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迷いが私を書くことを躊躇させていた。
古代史に興味を持ったのは、戦後史を再考しようと思ったからだが、しかし、どこか心の隅で納得していない所があった。観念的には天皇制を知ろうと言ったのが動機だが、<そんな安易なことではなかろう>と、もう一人の自分が何時も囁いていた。
大体、私は書きながら考えて行く性質(たち)である。テ~マを決めると、書き出すのだが、細かい部分は書きながら、推敲してゆく。その方が楽しいのである。だが、今回は群雲がかかり、そこに霧が閉ざすと言った状況なのだ。天皇制の確認と言えば形はそのとうりなのだが、何か違うような気がする。
そうなのだ、テ~マの咀嚼がよく出来ていないのだ。知識はそれなりに蓄えてある。だが、心が書くことを嫌がっているのである。戦後の再考か、それとも縄文時代からの「和」(倭かな?)の問題か、それとも中国や朝鮮との混血が根底にあることが日本人の性格を形成しているのが言いたかったのか、まだ良く解っていなかったのだ。そんな時、私は谷川健一さんの「白鳥伝説」を読んでいて(この本は長文で、確認をしながら読みことなしに理解が不可能な著書である)、九州、大和、関東、東北にまで及ぶ思想史テ~マが「意識の連続性」であると知らされて、どうやら私の曇りも解けかっかってきた。
私は日本の思想の根底には多神教の意識があり、それが「和」の思想を沸き起こらせている。と、考えていた。
それは最早キリスト教の説く一神教では乗り越えられない、いや、大袈裟に言えば地球を破壊さえしてしまうと考えていた。神との対話による約束、つまり「新約聖書」、新しい神との約束(これは教え・教条なのである)と言う合理的精神の行き詰まりが原因で、その結果がもたらした弊害だ理解していた。それを超えるものは、「融和」の精神しかないと、思っている。
本当のテ~マはこの「融和」の思想にあったのである。谷川健一は「縄文から現代に至る日本の思想の根底に、<意識の連続性>を置いた。確かに私は古代史に関する様々な著述を読んできた。何かが足らなかった。それは「総体」として物事を捉える視点が欠けていたからである。谷川健一説は多分、まだ完成に域に達していないかもしれない。詳細部分は敷衍が必要だと思う、しかし、その本質を見る視点は確かだ。日本人が骨の髄まれ染み込ませた思考の原点はこの国土とその関わりとの葛藤から生まれてきたものだ。つまり、縄文から現代に至る「意識の連続性」こそ大事な視点だと谷川健一は説いているのである。
勿論、この遠大なテ~マは短時間で解決出来ないとは思う。でも、発想としてはゆるぎないと確信する。
私もまた、ここから出発しなければならない。そのことが解っただけで、書こうという意欲が出てきたいうものである。

谷川健一教授の主張は基本的には踏襲できます。教授は物部氏をその思想史の基点に置きます。北九州から黒潮に乗って大和へと進行し、神武に敗れて、二派に分かれて、反神武派は常陸、東北へとその勢力を伸ばして行きます。
私もその説は鋭い説だと思います。しかし、その物部氏の出自はどこにあるのか鮮明にしなければなりません。渡来系なのかそれとも先住民なのか。いまいち、はきっリしません。私の仮説は先住民説なのですが、従来の学説はその点が確定してないようです。
物部とは物の怪と言うように、精霊を鎮魂する種族なのではないかと思っていますが、そうすると縄文の呪術者とするのが自然だと思いますが、その根拠は解明されていません。物部氏の際神はニギハヤヒ命だと言われますが、どうやらニギハヤヒは新羅系の神だとも説かれています。そのところの関わりははっきりしません。しかし、谷川派としてはそれを解決しなければならないと思います。
もう一つは、南九州の王朝と大和との関係です。神武天皇が大和に侵攻し、物部氏を解体して、内物部と外物部(反神武派)と分裂させますが、私は日本の思想史としては神武東征は超えなければならない、解明だと思っています。谷川教授は神武東征は北九州はですが、初期王朝には伝承として、「呉」の太白をよけては通れないと思います。これは思想的に、仮説ですが「道鏡か儒教の問題」が重要なのだと考えるので、はっきりしなければならないにではないかと思います。
谷川教授にお伺いしたかったのですが、先生は既にお亡くなりになってしまいましたので、適いませんが残念です。


補注、神武東征のポイントはニギハヤヒ命、物部氏(長脛彦)、安曇氏、久米氏の考察が大事です。これらの氏族は比較的日本書紀が素通りしている氏族で、以前にも話したと思いますが、日本書紀の編纂者は都合の悪い項目は無視する傾向にあります。一体にこの編者は素直ではなく、心がまっがっているように見える。正攻法で攻撃するより謀略を好むし、強い相手には粘り強く話し合うが、弱い敵は完膚なきまでも叩き潰す。潔さより狡猾な印象を私は受ける。
少し穿った見方かもしれないが、書紀の編纂者が嫌う話題に真実があるような気がします。だからこそ、上記の四氏の考察が重要になってくると言えます。
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