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私はこの頃、あえて、国際化に異論を唱えようと思う。

私は、敢えて、原点に戻り、愛国について考えてみたいと思った。
言っておきたいが、私は、所謂民族主義者ではない。既成の民族とは、どちらかと言うと、一神教的な選民思想を思わせるが、それとは異なる。

戦後の敗戦で私達占領された国土で、占領米兵の犯罪で生活を奪われた被害者た人々の一員が私達の家族である。残念ながら、と言うか理不尽といおうか。私達は正当な権利を得られないまま、敗戦国民と言う責任を取らされてしまった。何の国からの補償もないまま、置き去りにされてしまったのである。

占領軍補償法制定運動は日本国民が無関心を装うままに敗れ去り、私は精神的な打撃を得ながら、自堕落な生活を続け、私自身全てを捨ててしまった。
まるで無頼である。酒やギャンブル、遊行にうつつを抜かす愚か者に成り下がったのである。そして、気がついた時には60歳になっていた。両親も肉親全部を失い、天涯孤独になって振り返ると、後悔の積み重ねであった。ふと、友人の一言で私は、自分の戦後をもう一度考え直して見ようと天皇制を再考し始めた。

古代史を始めた契機は反省からであった。

古代史がこれほど奥が深いとは思っても見なかった。大体、認識とすれば、私はわが闘争からすれば、強固な敵対する障害としか思わなかった。そういう視点から見れば、天皇制は悪であり排除する制度そのものなのである。

しかし、客観的な視点で見てみると、古代史とはそんな単純な事(事象)ではなかった。特に、「古事記」「日本書紀」の奥深さは読み進めれば、読み進めるほど留まることのない奥深さを感じる。(勿論、天皇制を含めてのことである。それを一言でいうのは難しいのでここでは省くが、愛国に関して、私は古事記の優れた文章を披露したい。

神武東征で神日本磐余彦(神武天皇)が塩土老爺にその指針を問う時老賢人は「東(ひんがし)に美(よ)き地(くに)あり、青山四周(あおやまよもをめぐ)らす」と示唆します。

特に私は、地を「くに」と呼ばせるいにしえの知識人の鋭い感性にただ、ただ驚くばかりです。

地は「黄泉戸喫(よもつへぐ)い」です。これも卓言と言うしか有りません。

「黄泉戸喫い」とはイザナミ(女)が最後の出産でホトを焼き、黄泉(死の国)へ行きます。そこで、生きとし生きる国に住むイザナギ(夫)は黄泉へイザナミを追います。イザナギ(夫)は建国のために黄泉から現(う)つ国へ帰ることを望みます。
そこで妻はこういいます。「私は黄泉の食べ物を食べてしまいました。だから、最早、現(う)つ国へ戻る事は出ません」と語りかけます。
つまり、人の生死はその国の食べ物に関わり、一超一端には行かないと言うわけです。(古事記では黄泉の大王の了承が必要となっています)

その食とは人が生きるための有機的な連鎖が絡み合っていると言うわけです。自分の所属する地域を愛せないで自分を成立させることは出来ないとイザナミ(女)は言うのです。
その底には、私達が培ってきた全ての存在には霊魂が宿っているといった配慮が滲んでいます。

私が畏敬する谷川健一はそれを「意識の連続性」といい、ユングは「集合的無意識」と唱えた。医学ではその結果をDNAと名ずける。

私は、古代史が縄文時代から連続して続く「地」の意識が日本人の全てを関連で捉えようとする、優れた感性に注目している。「地(くに)」とは、そういう意味で愛国なのである。

現実の世界では、自我を優先させ、個人を個人として認識させる世界観を持つ。その個人は神が創生した規範が全てである。神典こそ個人が目指す目的であります。そこで選ばれた人が人間なのです。
社会規約とはその神典を言います。
詳細を語るには憚りますが、ドグマ的に言ってしまえば、そこには食物(いのち・命)を命がけで勝ち取る弱肉強食の砂漠の思想が窺えます。私は、最早、この砂漠の思想からは何者の生まれないような気がします。「多<さわ>に物言う神の宿る世界」、関連で物を捉える世界。その世界こそ世の中を救うような気がします。


「東に美き地あり、青山四周らす」素晴らしい言葉だと思います。追って、肝に銘ずべしです。
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