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八世紀に「古事記」「日本書紀」が編まれるわけだが、太安万呂にしても舎人親王、そしてそれを支える八世紀の頭脳である「記・紀」の編纂者にしても、「襲」の地に上野原遺跡(BC9000年)があり、笠沙には、かこいノ原遺跡(BC9000年)が存在していたことなぞ知るよしもなかったろう。

それにつけても、天孫降臨の行程にそれらの遺跡が存在し、神と人の血縁(ニニギ尊とコノハナヤサクヤ姫・吾田鹿葦津姫)がそれらの地で行われたといたのは単なる偶然だろうか。
私は「記・紀」の編纂者は現代の最高頭脳を集めている様なもので、いやそれ以上に真剣に編纂に取り組んでいただろう。(命がかかっていたかもしれない。現代より罰則は強かったであろう)その伝で言えば、資料の収集も命がけだと言える。「襲」の地の情報も地元の伝承も確実入手していたはずだ。大隈や笠沙の太古の伝承(現代で言う遺跡の伝承・・・・そう言えば、「記・紀」や「風土記」には古老の語り部が目立つ、塩土老爺もその部類だろう))も伝え聞いていたとしても不思議ではない。

天孫降臨神話もまた、その伝承が土台にあったと言うのが私の推定である。だから、神話は結果として、地元の遺跡を取り込んでいたのが「襲」(私は「襲う」は「會」であると思い、「會」には蒸し器や大釜の意味があると言う<白川静・字通より>)偶然ではないと判断したのである。

考えれば考えると、「記・紀」はあらゆる条項は包含されている。まったく、「記・紀」は素晴らしい古書であると私は考える。
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