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2011.04.23 安曇野その二
ここに興味ある事件があります。
霊亀二年(716)十二月の「神今食(じんこんじき)之日」に奉膳・従五位下安曇宿禰弥刀が典膳・従七位下高橋朝臣呼具須比(おくすひ)と天皇に供する配膳の順序を争っている。「刀者官長年老」である安曇氏が先に奉膳すべきだと主張している。
当時は天武天皇の時代であり、北九州系の王朝が優位の時代で、南王朝系の安曇氏はその勢力を失いつつあった。朝廷は安曇氏の主張を退けて、高橋氏の配膳を先にしている。
このことは、裏を返せば、初期の安曇氏は天皇の配膳を先に行っていた証であろう。
食膳は政事の世界では、主従に確かな信頼関係がなければその役に着くことが出来ない。内と外には敵対者がいたはずで、古今、毒殺の事実は枚挙にいとまがない。初期の安曇氏の存在を考えると彼は天皇の信頼を得ていたのは明らかである。
以前に、私は滝川政二郎の説を紹介し、江南から南北九州にやって来たのは安曇氏であり、南九州の隼人とする滝川説に異論を唱えました。
南九州(薩摩、大隈ら)において、先住民族(縄文人)が上野原遺跡周辺の桑原郡(現在の国分市)に蕃居していた曽於族と安曇氏との混血である隼人が連合して、南九州王朝を形作っていたと私は推測しています。その名残りが安曇氏と高橋氏の先陣争いとして顕われたのでしょう。
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