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ニニギ命の天孫降臨の件(きだり)で「古事記」は<此地(ここ)は韓国(からくに)に向ひ、笠沙の御前(みさき)へ真来通(まきとお)りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故、此地は甚吉(よき)地(とこ)>とある。
「日本書紀」では、<日向の襲の高千穂のクシ日の二山峯(たけ)の浮橋に至り、うきじまのたいらに立たして、ソ穴(そしし)の空国(むなくに)の頓丘(ひたを)から、国まぎ行去(としま)いて、吾田の長屋の笠狭崎(かささのみさき)に到ります><降到(あまくだ)りまし処をば、日向の襲の高千穂の添山峯(そほりのやまたけ)という>と述べています。

ここで注目すべきことは、「古事記」の<韓国に向かい>と「日本書紀」の<添山峯>である。
韓国とは、どこを言うのであろうか。新羅だろうか、百済だろうか。私は古事記における漢字を日本書紀に言うその意味のように重きを置かない。古事記は「カラクニ」なのである。つまり、古事記は訓(くん)より音(おん)を重視するからである。日本書紀の<添(そほり)>が問題であろう。<そほり>は新羅の王都(徐伐・そほり)を音訳したものだとされている。

ここで「記・紀」を俯瞰すると、両書は共に八世紀の書である。古事記は兎も角、日本書紀はたぶんに、政治色が濃い書物である。それを踏まえて、添山峯を考えると、これが新羅の山を擬したとしても、この表現は無理がある。
私は高千穂の襲を九州の南部ととらえ、襲を會に比定する。また、例えば、西臼杵郡としても、その地が朝鮮半島には遠すぎる。北九州の地が、江南や朝鮮半島からの渡来人が移住し、地元の先住民族と血縁したとしても、国見山系や九州山地、霧島山系が人の交流を阻んでいないだろうか。
説明が長くなるので、結論を先に言えば、朝鮮渡来民族の勢力範囲は高良大社、さらに伸びたとしても英彦山神社が限界であろう。それ以上は勢威を見せるには諸条件が厳しすぎる。

日向・薩摩は、上野原遺跡、かこいノ原遺跡に見るように決して、古代文明において北九州と劣るものがない。後の大和朝廷が熊襲征伐に苦戦をしていたように(特に、熊襲と言われる<會>つまり、大隈周辺の先住民)、戦力的にも大和族に引けを取らない。
その一つに、野間半島が黒潮の影響により、江南からの渡来人の流入の可能性を窺えるので、「呉」「越」の文化交流は大いに考えられることである。熊襲の強靭さと江南の軍事技術が古代の南九州を支えうる状況にあったとしても不思議はない。

初期の南九州系王朝がニニギ命の新田神社、彦火火出見命の鹿児島神社、ウガヤフキアエズ命の鵜戸神社、更に神武天皇の宮崎神社の軌跡を追うと、南九州はかなりの国の勢いを有していることが解る。(仮説では在るが、私は狗奴国も又、この南九州の範疇に入ると考えている)

これらの要素を考えると、少なくとも日向・薩摩は南九州系王朝が統括していたことは明らかである。勿論、私はニニギ命の天孫降臨を<海>江南からの移住者と想定しており、その降臨の際、朝鮮半島を意識する可能性は薄いと思っている。
考えられることは、八世紀の「記・紀」の編纂にあたり、朝鮮半島に関わりを持つ種族が付会した可能性の方が大きいと考えている。

以前別のテ~マで、大伴氏と久米氏の地位を問題にしたことがありますが、日本書紀では明らかに、八世紀に大和朝廷に位置を占めていた大伴氏を引き立てる書き方をしている。それは何時の世でも、歴史の勝者の特権で、その点は古代史を考える上で重要なポイントなのだと思う。

私は大化の改新が本当に行われたかは疑問であるが、中大兄皇子(大兄とは長男のことである)に見られる様に、長子相続が八世紀には主流だと思ってます。それ以前、特に、神武東征までは末子相続がなされていて、八世紀の王朝とは文化的に違った潮流を感じている。政治的に、班田収受や戸籍の作成、律令制の施行などが大化の改新の主なる成果だと喧伝されているが、私は南九州系王朝(江南思想)を北九州系王朝が駆逐した思想・宗教改革的要素をあったと推察している。此れも、あくまで論拠となる証拠が少ないので、仮説の域を出ませんが、このことはこれからの私の課題でもあります。
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