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文化放送(ラジオ)の番組で田原総一郎が世情を語る番組がある。そこでジャア~ナリスト・青木さんと対談をしている。
大変興味ある対談であった。私は先般、陸山会裁判の推測有罪を大変、危惧をしているとブログした事がある。この裁判は大変危険な裁判であるのに、国民も報道する人間もうやむやにして抗議さえもする気配がなかった。考えても見てください。もし私がやってもいない事件を「お前は事件の時に不穏な動きをしている」と言う推測だけで有罪にされたらどうであろう。それこそ恐怖裁判でと言うことにならないだろうか。

そのことを田原らは抗議するはずの人たちが「無難に」走った。とかたずけた。つまり、解っていて、諸々の障害を恐れて(官僚から取材を断られるとか、社内の上司との確執を恐れた)、口を噤んだというのだ。最早、世も末である。苦痛は避けて、安楽な仕事をして楽な生活をすればいい、と言うわけである。国民も国民だが、ジャ~ナリストは権力に媚びてしまえば行く末は地獄である。

そこで彼等はもう一つ恐ろしい機関を挙げる。国税局である(財務省)。彼等は司法(警察と裁判官)を従え、罪を穿り出し、罪人に仕立てると推察する。(節税と称して誰もが脱税まがいの行為は犯している)そして、どうすれば事実被告を「無難」に脅すかの実例を挙げる。まさに、陸山会裁判の裏話である。こんなことがあってはならないのだ。裁判は確かな証拠に基ずき、自白を伴って有罪が確定するのである。「疑わしきは罰してはならない」のだ。その過程を無視すれば、中世の魔女裁判である。

悪に染まることは悪であるのだ。見過ごすことは悪人を増長させるだけである。何時から日本人は抗議も行動も忘れてしまったのだろう。昭和60年代は我々も体を張って抗議をしたものだ。若者はストやデモの先頭に立って行動を起こし、見守る国民も警官に追われる若者を匿ったものである。今では、理があって追われても、災いを恐れて見て見ぬ振りをする。私はこれを「悪しき個人主義」だと思う。日本人の正義はどこへ行ってしまったのだろう。
古くから培った日本人の「和」の精神はどこに行ってしまったのだろう。私は確かに、日本人は欧米人に比べれば、利巧とはいえないであろう。しかし、愚かだとも思わない。嘗ての隣組精神は決して恥ずかしい文化ではないはずである。

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