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2011.07.21 神武東征2
私は南九州系王朝が江南の倭族の何らかの移住によって原住民との融合のすえ形成されたと考えている。
原住民族は当然のことだが、異住民を容易には受け入れてはくれない。むしろ、自らの生活を守るために攻撃的、保守的にならざるをえない。
その状況は二三の伝承がそれを現している。谷川健一の「古代海人の世界」には興味ある話が載っている。

上対馬町西泊と泉の間に三宇田(みうた)という浜がある。その浜に花宮御前を祀る祠がある。花宮御前は空船(うつろぶね)に乗ってこられたお方で沢山の財宝を持っていましたが、村の有力者に殺され、財宝を全て奪われた。その後、御前の祟りを恐れてこの地にそれを祀ったが家も村も滅びたと伝えられている。
同じような話は豊玉町の多田の浜にも見られる。
また、福井県小浜市矢代「若狭国小浜領風俗問状答」にも語られている。
<八代とい村、海辺にあり。祭礼は三月三日朝、古き錦(にしき)の袋を戴き、若き女を老女かしずきて宮の前にいつ。時に羊歯を頭にいただき、素ホウをきし者、顔に墨にてぬり、杵をふり廻して、その杵を投ぐ、其故はむかし異国の船貴人とおぼしき女をかしずき漂着せしを、村の者どもいひ合わせ、杵にてうち殺し、船中の財宝を奪い取りせしが、その後、村中大いに疫れい流行し、村民大半死亡せし故、その女の霊を観音と崇め、懺悔のため、其様を成せしかば、疫れい止みしとぞ。その後、祖先の悪行を真似びて祭りとする恥をやめしかば、疫れいまた大いに行われる故、再び祭りなす事元のごとし、この祭りを民俗、手杵祭といふ。>
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