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戦後史に続く現代の政治も大切であることは言うまでもないが、私としては、古代史への興味の方が遙かに心が動くのは考えようによっては困ったものだが、これも私自身の気持ちを抑えることが出来ない。
今日は再び、天孫降臨について話そうと思う。


私はニニギ命の天孫降臨を高千穂の「襲」に特定している。降臨に際しては数々の説が存在しているには存じている。一つは降臨の場所である。もう一つは「山・または峰」の名称に付いてである。今回は「峰」についての名称は保留して、降臨の地点について考えてみようと思う。
場所については二つの高千穂がある。霧島山山系と宮崎県西臼杵郡・九州山系の知鋪(ちほ)の地である。
本居宣長の「古事記伝」では一つに決め切れずに先ず西臼杵郡の高千穂に降り、そこから霧島に遷座したと、推理している。また、作家の長谷日出雄は九州山系の高千穂に関わる、日向国風土記・知鋪の件(くだり)に於ける内容が稲を取り上げていることから、弥生時代のものとして後期の記述と考察している。霧島山系・高千穂が縄文時代から存在していることから、霧島のほうが古く、時代の変化につれて、臼杵の奥深い山峡へ移っていったとのべている。
私は長谷説には興味があるが(稲への着眼点)、少し無理があると思っている。それは、その後のニニギ命が日向の「襲」の高千穂から真来(まぎ)通って、阿多の笠沙へ移行していることからである。もし、降臨の地が大分県との境界の西臼杵郡だとしたら、野間半島の笠沙にはかなり遠い。その道のりが「真来通る」どころではない。険しい山塊をいくつも越えなければならず、その行軍は至難の業である。しかし、「記・紀」は真来通ると記しているようが、険しい行程の一言もない。これは不自然で、表現としたら決定的な表現であろう。そのようなミスはあの賢明な編纂者達がするはずが泣なく。これは「真来通る」を素直に信じて、霧島のすぐ隣接した「襲・曽於」が妥当と考えた方が良さそうだ。私は「曽於・襲」が古代南九州の要だと考えているので、高千穂の「襲」は大隈に近い霧島山系と解釈している。
第一、天孫降臨においては天(あま)から降りたと言う行為より、天皇の系譜に連なる笠沙における「吾田鹿葦津姫」との遭遇の方を重点的に考えている。降臨の考え方は、大和朝廷の思想を結びつける付会に近いものと考えている。私としては「アマ」を海と解釈して、海人族の移動と考えたいが、これはもう少し考証が必要だと思います。後の課題とします。
いずれにせよ。ニニギ命が最終の降臨の地として定めたのは野間半島・笠沙である。ここに江南からの移住が九州「襲族」とその分派である吾田族との混血を繰り返して、神武天皇に行き着くのである。
その証左は、今のところ、私には新田神社、鹿児島神社、鵜戸神社、宮崎神社と妻具祭祀に重きを置くしか方法がありません。残念ながら、老いらくの恋は時間が足りません。考古学、言語学の助けも必要なのですが、今は限りがあります。文献・伝承・神話を中心に神武東征を解明して行きます。
その方法は完全ではないにせよ、本質は外していないと信じています。
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