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またぞろ、久米氏のル~ツを探して三千里です。私には久米氏が「襲」地から笠沙(野間半島・加世田市)へニニギ命と移住したと言う「古事記」の伝承は史実の裏付けを得られると、確信に近いものがあります。しかし、薩摩・日向の伝承には、その後の久米氏の存在が見事に消滅しています。そのことを私はいささかも心配してはいません。「記・紀」の性癖で都合の悪い事項はことさらに無視をします。私は彼等が無視をすれば無視をするほど、そこに真実が埋められていることに意を強くします。
多分、久米氏はその存立の早い時期にその勢力を弱めていったと考えられます。それでなければ神武東征の時にタタラヒメを神武天皇に推挙する言った重要な地位が意味を成しません。その時、大嘗祭の儀礼で、久米歌を基にした久米舞が久米氏が舞うのではなく、大伴氏が琴を弾き、佐伯氏が剣舞を舞うのは不自然です。私はこの久米舞の共伴者が佐伯氏だというのに疑念を持ちます。佐伯氏の出自は関東の土雲です。「日本書紀」では大伴氏の臣下は久米氏のはずです。大伴氏の伴奏で久米氏が舞うなら少しは納得が行きますが、何故佐伯氏なのでしょう。私の理解を超えます。佐伯氏は余計なのです。その謎を解くには時間がないので、後に譲るとして、今はニニギにとっては重要な臣下である久米氏の滅亡の謎を解かなくてはなりません。
その前に、久米氏が笠沙からどういう軌跡を残したのか探らなければなりません。
私は鹿児島県の歴史センタ~に久米氏の居住を知らせる証拠をたずねたのですが、不明の返事が返ってきたので、中野の図書館で加世田市(久米を刻んだ土器片が出土した)の文献を調べてもらったが、残念なことに中野では文献がないが国会図書館に加世田市の歴史の文献があると言うことが分かりました。そして、図書館員はその土器の出たところが上加世田遺跡であることも調べてくれたのです。心強い援助である。少し前進したといえます。係員に感謝です。
後日、国会図書館で出向いて加世田市の歴史を調べに行かなければ」ならないでしょう。

以前にも述べたように、「記・紀」編纂には藤原不比等が深く関わっていると思っている。彼は持統天皇から元明、元正天皇(全部女性)にも深く関わりがある。文武天皇の教育係の橘三千代さえ自分のものにしている。
また、彼は百済からの渡来学者である田辺史(ふひと)の元で、「論語」「史記」「三国志・魏志倭人伝」などは読み通して、精通しているはずである。彼は老獪な政治家でもあり、自らの陣営に害することは避けて通る読みの深さは並大抵のことではない。天才なのである。
彼は卑弥呼がどういう立場にいたか熟知していただろう。だから、そこには語れない何かがあるはずなのである。
その謎は今、解明を控えるとして、蘇我氏や安曇氏、物部氏などの詳細はきちんと整理されていたと私は考えている。曲者なのである。
道鏡のように野心を剥き出しにして表舞台に躍り出れば、反感持つ人間がそれを潰そうとするだろう。しかし、不比等は知的で読実の深い策謀家である。出る杭は打たれることぐらいは折込済みである。当時の権力を持った男達に対する配慮も怠らなかったであろう。賄賂も使かったであろう。狙った権力者の周囲にいる人間関係も取り込んでいたに違いない。何しろ彼は稀代の策謀の天才なのである。現在、不比等に関する個人的な文献は僅かで彼の全体像が掴みにくいのは彼の術中に嵌まっている感がする。謎なのである。各自が想像するより方法がないのである。
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