で「魃女神」の助太刀で三苗族・シユウ軍を破ったとある。

「苗族」は自らを「シユウ」の後裔だと唱える。
その「苗族」と大和の「倭(和)人」はかなり共通の習俗が重なり、李国棟氏の説では「江南族」は朝鮮半島を経由した「倭族」であると説く。李氏は隼人や南九州への江南族の「倭(和)」との関わりは取り上げてはいない。その点に私は疑問を持つが、何れにせよ、面白く読ませてもらった。
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2014.09.29 近況。
私は今、非常に不安な気分で満ちている。何やら訳の解らない漠然とした不安であるが、一歩踏み込むとそれは天災の多さであり、人災・政治の愚かさである事が原因だと行き当たる。最早、死語ではあるが「富国強兵策」、今の政権が行おうとしている政策がそれである。50年も100年も古びた政策を表面上、言葉巧みに耳障りのない言葉で飾り、甘言を操り、令色をちりばめ、その裏では言論を統制し、教育を操って我田引水する。中に、平和の党を自称して、羊頭狗肉を看板にのし歩く蝙蝠党は自らの仲間を行く先々には戦争に借り出そうとする愚かな政治が横行する世の中。野党と言えば、同じ与党の予備軍では世の中良くなりそうもない。
特別秘密法案・集団的自衛権の閣議決定は今は、関連法案が通過していないので、実行は不可能である。しかし、法整備が遂行されれば、もしあの野蛮な、殺害を平気で実行する米国がイスラムの人々との戦争を行った時には、日本がその災いに巻き込まれる事は容易に予想される。その時は、自衛隊の兵士は武器を取らなければならない。予想される事はそのことで自衛隊員が減れば、徴兵制が俎上に載ってくる。そんな予測は容易に推測できる。もし、平和を自称するなら、命を賭けても阻止すべきである。それを推進する側に回る事は仲間を売る事にならないのだろうか。
今、私達は中立を表明すべきで、中立とは真ん中なのではなく、独立精神であり、わが国の人々の尊厳や平和を核心に考えることである。現在の日本にはその独立精神が失われていると思う。自分の足と頭で考え、行動する精神が求められる。
神武天皇を正しく認識しようという発想から「古事記」を紐解き、神武東征の意味を知るのはニニギ命の「天孫降臨」から始めなければならないと理解する。

この垂直神話はその「アマ」に意味を水平説話に訳すと渡来伝承に行き着く。
滝川政次郎師は「猪甘部考」で安曇氏が中国・江南より北と南九州の渡来したと述べている。私はその首長がニニギ命の可能性を追求しているのだが、その時にニニギ命は臣下を率いていたはずで、その内訳を知りたいのだが、「古事記」にも五伴緒(いつとものお)と思金神・手力男神・天石門別神を従えるとあるが、そんなはずはなく実利的な部下がいたはずである。

類似した情況で徐福は秦始皇帝から逃れる為、五百艘の舟に男女三千人と五穀種、百工を乗せたと「史記・淮南衝山列伝」に書かれている。ご存知のように司馬遷は正確を記す歴史学者でこの文章は強ち誇張とはいえないと説く識者は多い。
それを信ずるとして、徐福は更に、医者・農夫・鋳物師・酒造職人・大工・石工・紙工・製塩、油製の専門家を乗船させたと「櫨山記」には書かれている。

又、ニギハヤヒ命の大和東遷に物部氏は船長・舵取り・鋳物氏・造船職人・笠縫職人などを率いている。多分、「徐福伝説」を参考にすれば、そのほか生活に必要な職人や技術をも持っていったに違いない。

ニニギ命が日向の高千穂の曾(襲)から野間半島の笠沙に移動した際、久米の命は先導したと記していたがそれはニニギ命の軍人として信頼する武将を意味していると言える。ただ、ここに安曇氏と隼人の名が見えないのは、多分、安曇氏が海人族で当時は武力で名を成していなかったからで、後に膳手として現れるように裏方であり、しかも隼人と融合して安曇系隼人として隠れていたと私は推察している。久米氏はその後、神武東征では神武天皇の皇后を推薦するほど重要な地位にまで上り詰めるが、四世紀以後、衰退したのち安曇氏がとって変わったと思われる。勿論、武力の代替者は大伴氏であろう。

今昔物語の久米の仙人の条では、安曇氏と久米氏は同族乃至はごく親しい間柄だと記述されている。(扶桑略記ではそれに大伴氏が加わる)
安曇氏は「古事記」では天孫族に比定されている。(イザナギ命の禊にある、綿津見神の末裔)しかし、久米氏はニニギ命の先導の将軍として書かれ、神武天皇の重臣として記述されてはいるが直接血の繋がりがあるのかは不明である。ニニギ命と安曇氏は系譜が同じだが、久米氏は別族の同志かもしれない。だから、その後、久米氏が重要な地位にいないのはそんな情況が反映されていたと考えるのもまた、真実なのだと思われる。
神武東征のテ一マの一環でヤタカラスと賀茂氏の関係を調べていますが、「賀茂別雷神社(上賀茂社)」の御阿礼神事の内容から推察して、これらの基層が「山城国風土記・逸文」にあると思われる。

賀茂建角身命は丹波の神野の神伊可古夜姫(かむいかこやひめ)を娶って、玉依日子と玉依姫を産む。玉依姫は石川の瀬見の小川から流れる丹塗矢を広い家に持ち帰り床に置く。すると、玉依姫は別雷神を誕生させる。
建角身命は「山城国風土記」によれば、<八尋殿を造り、八戸の扉をたてて、八腹の酒を醸(か)みて、神集(かにつど)いへ集へて、七日七夜楽遊(うたげ)したまひて、然(しか)して子(別雷神)と語らひて言(の)れたまひしく・・・>とある。そして、命は別雷に神酒を父に振舞えと告げる。すると、<屋の甍(いらか)を分(わ)け穿ちて升(のぼ)りき、建角身命のみ名に因りて、可茂別雷命と名ずける>として、その父を火雷神としている。

尚、火の神・火具土神は、雷神・大山祇神・タカオカミ(水を司る)を生んでいる。

神武天皇は姫蹈鞴伊須気依姫を娶りっているが、その母は丹塗矢に姿を変えた大物主神(言代主神説のある)にまぐわわれ、姫蹈鞴伊須気依姫を出産している。「古事記・日本書紀」の記述と「山城国風土記」は構造的に類似をみる。
私は「記・紀」は「山城国風土記」を踏まえていると考える。

そして、ヤタカラスが賀茂氏の祖とする系譜は、賀茂氏が雷神を祖神としていることは、賀茂氏が火具土神に端を発しているのであるから、「火の神」の父系に属すると言える。
そして、ヤタカラスが中国の神話では、金烏を伝えており、それが太陽の黒点に起因していることから大和の識者はそれに習ってヤタカラスを充てたと思われる。これは一つの寓話であり、賀茂氏が先住民であることの曖昧な表現であろう。

八世紀の識者は深く文献や伝承に長けていて、その象徴を巧みに表現している。その点でも私は「記・紀」を神話・逸話集・文化史書・哲学書などの総合史書として評価する。
その背景には学者や古老、巫女などの古来よりの伝承者の存在が潜んでいて重厚な構成になっていると私は思っている。これは単なる仮説に過ぎないのだが、「記・紀」は皇孫の始を南九州に置いた根拠はそれらの伝承を踏まえた優れた研鑽なのではなかろうかと思っている。あのシラス台地で生産地としてはそぐわない薩摩を始原とする皇孫は不可解きわまる話で、北九州の開けた豪族の多い地域を皇孫の地に設定しないのは私にはそれが史実であったからと推察しようがないと考えさせる。
そして、太古の史実もまた、何らかの方法で八世紀の識者は認識していたと思う。その証左が出来ないために神話と言う形で表現しているのではないかとその後の考古学が語っているような気がする。あくまで推察の域に過ぎないのであるが、驚くほどの類似性に出会うとそう考えさせざるをえない。
ヤタカラスについては神武天皇の先導役としての神話に何らの疑問を持たなかった。


しかし、「山城国風土記逸文」を読んでいるうち、丹塗矢だ石川の瀬見の小川の河上から流れてきたと言う一節を読み、ふとこの神はスサノオ命のように漂流神ではないかと思い浮かんだ。ただ、この神はある地点から他の地点に移った負の神で敗残者であろうと思った。

ヤタカラスは鴨氏の祖で、賀茂別雷神社の祭神は別雷神のように鴨氏とは密接な関係である。そのヤタカラスは中国の神話では太陽の黒点と結びつき「火の神」である。このヤタカラスも別雷神との関係から「火の神」と推察される。神武天皇自体、「火の神」の末裔ではある。又、雷は<火具土神>から生まれた、雷・大山祇神・タカオカミの一柱で「火の神」の系列ではある。

もう一つ、鳥は天空から俯瞰が出来るので、情報にも通じていると古代人には信じられていた。ヤタカラスが神武天皇の案内人として選ばれたのは火の神とともに情報人としての役割をなしていると言える。


私は山の神が「火の神」の系列であるのが気がかりではある。「古事記」による神話を読むと、常に「山の神」が優位にあり、海の神は服従させられている。八世紀の皇孫は渡来系の海人族の末裔が主導権を握っているのに、この矛盾は何なのであろう。また、薩摩の地が火山の大噴火を三度に渡り見舞われて、そのたびに復活している史実と何らかの関係はないだろうかと考え進めると、矢張り「日本」は火の神と密接な関係があるような気がしてならない。
少しこの事は深入りしそうな予感がする。
先日、夜空を劈く落雷を見ていて、子供の頃、松の巨木に落雷して、樹木を切り裂き、焦げた臭いが充満していたのを思い出していた。不思議な事に何故か落雷は杉や松が多かった。
しかし、夜空に光りとともに落ちる雷は鮮やかに一服の絵画を思わせるほど鮮明に脳裏に植えつけられた。古代において、人々はその光景を見て、天と地を結ぶ神の降臨を思ったことであろう。多分、巨木・巨石信仰はそんなところから来たのであろう。

私はなぜか、「幡」を思い浮かべていた。巨木は柱を意味し、旗の布は女性の首に巻く巫女の布ではなかったか、古来、布は人の霊気が移るといわれている。つまり、「幡」とは人の象徴であり、そこに落ちる雷は神の降臨を意味しているのではないかと思った。そういえば、玉串の形状は雷が樹木に取り付く形に似ていないではないだろうか。

そしてこれは単なる思い付きに過ぎないが、「大嘗祭」の神儀は新天皇が旧天皇に触れた瞬間に天照大神が降臨して「現人神」になる儀式なのではないかと推測します。それは古太からの経験が大和の深層心理に影響したと考えるのは考えすぎなのであろうか。いずれにせよ、物(もの・け)が深層に関わって形を変え、現象を形つくるのは古今ありえることである。
2014.09.11 近況雑感。
確かに私は古代史については素人であり、浅学の徒でもある。

だからこそ、素直な目で見ると言う長所もある。既成の学者は実証主義で文献や考古資料により判断する。かなり正確に検証を重ねることは流石、専門家と驚嘆せざるを得ない。
しかし、如何せん記録に残るのは勝者の記録である。つまり一面的なのだ。物事の真実の多くは正と反の総体にある。勝者の裏に敗者がいてその論理も大切な一面だと言える。欧米のように勝者が絶対で敗者は滅亡する。精神論理から言えば、一神教が首位を占め、論理は応おうにして合理的だ。
しかし、日本の場合、事情は複雑だ。敗者は徹底的に滅亡する訳ではなく、生き残りと言うより融合と言う形で裏で生き残る。
だからこそ、単に勝者の記録だけでは不足なのだ。例えば、初期南九州の王朝で言えば、父系が優勢種族である事に違いないが、征服される側(応々にして先住民であるが)はその生き残りをかけて母系でその血や思考を存続させようとする。ニニギ命の皇后は吾田津姫(父は大山祇命である)は明らかに曾族(大和の名称では隼人)である。「古事記」をよく読めば、ニニギ命と吾田津姫は、対等いや吾田津姫の方に比重がかかっている印象さえ私には感じられる。だからこそ、この母系の論理こそ大事なのだと私は判断するのです。
日本において、口を閉ざす敗者の論理は重要な要因なのであると思う。
谷川師は香春神社の祭神について「香春神社における忍骨命の存在は希薄で、辛国息長大姫大目命は豊比売命の外向きの公式的な名である」と述べている。

私は基本的には谷川師を「師」と仰ぎ、批判をするつもりはないが、細かい所では多少の見解の相違がある。
今回も香春神社の三神についての解釈に差異があるので、私の見解を述べてみたい。

先ず、天忍骨命・・・これは天忍穂耳命のこと・・・が希薄な存在と説くが、私は香春神社の天忍骨命は火山神で(忍穂の「穂」は「火」のホであり、阿多姫の火室に通ずる要件であると思う>鉱山の根底に流れる基本層だと解釈する。確かに、辛国息長大姫大目命は鍛冶神である。しかし、巫女ではなく呪術者である鍛冶神である。豊比売命こそ巫女神で、鍛冶神を助ける女神と思う。つまり、古代史における定説、男・女の対神を表現したものと私は考える。

鍛冶師が燃え盛るマグマを胎内の赤子にたとえ、その成功を祈って女の髪や爪を投げ込むと言う。それは創生の呪術に違いなく、鍛冶師の根源的な魂なのであろう。
私は香春神社の三神は放ち難く三神であり、三位一体であると考える。
阿多族の本拠地は薩摩半島にあり、阿多隼人が居住していた。古来より薩摩半島(野間半島)は、黒潮の流れに乗って、南島や中国・江南との交流とのが考えられ、当然、種族の交流は行われ、開放的な気質が生まれるのは自然な流れであろう。

滝川政次郎氏は江南からこの薩摩半島にやってきたのは隼人族(隼人系安曇族のことだろう)だと言い、私は更に、久米族もまた、この種族に属すると推察している。滝川氏はその安曇族は北九州にも漂着して、福岡県粕屋郡にも定着したと述べている。
吉原又吉氏は海人族を隼人・安曇・宗形と区分していますが、それは先住民系・江南系・朝鮮系に分けると言う意味であろう。
古事記では、ニニギ命と吾田姫の血縁が物語っているように、安曇族も隼人族と混血して同化しているので、大きく分ければ海人族は安曇族と宗形族に分けられるでしょう。更に、イザナギ命の禊祓いにより安曇族が生まれ、天照大神とスサノオウとの誓約(うけい)によって宗形族が誕生した。その過程を考えると、安曇族の方が発生は古く、先行している。
それは中国・江南を中心にした海人族の方が宗形族より先行しており、江南海人族の後裔かその海人族の影響を受けた南部朝鮮海人族が成長したものであろう。
す。
しかし、日本の五世紀以後の海人族、安曇族と宗形族はむしろ万葉集・山上憶良の白水郎荒雄(安曇荒雄)の遭難の哀歌碑に見られるように、その当時は宗形津万呂の方が地位的には上位にあるように思われる。が、両族は競合関係にあるのではなく、共存状態にあった。

前97年に崇神天皇は即位したとされているが、その天皇が出雲の神宝を見たくて、武諸隅を出雲に向わせる。しかし、出雲の神宝の管理者である出雲振根は筑紫に出向して留守であったので、弟の飯入根に神宝を渡してしまう。
神宝の問題は後に分析を譲るとして、ここで問題なのは、出雲振根が何故出雲に行っていたかである。
確かに出雲と筑紫は対馬海流での航海は可能である。しかし、その具体的な内容を語る資料を私は知らない。そこには宗形族が絡んでいるのだろが、文献には現れていない。ただ、出雲の国引き神話で八束水臣津野命が新羅から国を引いている。宗形女神は新羅と関係があると言う説もあり、全くの無関係とはいえないであろう。又、出雲には岩見に物部神社が存在しており、北九州は物部氏の本願である。祭祀氏族である物部氏は十種瑞宝の管理者である事から出雲の祭祀的国情とは無関係とも思われず、出雲と筑紫は交流がある事は考えられないことはない。
物部氏は神武天皇より先に大和へ進出しており、北九州から安曇氏一族を引き連れている。
物部神社はニギハヤヒの子・宇摩志麻遅命(物部氏の祖)は天香具山命と大和を離れ、天香具山は弥彦神社へ宇摩志麻遅は出雲の岩見・物部神社へと行き着き定着している。
そうした伝承を考えると、出雲と筑紫は比較的親密な関係があったのかもしれない。

私は出雲と北九州は黒潮の文化圏内で航海については、古代においては、安曇族と宗形族の交流は親密でそれが出雲振根の筑紫行きの記述(日本書紀)になったと推察している。

地は「ち」「くに」とも読ませる。その「音」の意味は深い。

「地」は「血(ち)」でもあるからだ。その土地の神を産土神と言う。「産土」とは産婦が産小屋に籠もり、室に土を敷き、蓆や藁を敷き詰めて産褥を造り、そこで「お産」をする。その時の「お産」の産液が沁み込む土を「産土」と言う。
それは生きる源を象徴する。
その「地」が食物を作り、人の生きる源である「血」を生成するのである。

イザナミ神が黄泉国でその「地(くに)」の食物を食べてしまう。つまり、黄泉戸喫(よもつへぐい)をしたから黄泉から葦原中国には容易には帰ることは出来ない。帰るためには、黄泉国の大王の許可を必要とすると述べる。「地(くに)」を出るには、その根底に関わる深源な掟が存在している。それを守ることこそ「生きる証」だと言います。
「地(ち)」は「血」であり、そこで生活するのは、地霊との越えがたい掟が存在すると「古事記」は教えます。
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