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私が占領軍遺族被害者連盟で犯罪の聞き取り調査を行っていた時の事犯を少しずつ報告してみようと思います。
Aさんは杉並区の下高井戸の駅前裏道りで小さな麻雀屋を開いていました。Aさんは良人に戦死され娘さんと猫との家族構成です。昭和21年12月に娘さん(当時21歳)が仕事からの帰り道ジ~プが走りよってきてその中に連れ込まれました。米兵は3人でジ~プはかなりのスピ~ドで走り出し、二人の男が彼女に暴行を始めたのです。彼女は懸命に抵抗して、そのために車から落ちて対向車に引かれて即死でした。
Aさんの悲しみは一通りでありません。不思議なことに娘さんが可愛がっていた猫も姿を消します。Aさんが娘さんの葬式で火のないコタツを団扇で懸命に扇いでいたそうです。暫らくは食事が喉を通らずにかなり痩せたと、Aさんの友人が話していました。食うために彼女は麻雀屋をするのですが、基より素人の悲しさで収入がままになりません。家財を<質>に入れて生活費の補助をしていたと言います。しかし、それも限界があり家財を売りつくすと食事を切り詰めるより方法がなくなります。そんな時、私達が起こした連盟を知り、私の家に週に一度は必ず通ってくるようになったのです。
偏屈で奇行のある人でした。猫を愛していて、三味線協会に抗議の運動をしたり、野良猫を集めて自分がひもじいはずなのに餌を与えていました。あの米兵を殺してやるが口癖でしたが、治外法権で占領軍は加害者の氏名を公表していず、犯人の氏名はAさんが死ぬまで解りませんでした。精神的には現実と空想の境界が解らなくなっていたと私は推察しています。私の母は暇が出来るとAさんの所を訪問して話し相手になってやり、簡単な食事を作っていました。
今、私が思うとAさんの存念は口では言い表せないくらい黒く燃えていたに違いありません。悔しさなどと言う生易しい表現では言い尽くせない、行き場を失った怒りが毎日湧き起こっていたのだと思います。もし、家族の一人でも残っていたらまた、違った結果になったでしょうが、一人で生活しなければならない哀しさは、一入だったろうと思います。残酷なことです。悲劇では済ませない一人の生涯はなんと言えば言いのでしょう。私の周辺にはこういった境遇の人たちが多くいました。しかし、こういう人たちはその精神的な安らぎが得られない状態(まま)で亡くなって行きました。私も志を果たせないまま挫折したわけですが、今でも振り上げた拳(こぶし)の所在は虚しく天を突くばかりです。
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