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2011.08.13 二つの安曇氏
八世紀に大和朝廷が確立したと言える。「古事記」や「日本書紀」が編纂されたのも八世紀初頭である。その時の施政者は北九州系王朝なのだから、当然、北九州系の勢力が優位であることが当然である。安曇氏も北と南が存在する。安曇氏の本貫は福岡・志賀嶋・志賀海神社(祭神・綿津見神)であろう。様々な伝承・説話は志賀海神社の祭神が主役である。南九州系の安曇氏は影が薄い。
私は神武東征は南系の安曇氏に指向があり、論拠をすすめてゆきます。まず、困難な仕事が続きます。
当然、江南から黒潮の流れに乗れば、南と北の九州に漂着するのは大いに考えられることである。北九州の安曇氏についてはご存知のように数限りとなくその逸話に事欠かない。しかし、南九州については安曇の「安」の字さえ現れない。不自然を通り越して、奇妙な感じさえ受けてしまう。何故なのだ。一つは八世紀の大化の改新にある。「古事記」にしろ「日本書紀」にしろ、その編纂は北九州系王朝によって編まれている。その結果、北九州よりの記述が優先されて、南九州系王朝の影が薄くなるのはやむ終えない結果なのかもしい。しかし、如何にも南の記述は軽い。巧妙に観念化されているような感じさえ受けてしまう。どうしても南の安曇氏の存在を消してしまいたいと言った意図さえ煤けて見える。何故なのだ。北九州王朝お得意のそ知らぬ振りなのだろうか。彼等は卑弥呼にしろ、当然その存在ははっきりと解っているはずなのに知らん振りを決め込む。触ってほしくないのだ。多分、安曇氏もそれなのだろうか。手がかりが見つからない。滝川政次郎のように「隼人」を当てるのか、久米氏を同族として嵌めこむのか、その辺が解決策なのだろうが、もう少し検討が必要ということだろう。
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