上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
沖縄・辺野古の事件は諸々理不尽だ。米軍の不当逮捕・さんご礁の破壊・知事の安倍氏訪問、何れをとっても理不尽である。

そして安倍政権の尊大で不誠実な沖縄知事への対応は人として驕り高ぶった不遜な態度である。あの赤珊瑚の小笠原の人たちは共同意識はないのだろうか。本土の人たち(大和んチュウ)は行動を起したのだろうか。
辺野古がんばれ。愚民の大和ンチュウは何故あれほど愚かな安倍政権に人気取りの支持をするのか私には解らない。小沢一郎氏の時は目くじら立てて非難した違法献金を断罪したマスゴミは何故辺野古に対する安倍政権の態度を弾叫いないのだろう。

私はこう書いていて虚しくなる。矢張り老人ぼけと平和ボケの若者の無関心、いや利己的な愚かさが悔しい。
沖縄は独立してしまうのではないかと心配する。
スポンサーサイト
グロ一バル経済・自由経済といえば聞こえはいいが、要は、大量生産の商品を自国だけでは捌ききれず、他国に売りつけようとする戦略であろう。マルクスの余剰価値を持ち出すまでもなく、価値の専有化・貧富の差の根拠はここにある。アダム・スミス自由経済の動機ずけに予定調和をおく。

しかし、そうした倫理観が失われた自由化は貧富の差を生み、今あるテロ集団をも生んでしまう。そして、その副産物は環境破壊や形骸化した殺人をも発生させる根拠にもなってしまう。恐ろしい世の中である。

中近東のテロ行為は国と庶民の無差別攻撃が顕著になり、インタ一ネットで実写することになって、人命軽視を大衆に潜在意識にさえ忍びこませてしまう。

先日の中学生の殺害はその象徴的な現象であって、一人よがりの他殺の行為を触発させているのである。その根拠はアメリカのグロ一バル経済がその尖兵であろう。特に、金融資本のグロ一バル化が与える影響は大きいといわざるをえない。大量生産の大量消費経済の根無し政策は世界を滅ぼすと言わざるを得ない。

現在、中国市場がその餌食であり、次にはアフリカが標的になるはずである。その飽くなき欲望の怪獣の鬼牙は地球を喰い尽くし、自然を滅ぼして、その精霊の怒りを触発して大災害を引き起こすに違いない。
そうなると、我々ができる事は祈るしか手段を持たなくなる。まるで神話の世界である。
先日国会答弁で民主党の議員の質問の際、安倍は野次を飛ばし「日教組はどうなんだ」と全く関係のないことを怒鳴る。私はそれを聞いて哀しくなった。一国の総裁としてあるまじき品性である。

と同時に、彼の本音が出たと感じた。教育と報道の統制が彼の狙いなのである。ラジオ・TV・講演の妨害は私達の見えないとこで、思想統制を行っている。彼はイスラムのテロリストから日本人の生命を守れなかっただけでない。

嘗て、首相の椅子を自らの病気を理由に辞退している。サラリ一マンが病気を理由に辞職するのとは違う。一国の宰相の進退は命をかけて行うべきであった。相撲の横綱はきわまれば引退である。首相もまた辞退は引退が常識であろう。彼は自分の命が欲しくて議員に止まった破廉恥漢である。そんな精神でテロからの人命の奪還は無理である。真剣さは程ほどなのだ。以前から、私は彼の言葉は軽いと主張ている。否、精神が軽いのだ。そんな人に国民の命を守れるわけがない。

彼は自分の立場を守るために、婉曲的に思想を統制している。国民の気がつかないところでお触れを出し、ラジオやTVなどに横槍を入れている。姑息なのだ。噂によれば、元通産官僚の古賀氏が報道関係から干されていると言う。なにやらキナ臭い。それを援護しているのは吉田照美氏だけだと言う。今や、記者クラブは官僚の思想統制の有効な手段と成り下がっている。

敗戦後、報道関係は独自の調査機関を持っていた。だから、官僚や政府の有効な批判は鋭かった。それは自主性がそうさせていたのである。今、東京新聞が非常に目立って論陣を張る。それは東京新聞が記者クラブに所属していないからである。五社報道機関が腰折れなのは記者クラブの所属が足かせになっているからである。良心的な報道機関は今や、記者クラブから脱却して同時な機関をもつべきである。
今、私達が考えなければならないことは、自主性と創造性と追及心である。
今の施政者は耳障りのいい威勢の言い言葉で語る、と言うより叫ぶ。だが、よく吟味すると現実と比べると真偽が薄い。

嘗て私は彼等を「巧言令色、少なし仁と」と評した。いや、それより彼等は巧妙であった。我々の気がつかないところで既成を強化している。多分、あれは官僚の入知恵だろう。教育委員や沖縄への施策、報道関係への恫喝に近い締め付け、立法の独断専行等徐々に規制を強化する。
その事に気がつく国民は何人いるだろうか。大体、あらゆる手法で国民に自主性や想像力を削ぐような施策に従事している。その反動が国力を弱体しているのを彼等は斟酌しているのだろうか。進歩にはそれ自体に毒を含まなければ真の進歩はありえない。彼等は純粋培養が操縦し易いだろうが、それが国を傾けているのに気がついているのだろうか。
私は最早、老人である。行き先は短い。だが、若者は自らの頭で考えなければ、自分の首を絞めることになるのを知るべしである。
私はTBSラジオのM氏の番組を興味を持って拝聴していた。彼等の忌憚ない報道は我々の方を向いた報道だと感じていた。しかし、今回の中東人質事件で、M氏の番組でスタッフともども、イスラムの人々を考慮して、イスラム国を「アイシル」丹変更すると番組内で宣言している。

私はこういう瑣末だと思われる事に神経を尖らせている。それは日常的な会話に本質が現れると思っているからである。
「アイシル」を使い始めたのは、米英である。これは政治的発言である。それは政治的用語で報道機関は「アイシル」を使用するときは神経を使うべきである。報道は伝える言葉に生命線があると思うからである。同局のO氏は今まで少し発言がも載ったりないと思っていたが、彼はまだ、「アイシル」を使用するのを控えている。これは賢明で、O氏とそのスタッフは報道の自主性を考えているからだと思う。

「アイシル」を政治的発言を理解してこそ報道機関である。M氏の番組での発言を聞くと、公的機関からの要請で「アイシル」を選んだと思われるが、これは明らかに巧妙な思想統制である。報道機関はそれに乗せられてはならない。イスラム国の用語は私も的確だと思わない。テロ集団である事が今回の後藤さん殺害ではっきりしたのだから、報道機関は独自の用語を使うべきだと思う。それが報道機関の独自性の始だと考える。
今、私は、近親、相(あい)憎む、と言う言葉を噛みしめている。

米英の思想とイスラムの思想は二者択一主義の白黒の同一を視る。
彼等の神は一つで、心も善と悪を峻別する。その裏腹の白と黒が対立しているに過ぎない。

しかし、日本の神は古来より、「荒魂(あらたま)」と「和魂(にぎたま)」が心の中に共存(混沌)していると考えていた。所謂、混沌(宇宙生成の核)が論理の中心にある。

よく日本人は曖昧であると言われる。しかし、その矛盾を含む曖昧さが慎重さを生み、対話による「大いなる妥協」を模索するからである。
それこそ、日本人が古代から持つ「和」の精神の根本であるからだ。

今回のイスラム国の声明は明らかに、その根源では「国」と言う<抽象>と「庶民」と<生きずく魂>を分けて選択する教条(ドグマ)主義が働き、彼等は大義名分の教条を選んだに過ぎない。(貧富の差の要因は二次的である)それは米英と同様な思考の範疇である。米国がイラクでの誤った残虐な誤戦の思想と同一の範疇である。

私は今、安倍首相は米英の思想に単純に同化する(中東の演説の中でアイシルの用語を使用すべきではなかった)より、日本人の根本にたち帰り、「和」の素晴らしさ考えるべきであった。そうなのです。日本人としての独自性を持つべきだったのである。日本人の根本には「荒魂と和魂」の混沌を内在させている。そのために日本(やまと・・・大和、大いなる和)の精神こそ表現の根拠として使用すべきであったのです。

・・・・私は中国(イスラムが中国と言う国を出さないのが奇妙である)の魏志倭人伝の「倭」は中国は卑語として使用しているが、日本人は「倭を和」と」読んでいたと確信している。魏は音(その時日本は文字を持たなかった)を悪用したに過ぎない。

今こそ、日本人は「大和・大いなる和」にたち帰り、世界に宣言しなければならない。「大いなる妥協(哲学的な)こそ大事なのだと。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。