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2011.04.05 安曇氏その2
志賀村の白水郎荒雄とは安曇族の荒雄であろう。
白水郎とは海人のことで、私は二種類に分けることができると思います。一つは、イザナギが黄泉の国より戻って禊(みそぎ)をした海人族(安曇氏)と天照大神とスサノウ命との誓約で生まれた宗像族です。私見では、禊系は江南・南九州系で、誓約系は朝鮮・北九州系となります。
八世紀初頭、古事記や日本書紀が編まれた頃の大和朝廷の勢力図は明らかに北九州系が主流です。初期の大和朝廷は南九州系が有力だったはずです。しかし、八世紀には北九州系大和を支配しています。その契機はどこであったのか今後の課題ですが、今はさておき、万葉の序文に則して話そうと思います。

府の官(つかさ)宗像部と民間の一業者安曇氏ではその地位の差は歴然としています。それなのに、この目線はどこからくるのでしょうか。
ここで少し安曇族について考えてみたいと思います。

安曇氏の祖は綿津見神で、禊で生まれた天照大神やスサノウ命と同系列です。つまり、宗像氏より先行していた海人族だと言えます。
谷川健一(敬称は略)は滝川政次郎の説を引いて「漢の武帝が南越を征したあと、飽くことなき漢人の追求を逃れた百越の民は黒潮に乗って九州西海岸の南北へわたってきた。黒潮は屋久島の沖で二つに分かれ、その一つが北上して対馬海流に向かっているが、南北九州に着くのは同じ頃である。北九州へ着いたのが安曇氏で、南九州に着いたのが隼人族だ」と述べている。
私はこの説に大方賛成ですが、南九州に着いたのも安曇氏だと思います。次回はそのことを話します。

安曇氏の末裔にも鱗のある者が代々生まれると言う。「履中紀」に目の縁に入墨をした者が「安曇目」と呼ばれた。と言うことは、安曇氏の祖先に入墨をした者がいたことが解る。
同例で「神武紀」には、大久米命が「鯨ける利目」をしていた、とある。大久米は薩摩半島にいた久米部と関係があり、恐らく隼人系海人であろう。このことは鹿児島・加世田市から「久米」と墨書した土器が出土している。ことからも確認できる。
「魏志倭人伝」に倭の諸国の風俗を叙して「諸国の文身、各々異なり、或いは左にし、或いは右にし、或いは大に、小に」と言う箇所は胸に背の下や目尻に入墨しいていたことを表している。安曇氏が目付き(利目)をするために入墨をしたのは、潜水の際、襲い掛かる大魚や鮫に自分の目を誇示し、撃退させるためでなっかたか、と谷川健一は推測する。
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