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ニニギ命の天孫降臨の条(くだり)で、天津久米命(久米氏の祖)と天忍日命(大伴氏その祖)に対する地位の違いが古事記と日本書紀では大きな差がある。古事記は両氏の地位は同格とするが、日本書紀では久米氏は大伴氏に服属しているとしている。
私はここでその差異を検討してみよう。

来目について、古事記では久米と表現している。元々、古事記は音に重きをおく傾向にあり、文字にそれ程の意味を置いていないように思われる。それに引き換え、日本書紀は文字に意味を持たせる。
本居宣長は目に注目している。くるくる来目と表現し、ある学者は論外と言って問題にもしていないが、私はそこに南方系の隼人を見るし、もう一歩踏み込んで考えると、目がはっきりした安曇目とも想定できる。
一方、大伴の「伴」は八と半の構成で、八は両分の意味で、両半のものが、伴にある時<伴>と言う。「牛を折半することとし、「ともがら」と表している。つまり、狩猟を糧とする遊牧民族の首長を思わせる。

中国に於いて、民族は大きく言えば、二つに分けることが出来る。一つは黄河流域の畑作・狩猟民族を言い、他を長江流域の稲作・漁労民族と説く。

そして、朝鮮半島は黄河流域民族の影響をうけ、九州にもその傾向はあるが及ぶが、南九州は中国江南民族の影響が見られる。
こうして、俯瞰して見ると、来目は長江的な傾向にあり、大伴氏は狩猟民族的な表現に行き着く。

南九州、吾田の地(現・加世田市)は野間半島を巡る地を言い、そこから上加世田遺跡が発掘された。その周辺には紀元前9000年のかこいノ原遺跡もあり、海人族の色彩が濃い地域である。上加世田遺跡から「久米」を刻んだ土器片が出土したのも、そこが海人族の居住の地だと思うと、久米氏も吾田族の一員として、定住していたことは大いに可能性があると言えよう。
この野間半島は黒潮の影響で、南方、沖縄、江南地方の漂着の多い所で、あの有名な鑑真和上も秋目(現・鹿児島坊津)に漂着している。

当然、異文化の摂取も盛んで、縄文時代より高い文化を有している。かこいノ原遺跡も、竪穴式住居、炉穴、焼け集石が見られ、土器、石皿、すり石、石ゾクなどが発見され、縄文時代の典型的な要素が全て出揃っていて、日本列島に先駆けて、いち早く豊かな森が成立し、木の実の加工用石皿、敲き石、スリ石或いは、その灰汁抜き、煮炊き用の土器から使用され、森から海の食料源が豊富で、定住、可能性な要素が備えられている。また、特質すべきは、この遺跡からは、丸ノミ式石斧も出土していて、紀元前9000年には丸木船の製造から考えられ、海を通じた内外の交流も行われていた。

ニニギ命の天孫降臨の説話を多くの学者は神話として捕え、創作だと断定する向きが多いが、私は南九州、ここででは野間半島に限っても、定住を可能にする文化と異民族との交流をする文化の接点であると考えている。ニニギ命一行が日向の高千穂の「襲}より、真来通って、の野間半島の笠沙に移住し、吾田鹿葦津姫(コノハナヤサクヤ姫)と血縁するのは強ち、創作とは言えない環境にあることが解る。吾田は隼人<八世紀の熊襲>の定住地で、襲(會・曽於・山の隼人)を中心とした種族の分派(海の隼人)であろう。吾田鹿葦津姫の吾田は吾田隼人の意味である。そこで、吾田鹿葦つ姫が自分の父を大山祇命と名乗っているのだが、「記・紀」の文脈から言えば、それは會(襲)の地の首長である可能性が強い。この仮説をとれば、「山の隼人」曽於の地が薩摩隼人、吾田隼人などに統括したと思われる。吾田姫が大山祇命を父を名乗ったのはそう言う意味であろう。
天孫降臨の本意は、海からやって来たニニギ命の一行は一度、野間半島に着き、そこから南九州の連合国・曽於の首長に和平へ向かい、融和の象徴として、吾田鹿葦津姫と血縁すると言うことは、ごく普通な説話であろう。
当然、會・曽於の地にもまた、紀元前9000年に存在した縄文の先住民族が定住している。それは、国分市(前・大隈・旧桑原郡)から発掘された上野原遺跡の炉を備えた竪穴式住居が証明し、土偶や耳飾の存在はそこで呪術的な祭祀も行われていたことを想定できる。

津田左右吉は南九州を野蛮な地と称しているが、それは単に資料不足であって、事実、縄文時代早期は他の日本列島と引けをとらない文化が存続している。
その文化の源は吾田隼人であろうし、その情報を吸収して、統括していた曽於の主張の政治力であったのはさほど誤りではないだろう。
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