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私がこの頃、創価学会とスイミング競技に変化が見られるのを感じた。安保法制のデモに創価学会の会員が反対運動を行っている事と水泳の練習方法に仲良し組織が排除されつつあることである。

最近の教育を包む環境は精神的に弛緩しており、特に教師ばかりでなく、それに関わる人々のモラルが著しく低下しているのが顕著である。物事の判断がゆるい個人主義に裏打ちされて、タガが完全に緩んでいる。それらの人々は口々に自由を口にして言い訳にする。
この際、この自由を再確認する必要がある。少し、話は飛躍するが、込んだ電車の老人・妊婦・障害者用の座席に平気で座る若者が多い事だ。かつて私はそれを注意すると、逆切れをされ「お前にそれを言われるイワレはない」と拒否され、周囲の人々は見て見ぬ振りをされた。その時、わが日本も形式的な自由社会に汚染されたと感じた。

今それが少しずつ変化し始めたのかもしれない。
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安倍氏は答弁で中国の南シナ海や東シナ海の専制的、強圧的な政治行動を批判するが、安倍氏が行う辺野古での基地設置の世論や住民の意向を無視した無言の行動は私には中国と同じ様な政治姿勢に思われてならない。彼の政治的信念の根拠は偏狭的な思い込みに過ぎず、かつての首相が考えに考えた結果を感情乃至は独りよがりの思い込みで解釈してしまう非常に危険な発想でしかありえない。

政治は単層の解釈ではない。幾重にも取り囲まれた領域を丁寧に解き明かす慎重さとそれを裏ずける哲学がなければ用意に実行すべきではない。
それをこの安倍氏は意図も簡単に思い込みと単純な情況論で解釈して、それを公式見解として実行してしまう。何と恐ろしい政治家が現れたものである。それも選挙での国民の選択が裏ずけにあるのだから、始末に終えない。自民党に絶対多数を与えた国民は猛反省をすべきである。それは立って、行動を起こすべきなのである。

今、多くの国民は深くこの政治の本質や真剣に考え、討論する行為が必要である。
漸く、創価学会の婦人部が安保法制の反対デモを行った。創価学会は平和主義と福祉の推進を掲げていた。その支持政党の公明党もその精神を受け継いで立党したはずである。しかし、公明党は恥ずかしくも自民党にすり寄り追従して平和主義も福祉政策もかなぐり捨てた。あの国土省長官の大田某の醜い姿はまるで謙った召使のようである。
私は、予てから何故公明党の支持団体である創価学会が庶民生活に反する政策を唯々諾々と受け入れているのか疑問であった。まるで専制国家の従順な愚かさをそのまま演じているように見えてならなかった。成熟した民主国家の国民は自由と主張は自らの特権である事を認識した成人のことを言うと理解していただけにまるである特定な人間のために追従しているかのような印象をもっていたが、今回の学会の婦人部の行動は私を少々安心させるだけの意志を感じさせ納得がいったときの爽快感を覚えた。いや、人間の息使いを感じたのである。
先日、地域集会に出席して、集まった人たちはテ一マを持つと出席をしなくなると言う。私は団欒が悪いとは言わないが、我慢もまた必要で計画性も場合も大事なのである。楽しみとは苦しみがあるからこそ、倍化するといった正論を語りたくなる。

第一、安倍政権のようにかつての施政者は国民を愚民として扱った歴史があるのに、国民はその反省を根本でしない。雑談も必要だが一つの場で立ち止まって考える習慣もまた大事なのだ。

敗戦濃厚の南方戦線で一般戦士は本土襲来に備えて、持久戦を強いられる。敗戦も近く、武器も食料も尽きて、戦闘は無意味であり、南方の司令部は戦闘が無意味なことは判断できたはずである。
かつて、満州で敗退をして、退却を余儀なくされた時、軍部とその家族だけが情況を知らされ、一般人には知らされなかった。軍人達は敵の追走を難しくする為、橋を壊して逃走した。後に続く民間人などのことは考えてはいなかった。
南方戦線でも同じ事が言える。司令部はマニュアルを重視して、一番大事な命の事は無視し続けた。兵士は無気力と足に蛆が湧く重症病者をも抱えて、持久戦を続けた。何と残酷で無意味な戦いなのだ。日本の軍隊の上層部は観念的な信条が先で国民の行く末などどうでもいいのである。

その思想的構造は今でも同じで、それに備える精神的な対策もまた、国民は考えようとしない。
質の選択は難しい問題を含むと言うものの常日頃の鍛錬もまた重要なのである。
新宿協議会のふれあい集会に出たが、集まった人々は60歳以上の女性であった。係員に聞くと男性はほとんど集まらないと言う。内容は駄菓子を前に於いて世間話に終始していた。まるで病院の待合室であった。主催者のテ一マをきめて話し合ったらいいのではないかと提案すると、そうすると人は集まらないとのこと。

私は今の日本の現状を見たような気がした。こういう人たちが安倍内閣を支えているのだと。いつでも真剣に話し合おうとは思わないが時には、真剣に話し合う機会も必要である。特に、国会周辺では安保法制に反対してデモを繰り返す人達がいるかと思うと、茶のみ話でお茶を濁す平和な者も存在するという現実もあるのだと。こういう暢気な人々を無理やりに硬派の話題に引きずり込む必要はないが、主催者は時には真剣な話題を語る機会を持つのも一考である。その機会は今であると私は思います。
そのつもりでしたが、終始世間話で穏やかな集会でした。失礼とは思いましたが、途中退場しました。
米国は二つの大きな経済機構で戦争を可能にしてきた。それは、金融政策(つまり、金貸し)と軍産複合体(武器商法)をその財源としている。当然、その機構の仕組みは貧富の差を生み出だす。経済的敗者は生きる戦争から落後して彷徨いとどのつまり戦争の兵士として戦場に狩り出される。(それは巧妙な生命売買政策である)
その軍産複合体の仕組みが崩れて米国は戦場から手を引かざるを得なくなった。今、愚かな日本の政治屋がその肩代わりをしようと言うのだ。軍事には金がかかる。軍需産業は純粋に消費産業である。当然、大手・死の商人が蔓延る。その消費経済の捻出は当然国民が負担をする事になる。福祉・年金は削減され、若者から就職を奪い、巷に放浪者として生活苦の敗者を蔓延させる。この手法は過去に米国が明かした悪法である。それを安倍政権はこれから行おうとしている。勿論、そのまま、見習う事はなく、もっと巧妙に行うだろう。彼等は、基本的には国民を舐めきっているから、ごり押しするはずだ。

今、安保法制や経済諸法(沖縄の辺野古の軍事施設の建設はその象徴といえるのだ。だが、本土<嫌ないい方だ>の我々はまるで無関心である)を実行させれば、彼等は強硬に傾国に邁進するだろう。経済ボケの国民の大多数は楽観的なので、又、それを見過ごし自らの首を絞めてゆくだろう。
私は何度となく宣言してきた。少々、舌の根が乾いてきた。残念だ。
現在、私は気が滅入っている。そんな時に私は古代史を紐解く。何故かである。解らないが気が休まるのである。

古いノ一トを取り出すと白山姫神について書き記している。

北陸の霊峰・白山の女神・菊理媛は多く、容貌が醜くタブ一に厳しく、気性が荒く、多産でオコゼを好む。一説にはそれは山姥や一つ目の鬼が零落した姿と説く。
しかし、蛇も又、その範疇に入るだろう。そして、私の想像力は岩長姫や土偶の存在に行き着く。

先日、私は大神神社へ参拝に行く機会があった。その祭神は大物主神でその化身は蛇であり、信仰の対象は山、つまり三輪山である。独特な三ツ鳥居の向こうは禁則地で磐境(いわくら)が拝まれる。何故か私はその時、岩長姫を思う浮かべていた。今後その検証をしなければならないのだろうが、今は思いつきの段階である。ここにも古代史の混沌とした信仰の形態が散乱している。益々、私の興味の「気」が沸き起こる。
安保法制の強硬採決は安倍氏が会期延長を公表した時決まっていたのは、彼が単細胞で客観的に物事を判断できない解かり易い人間だと知れば容易に解るはずだ。

今更、行動を起こしても遅い。

その遠因は公明党の表面的な名誉慾(第一池田大作氏の海外の名誉教授権を金で買っている事からも解る)彼等の平和主義や福祉政策は単なるお題目に過ぎない。それは拙い権力欲の民主党、特に松下政経塾出身者の愚かな戦略が自民党独裁に拍車をかけることになった。そして小選挙区制の弊害は更にこの独裁政治を有利に導く結果となる。そして、自民党内規が石破氏を退け、安倍氏に有利に働いたのは日本国民の愚かさの極みである。

私が一番言いたい事は、愚かな経済ボケの老人達と教育制度が育んだダメな若者が自らの将来を想像できない愚鈍な人間しか生み出していないからに外ならない。

文化は従順な人間しか育てないと、衰退して行く。客観的に物事を判断できる賢人は、自らに敵対する人間、つまり毒を持った賢い人間をも温存できる器量があるかどうかの判断が出来る指導者が存在するかにかかっている。

安倍氏は一部の金持ちと米国にその面を向けていて、我々庶民の将来には関心がないのだ。
見ていたまえ、彼が次ぎに画策するのは、福祉や年金を削減して、国防費を絞り出す事に盛をだす筈である。米国は最早、軍事に嘗ての費用を捻り出せない情況である。その肩代わりを日本が持つと言うのが大方の推察なのだ。
やり給え、多くの日本人はそう望んでいるのだから、好きなように安倍氏にやらせればいい。それが望みなのだから。悪いが、私はもう、十年は生きられないどろう。後は大多数の国民諸君がその負の遺産を引き受ければいい。

私は今、日本の民主主義の崩壊に近い情況だと理解している。それは結果として国民が望んだことなのだから仕方がない。
戸矢学説は学会では異端の説とされるが、私は嘱目する説であると思う。

スサノオウ命の詔で五十猛命は淡路島を経て河内に上陸して、畿内全域を征した。・・・・・五十猛命は大和へ移され、そこで亡くなる。墓陵は石上・布留山・鎮魂の御名は布留御魂大神。
宇摩志麻始命は、伯父・長髄彦を謀殺し、磐余彦に帰順する。長髄彦の陵墓は三輪山である。鎮魂の御名は大物主神である。

又、物部氏は縄文時には土器製作に従事していたとあり、「延喜式刑部」で<処刑の手順は先ず刑部省の「録」が犯罪名を読み上げ会衆に示し、「丞」が刑を執行する旨を宣し、市獄両司に伝える。両司はさらに物部に転告した後、物部は「唯おう」と称し、剣に乗じて囚人を殺戮する>と記している。

私はこの事実が物部氏は神との仲立ちをする中臣であり、縄文時代に土器を製作し土偶を造っていた司祭的な呪術者ではないかと推察する。それは物部氏がその後、軍事的な職掌に繋がったと思われる。
そして、長髄彦と物部氏との共通点が窺われ、また大神神社との関わりも想像される事になる。
私は予てから、縄文時代から日本列島に居住していた所謂、「和族」が賢くも、自らの血筋を伝える英知として母系でそれを存続させたと考えており、確かに文字を持たない人種の知恵と思っている。その始祖が物部であったのかもしれないと仮設している。
その点、北九州の物部と大和の大物主神は縄文時代からの先住民であったと考える。




私は「古事記」「日本書紀」を読み進むうちに二つの言葉に行き着いた。勿論、まだ道半ばで決論ずけるには時期は速いような気がするが、現実の政治状況は劣悪なので、発言せざるを得なくなってしまった。

その説話は「黄泉戸喫・よもつへぐい」と「東に美(よ)き地(くに)あり、青山四周(めぐ)らす」である。

「東」は抽象的な言葉で、太陽がのぼる地域で、<山には獣を育み、野には豊かな実りを>約束をする「陽の国」を謳歌することばである。そして、「黄泉戸喫」は所属する地域の食物を食べた結果その地に拘束されていると言う「哲学的な言葉」なのである。

古代日本は、地域は各々、生産の特徴があって、その土地を崇める生き方が特徴であった。その結果その地域に存在する「神」つまり氏神が住み、そこに居住する氏子がその神を崇めると言った精神が沸き起こったのだといえる。
それがイザナミ神を追って葦原中国から黄泉へ言ったイザナギ神、「まだ葦原中国で夫婦はやり残した事がある。戻ってやり直して欲しい」と頼むと、イザナミ神は「私は最早、黄泉の国の食物を食べてしまった。ですから、その地の根源的な掟に拘束されたいます今、その地域の王にお伺いを立てなければなりません」と答える。

私はこの神話に日本の根本的な哲学が存在すると考えています。古代に於いて、地域の重要性はこの生き方に「神」をおき、そこにそれらの情況を敬う氏子が存在すると言った根源的な存在感が生まれたと理解している。

今、地方創生が取りざたされていますが、基本的にはこの「古代の神話」に日本(大和やまと・おおわ)の情況を生んだとおもいます。

大和はどう考えても「この言葉」を大和と読むことは出来ません。私は、ここに日本独自の言葉の会話と文字に於ける二面性をみます。
古代に於いて、定説では日本(倭つまり和)には文字を持たず会話が伝達の手段であったと言われます。文字はその後中国の文明である「漢字」を取り入れ、和漢混合の文化状況を作りだしたと言う訳です。

その結果「大和」を大和と呼ぶ経緯を生んだのです。「大和」は明らかに、「おおわ」でしょう。
それは当時、古来から地域の主体性である「氏神・氏子」の体制が万全として存在していたのを南九州からやって来た神武政権がこの宗教形態に近い土地を根本に置く哲学を新しい宗教である「天照大神信仰」で統治しようとした大和朝廷が支配をしようとした結果が「大和おおわ」の思想であったと思われます。つまり、日本の根本的思想である「融和」の哲学が創生されたと言うわけです。
私はその思想が地方創生を産む根本的な発想だと考えます。

日本の首相である安倍氏は「美しい日本」を提唱しています。私が安倍氏を非知性的と言うのは保守主義でありながら真の保守である日本の古代まで遡った始原の思想を理解出来ていない愚かさにあるのです。
あの多くの国民と政治家・マスゴミが排除した政治家・小沢氏は私が知るところでは、仁徳天皇の「国見の思想」に触れています。勿論、私と小沢氏では思想的には少々隔たりがありますが、まだ安倍氏の皮相な発言より重みがあります。小沢氏の地方創生にはその根本的な日本の思想に触れている点で私は評価します。

私は国民の主体性を重視します。その始めは縄文から古代と言われる八世紀までの思想状況に顕れていると考えます。少なくとも日本の政治家と言われる人にはそれらの思想に触れて欲しいのは基本的な考え方ではないでしょうか。特に保守を自認する阿部氏は古代の書物特に「古事記」には目を通して欲しいと思います。

しかし、偏狭な民族主義を産む「古代史の思想」ですから、大局的な俯瞰の精神が重要なのは言うまでもありません。
リ一マンショックから私達は漸く立ち直ろうとしている。しかし、本質的な解決には程遠い。

自由経済が成立して、その自由の精神を下支えしていたのはキリスト教が持つ倫理観であった。
しかし、この倫理観が失われる時、経済は貪欲な金貸し精神に落ち込んでしまう。株や為替操作による金融の弊害はその自立的な倫理観があってこそ健全なのだが、この自由と言う幽霊は壁を通り越して国と国へ難なく入り込んでしまう。現在それを規制する根本的な制約はないに等しい。

今、私達は自由の形骸化や観念化をきちんと見据え、健全な国民生活が出来るように世界的規制を行わなければならない時期に来ている。

先進国のなかに、成金精神の集団が存在する事は最早、一部知識人のは警告を発している人々が現れていることは事実だが、自由を手段で使う狡猾な金貸し集団は大義名分を楯に取り、自らの欲望を得るために全精神をつぎ込んで抵抗してくるであろう。国家間の取り決めはその欲望の速度から比べれば、子供と大人の速度の違いがある。金の亡者達はそこを巧く利用するはずである。私達はその間隙を巧く調整する期間を作るべきである。国連が、本来はそれを担うべきであるが、現在その効力は薄い。
知識人は英知を結集してその対策を構ずべき時期に来ていると私は思う。
2015.07.10 呆れる。
オリンッピク建設予算が杜撰な感覚を残したまま通過した。

これが個人的問題だったら、杜撰だったでは許されない。そして、その基本的な問題をマスゴミも国民も有耶無耶にしている。
私はこの基本的な姿勢は安倍政権の責任問題に関わるのだが、安倍政権はコメントも発表しない。最早、政治も国民も神経が麻痺しているとしか言いようがない。

この国の財政は破綻に来ている。それを国債が支えているのだが、その情況は破綻の領域を越えているのだ。それなのに、マスゴミも国民も主体性を失い、他人事として見過ごす。ギリシャとは経済構造が異なるとは言え、危険状態にあることは変わりない。
最悪は国債を放棄する情況にまでは進行しないという楽観論が根底にあるのだろうが、現実的にはありえる情況なのである。日本人の国民性が最悪な情況を呈しているのを他人異存の人々は杜撰を考えないようにしているのだろう。

私は財産もない、むしろ借財があるくらいだから、無視を決め込めばそれで済む。しかし、老婆心から物を言っているのだが、馬の耳に念仏なのだろう。
今日、文化方送で駿河湾の深海(400~1500米)で業を取っている長谷川久さんが語るところによれば、深海鮫の漁獲量が先の駿河沖地震以後、漁獲量が激減したという。
このところ、各地で深海魚・ダイオウ烏賊が陸揚げされている。関係官庁は大地震の因果関係はないと報道しているが、長谷川さんに言わせると、深海の異変に不安を抱いていた。

私は明らかに、日本列島周辺に地核変動は確実に起こっていると思っている天災は今の科学では予知おろか対策も立てることが出来ない。極端に言えば、太古の人達同様、祈るより方法がない。過信は禁物である。

ここで敢えて言う。川内原発は辞めるべきである。
また、駿河湾周辺の地震か大噴火の予測は検討すべきである。
オリンピックの建設予算が膨大である。建設費や維持費を加えれば、明らかに無駄使いは目に見える。又、海外の投資は大盤振るまいで気前が良い。しかし、国内の福祉や年金は削り放題。そして、またぞろあれ程世論が反対していた原発を再開する。

この内閣は、大多数の国民には多くの負担を強いる悪政内閣ではないでしょうか。

ここで私は古代史を学ぶ一私市の好事家として、敢えて一言いいたい。川内は嘗て高城市といい、ホノニニギ命の事跡を重要な聖域であった。それは、この薩摩と言う地域は、「火の国」として苦境から乗り越えてきた象徴的な地域である。数千年に大きな火山の噴火から再生してきた稀有な史実を持つ。その象徴的な神話の地として比定されている。(私は神話は史実の裏ずけを持つと推定している)
私はその精神的遺産としての川内市を重要な資産として考えている。勿論、私は皇国史観を否定する者ではあるが、日本人として精神態な遺産には敬意を払う精神的余裕を持っている。無駄ずかいとは言わないが海外投資の冗財より国内の投資を優先順位とする視点を忘れる者ではない。何故、こうした外向け・大企業優先・軍国主義への回帰の政権を老人ボケの国民は許すのか私は理解出来ない。自らの首を自らで絞め続けているとしか思えない。今こそ国民は行動をしなければならないのではないかと思わざるをえない。
安倍氏の小さな頭脳は物事を総体で捉える能力に欠けている。それを指示する悪徳集団が公明党である。彼等は平和志向も福祉の充実も個人的なI氏の欲望の為(彼は自分の名誉慾のため海外の大学の教授職を金で買っている。)、平和をも悪魔に売り渡そうとしている。
また、あの蜥蜴顔の、人情や血液の温かさが感じられないT某もまた、物事をこじつけ、強引に手前勝手な理論を押し付ける。こんな人種がまともな手段で法案を通すわけがなく、強行採決と言う手段でしか採決をしないのは解りきったことである。
その被害を一番先に受けるのは若い人たちであるのに、真剣に考える若者達は何人いるのだろう。マスゴミによると多少の実行が為されているというが、マスコミはもっと広く、この恐ろしい知性の欠片もない安保法制を伝え、阻止運動を喚起すべきである。
私は今、必要なのは知性が介在する想像力の重要性だと考えている。
決して、情況に影響される事のない知性、行き詰まりや天災に影響される事のない想像力こそ今、問われている。

私は数年前から、古代史の教訓、特に天災についての検討を推奨してきた。嘗て、南九州は数千年の単位で火山の大噴火に見舞われきた。地震や天災については古代史の一つである続(しょく)日本紀に詳しく記されている。私達は現在、鹿児島川内市の原発の再開に直面している。嘗ての史実による火山の大噴火やそれに伴う大地震が原子力発電所を襲わないという可能性を否定できないはずである。今の知性の欠片もない阿倍政権は非常に粗雑に情況を判断している。原子核融合反応については専門の科学者でさえ操御不可能だと判断しているのに、経済優先主義の愚かな知性は、見切り発車式の「だろう」判断で猛進しようとしている。
まだ、福島原発の総括も終了していないと言うのに原発再開は自殺行為に等しい。

「天災は人災が呼ぶ」とは古来からの格言であるが、「温故知新」今重要な事は慎重な想像力の喚起なのではあるまいか。
私は国会の長期延長や今回の偏った自民党議員の発言容認は全て安倍政権の安保法制への強行採決の布石のような気がする。

この責任は想像力の欠如した国民にあり、経済ボケを増長した自民党政権の勝利であろう。
世界は右傾化した日本を批判をするが、軟弱な国民性を認識している為大きな声を上げはしない。それだけ国力は減退している現状を我々は自覚していない愚かさを知るべきなのである。

陰に隠れて、この右極化の一つに橋下氏の安保法制への加担をマスゴミは取り上げない。彼はハッキリと政界引退を表明したのではなかったのではないか。
常識的に考えれば、引退を表明した政治家がその舌の乾かないうちに政治的な行動をする。この欺瞞的行為をマスゴミやそれらを監視していいと思われる批評家や識者もそれを見逃している。
私はこの分別を忘れた弛緩した精神構造こそ日本の基盤を危うくしている根幹だと思う。現在の日本には健全な報道期間はなく、それを諌めえる知識人も軟弱で頼りない弱小国に成り下がってしなったのである。口先だけで行動しようとしない風潮が知識人だと思い込んでいる輩が今の日本の知識的情況なのである。このままいけば、日本は一部の声高な偏狭者に牛耳られてしまうのは明らかである。

もう、我々は目覚める時期に来ているのである。

愚かな判断力の欠如した大西議員は自民党内で厳罰に処するべきで、作家か先導者か知れない偏狭的な百田某は批判されてしかるべきなのである。
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