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驚きと身につまされる思いで行き場を失う思いである。

この文化国家日本で、少なくとも私の子供の頃は、貧しく私自身、二日も水だけで過ごした経験を持つ。あの苦しさ、虚脱感は今でも忘れられない。私は道端に落ちていたガムを拾いドロを吐き出して噛み、飢えを凌ごうとしたが、飢えは去らない。そこで神社の賽銭を盗みこっペパンを貪り食った経験がある。
それは周囲もまた、それ程豊かではなかった。(昭和26,7年の頃)ただ、それに気がついた隣人がいて私は激しく叱責を受けた。しかし、その後でその人々は私の家庭を見守ってくれ、あまり物を差し入れてくれたものです。

現代では餓死をしても遺体が発見されるまで放置されている。発見されてから報道されても遅いのだ。隣人も何をしていたのだ。福祉事務所は機能していたのだろうか。餓死なのである。当の本人達はどんなに苦しく、哀しかったであろうか。

この状況は歪んだ個人主義と市場原理主義(貧富の差)の結果なのではないだろうか。
私達日本人は、古来から多神教の洗礼を受け骨身に染み付いている。。戦後、私に言わせれば、愚かなアングルサクソン民主主義の押し付けによる教育の弊害だと私は思っている。残念ながら浅い思想の押し付けは浅い行動の結果しか呼ばない。古来からのアニミズム的思考法は私達の潜在意識の中で凝縮されているのである。誤解をそそれずに言うならば、私達の根源的な思考法は集団的行動思考、それも家族と言おうか仲間意識の濃い民族制なのである。(白川郷集団がその象徴であろう)
日頃、私は戦後民主主義を勘案に入れて、緩やかな干渉主義を主張するのはそのことなのだが、何せアメリカ的個人主義、アメリカ的民主主義の浅薄な蔓延が個人の尊厳の尊重の美名の下に、施行されている現実は、遺憾ともしがたい。

私は3月11日の大震災の日に日本人の真の姿を見たような気がしたが、あれは幻だったのだろうか。まだ、真剣に被災活動を続けている活動家には頭が下がる思いがするが、もっと私達は身の周り、足元のことに気を配ることを考えなければならないのであろう。
自責の念をこめて、今回の餓死事件を思う。
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