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久米氏はどうやら、大伴氏との「記・紀」の差(古事記は大伴氏と久米氏は平等としているが、日本書紀は久米氏は大伴氏の配下とする)がなぜおこったかは、古事記は地方豪族の立場を重んじる性格が強く、書紀は中央集権的性格が強いという、両書はそれぞれの特徴と関係があると思われる。
それはまた、「古事記」は地方豪族の活動が著しかった「壬申の乱」の影響を強く受け、書紀は専制的な律令政治の完成期である奈良朝初期の風潮をより強くうけていることに起因るすると解釈してよかろう。
と、大田亮は述べている。この解釈は正しいと思う。
私は神武東征を調べていて、ニニギ命の天孫降臨に久米氏と大伴氏がニニギ命を守衛したのは平等の立場であると考えている。その理由はニ三あるが、後に神武東征で久米氏は神武天皇に付き添って、軍事を司どり、大和では皇后であるヒメタタライスケヨリヒメを探しだしている。その時、大伴氏の名前は見渡せない。もし、大伴氏が久米氏より上位であったなら、ここでも皇后探しは大伴氏が取り仕切っているはずではなっかたか。こうした観点からしても久米氏は必ずしも大伴氏の配下であった可能性は薄い。
私は初期の天皇王朝において、久米氏は天皇とともに行動した重臣だと解釈している。しかし、大化の改新の時には、久米氏の地位が良好であったかは研究の余地があると思う。(この時、久米氏は大伴氏の後塵を拝したことは考えられる)

それから、もう一つ702年の大和朝廷の薩摩と阿多の隼人征伐に肥君、五十木部氏と大伴氏を肥後から薩摩に移動させ、隼人を馴化させている。大化の改新の前に起こった事件に大伴氏が加担している事実は、政治書としての日本書紀の編者は織り込み済みであろう。私は日本書紀が大伴氏が久米氏の上位にいる根拠はこんなところにもあると思う。

少し話は変わるが、本居宣長だと思ったが、大久米命は「目がくるくるしていた」と言い、「くるくるのみこと」とも言われた。とある。
そこで思い出すのは、その容貌は薩摩の西郷隆盛を思わせる。隆盛は南国系の顔立ちで隼人に近いそれである。多分、隆盛は阿多隼人の系列であろう。そのことは直ちに阿多(現在の加世田市)に居住していた久米氏(笠沙「久米」を刻んだ土器が出土したと言う)と断定することは出来ないが、傍証とはなろう。
ニニギ命が「襲」から「笠沙」へ直行した時、久米氏もまた、「笠沙」へ随伴し、そこへ居住したことは考えられる。私は久米氏が安積氏と同族だと疑っている。
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