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私も翁長沖縄知事の訪米を危惧していた一人である。しかし、今日のラジオで佐藤勝さんが知事のハワイ経由でホワイトハウスへ向うことの具体的事実を聞いて納得した。

ハワイには沖縄移住者が多く、その要人が橋渡しをしたと言う。だから、知事のワシントン訪問は成功するだろうと、述べていた。

外務省は影で謀略するのが通常だが、それも地続きの米国市民には敵うわけがなく、成功すると話す。それも多分、「金」が動くのが米国の陳情の特性だから、ここでの本土からの寄付金は有効に使われると思われる。

思うに、この一連の情況は、本土政府と外務省の植民地的性格はその本質として脆い(自主性は強固だが、他律性は脆い)。私は沖縄独立が絵空事だと思っていたが、日本政府と本土の我々の無関心を続けばありえない事ではないと、思われた。
辺野古問題は矢張り、我々の問題として受け取るべきである。
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2015.05.20 環境と農業。
米国では強力な除草剤の使用である種の雑草が強力になって穀物を駆逐してしまうと言う。
それは一点主義の合理性が弊害となっているのである。標的の雑草だけを目標にするために薬の製造過程では安価で容易に製造できるが、たの要素を勘案していない為対策が片手落ちなのが起因している。

日本ではそれ程一面的ではないため効力は軽減するが、雑草のうち他の穀物が強力な抵抗力をつけて、栄養価も成長力も優れた農産物が生まれることになる。
そこで岩手のある農家では、その優れた効力を再利用し、米にその雑穀を転化してさらなる栄養価の高い副産物を育成していると言う。

日本人が持つアニミズムの延長である多神主義は、物事を<荒魂>と<和魂・にぎたま>の両面の存在を認めて、そこを融和させる精神志向を根本にもつ。

これは西欧の一神教が奨める、善悪を分ける合理主義とは対極にある。

資本主義は米国主導の大量消費経済は罪悪を半ばする危険性を備えているが、現在の貧富の差を生み出した大資本が有利に働く構造に問題を残した。
個人の自由に<予定調和>のように倫理的な歯止めを失うと欲望が専行して、安価な商品を経費を節減して(労働力も原価に参入させることから、安価に抑えるのは必然であろう)、消費者をつくるための民度を引き揚げるための教育工場の名目で単純労働行為を近代化して、その結果、自然を破壊するという副産物を産む。

私はこの経済傾向は地球の汚染・破壊に向かい、そのうち識者はそれの警告を提唱するだろう。それが世論を喚起するのが手順であろうが、それでは遅いのである。
今、必要なのはそうした個人的合理主義の抑制が重要なのである。その方法論に日本人の持つ融和主義は最も有効な精神的支柱となりえる。日本人(和人)は自然と融和させながら、生き延びてきた。短所としては急激な進歩は望めないが環境と対話しながらの優しさが特典でもある。大いに誇るべきである。
2015.05.20 神話と史実。
予てから気になっている「天孫降臨」の神話である。
日向の高千穂の會にニニギ命が降り、野間半島の笠沙へと真来通る。その拠点には、現実に上野原遺跡が存在する。又、笠沙にも同時代(縄文草創期)のかこいノ原遺跡が発掘されている。

上野原遺跡は大隅地域(現国分市・旧桑原市)にあって、集積遺構・連結土坑・平底丸型土器・大壺・石皿・敲き石・石斧・土偶・耳飾などが出土し、竪穴住居や道なども整備されている。
ここで注目すべきなのは、集積遺構である。これは獣肉や魚を蒸す装置である。それは大きな甑と」いっていいと思う。

白川静師は「字通」で會は「甑」に通じる。と、述べている。「古事記」(日本書紀では・襲そ)の記述が「會」としたのは単なる偶然だとは思えない。それはニニギ命が「會」の地から笠沙に移動している事実が妙に神話と合致するからである。

神話ではニニギ命は吾田の地で、笠沙の神吾田津姫と出会い、血縁をしている。
吾田は隼人の別称で、野間半島の海の隼人(薩摩海人族)の象徴的な人名である。史実的に言えば、現・加世田市の遺跡である、かこいノ原遺跡が存在していて、そこには上野原遺跡と同様の遺跡物だ出土しており、ただ、かこいノ原遺跡には竪穴式住居は見当たらず、その代わりに「丸ノミ式石斧」が出土している。「丸ノミ式石斧」は丸木船を造る道具であり、大隅諸島・トカラ諸島・種子島から沖縄までの「丸ノミ式石斧文化圏」を作っており、南方海人族の勢力文化圏を形つくっている。
つまり、神吾田津姫はその薩摩隼人の海人族の象徴的巫女であると私は考えている。
この神話と史実の奇妙な一致は単なる偶然なのだろうか。

八世紀の識者は考古学を持たない。だから、考古学事実は認識する事は出来ないはずである。しかし、この考古学と神話の一致は私には単なる偶然だとは思えないのだ。
巫女が歌で古伝承を伝えたとして、又、縄文からの呪術者である古老が太古の記憶を何らかの方法で伝えたとして、その方法は何であったのだろう。

ユングは集合的無意識が古い時代の記憶を夢で伝えると説いている。柳田国男は「祖霊と言う無意識の集合体」と述べている。小説家・夢野久作は太古記憶を「その人間が先祖代々から遺伝してきた心理作用の集合体にほかならない」と「ドグラマグラ」の中で記している。小泉八雲が確信した再生や転生の観念ははるかな過去に蓄積された記憶の再現以外の何ものでもない。と、谷川健一師は「魔の系譜」で述べている。

私は八世紀の「古老」や「歌巫女」たちが、伝承やそれにまつわる夢の顕現によって縄文草創期にまで読み取っていた可能性を否定できない。
DNAの構成要因は環境と遺伝子の相互関係で成り立っていて、膨大な環境修練の繰り返しがDNAに定着して、ふとしたキッカケで表出する事、それが「夢」であり、巫女の持つ「霊感」であるのかもしれない。その証明は残念ながら証明が出来ないが「仮説」として示す事はできよう。
私は民主党・旧首相の鳩山氏が発言した「少なくとも県外」は多少の評価をした一人です。

何故、多少なのかはこの問題の本質は「安保条約の破棄」にあるからだからです。確かに、段取り論から言えば、性急ではあり、現実的には「先ず」辺野古基地反対であるのには、異存がないが「しかし」それに平行して「安保条約破棄」もまた重要な運動でなのは確かな事だからである。

沖縄は日本国の一地方であることは事実なのである。つまり、地方創生の一つとして我々は強調しなければならない。
現在の安倍政権の取る中央政権は国情を疲弊させ、衰退させている。最早、中央政権主義は古い志向と言わざるをえない。
私の哲学的発想の根拠は塩土老爺の「東に美(よ)き地(くに)あり、青山四周(あおやまよもをめぐら)す」にあると考えています。

爛熟した資本主義は「アダム・スミス」の倫理である「予定調和」を形骸化させ、意味を失っている。人類を視やを持たない個人の欲望を強調する偏狭な思想は、大量生産のために環境を破壊し、極端に貧富の差を生み出す根拠となる。最早、改革の思想が必要なのである。
沖縄・辺野古問題はその始であると私は思います。
新聞記事に「教師削減」が小さく載っている。経費節減だと笑いながらいう。無駄ずかいは外にある。
多分、日教組の勢力を抑制しようとする安倍政権の思惑だろう。

日本は、かくたる借金国である。立法・行政が、つまり現在の法律の弊害の一つであるが、立法府のトツプが行政を二義手いる悪癖で、三権分立をなえがしろにする悪法なのである。
独断専行する暴君が自ら作る法律を自らが実行できる体制は間違いでだからこそ憲法は重要なのだが、それも横暴な閣議決定などと言う蛮行で乗り切る。

話が少し逸れてしまったが、安倍政権は私達が真から気ずく前に着々と外堀を埋める。それを気ずく国民は少なく、マスゴミは気ずいていても、だんまりを決め込む。
今、私達は少々細かい事でも神経を尖らせて見守らなければならない時ののだが、平和ボケの国民は自分に降りかかってこなければ行動しない。この死にかけた老人が言う言葉なぞ目には留めないだろうが、今、自分達の首はジワジワと絞められているのをしるべきである。
大和朝廷が取った戦略で重要な施策は戸籍の整備と律令制度の制定であろう。
しかし、私はそれと平行して大和朝廷が遂行した「心の改革」つまり宗教改革もまた、重要な施策であった。

元々、太古から大和の地には大神(おおみわ)信仰が定着していた。また、出雲にも大穴持神の信仰があった。これは詳細は伝えることが出来なくて残念であるが、共に「大物主信仰」が根本にあったと思われる。
それを内部から侵略して崩壊させたのが、檜原神社の豊鍬入姫命と倭姫の神婚伝承と丹波の羽衣伝承の豊受大神の伝承であろう。
私はこれは大和朝廷の宗教布教の史実を神話化したもので、その頂点の伝承か出会ったであろうと考えている。その頂点を支えていたのが「日の巫女」の浸透(布教)であった。その周到で賢明な施策が大和朝廷の完成に導いた政策であったろう。多分、それはニニギ命と神吾田津姫との血縁神話が参考であったろう。その発想は女性の助言ではなかったかと私は密かに考えている。
残念ながら、私の怠慢で65歳の遅まきの古代史の志向が浅学で詳細を点検する時間的な余裕がない。粗雑な雑感で苦渋の発言ではあるが、時間が続く限り追求を怠たることなく実行したいと考えています。
非常に興味ある映画であった。細かい所を言わして戴くと「縄文号」ではなく「弥生か古代号」であろう。丸木船を製造する際、縄文人は砂鉄製の斧は使用しない。通説では丸ノミ製の石斧であろう。

しかし、最初から手製で丸木船を造る行程は素晴らしく。自然、海や風、潮の流れ、星、台風などの自然の脅威や受納が必須の情況は自らの意志を越える。つまり、死と向かい合って航海する実感は伝わって来る。それは自然任せで、危機状況には祈るしか方法がない。主役はスラウェシ島のマンダ一ル人なのだが、彼等が「精霊」を信じ、イスラム教に帰依する(多分、後からの信仰であろう)のは理解できる。東日本大震災の猛威を我々は為す統べもなく、祈るしかないのを経験している。自然に対する畏敬の原点なのだが、科学を妄信している近代人は「愚かな驕り」を剥きだしで、その原点を素直に受け入れる正しさを理解出来ないだろう。

インドシナから沖縄・石垣島までの航海は風と潮流と島伝いの日々で、海の広さ、恐ろしさは画面を見ていても、言い知れぬ虚しさを実感できる。
多分、縄文時代の海人族はそうした自然の脅威を身に受け、「神や精霊」を信じるしか生きるすべを持たなかったのであろう。舟を製造する時の神に祈る神事は命の意志で、舟霊(ふなだま)は自らの守護神だったのだろう。
いずれにせよ、この映画は私にとって重要な認識を与えてくれた。
「領布ひれ」の真の意味が理解出来なかった。解説では人の身をつける物実でそこに霊魂が宿るがために神聖だと記している。解らなくはないが今ひとつ心に蟠りが残される。
「箱」が魂の入れるところだと言うのもそうかとも思うが納得がいかない。宇宙が地球を包む霊の布状のもので、母の霊包のようなものと言う説もある。多分、生命を育む霊気を発する情況が宇宙の「気」なのかも知れないが、「領布」はその象徴だと解釈すればいいのか、今でも曖昧模糊としている。大嘗祭の天羽衣や「天孫降臨」の真床追衾
も同様な象徴なのだろうか。一考を要するだろう。
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