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縄文時代に、九州本土から薩南諸島(種子島・屋久島・トカラ列島・沖縄列島など)に行くには、九州の東側、大隈側を通って行く道と西側、薩摩の方から進む経路があり、外に琉球列島から北上する道もあった。
薩南諸島への道で、九州東海岸、大隈半島から向かう道は、先史時代から拓かれていた。

そればかりではない。海人族は、多分小さな丸木舟でかなり遠洋まで出かけている。
私が驚いたのは、黒潮や対馬海流に乗って北上するのは、困難ではあるが、ありえることだとは思っていた。しかし、その反対に北国から南に航行をするのは、縄文時代では不可能に近いと考えていた。

ここに考えられない縄文時代の遺跡がある。薩南諸島・種子島中種子町・熊毛郡納棺・大園遺跡では、東北地方の縄文・晩期の大洞(おおぼら)式土器が出土している。上原俊雄は、大洞式土器が「2000数年前に海を越えて薩南諸島に齎されたとしても不思議ではない」と述べている。

いやはや、素人にはこの発言は脅威に値する。常識的に対馬海流の流れに逆らって(いくら海流には反流があると言っても、それは本流に比べれば非常に短いはずだ)、東北から薩南諸島へ航行するのは至難の業であろう。私達が考えている以上に、縄文時代の海人族は、舟による航行はよく行われていたのかもしれない。

そのことは海人族の他国との交流・交易は行われていて、かなりの情報が掴めていたことも考えられるのである。
種子島の大園遺跡はそのことを認識させるよい例であろう。
私達が考えている以上に縄文時代の文化は高かったのではないだろうか。私は完全に縄文時代に対する視点を変えなければならないと考え始めている。
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