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2011.04.24 隼人・番外編
隼人について、少々話しておかなければならないと思い始めました。
隼人と言う名称は大和朝廷が名ずけたもので、それ以前には熊襲と呼んでおりました。703年に大和朝廷は肥後より2000人の鎮圧兵を高城郡(現・川内市)と出水郡(いずみぐん)に送り込んでいます。それ以後、住民をその地域を薩摩隼人と南部を吾田隼人と呼ぶことになります。又、713年に同様に豊前国より2000人の移動民を桑原郡(現・国分市)へ送り込み、大隈地方を抑えこもうとします。しかし、この上野原遺跡のある先住民・曽於族の地は容易には落ちません。一応は大隈隼人の名称で呼びますが、曽於族の抵抗は激しく720年の大隈国守・陽候史麻呂(やこのふみまろ)を殺害します。大和朝廷は一計を策し、クグツを使い、祭りを開催し隼人をおびき出して、虐殺します。そこでようやく、大隈隼人は鎮圧されるのです。時代は天武朝です。
つまり、720年以前は熊襲(曽於族)と呼ばれ、隼人の名称は存在していません。
かつて、私は滝川政二郎の江南より渡来した民族を隼人と唱えたのは誤りで北九州と同族の安曇氏と訂正し、隼人系安曇族と主張しましたが、南九州には安曇氏を名ずけた地名が見つかりません。
希望的観測に近い仮説ですが、元々薩摩・大隈は曽於族の勢力が強く、彼らのプライドから隼人の名を優先させ、安曇氏が姓名を名乗るのを許さなかったのかもしれません。しかし、一度、南九州を出ると、海は海人族・安曇氏の天下です。周知のように安曇の地名は全国に広がっています。即ち、狭い地域の知名人・隼人より安曇の知名度のほうが、都合がよかったのかもしれません。いずれにせよ、その根拠は実証しなければならないでしょう。考古学・神話・伝承探しが大変です・
それにつけても気になるのは、ニニギ命が高千穂の襲から野間半島・笠沙にやって来て、神吾田鹿葦津姫と血縁した事です。吾田は明らかに隼人です。父は大山祇(おおやまつみ)命です(大山祇は曽於の地の山神)から、大隈隼人の首長と言えるでしょう。神話に於ける江南の海人族と隼人の融合は明らかなのに、以後に海人族の軌跡が現れないのはどうも腑に落ちません。何とか糸あいあ口を見つけるアイテムを探さなくてはならないのです。
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