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私は以前、古代史は広く深いと言った。
「火の神」の始まりは、迦具土神である。其の子に火雷神がいて(大山津見神も迦具土の子である)、賀茂別雷神社の別雷は火雷の子(御阿礼神事の祭神)で賀茂建角身命はその祖父である。

賀茂建角身命は南九州との関わりがある。風土記にこの神は日向の曾の峯に天降ったとある。そして「山城国風土記逸文」には賀茂神社の祭りには、馬に鈴を懸け、人は猪の頭を被って競馬をしたと記している。
一説にはこの神は鬼八との争いを伝える「的石伝説」がある。又、ウガヤフキアエズの三男・御毛沼野命のまた鬼八を殺す伝承がある。

その伝承は、「鬼八は御毛沼野命に殺されて、土に埋められたが、執念深く生き返った。そこで命は鬼八の身体を三っに切り裂いて四方に埋めた。そして、その怨霊を鎮魂するための祭りが「猪掛け祭」である。神主は笹を持って舞ったという。・・・何やら中国の神話に現れる「シユウ」に似ている。

谷川健一はその著書で「南九州から以南は、豚・猪の文化圏とみなし、猪が山の神として、九州の脊梁山脈の中で崇められていたと説いた。

私はここで<猪と火・・・火山地帯>の関係に興味が湧く。それは建角身命や御毛沼野命が鬼八と関わり、鬼八を鎮魂する為に「猪掛け祭」が行われている事に起因する。

猪は日本武尊もまた猪が大きな要素を秘める。中国では羊が同じように尊ばれる動物だが、それは神に捧げる生贄なのであろうが、その根本は生贄の始原は人間であった事による。生贄は神聖で神に近い存在である。多分、羊は人間に一番近くにいた動物で親近感が人と同様な存在であったからであろう。その説で言えば、猪や豚もまた人間に一番近く有用な動物だからであろうか。

私は嘗て長崎の普賢岳の噴火で犬が生き延びていたと言う新聞記事を読み、動物の異常な生命力や災難を防ぐ直感力が火砕流を逃れたのだと思う。南九州は何度かの火山噴火の猛威に襲われ絶滅に近い危機を経験していた。南九州の縄文人はその経験を危険を察知して、海へ逃れたと推察しているのであるが、森林に生活する猪は火山の猛威を奇跡的に避ける動物的勘を先住民族は見聞していて、その生命力を脅威の存在として、敬ったのであろうか。
親近感と神秘性を人の代わりに相応しいと思ったのかもしれない。あくまで仮説あるがそんな気がしてならない。
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日本の方向を決める大事な衆議院選挙であった。
これで安倍政権に信任を与えたら、特別秘密保護法案や集団的自衛権などのように閣議決定と言う暴挙を信任をしてしまった。これで何でも法案を通そうとすると閣議だけで通せてしまう。

地方再建や教育改革(思想統制・・・着々とNHKや教育委員会・沖縄自民党のように統制を強化している)・財政再建・労働問題・大企業の内部留保、戻し税の援助政策・原発問題・株価や円安の人為的操作など一つとして我々の生活を推進する政策はないにもかかわらず、無責任な脳軟化症の有権者は肌身に沁みていないで、安倍内閣を信任してしまった。

唯一、安倍政権の本質を体験的に実感している沖縄国民がそれを拒否している。今、沖縄は経済的に自立できていて、米軍の基地産業だけで生き伸びているのではない。
私は、内心沖縄国民は「独立」を考えていると思っている。それは内地の政治屋や国民を信用していないからだ。又、内地の報道機関は言うだけで行動しない、矢張り無責任な連中をも見限っている。

今、我々の心は完全に緩みきっていて、実際の災難を身に受けなければ立ち上がろうとしない。気がついた時には体制が決していて抜き差しならない情況で身動きが取れなくなっている。恐ろしい事だ。
大嘗祭は「古事記・日本書紀」や縄文の風習のを儀式化したのかもしれない。

「貞観儀式」に悠紀殿(天津神を祀る)・主基殿(国津神を祀る)の仕様は<地を鋪(し)くに束草(あつかくさ)を以てし、播磨箕を以てその上に加え、箕の上に蓆(むしろ)を加う>とあり、「延喜式」にも<地に束草を敷き、上に竹箕を加えよ。其の室の箕の上に蓆を加え>と記す。・・・・これは縄文以来の風習であろう。

「産土」の風俗は、産小屋の一番下に砂を敷き、その上に「わらしべ」を置く、その上に「ござ」や「むしろ}を重ね、妊婦は輿の周りに藁の束を巻いて、ぼろ布団に凭れながら蹲踞する。力綱を握りながら子を産む。そして、産婦が入れ替わるたびに、その砂を敷き、藁を替えた。その砂を「うぶすな」と言う。
又、嘗ては産小屋は一回終われば火をかけて焼いた。

氏子とは「産土」で作った食物を食べ生命の糧とした。その根源は「黄泉戸喫」(っよもつへぐい)が原型であろう。そして、その精霊が氏神と言える。

天文年度、「大嘗会儀式具釈」によると、南側の竹縁は幅一間、残り三方は幅半間ずつ、そして南の縁の西の端から半間のところに、幅一間半の階段がつく。その階段は三段で、皮つきの松の木を二つ割りにして皮の方を外にしてあて、その上に平らな板を打つ。つまり高床式である

現在は、悠紀殿・主基殿は高床式であるが、「貞観儀式」「延喜式」によれば、縄文以来の風習で土の上のその室を作った。そして、土の上に作る形式は、明らかに産小屋方式である。
元来、縄文以来の産小屋の方式を受け継いだ「日継の儀式」が、高床式は中国江南の風習であるが、それが朝鮮南部に伝わり、それが北九州に上陸して、八世紀以後、大和朝廷の大嘗祭に取り入れられたのであろう。
荒立神社の祭神は、猿田彦神と天宇受売神です。
この宮尾野地区には興櫚(こうろぎ)姓が多く、かつては「こうろぎの里」「こうろぎの内裏」と呼ばれていた。興櫚一族の氏神として崇敬が厚い宮で、こうろぎは高千穂・五ケ瀬・阿蘇などに見られる珍しい姓で、神呂木に由来する。梅原猛氏はその著書「天皇家のふるさと日向を行く」の中で、興櫚一族は縄文人で土着の神である猿田彦命の系譜に繋がる人々、または猿田彦命を祀った人々の子孫であると言う。
また、鬼八一族も興櫚族と同族で、天孫族に従ったのが猿田彦で反抗したのが鬼八だと言われる。その猿田彦は降服儀礼で天宇受売と踊った神楽が「おかめ・ひょとこ」の踊りと類似する。

私は鬼八・猿田彦が同族で「こおろぎ族」が示すように先住縄文族が「火おとこ・ひょとこ」を戯画とした神楽は矢張り、南九州が「火の国」の証だと思われる。

余計な補足だが、「おかめ・お亀」でかごめの呪術・多数の目の占いを意味する。

その始まりは、都萬神社(つまじんじゃ)の杵舞いから出たと言われている。ご存知のように杵は太古より陽根の象徴であり性的な意味を持つ。
火切りの神事は、杵と臼の火切りであることを思えば、「おかめ・ひょとこ」と「猿田彦・天宇受売」の性儀が関わりがあると思う。
2014.12.08 何と愚かな。
私は無駄を承知で言う。日本の大多数の人間の想像力の欠如を哀しく思う。
選挙の予想が自民絶対多数を超えそうだとマスゴミは伝える。

今、私達は国民が払いきれない国の赤字を背負っている。その事実を直視する国民がマスゴミの楽観論に踊らされて考えようとしない
。安倍政権の経済失政は円安で我々の生活をさらに窮地へ追い込もうとしている。地方の疲弊・官僚や議員の歳費の浪費・労働問題の格差・大企業の内部留保、戻し税の存在・社会福祉の削減、少し考えれば安倍政権の行く末は国民の犠牲を前提に行われている。多分将来、若者はアメリカ並みの貧富の格差を生じるだろう。犯罪と自殺者の激増を予想するのは容易である。(大体、アメリカは銃経済<軍産複合体>と金融資本<株や利サヤの金融ゲ一ム>が主体の経済である。そんな野蛮な国情を見習ってはならない。
本来日本人は「融和」を心の奥に、秘めた平和と平等を具現する優しい人種なはずである。
アメリカのように一神教の愚かな人種とは異なる。

原発も日本の地震や津波、火山の噴火を抱える地勢を考えれば、非常に危険な政策なのである。

集団的自衛権や秘密保護法を閣議決定する暴挙は平和国民としては許さざる行為だ。考えるべきは「安保条約破棄」の構想であろう。沖縄に必要なのは、基地移転なのではなく「安保破棄」の本質的議論だろう。

何をとっても、現在の安倍政権は「富国強兵策」の古い発想であり、我々を誤った方向に導いている。

今、我々が必要なのは、未熟な政治家を育てる事だ。具体的に言えば、正常な野党を育てる事にある。

最後に、この小選挙区制は日本の国情には合わない、多思想を根源にある我々は「少なくても」中選挙区制が妥当なのである。小選挙区制は米国の物まねだろうが、明らかに間違いである。
2014.12.04 赤い牛。
中国地方の伝承の中で、産斎水(うぶゆみず)に興味を感じた。

「比婆郡東城町湯谷の伝承」
昔は湯が湧いていたが、湯元に赤毛牛を埋めたので、湯が少なくなった。

「岡山市笠井山の伝承」
笠井山の薬師堂の傍らに大きな泉があり、清水が湧き出ていた。ある時、不浄の女が泉に落ちてから、泉の水が悪くなり、濁り出した。

輸谷の泉に落ちたのは赤毛牛で、笠井山の泉には不浄の女である。
多分、赤毛牛とは不浄の女(血穢)の代称であろう。私はこの伝承から思い起すのは、出雲の祭主の葬礼に、旧祭主は赤毛牛の背に縛られて「菱根の池」へ埋められるのを思い浮かべる。即ち、旧祭主の終末である。
又、「阿吽の呼吸」の「阿」は<始、息を吸う>であり、「吽」は<終、息を吐く>である。
私はこの「吽」は非常に象徴的な文字であると思う。「吽」はそれ自体は「生贄」を意味し、呪術的な意味を持つ。そこに「牛」が使われたのは、太古からの先人達の大きな哲学ないしは宗教観の伝承を意味しはしないだろうか。「牛」とは「聖牛」・「生と再生」の願いであり、祈りが言霊として吹き込まれていると考える。

<風立ちぬ、いざ生きめやも>

聖牛が「生と死」の実体として代象され、そこに一つの宇宙観を見出した古代人の宗教観はその本質が私には浅学のため解らない。
しかし、「生贄」としての牛が赤いと特定されるのを見ると、それは「火・日」の霊力なのかもしれないが、しれを特定するのは脆弱すぎる認識であるかもしれない。ただ、私の直感は「混沌の赤」を直視する。その「かぶりもの」が赤毛牛として感じるばかりである。
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