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久米氏の起源と軌跡を辿ってもう数ヶ月経ますが、読めば読むほど古事記が優れた書であることが解る。日本書紀は支配者側のレンズを通して見るようになっている。
久米氏は「古事記」ではニニギ命の笠沙への移住に先導役が天忍日命(大伴氏の祖)と天津久米命(久米氏の祖)が同等の資格で守護している。しかし、「日本書紀}は天忍日命が天クシ津大久米を率いて笠沙に移行する事になっている。
私は久米氏が他に従属していない種族がと考えている。その訳は、まず、笠沙に上加世田遺跡があり、そこから久米を刻んだ土器片が出土している。(古墳時代のもの)そして神武東征では神武天皇に従って久米氏も東上している。(記・紀)、大和では久米氏が神武天皇の后(きさき)であるヒメタタライスケヨリヒメを娶わせてもいる。大嘗祭の久米舞が奏せられるが、その演者は大伴氏と佐伯氏である。(何故この舞が大伴舞でなく久米舞なのか。一目瞭然であろう。最初に久米舞があったからである)

もう説明の余地はないだろう。しかし、世の中は面白くて、例えば京大出身の直木孝次郎は「日本書紀」の方が「古事記」より記述が古いといって憚らない。理屈はあれこれとつけるが、私には説得力がない。第一、AD702年、大和朝廷は肥後国より隼人(その時は熊襲であったろう)を馴化、啓蒙するために200戸を移住させている。その種族は、肥君、五百木部、大伴氏である。当然、このことは「日本書紀」編纂に反映したのは既成の事実であろう。直木氏はそのことにも触れていない。
上田正昭は「古事記」を正論とするが、(私はこの説に賛意を表する)久米氏は大和の山人と説く。狩や山菜の収穫によって武力を蓄える(このことは野間半島がシラス台地で狩猟と漁猟が主体であることと共通する)と説明するが、「狩と山菜の収穫」では説得力が薄い。それに上加世田遺跡にも触れず、安曇目(タタラ姫と会ったとき、姫に如何して目が鋭いのかと問われる)のくだりも無視している。タタラ姫が安曇目に興味を引くくだりは南九州と神武帝、大和を繋ぐ重要な逸話である。少しでも触れて欲しかった。
私の結論は久米氏こそ神武天皇と大和へ東征し、大和を制覇した種族であると確信している。しかし、大和に着くと、久米氏は忽然と姿を消すのです。その理由が皆目解らない。

「記・紀」特に「日本書紀」は都合の悪い事項に沈黙をする習性がある。「卑弥呼」「蘇我氏」「久米氏」「土蜘蛛」数えればまだまだあるが、私はこの沈黙に古代日本史を説く鍵があると思っている。だからこそ、神武東征に関し、「久米氏」の存在の解明が必要なのである。

天忍日命は大伴氏の祖と言われているが、その系譜は甚だ抽象的なものである。多分、7・8世紀に大伴氏が台頭してきて、大和朝廷の中枢に位置していたため、作り挙げられた氏姓であったと思われる。つまり氏姓が抽象的なのがそれを証明している。
一方、天津久米命は久米氏と直結する具体的な氏姓である。それをかんみすると、ニニギ命を笠沙に先導したのは天津久米命一人で天忍日命は後からの付会であった可能性が濃い。「日本書紀」作製時に有力氏族であった大伴氏が付会されたと考えられるのである。
当初は久米氏が勢力が強くニニギの重臣だったのである。

滝川政次郎は江南から九州に漂着した者のうち、北九州についたのが安曇氏で南九州に着いたのが隼人と説いたが、今、私は南九州に着いたのは「久米氏」だと仮説したい。久米氏は笠沙で定着し阿多隼人族と融和したと考えます。それが神武東征の久米氏に繋がり、大和に一つの勢力を持ったのである。しかし、大和定住依頼、主だった功労が上げられずに衰退して行ったのが予測されます。




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