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「記・紀」の成立年代は700年初期である。藤原不比等はこの時期に頭角を現す。
藤原不比等はその生い立ちは決して恵まれてはいない。幼少期は親元から離れ、いや一説には成せぬ子供だと言う。彼は百済からの渡来人・田辺史(ふひと)大隈の元で養われる。田辺史はその名のように歴史学者である。不比等はそこで歴史や法律、中国や朝鮮半島の文献を学んでいたはずである。当然、論語、史記や三国志・魏志倭人伝は読んでいたと思っても不思議はない。
私は彼が「記・紀」編纂に何らかの形で加わっていたと考えている。いや、中心人物だった可能性も捨てきれない。同時に、不比等はその名のように、古代中国の歴史は熟知していたと考えている。史記や論語、前・後漢書、三国志、もしかすると「論衡」さえ読んでいた可能性はある。勿論、田辺史は百済の歴史は専門家である。その書庫(あればの話だが)には朝鮮の歴史は満載であったろう。
この学者タイプの知恵者は女にももてる。持統天皇にはかわいがられ、橘三千代、元明女帝さえも虜にしている。多分、気弱そうに見え、寛容な聞き上手な男であったろう。歴史の上でも決して不比等は表に出ることが少ない寝業師である。
余談だが、何故、藤原不比等は「不比等」としたのか、「史」でも良かったはずです。名前を「音」にしたのは、何か意味があるのだろうか。
中国には「言霊」と言う言い習わしがあり、言葉は生きていて「霊気(れいき)」を持つと言う。「不比等」は非情に日本的な発想である。そこにはアニミズムの融和、悪く言えばいい加減さがある。「史」の方が「ふひと」に相応しいと思うが、どうだろう。

「尊卑文脈」より
(藤原不比等)は内大臣鎌足の第二子なり。一名を史。斎明天皇五年に生まれる。公避くる所の事あり、便(すなわち)ち、山科(やましろ)の田辺史大隈等の家に養われる。其れを以て史と名ずくるなり。母は車持の国子君の女、与志古娘なり。

田辺史大隈は藤原鎌足の住んだ山階(やましろ)村陶原(すえはら)の家に近隣して移りすんでいた旧河内国本貫(ほんがん)の帰化人の資人(つかいびと)であったであろう。若年、不比等はこの家に養育されて、法学の素養を養い、教養、機要を学んだ。<今井啓一説>
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