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過日、「陸山会」裁判で地裁は三名の被告に有罪を科した。
証拠も自白もない推測裁判である。<疑わしきは罰せず>それは裁判の原則であろう。私はこの裁判は中世の魔女裁判への後退裁判だと思う。明らかに民主主義の衰退が表れている。

大体、時代が衰退して行く時は、必ず大災害や人災が発生するものである。人の心の緩みが論理や倫理観を薄弱にして行く。人々は「掟」の遵守が恣意的に成るのである。「掟」の本質が曲解されて行くのである。恣意とは恐ろしいもので、最早、万民の者ではなくなり、ある個人の邪まな欲望の下で操作されて行く。そこには公人の意識は存在しない。私的で恣意的な私人の意識しか見られないのである。歴史と共に賢人たちが血の滲むような努力で積み上げてきた概念を、それらの愚人達はいとも簡単に突き崩して行く。賢人の賢人たる所以は、自主の精神なのだが、その自主性があるからこそ、外部の権力に妨げることなく、自らの尊厳を貫くことが出来るのである。

私は、一連の小澤裁判にその権威の衰退を見ている。

誤解なきように言えば、私は小澤一郎と言う政治家を全面的に支持するものではない、危険な要素を多く持つ政治家だと判断している。小澤は大阪市長の橋下氏ほどではないが、独裁を許しては成らない政治家である。

しかし、現在所属している政治家と比較すると小澤は「掟」の何がしかは認識しているし、彼の政治に対する信条、民主の意義や地方分権、日本的な教育改革などは現在の民主党がもつマニフェスト精神に近い主張が認められる点で優れていると思われるのである。
裁判官並みの推測で言えば、彼はあの金権政治家・田中角栄(時代を考慮すれば一概に悪とは判断が出来ない)の弟子らしく、金権体質は感じられる。感jられるのであって、その実証する証拠があるわけではない。

しかし、押しなべて言うなら、私達が選ぶ議員の大多数は金まみれだと私は推察している。そして、その点では、監視もやむなし、棚上げをして前進するより仕方ないと考えている人種である。<疑わしくは罰せず>を貫くより仕方ないのである。

しかし、今、小澤裁判を取り巻く状況はどうであろう。検察も裁判官も明らかに有罪を前提に突き進んでる。裁判は成立不能だと言うのに、マスゴミと言うタイコ持ちと共に小澤有罪と言う思惑に走ろうとしている。私はこの世情には反対せざるを得ない。

そして、又、検察審査会成る制度についても、国益の衰退をもいるようで、哀しい思いを禁じ得ない。
この制度は自主性をそぐ非民主的な制度であると思う。倫理を問うなら、私も反対しないが、法律の内容まで踏み込むのには反対である。それは私の以前からの主張である。

第一、罪を五年にするか十年にするかの判断基準を私は持ち合わせていない。それを判断するとしたら、検察の専門的な説明を必要とするだろう。当然、その時は結果として、検察先行の行程を取ることになる。そんな操作可能な世の中」は危険極まりない。世の中が変更した方向に」向かってしまう。

結論を言えば、小澤一郎は無罪である。願わくば、彼が掲げる信条を議員して実行するように監視して行こうと思う。
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