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鹿児島県野間半島の笠沙(加世田市)から久米をきざんだ土器が出ている。加世田市は「かこいノ原遺跡」が発掘され、紀元前8000年に既に丸木船を作製している。つまり、海人族として交易をしていた可能性がある。(多分、初めは漂流といった偶然が発端であったろうと思う)八世紀に大和朝廷がなずけた阿多隼人の地域でもあります。
私はニニギ命が襲(そ・曽於)の地から笠沙に移動していたと「古事記」に記しているのが、江南から百越の一族が笠沙に漂着したと推察しているのである。その地に久米の徴(しるし)が出たことは、しかも久米の名は唐突に出土していることは、久米氏が江南から渡来してきた可能性を残した。しかも、「古事記」にニニギの天孫降臨の際、命(みこと)を守るため天津久米命が共に降臨している。私は神話は史実の華昇であると考えているから、この事実は久米氏が滝川政次郎の説く南九州に着いた隼人族に当てはまるのではないだろうかと推測する。つまり、安曇族かその同族と考えていいのではないかと考えます。久米氏がニニギ命の一族なり直属の配下であることは間違いあるまい。
そのことから、神武東征の際、一連の久米歌は神武と久米(安曇)が同族の可能性が濃厚であることの証であるといえる。この発見は非常に大きい。私が考える神武東征が数歩、進んだと考えて間違えあるまい。
ニニギ命が襲(そ)の地<曽於・そお>に居住していたのは上野原遺跡(紀元前8000年)から推測される。上野原遺跡からは土偶・耳飾・石斧・石皿・大壺・蒸し器などが出土している。また、竪穴式住居から220基の炉も発掘された。シラス台地ではあるが山と海、温暖多湿の気候は動植物の棲息が盛んで、狩猟は容易く、漁労・採取が日常的で定住するには最適な環境であったといえる。土偶や耳飾は地母神信仰、呪術とつながりがあり、各地の縄文遺跡と合わせて考えると、この遺跡も可なりの文化を有していたといえる。石斧・石皿は居住環境に創意が考えられ、大壺(堅果植物を煮沸して苦汁をいれ粉末にして保存している)・蒸し器は食物の保存に工夫が凝らされていることが解る。「古事記」で述べられている「曽於」(襲・そ)は熊襲征伐の八世紀頃まで(一説に隼人の存在がみえるのは六世紀とも言われる)綿々と続いた文化であり、経験と創意工夫による生活文化は我々が考えている以上に高いものがあったと思われる。大林組の検証した三内丸山遺跡の驚くべき都市感覚から類推しても、永年続いた縄文文化はその高さは想像を絶する。私は山内丸山遺跡は建物だけでなく、海を通じて行われた交易にも、他国との文化の交流が感じられる。翡翠やアスファルト、黒曜石等の遺跡の出土を考えると交易も広範囲に交易が行われていたと思われる。このことから、曽於の地での縄文人の生活は閉鎖的より開放的、比較的に自由なそして規律あるしきたりの中で統治されていたのではないかと思われる。又、鹿児島内における連合もニニギが曽於から直ぐに笠沙へ移動しているように、地域ないの疎通も成されていたと考えられる。笠沙、現在の加世田市であるが、この地にも遺跡が存在している。「かこいノ原遺跡」である。この遺跡も縄文前期(紀元前8000年)のもので、特長的には丸ノミ式石斧があり、古くからこの地では丸木船の建造が成されていたと説かれている。ここもまた、高度の文化と海を通じての交易が行われていたのである。「古事記」によると、曽於と笠沙は交流が出来ていて、「吾田鹿葦津姫が言うニニギ命との会話によると、姫の父親は大山祇命(おおやまつみのみこと)と言う」ことになり、大山祇命が日向・薩摩連合の首長である可能性さえ感じられる。「日本書紀」には次のような記述がある。
ニニギ命は日向の高千穂の襲(曽於・そ)から笠沙の地へ行き、事勝国勝長狭と出会い、その者の提案で宮殿に住むことになる。その事勝国勝長狭は塩土老爺だと言うのである。笠沙に居住する首領とは海人族の長であろう。海人族はその交易力によって、異国や異国の文化を掌握しているはずである。つまり、曽於の地と吾田の地の交流が一体であることはこの「日本書紀」の一文で煤けて見えるのである。
奇妙と言えば奇妙なのだが、塩土と大山祇の文字構成の一到なのである。<塩>は潮であり海の象徴と考えても誤りはあるまい。では<祇>(つみ)はどうであろうか。「祇」は積ないしはツム(古語では船を意味する)として先ず同意語としていいであろう。<土>は国と読ませる。<大山>もまた、国と拡大解釈してもそう大きな誤りとはならないであろう。つまり、<国>と<海>の合成語が塩土老爺であり、大山祇命でもあるのだ。
私は<大山祇>も<塩土老爺>も同族の可能性を見ている。吾田鹿葦津姫の言葉から考えれば、大山祇命が本家で塩土老爺が分家だと思われる。そのことは連合体制の香りがします。以前に述べましたように、シラス台地の厳しい生活環境が襲族は彼等の性癖を勇猛で粘り強く、団結力を培っていったと言っていいのではないのでしょうか。その団結力が曽於と吾田それに薩摩、大隈、諸県、肝属族などは苦難を乗り越えた仲間として、連帯していたと思われる(遺跡は常に新たな発掘を伴うので、一概に結論を下せないのですが、今のところ薩摩と日向の間にめっだた争いが見られないのは彼等が同族意識が濃厚で分裂がすくなっかたと思われます)。
それが私が考えている南九州系王朝なのです。ご存知のように大和朝廷が八世紀に確立します。律令制は戸籍を整備し、班田収受を推進します。そして、順化しない部族にたいして、執拗に軍備や懐柔を持って体制のなかに組み込もうと攻撃を加えます。その結果が大化の改新でしょう。
大化の改新は史実としては明らかにされていませんが、私は北九州系王朝の南九州系王朝の制圧を意味していると考えています。末子相続から長子相続へ、漁労・採取文化から狩猟・水稲文化へ、また道教から儒教文化へと変革したのです。近親相姦は北九州系王朝では禁忌であるはずです。しかし、文化変革の宣言書である「古事記」や「日本書紀」でも王朝の発源はイザナミ・イザナギの神話であり、天照大神とスサノオウの神話を変更できないのは何故なのでしょう。全くの神話ならいくらでも表現できたはずです。北九州系王朝では近親婚は禁忌であるはずなのです。それなのにその神話を書き換えられなかったのは、やはり南九州系王朝が史実であったからでしょう。それを何気なく否定するのは神話の形を採ることが一番無難だと判断したとは言えないでしょうか。私は賢明な「記・紀」の編者達が考え抜いた結果の表現なような気がしてなりません。
ここで、大伴氏について一言。
天孫降臨の際、久米氏と大伴氏が武人として随伴している。それについては、「古事記」と「日本書紀」では待遇が異なっている。「古事記」では両氏は平等だが、「日本書紀」では久米氏は大伴氏の配下になっている。
「日本書紀」の見解について一言。「日本書紀」については多少の混乱がある。それは多分、政治的見解を強いため、矛盾したと思われる。私見だが、私は北九州系王朝と南九州系王朝に区分している。702年の薩摩の隼人(私は襲族・縄文先住民とするが)征伐では大伴氏は肥後の国から肥君、五百木部氏と共に隼人征討に移住している。つまりこの年代は北九州系王朝が覇権を握っていた。その大和朝廷の指示で先住民である隼人族を征討している。ニニギ命は当然、南九州系王朝である。基本的には種族が異なっている。その北九州系王朝の軍人が南九州系王朝の上位の位を与えられるのは考えにくい。「日本書紀」の編者が意図的に改竄したと考える方が自然であろう。編者は朝鮮系の知識人が編んでいたと思われるからである。そう考えると納得がいく。




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