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2012.03.23 祈りについて
ラジオで呪いとか祟りの放送を聞き、その先には祈りしか方法がないことを知る。

先ず、前近代的な発想である。と考え、ふと、そうだろうかと思い直した。
確かに、祈り事態にその対象、今回においては、大震災だが、自然の脅威に際しては私達は術はない。

科学に何の力を齎さなかった。そのとうりではある。しかし、科学だって捨てたものではない。生活だって戦争だって、私達の想像を超えた思考過程は驚くべきものがある。生活はなんと便利になったのだろう。掃除にしても洗濯にしても、いや皿洗いさえも手を汚すことなく洗い流し直ぐに使用に耐える状態で器具から出てくる。そんな状態での呪いの余地がはないのだ。

私は科学の方法論である帰納法はそれなりに優れた考えだと認識する。それが私達の生活を豊かにしてくれるのだ。いやあらゆる分野で大きな進歩を齎した。
しかし、その偏重は驕りであり、考えようによっては退歩でもある。帰納法の前提は仮説であり、神の分野なのである。その事実を我々は忘れては成らないのだ。そこに祈りの重要性があることも頭の片隅に入れることこそ人間を豊かにするのだと言うことも大切なのだ。

それに関連して、「たけろうト~クパレット」の編集手帳でどこの新聞社か解らないが、地名変更にといての紹介を放送していた。
その中で、「空蝉」について言及している。その「空蝉」について大した言葉ではないと述べている。
しかし、こうした軽い言葉が地名変更を容易にしている根源に成っていることには、気がついていない。「空蝉」には再生神話についての深い意味が存在しているいることにはこの筆者は無頓着なのである。
地名には、確かに地霊が介在しているのかもしれない。地霊については、認識不足でわからないところがあるので、断言できないが、地名には明らかに生活や歴史が存在することは事実で、そこに産土の意義がある。
産土とは、一説には出産に関わる血と地の説話が存在して、出産とその土地が血で繋がっているとする考えられている。産土は「古事記」に見られる「黄泉戸喰(よもつへぐい)」つまり、その地の食べ物を喰らうとその土地の「掟」に縛られる。と、言う意味なのである。

地域の財政、つまり経済・お金がその産土を売ることを正当化する材料になっている、悲しむべき思慮の浅さが呼ぶ、金権体質こそ非難されるべきなのである。これは、大袈裟に言えば、「売国奴」なのである。我々はもっと、地名に対する尊崇の念を持って欲しいと願うばかりである。

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